第十章 自治省の鴛鴦夫婦 その2
ふう。更新が遅くなってしまい申し訳ありません。
引っ越し、出張、転職と重なりまして、なかなか続きが書けませんでした。
このままでは、3月完結が覚束ない。。。くっ、もうちょっとなのに。
本篇冒頭でキリルの変態ぶりが婚約者にバレました。リアンの反応は?
それから、その1で書けなかった「自治省の悪臣」唯一のゴーストが
ちらり(とだけ)登場です。
間が空いてしまった分、エピソードを少し詰め込みすぎた感があります。
息子に去られて傷心のリアン叔父にもようやく幸せが訪れました。
怒涛の立太式と婚約披露式が終わり、ファネ国もその年最後の月を迎える。
ミルケーネ公爵改め王太子となったキリルから引き継ぎを受け、
アギール伯爵令嬢リアンは自治省次官から自治省長官へと昇任を果たした。
長官退任後、次官が後継の座に就くこと自体は珍しくないが、中央省庁に
おいて女性が長官職に就くというのはファネ国史上初めてのことであった。
それも王太子の婚約者、つまり未来の王太子妃であり、次代の王妃が
行政長官職を拝命するなど異例のことである。
当然、国内において賛否両論が巻き起こったのだが、激論にならない内に
「まぁいいんじゃない」という緩い雰囲気に流れてしまった。
これも一重にリアンの“アギールの娘”としての国民人気と
王宮・王府内における高い評価…彼女が王太子の手綱をとってくれる!…
という期待によるものであった。
要は新しい王太子がイロイロ規格外なため、彼が溺愛している婚約者に
ご登場願う場面が、イロイロ有った訳で…結果、彼女は王宮・王府内から
多大なる信頼を寄せられるようになっていた。
「ふん。ついに最上階を陣取ったか。小娘のくせに自治省長官
とは図々しい」
旧カリン宮の長官執務室に案内もなくぶらりと現れるのは、無精ひげを
生やした中年男、王弟ベリルことワグナ殿下。
彼は王家の特権として王宮・王府内を縦横している地下通路や秘密通路を
熟知しているので神出鬼没に現われる。
「その恰好で国軍大将というのも相当図々しいと思いますよ、ワグナ殿下」
悪口の応酬はもはや挨拶代り。ベリルのよれた上着に黄緑の目を細め
ながらリアンも負けていはいない。
「王太子は来ていないのか?」
「宰相殿と執務中。そういつも来てばかりいないわよ」
「どうだかな」
宰相はまだ宰相のままだった。
キリルが王太子に即位した途端、レナイドは辞任を希望したにも関わらず。
高齢である上、王太子が誕生した以上、もはや宰相の任に留まる必要なし、
というのが表向きの理由だが、もちろん本当のところは早く自治省顧問と
なって孫娘のように思っているリアンを補佐したいからだった。
それをよりによって、王太子が邪魔をした。
「王太子となったばかりの若輩者ゆえ、今暫くは宰相殿のお力が必要です」
などとしおらしく頭を下げ、国王ソランサをも丸めこんで、宰相の辞任
希望を取り下げさせてしまった。
もちろん、レナイドにはよっく分かっている。
キリルが自分の力なぞ必要としていないことを。
ずっと内務省で一緒に仕事をしてきたのだ。互いの手の内などお見通しだ。
それにも拘わらず留任させたのは、一重に愛するリアンの周りを
彼が頻繁にうろちょろするのが気にくわなかったからに他ならない。
もっともこれにはリアン自身の抗議もあって、レナイドが宰相職に留まる
間も、週に2回夕方2時間だけは指導教授を務めるということで妥協した。
一方で、王太子となったキリルはというと、これはリアン付き秘書官たちが
予想した通り、こんなに来て大丈夫か?というほど、自治省に姿を現した。
立太式後の最初の一カ月というものは「引き継ぎ」と称して、
