第十章 自治省の鴛鴦夫婦 その4
ようやく連載再開です。お待たせしました。
それでも読んで下さる方、心より感謝いたします。
キリル&リアン、ようやく“正式に”カップルとなりました。
甘さと暗さがシマシマのストーリー展開です。
ファネ国王太子キリルとアギール伯爵令嬢リアンが婚姻式を迎える朝。
王都中のお祭り気分を余所に王宮・王府内は物々しい警戒体制に
包まれた。
慶事でありながら、戦時中のような緊張感が漂う理由は前夜に、
過激派による王宮及び旧カリン宮の爆破事件が起こったからだ。
幸い近衛騎士と国軍の活躍により大事には至らず、いずれの建物も
壁面のごく一部と窓硝子数枚を破損したのみに留まった。
死者や重傷者はおらず、軽傷の者が数名。
実行犯はことごとく生け捕りにされ、背後関係を洗うべく内務省に
よる尋問が直ちに開始された。
国軍大将であるワグナ殿下からの進言により、王室は
“保安上の理由により”婚姻式の大幅短縮を決断した。
当日朝になり発表された式次第変更は、関係者を慌てさせたが、
複雑な儀式や手順が簡素化されたことにより、大きな混乱は生じ
なかった。また、諸外国からの来賓の反発も上手く抑えられた。
一連の動きを…表立って導いたのはワグナ殿下こと王弟ベリル。
しかし、そうなるべく企てたのは王太子キリルであった。
前者が婚姻式警護の総指揮を執るべく、忙しく立ち回っているのに
対し、後者は何をしているかというと…それはもう誰に憚ることなく
花嫁となる娘にべったりとくっ付いていた。
「キリル、夜中の物音なのだけど」
眠りを妨げた爆破音につき、リアンは簡単な事情説明を受けていた。
もう対処済みで特に問題ないけれども、念のためということで式典が
短縮されたことも聞いている。もちろん異論はない。
異論はないのだが…あまりにも“都合良く”物事が進んでいるようで
ついつい謀略に長けた自分の婚約者に疑いの目を向けてしまう。
しかし、王太子は素知らぬ顔をして、リアンの“背後で”朝食に
専念していた。
いや、より正確に述べるなら…リアンのための給仕に専念していた。
(なに、この、恥ずかしい体勢は…)
キリルにいろいろ尋ねたい事があるのに、強く出られないのは、
具合が本調子でないこともあるが、目下自分の置かれている状況が
物すご~く恥ずかしいせいだ。
彼と彼女は仲良く一つ寝台の上で朝食を摂っていた。
その…共寝自体はもう不問に付すことにする。
婚姻前に本来は慎むべきことだが、「ま、いっか」と思える程度に
慣らされてしまっている。十代の少年少女ではないのだ。
しかし…背中を抱き締められるような状態で、
朝食を共にするというのは、いかがなものであろう!
しかも親鳥と雛鳥さながらに、給餌されるというのは!
羞恥心の限界をリアンは常に試されている。
ミルケーネ公爵専属の調理師は、そのまま王太子専属に昇格し、
本日は病人のために果物を細かく刻み入れたパン・プディングを
作ってくれた。具沢山の冬野菜スープもある。
普段なら完食どころかお代わりまで要求する勢いのリアンだが。
「まだ半分も食べていませんよ。ほら、口を開けなさい」
キリルがリアンから匙を取り上げたのは、パン・プディングに入った
果物だけをつついたり、スープの上澄みだけを飲もうとしたからだ。
「全部食べなければ婚姻式には出しませんよ」
「無理。食欲ない」
キリルの脅しにリアンは涙目になる。
吐き気こそないものの、胸がつかえたようで、何か口にしたいとは
思えないのだ。
「リアン、何でもすると言いましたね?