自治省にリアンと一緒に出勤しては、しばらくは王宮に戻ろうとしなかった。
終いにリアンに怒られて「引き継ぎ」という言い訳が通用しなくなった後は、
(リアンを送って)朝の出勤時、昼かお茶の時間、(リアンを迎えに)夕方の
退勤時と日に3回ほど自治省に顔を出すのが日常化していった。
王宮と王府は隣り合わせであり、それほど遠くないとはいえ、
ここまで頻繁に王太子が顔を出すというのも
…自治省にとって「名誉」というよりは甚だ「迷惑」であった。
「で、ワグナ殿下、本日の御用は?」
彼がわざわざ来るというのは、単なる自治省=国軍間業務ではない。
何かリアンをからかう材料を持っているはずだ。
「王太子殿下にお借りしていた本を返し忘れていたのでな」
ベリルはそう言うや、背負っていた皮袋から分厚い本を1冊取り出した。
「王宮に持って来てくれれば良かったのに。
キリルの蔵書はだいたい王宮内に移動したわよ?」
リアンは見るからに重そうな本に顔をしかめた。
その本には見覚えがある。表紙には『古ファネ王朝実録記』と金文字で
打ってある、キリルの愛読書の一つだ。
「移動したかどうか一応確認しよう」
黒い笑みを貼り付けたまま、ベリルはリアンの座る背後に回った。
そこには木目に花鳥が彫刻された美しい壁があるだけだったのが、王弟が
何やら操作すると、ある一面がぐるりと回転し、中から書棚が出現した
…但し、空っぽの。
「やっぱり移動してあるか。ま、当然だな」
「何だってわざわざ隠し書棚なんかに…」
元はミルケーネ公爵の豪華執務室だ。仕掛けの一つや二つ…いや、三十位
あっても不思議はないが、わざわざ歴史書を隠しておく理由が分からない。
確かに古王朝時代のことを克明に記した歴史書は少ないとはいえ、自治省
最上階に秘匿しておくほどのこともあるまい。
ふと思い至って、リアンは改めて件の歴史書を手に取った。
まさか…徐に頁を手繰る。
「7の月7の日 午前晴天 午後曇天 ルーマ市にて記す
姫君は白い半袖ブラウスと緑の長スカートをお召しになり、
スカートと同じ色のリボンで髪を束ねていらっしゃいます。
出勤の挨拶を母上になさり、父上とともにお出かけになります。
姫君の美しさに心を奪われた輩については、大抵父上が牽制して
おいでですが、アベッチィ子爵ご令息や絹織物問屋の若旦那など
諦める様子のない御方についてはこちらから手を回しております。
姫君のルーマ市役所でのお仕事は本日、午前に市民相談、
午後の前半に税金関係庶務、後半に環境関係調査業務が入って
おります。市民相談については怪しげな人物をあらかじめ駆逐、
脱税者のリストについては姫君作成のものをこちらで複写、
地元のゴロツキと環境問題で揉めた際の護衛はお任せください。
なお、姫君の本日お召し上がりになりました昼食は…」
パタン。適当に開いた頁を斜め読みしただけでリアンは本を閉じた。
ある意味『実録記』には違いない…しかし、古王朝の、ではない。
実名は記されていないが、そこに記された「姫君」にリアンは
ものすごく…心当たりがあった。
ベリルと視線が合わさる。
彼は新自治省長官の挙動を実に興味深げに観察していた。
「ワグナ殿下、これ…」
「どうだ。未来の旦那の変態っぷりがよく分かったか。もちろん、
この一冊じゃなぞ。何十冊もある上、現在進行形だ」
(11の時初めて君と出会って…)
キリルの言葉が甦る。彼はリアンが知らず知らずの内に現れては消え、
現われては消えを繰り返していた。
父に国王を母に巫女姫を持つ特殊な生い立ちや、異母兄キランサ王一派との
長きに渡る確執から、リアンの前にきちんと姿を現せなかった
…と説明を受けているが、それにしても。
(キリルーっ、私の見ていないところで何やっているのよ!)
これでは立派な追跡者だ。いや、彼が普通じゃないのは今更だが。
「俺にしておけばよかったのによ。
よりによってファネ王室の中で一番ヤバい奴に愛されちまったな」
ベリルのせせら笑いに、しかし、負けているリアンではない。
「ふ、何を言うの、ワグナ殿下。こんなことで一々驚いていてはキリルの
奥さんはやってられないわ。もちろん、後できっちり“教育的指導”
とやらを行わせてもらうけど」
ベリルが1冊“無断借用”し(キリルが貸すはずない)、今またリアンに
返してきたブツは動かぬ証拠として使える。
未来のお妃は王太子を締め上げる気満々だった。
しかし、目下の相手は王弟である。
自治省次官改め長官はにっこりと社交用の微笑を浮かべた。
「近い内にワグナ宮に参りますので、見せていただけますわね?」
「何をだ?」
「ほほっ。しらばっくれてもダメですわ。
ワグナ殿下所蔵の『実録記』がおありでしょう…私の母上の」
ベリルの片眉がわずかに動いた。動揺を完全には隠しきれていない。
(あるんだ…やっぱり)
もうやだ。この叔父と甥。互いを嫌うのは間違いなく
「同族嫌悪」というヤツで、やることがよく似ている。
だからこそリアンも、どう考えても人間的として欠陥品の不良中年親爺を
完全には見放せずにいるのだけど。
それに彼は契約に忠実で、彼女の命を守ってくれる存在でもあった。
善戦するも、リアンがベリルに完全勝利するのはまだまだ難しかった。
「娘のお前が見るならミアンも許すかもしれんが…いや、やはり
娘だからこそ、見せなくないと思うかもな」
「どういう意味よ?」
「俺が命じている報告はキリルみたいに上品じゃないからな。
赤裸々、無修正、まだまだお子ちゃまな叔母上には刺激が強すぎる
んじゃないか」
「赤裸々、無修正って…あんた何を密偵に命じているわけ?」
「俺を振って駆け落ちした男とミアンが寝室に入った後に行う、
あんなことやこんなこと。回数とか、角度とか、体勢とか」
「きゃーきゃー、あんた何てことを記録させてんのよ!」
「お前が毎晩、王太子とやっていることだろう?」
「知るか、ベリル!この変態!
燃やせ、その記録と記憶、今すぐに 灰にしろ!」
リアンは我を忘れて、手当り次第の物を王弟に投げつけた。
ベリルは中年男とは思えぬ身軽さで(腐っても彼は国軍大将!)
全ての攻撃物を躱すと、「いや~俺の『実録記』は永久保存版だからな。
未来の王妃様のご命令でも聞けないね~」と高らかに笑って帰って行った。
もちろん、未来の叔母上を激怒させて大満足なのは言うまでもない。
*** *** *** *** ***
婚姻式を来月に控え、リアンは週末を実家であるアギール家で過ごすように
していた。「週末を実家で」という言い回し自体おかしいのだが、これを
「おかしい」と考えない輩が彼女の周囲に多過ぎる。
10の月10の日に、アギール伯爵令嬢は王太子の正式な婚約者に
なったが、新年1の月11の日に執り行われる婚姻式を終えるまでは
あくまで“婚約者”に過ぎない。この婚約期間3カ月はいわば王室による
最終審査期間で、何か不都合が生ずれば婚約が解消されることもありうる。
本来であれば…婚姻前に、王宮において王太子と起居を共にするなど断じて
許されることではない。婚約期間中は本来“清い交際”が求められ、
婚姻式当日の花嫁は純潔であることが大前提だ。
ところが、ここに至るまで、主として王太子の“暴走”により、数多の
慣例が覆された。
つい先日も王太子は王都新聞などの取材に応じ、
「婚姻式と同時に、妃の懐妊宣言もできれば良いのですが」
などど、盛大な惚気?を披露していた。
もちろん、後でリアンに首を絞められたのは言うまでもない。
「おかしいでしょう!結婚前の男女が同室なんて!」
「何を今更…」
「ファネ王室の伝統と格式はどこへ行ったの?」
「どこかへ行きました」
「国民の範たる王太子が婚約者と、ゆ、遊蕩に更けるってダメでしょう」
「その表現間違っていますから。仕事はきちんとしていますし、
自分の最愛の婚約者を朝昼晩慈しんで何がいけないんです?」
「い、いけなくはないけど…」
リアンの目が泳いだ。何というか、キリルが愛情を全面に押し出して
くると弱い。周囲も温い目で見守っているので自分だけ常識だの
道徳だのを並べるのも馬鹿らしい気もする。
しかも、
「リアン不足になると、王太子として振る舞うのも、仕事するのも
何だか嫌になってしまって…」
などと、盛大に溜息をつく。すると、王太子付の侍従やら騎士やらが
一斉に主人の味方をして、リアンに集中砲火を浴びせる。