せめてあと3口は食べましょう。それからスープは飲み干すこと」
「キリル…」
「口移しの方が良いですか?」
慌ててリアンは目の前に付き出された山盛りプディングの匙に
パクついた。
「その調子です」
藍の双眸が優しく細められる。
丸一日静養したリアンからは高熱が引き、小康状態を保てていた。
けれども微熱は尚も続いているし、“食いしん坊”な彼女が食欲を
示さないことがキリルを一層心配させていた。
「これはなあに?」
いざ婚姻式の身仕度をする段になって、キリルはリアンを長椅子に
座らせると、何やら薬のようなものを左足首に塗り始めた。
「何だか凄くピリピリするんですけど…」
「トウガラシ成分の配合された脂肪燃焼用の軟膏です」
「で、それを左足首にだけ塗ってどうするの?」
お腹周りや腰に使用すべきものではないのか。
しかも、キリルはご丁寧に上から包帯まで巻き始める。
「リアン、いいですか。貴女は昨夜の王宮爆破事件で階段を踏み外し、
左足首を酷く捻挫しました。婚姻式では宣誓の際に、王と神官長の
前に跪きますが、それ以外は立ったり歩いたりする必要はありません」
体調不良を隠蔽するための工作のようだが。
「え~何ですかそれっ!大袈裟過ぎです。自分で歩きます」
「何でも言うことを聞くといいましたよね?」
王太子はにっこりした。
綺麗な笑顔に邪なものなど1点も混じっていないかのように。
「で、でも、移動の時は…」
何故か睨まれている時よりも逆らうのを躊躇ってしまう。
「もちろん歩けない花嫁を抱き上げて運ぶのは花婿の栄誉です」
「や、待って、それは…」
「今更恥ずかしいもないでしょう?」
「…私、重いし。キリルの腕が途中で痺れてしまいます」
可愛いことを言って萎れる“愛しい女”を見て、
王太子は声を挙げて笑った。両腕で彼女を抱きしめることも勿論忘れない。
心から出た笑い声は束の間キリルの中に淀んだ暗い覚悟…
万が一の時は誰を消してもリアンを守る…を忘れさせるものとなった。
*** *** *** *** ***
ファネ王国次代の王と王妃が定まれり。
新年1の月11の日。
現王ソランサの叔父にあたる王太子キリルはアギール伯爵令嬢
リアンを妃に迎えた。
王太子の衣装は黒に銀糸。王太子妃の衣装は白に金糸。
ファネ新王家初代より続く伝統装束に身を包む。
正式には神官長の司る大神殿にて宣誓をし、その後に王宮内
“王の間”にて国王への宣誓と王太子妃への加冠が行われる。
此の度は“保安上の理由”により神官長と国王への宣誓がともに
王宮にて執り行われることになった。
神殿の権威を貶めるものという謗りを回避するために、王家最長老
である太王太后イルーネが、恭しく神官長を王宮に迎え入れ、
聖俗の仲立ちをした。元巫女姫であり、今日でも神殿に影響力を持つ
彼女だからこそできたことである。
キリルは予告した通り…宣誓の時以外は花嫁の爪先を床に触れさせ
なかった。
リアンは式典直前に「やっぱり自分で歩く」と言ってみたのだが。
爽やか笑顔を貼りつかせた花婿にがっちりと左足首を掴まれ、
「本当に挫いた方が良いですか?」と問い返されるや、沈黙する
しかなかった。
結果として、キリルの提案は正解であった。
腰を締め付ける補正下着こそ省略したものの、
それなりに重量のある婚礼衣装を纏ったリアンはずっと自分の足で
立っていられるだけの体力を持ち合わせていなかった。
そして、トウガラシ成分入りの軟膏は強力で、式の間中ピリピリし、
足を挫いた怪我人のフリを忘れさせることはなかった。
「リアン、大丈夫ですか?」
王都内の行列行進は中止となっており、一般般参賀は
婚約式の時と同様、“彩華の塔”にて挨拶と手を振るのみとなった。
負傷した花嫁は絹張りの椅子に腰かけ、花婿はその傍らに立った。
さながら姫君を守る騎士のように。
「だ、大丈夫だから…近いですよっ!」
王太子妃となったリアンは、国王夫妻から小冠を賜り、
これによって、かなり身動きが制限されることになった。
椅子から立ち上がれないのに加え、戴いた小冠がずり落ちそうで頭を
振ることもできない。
それを良いことに…隣に立つ男は好き放題である。
「国民の期待に応えるのも王族の務め」などと言いながら、
よりにもよって一般参賀の最中に額に、頬に、唇にと遠慮なく触れてくる。
触れてくるのだ…指先だけでなく、唇で。
そして、寄せてくるのだ…頬や額を。