「王太子殿下に付いていて差し上げてくださいっ!」
「殿下はリアン様と長く離れていると本当に活動停止するのです!」
「どうか王国と王宮と王府の正常業務のためにっ!」
「「「リアン様、ささっ、殿下のお側に!!!」」」」
「あなたたちまでキリルを甘やかしてどうするの~!」
多勢に無勢、しかし、リアンは踏みとどまった。
そして長い論戦の末、週末だけアギール家で過ごすことを認めてもらった。
もっとも…実家でのんびりできるかというとそうでもなく、かなりの
確率で夜半にかけて公然“お忍び”で王太子が出没した。
ちなみにアギール伯爵ハリドも、シャイン子爵クロンも、諦めの境地にいる。
「リアン、出かけるのですか?どこへ?」
婚姻式まで3週間を切った週末のある日。アギール家にいたリアンを昼から
キリルが訪問した。何を察知したのか…いつもより来るのが早い。
外出の仕度をしていたリアンは、一瞬、「面倒なヤツが来た」という表情を
浮かべてしまった。
「王立植物園にいらっしゃるイルーネ様をお訪ねすることになっているの」
「母上の処へ?何しに?」
「今度試験栽培をする果実採取用の梅の木について相談しに」
リアンはすらすら答えた。別に嘘は言っていない。
キリルの生母であり、太王太后であるイルーネは王立植物園の顧問をしている。
王弟ベリルが何やら「ウメエ酒」製造に拘り、梅の木の栽培案を出したものが
前自治省長官によって採用されており、結果的に現自治省長官に
丸投げされた。
「私も行きます」
「え?いいですよ、キリル。直ぐに帰ってくるから休んでらしてください。
イルーネ様と二人でお話ししたいこともありますし…」
「一緒に行きます」
激務の王太子を労わるフリをしつつ、暗に「来るな」を仄めかしてみたものの
あっさり無視された。
「私が一緒に行くと都合の悪いことでもありますか?」
「いえ、ないですけど…」
藍色の瞳が鋭くなっていて、リアンは思わず口ごもってしまった。
婚姻式が近づくにつれて、どうも警戒態勢が強化されている気がする。
身辺警護という意味ではない。キリルのリアンに対する“警戒”だ。
王太子にとって、婚約披露式に至るまでの“王家の塔”における攻防が
後遺症になっているようで、婚姻式前にも何か騒動起きるのでは
…とどのつまり、リアンが「婚姻延期」だの「婚姻中止」だのを言い出す
のではという不安に苛まれているらしい。
(これはやっぱり安心させてあげた方が良いのかな)
覚悟を決めてリアンはキリルの腕を取った。
アギール家を出るところで、叔父のクロンが合流する。
息子であるイェイルが王女マリンカと駆け落ちしてしまった後、
内務省勤めの叔父がリアンの護衛役を務めることが多くなった。
本日のシャイン子爵は常と異なり、明らかに憂い顔である。
しかも、王太子の存在を認めて、これ幸いと逃げを打とうとする。
「殿下がご一緒なら、私の護衛は不要ですよね。お邪魔になりますし」
「何を言っているの、叔父上!往生際が悪いですよっ!
じたばたしないで観念なさい」
実は、クロンには姪の護衛以外に王立植物園で果たさなければならぬ重要な
使命があった。しかし、その遂行に臆病になっている。
「リアン、しかし、これには大人同士の繊細な問題が絡んでいてね…」
「叔父上、これ以上、つべこべ仰るつもりなら、首に縄を懸けて引きずって
ゆきますよ?」
未来の王太子妃は凶悪な顔で叔父を睨む。
未だ王太子妃の“婚約者”という立場であるが、その権勢たるや絶大で、
彼女の命令一つでクロンは囚人のように王立植物園に連行されかねない。
これも全てはうっかり自分が口を滑らせたのが原因だ。
彼はそのことを心底悔んでいた。
「叔父上、イェイルの母上とは死別なさったと伺いましたが、
この先もずっと独り身でいらっしゃるおつもりですか?」
その問いが躊躇いがちにリアンから発せられたのは数日前のこと。
クロン自身を心配してのことはもちろん、彼が継ぐであろうアギール伯爵家の
将来を憂えてのことでもあった。
「え?シーシェル…イェイルの母親は死んでいませんよ」
「え?王家崇拝者に暗殺されたって聞きましたが」
「確かに、危ないことが続いたので、死んだことにして身を隠させましたが」
「じゃあ、生きているのですか?」
黄緑の瞳がキラキラと輝き出す。話題が話題だけに詳細を伝えぬまま、姪に
心配をかけていたと知って、クロンは後先も考えずペラペラと明かしてしまった。
「好きな仕事をして、元気でおりますよ。貴女もご存じの方で…」
そこで冒頭に戻るのだが、叔父の恋人が誰かを知ってから、リアンの行動は