(いゃぁああ~)
リアンが羞恥に悶えて小さく抗議するも、参賀客の「きゃあ」とか
「わあ」とか「お~!」とかの叫びに、あっさり掻き消されてしまう。
王太子が妃に接吻する度に大歓声が巻き起こり…確かに二人は国民の期待に
応えていると言えた。
「リアン、あと少しです」
キリルの過剰な接触はしかし、新婚夫婦の仲睦まじい様子を
見せるためだけではなく、リアンの体調を逐一確認するためでもあった。
早朝には微熱であったものの、昼を回ってからは、またもじわりじわりと
熱が上がって来ている。
何でもないように振る舞ってはいるが、その実、相当しんどいであろう
リアンを慮って、キリルは一刻も早く彼女を休ませたかった。
いや、白に金糸の婚礼衣装が黄緑の瞳と金茶の髪に映え、
息が止まるほどに美しい花嫁を一刻も早く隠して、独り占めしたい
というのが本音だ。
リアンは“彩華の塔”前の広場に集まった人々の中に知り合いの顔を
幾つも幾つも見出した。
自治省の仲間たち。官員食堂の女主人。“三匹の小羊”亭の女将。
それから…かつての恋人ラウザ。
何千人と集う中、不思議と人の顔がよく分かる。
彼らの心からの祝福に、自然と心からの笑顔が零れる。
身体のだるさは増してきており、座っていることすら辛くなっていたが、
喜びの方が遥かに大きい。
ファネ王族の仲間入りをしたとか、王太子妃になった喜びではない
(はっきり言ってこそれは少しも嬉しくない!)。
しかし、愛する男と添うことができることのできる喜びは
例えようもない。幸せだ!と思う。
けれども。
“アギールの娘”
リアンは自分に注がれるものが祝福だけではないこともまた感じ
取っていた。
立春祭の時もそうであったが、晴れの舞台には影も付きまとう。
邪な思念は常に忍びこんでいた。
“アギールの娘リアン。お前を…許すものか”
“お前など、認めるものか”
むしろ立春祭の時よりも強く感じる。
自分に向けられる嫉妬、羨望、憎悪…そして殺意さえ。
祝福の声に混じり、密かにトグロを巻く負の感情。
体調が思わしくないせいか、常より敏感に感じ取れてしまう。
絡み付くような視線の先に、一人の老婦人が立っていた。
元は美しい貴婦人だったのかもしれないが、今は…
何が彼女を歪ませたのか、ドロリとした重苦しい気配を纏っている。
憎々しげにリアンを睨む瞳は…黄緑?
薄く膜が張ったように濁ってはいるが、よく見知った色だ。
(誰…?)
自己防衛本能からか、自然と身体が強張ってゆく。
その時、五感が突き抜けるような衝撃が走り、視力と聴力が格段に
増した。塔のバルコニーから広場まで距離があるにも関わらず、
リアンには老婦人が口を歪めるのがくっきりと“見え”、
自分に向かって呪詛を吐くのがはっきりと“聞こえ”た。
(許さないよ…私を裏切って、駆け落ちしたくせに、
娘が王太子妃だって?次代の王妃だって?
認めるものが、認めるものか。
アギールの娘が栄光の座に着くなど認めるものかっ!)
「ダメっ!」
自分の中に突如として湧きおこった拒絶反応と攻撃衝動にリアンは
咄嗟に身を伏せるようにしてお腹を押さえた。
それでも抑止できぬ力が身の内から溢れて…“彩華の塔”に
時ならぬ突風を起こす。
それは塔から広場へと吹き下ろされた!
広場に集う人々は何が起こったのか判然とせぬまま、突然のことに頭を
伏せる。
その風を一般参賀終了の合図とするように、王太子は妃を恭しく
抱き上げるや、塔の中に消えた。
大きな歓声と拍手が起こったがキリルは聞いていなかった。
「リアン、しっかりして下さいっ!」
腕の中の花嫁はぐったりとして意識を失い、焦燥感だけが募る。
塔の中で控えていたヴァンサランとフッサール伯爵夫妻が直ぐに
飛び出して来た。
「…リアンの具合が悪い。このまま地下通路で移動する」
「王宮にお戻りですか?」
レムルの問いにキリルは首を振った。
「いや、このまま“王家の塔”に向かう。
ヴァンサランはワグナ殿下の所で引き継ぎを。レムルは陛下と宰相に
状況説明を。フローネは太王太后を呼んで来てくれ」
てきぱきと指示をして三人を王宮に送ると、キリルはリアンを腕に抱き、
地下通路を潜って“王家の塔”に入った。
10の月の騒動(婚約式前の攻防戦)中、半壊した歴史的建造物は今や
王太子の命により完全修復されていた。
『…そうだ、家と言えば新居はどうしましょうか?』
『“王家の塔”はどうですか?
あそこなら王宮と王府の中間でどちらに行くのも便利ですし、
二人で住むには十分な広さがありますし』
『塔ですか、なるほど』
キリルは新居についてリアンと交わした会話を忘れていなかった。
もちろん、あの時と今では状況が変わってしまっている。
ミルケーネ公爵夫妻ではなく、王太子夫妻となった二人の正式な
住まいは王宮内と定められていて勝手は許されない。
今までキリルが公爵として寝起きしていた王宮内の一画も含めた
建物一棟全体が今回、王太子宮として新たに陛下から下賜され、
新たに“ホウオウ宮”の名が冠された。
しかし、正式な宮殿とは別にキリルはリアンの願いを叶えるべく…
いや有体に言えば、もっと二人きりになれる場所を確保したいという
自身の願いを叶えるべく、“王家の塔”の改修に乗り出した。
外観は昔のままに、内装のみを改め、最新設備を導入して。
*** *** *** *** ***
リアンが目覚めたのは婚礼式同日の夕刻であった。
薄闇の中、自分がどこにいるのか分からない。
王宮でも自治省でも実家でもないようだ。
初めての場所のようで…それでいて、どこか見知った感がある。
見上げれば、頭上には少しだけ形を変えた花窓。
(“王家の塔”…?)
以前よりもずっと優美になった佇まい。
けれど、自分が今、塔の最上層に居るのは間違いないようだ。
(こんなに綺麗に直っているなんて)
落雷と爆薬によって随分壊れてしまっていたのに。
誰が修復の指示を出したかなど分かりきっていて、リアンの口元は
自然綻んだ。
体調を確かめながら、そろそろと身を起こすと、寝台を抜け出した。
外は真冬のはずなのに、塔の中は適度な温度が保たれている。
そればかりか寄木細工の床まで、ほんのりと暖かい。
(キリルはどこかしら?)
その答えは、扉を半開にした途端に見つかった。
下層から何やら言い争う声が聞こえたのだ。
(キリルと…イルーネ様?)
リアンは螺旋階段を降りて二人の声がする方へと向かった。
「結論を出すには早すぎるわ」
いつもは朗らかな太王太后の声が珍しくも硬い。
「早いに越したことはないでしょう。
日にちが経てば経つほど身体への負担が大きくなる」
対する王太子の声も生母に負けぬほど硬い。
「それでもまだ猶予はあるわ!早まってはダメよ、キリル」
姑と夫(姑と夫!)が言い争っている。
ただならぬ雰囲気にリアンは直ぐには声をかけられなかった。
塔の最上層から九層に降りるや、扉の隙間からキリルの横顔が見えた。
藍色の瞳から一切の感情が消え失せ、無機質な美貌だけが際立つ。
こんな時の彼は…はっきり言って激昂している時より厄介だ。
「これ以上の口出しは無用に願います、母上。そして父上」
王太子は王家の最長老であり、母であるイルーネを拒絶していた。
併せて、先々代王であり、父であるイランサの守護霊をも退ける。
「…どうしたの?」
間抜けな問いだが、他に聞きようもなくて、リアンは恐る恐る顔を出した。
親子が争うとしたら、その原因はかなりの確率で自分にありそうだ。
キリルがばっと振り向き、その藍の瞳に花嫁を認めるや、歩を進めて
白絹の手を伸ばす。あっという間にリアンは抱き上げられていた。
「裸足で何をしていんです!まだ横になっていなければ」
有無を言わさず最上層の寝室に連れ戻され、その後すぐに太王太后
手づからの診察が行われた。
「あの、私、“彩華の塔”で倒れたんですよね?」
一般参賀中に。国民の見守る中で。
できるなら、もう一度意識を飛ばして現実逃避したいくらいだ。
「心配しなくても、丁度お開きにするところだったから上手く
誤魔化せたわ」
イルーネは早速、嫁を気遣った。
「短縮はしましたが、一連の儀式は全て滞りなく済みました。
貴女は名実ともにファネ王国王太子妃で、私の奥さんです。
もう逃げられませんよ?」
母親の前でも頓着せず、キリルは白絹の手を伸ばしてリアンに触れてくる。
「…逃げませんよ」
と言いつつ、恥ずかしさから身を捩る。
このままでは、寝台に押し倒されそうだ。
姑との関係を良好に保ちたい新妻(新妻!)としては勘弁してほしい。
リアンは変な所で自分のした約束を思い出してしまった。
『無茶しないから、お願い。キリルと…式を挙げたい。
ちゃんと奥さんに、なり、たい』
『何でも…キリルの言うこと、聞くから』
高熱で頭のネジが飛んだり緩んだりしていたとはいえ、凄い事を言っていた。
今更ながら羞恥で憤死しそうだ。
二人が居なければ寝台で四肢をバタつかせ悶えていただろう。
百面相をしている嫁の頭を撫でて落ち着かせながら、イルーネは
噛んで含めるように言い聞かせた。
「体調は今のところ落ち着いてきているようだけれど、
妊娠初期なのですからね。安静にしていなければいけませんよ」
「は、い」
太王太后の言葉に嫁は素直に頷くが、旦那の方は不満顔だ。
「貴方にも言っているのよ、キリル?」
微笑みを浮かべながらも王太子にじんわりと圧力をかける。
さすが、生母と言うべきか、王家最長老と言うべきが。
リアンが感心していると、耳元でキリルの舌打ちが聞こえた。
「母上、お言い付けは胆に命じます…ですから、そろそろ私と妻が
初夜と蜜月を過ごすのをお許しいただけますか」
黄緑の瞳が丸く見開かれる。
何か今スゴイ事、聞いたヨ?
伯爵令嬢だけれど庶民育ちのリアンが真っ赤になって固まっている内に
温かい(生温かい?)微笑みを残してイルーネ様は消えてしまった。
大改装された“王家の塔”最上層には王太子夫妻がただ二人きり残された。
「一般参賀の時、私と同じ瞳の老婦人を見かけたのだけれど…あの人は誰?」
リアンは早速気になっていたことを尋ねてみた。
自分に憎悪のみならず殺意すらぶつけてきた女性。あの人は…たぶん。
予想はついたが、しっかりと確認しておきたい。
「貴女の知る必要のないことです。
彼女が貴女の前に姿を現すことはもう二度とありませんから」
その言葉はつまり、キリルがあの女性を排除するために何らかの
実力行使に出たことを意味する。
「私のために隠し事をするのは止めて」
何べん言ったら分かるの?と、金茶の髪を揺らしながら怒り出した妻に
キリルはあっさり白状した。
「先のフェヌイ子爵夫人です」
「やっぱり母方のお祖母様。子爵家の期待を裏切って駆け落ちした母と
その末に生まれた私を怨んでいるわけね」
「あの方のご実家はもともとアギール家とは不仲でしたし。
あの方ご自身は一人娘を ワグナ殿下に嫁がせて王族の仲間入り
させることを狙っていましたし」
「…野心的な婆様だったわけですか」
父方アギール家の祖父や叔父はリアンにとって大切な家族だ。
けれども母方フェヌイ家のことは…ほとんど知らない。
生前の母も多くは語らなかった。きっとそれが答えなのだろう。
母はフェヌイ家を捨て、フェヌイ家も母を守らなかった。
「実の祖母に死ぬほど憎まれているというのも、何だか孫としては…」
哀しい。けれども相手を責められるほど、相手を知らない。
実の祖母でありながら、リアンは名前すら知らされていなかった。
「大丈夫です、リアン。私が傍にいます。
どんな悪意からも貴女のことを守ります…必ず」
キリルの腕の中で、リアンは今考えても仕方ないことを考えるのは止めた。
目下の問題は別にある。
「ところで、キリル、初夜って何ですか?」
「結婚して、夫婦で初めて過ごす夜のこと」
彼にしては物凄く真っ当な答えを返して来る。
ふむ、一応常識はあったのか…と、夫に対する何気に失礼な認識を改めつつ、
あれっと?思ったりするリアンであった。
お腹に子どもがいるというのに今更では?
「それで、蜜月って何ですか?」
「新婚の二人が、誰にも邪魔されずに過ごす月のこと」
やはり物凄く真っ当な答えが返ってきて…でも、やはり何かが違うと
首を傾げる。
「一ヶ月丸々という訳にはいきませんが、少なくとも月末までは
二人きりで、のんびり過ごしましょう」
キリルの言葉に、数瞬置いて、リアンは仰天した。
「ええっ聞いてないですよ!」
「貴女を驚かせたくて」
綺麗な笑顔には一片の邪心も伺えない。しかし…リアンは躊躇った。
「…だって、お仕事は?」
夫となった御方は、この国の王太子で。
まだレナイドを慰留しているとはいえ、実質的には宰相役を担っている。
そして自分は王太子妃となってしまい。
お妃としての公務もあれば、自治省長官としての職務もある。
のんびり過ごす暇など、どこにあると言うのだ。
「ん?もしや明日から仕事するとか言いませんよね、私の奥さんは」
キリルの言葉に反論しようとして、口を開きかけ、
藍色の双眸を臨むや、リアンは再び沈黙を選んだ。
(何か…恐いですよ、コノ人)
ほんの少し前までは、筆頭貴族であるミルケーネ公爵を名乗っていた。
そして密偵組織元締めである内務省長官でもあった。
はたまた自分の直属上司である自治省長官でもあった。
転じて、現在は王太子。国王に次ぐ権力者。
そして、本日よりは自分の夫(夫!ぎゃあ)。
嬉し、恥ずかし、その前に、何故かヒタヒタ押し寄せる恐怖。
「何でも私の言うことを聞く約束でしたね。
蜜月止めて仕事するなんて、まさか、まさか言いませんよね?」
「き、キリル…」
「ん?私の奥さんは約束を破るような人ではありませんよね?」
寝台の上で身を竦ませるリアンにキリルはどんどん近づいて…
もうダメと両眼を閉じたところで、降ってきたのは優しい口付け。
それも額に。
「キリル?」
恐る恐る片目ずつ開けると、藍色の双眸が吐息がかかりそうなほどに
間近に迫っていた。
「しばらく“王家の塔”でゆっくりしましょう?」
妻を労わる夫の気遣いにリアンは素直に感動した。
「え~と、ずっと一緒に居られるのは、嬉しいんです、凄く」
「本当ですか?
重いとか、鬱陶しいとか思っているんじゃありませんか?」
少し意地悪なキリルの問いにリアンは声を張り上げた。
「大好きな人と一緒に過ごせて嬉しいに決まっているじゃ
ありませんか!」
でも、貴方も私も公務を疎かにできないし…などとブツブツ呟く
新妻の可愛さにキリルは危うく理性を手放しそうになった。
翌朝になると、王太子は妃の手を取り、新装の塔を案内した。
キリルが短時間の内に大改修させたことがここに
明らかとなる。
屋上には四季折々の香草が植えられた空中庭園。
防火貯水槽を兼ねた人工の泉まである。
そして、工部省ではない、民間最新の避雷針も取り付け済み。
最上層の寝室には豪華絢爛…ではなく目に優しい瀟洒な調度を配置。
寝室横には朝日も夕日も見られるよう工夫された天窓付きの小浴室。
地下層から九層までは荷物用ではない人用の昇降機を設置。
「キリル、凄い、素敵~!」
各層を覗きながらはしゃぐ妻の姿に王太子が相好を崩したのは言うまでもない。
その微笑みの影に。
“貴女を守るために”
少しも眼を離さず見守るつもりでいる。
そしてもしもこの次に異変が起こった場合は。
彼は自らでその“災い”を取り除く覚悟を固めていた。
先のフェヌイ子爵夫人。リアンの母方の祖母がちらりと出てきました。
若い頃のミアン(リアン母)は実母の我欲に随分と苦しめられました。
名前も出ぬまま、あっさり本編から退場です。
キリルに消されたか、ベリルに消されたか…。命までは奪われてなかったと
しても辺境の荘園で老後を過ごすことになりそうです。
さて、バカップル?の新居は“王家の塔”です。
現代風に言えば10階建ての都市型タワー・マンションを想像してください。
地下には天然温泉やジムもあります。
一応、4層と5層にゲストルームもあるのですが、キリルに人を招く気は
サラサラありません。もっとも彼にその気はなくとも押しかけてくる人は
(王弟ベリルとか宰相レナイドとかアギール伯爵ハリドとか)いそうですが。
さて、次回「自治省の鴛鴦夫婦 その5」
キリルがリアンに差し出した杯の中身は?
最後の難関を二人は乗り越えられるのか、の巻です。
甘さ(バカさ?)一転、シリアス・ムードが漂うものとなる…はず。
あまり間を置かず…UPできるよう頑張ります。