早かった。お妃修行の一環として、太王太后イルーネには3日に1度位の割合で
主に神事に関する勉強を見てもらっているのだが、それとは別に王立植物園を
訪問する機会を作った。
王弟と元公爵による梅木試験栽培案など口実に過ぎず、
真の目的は未来のアギール伯爵の嫁取りにあった。
王立植物園に到着したところで、リアンは叔父クロンを放りだした。
キリルはリアンにべったりくっ付いたまま何も言わない。
緊張した面持ちのシャイン子爵に何が起こっているか、彼が王立植物園を
訪ねることの意味を王太子は正確に把握していた。
子爵の“恋人”を長く保護していたのはキリルの生母であったからだ。
けれども…特別応援してやるつもりはない。
それよりもリアンをしっかり見守る=見張ることの方が遥かに重要だ。
「イルーネ様、改めまして、お願い事があってまいりましたの」
梅の試験栽培案については、ほとんど議論することもなく、あっさりと
計画の実行が決まった。そこでさっさと帰ろうとするキリルを横目に
見ながらリアンは別件を持ち出した。
“お願い事”の一言に藍の双眸が揺れている。白絹の手はリアンの片腕を
捕えていたが、触れている所から緊張が伝わってきた。
(婚姻式の前に不安になるのは花嫁の特権と思っていたけど…)
不安になっているのは花婿の方であった。
いや、リアンとて、キリルとの結婚は嬉しいが、洩れなく付いてくるオマケ、
「王太子妃」だの「未来の王妃」だのに辟易している。
一応「伯爵令嬢」とはいえ、庶民育ちなのだ。
同じ位階の貴族に嫁ぐならばともかく、王家に嫁ぐのは障碍が高過ぎる。
但し、最近では「開き直り」と「楽観主義」で乗り切ろうと気持ちを切り
変えつつある。これに対して、
未来の夫の方は「引き籠り」と「悲観主義」に陥りつつあるらしい。
「その“お願い事”とやらを伺いましょうか」
王家最長老の貴婦人はリアンの前でニコニコと微笑んでいた。
先々代王の4番目の正妃となり、巫女姫を降りた彼女だが、未来の嫁が
何を口にしようとしているのか、とうに察しているようであった。
アギール家の娘は、王太子の腕から抜け出すと、貴人に対する正式な礼
…両手を胸の前で十字に組み、片膝を付いて頭を深く垂れた。
「これまできちんとご挨拶をせず申し訳ありません。
イランサ王、イルーネ様。どうか大事なご子息を私に下さい。
必ず幸せに…できるかどうか正直全く自信ないのですが、
今でもどうして私なのか、私で良いのか、迷うところではありますが、
…でもでも、これからの生涯を一緒に生きていきたいと思います」
未来の舅姑に対する正式な挨拶を、今更!なのであるがリアンは行った。
「…いつから気が付いていたの?」
驚きを隠せない声が頭上から響いて、リアンは膝をついたまま少し顔を上げた。
「いつからとは?」
「私の側にイランサがいることを、いつから知っていたの?」
「…立春祭の時から何となく。その、不思議な雰囲気を纏っていらっしゃるな、
と思って。うまく説明できないのですが、イルーネ様の気配に重なるように
別の気配があるような気がしてならなかったのです。
それが何なのかずっと分らなかったのですけれど、“何か”ではなく
“誰か”だと気が付いたら、得心しました。ご夫君のイランサ王だと」
二人の愛情なのか、イルーネの巫女としての力の残滓なのか、それとも
死してなおの執着なのか…息子を見れば、3つ目の理由が濃厚だが…
ともあれイランサ王の霊体は崩御した後も現世に留まっていた。
(やられっぱなしか、パルマローザ?)
“王家の塔”にて、心が挫けそうになった時、リアンを発奮させたのは
先々代王の声なき声であった。貴人名で呼ばれてリアンは我に返った。
後に名付け親がイランサであることを知り合点がいった。
「あの子をお願いね、リアンさん。
ありがとう、あの子を…孤独の檻から掬いあげてくれて」
イルーネは自らも膝を付き、近い将来、嫁となる娘を助け起こした。
固く握り合った腕から、慈愛と勇気が分け与えられる。
それはイランサとイルーネからリアンへの注がれる贈り物だ。
「もしかして、最初の頃、私を苦手に思っていたのって、これのせい?」
“これ”と気安く呼んでいるが、先々代王の英霊である。
「あ~申し訳ありません」
そう。正直言えば、苦手であったのだ。
仕方なかろう!
聖王家など雲の彼方の存在で、神殿に行くこともほとんどなく、信心深い
とはとても言えないリアンである。
それなのに、なぜかイルーネの輪郭が時折ダブって見えたり、背後の影が
勝手に動いているように見えたりして、ずっと気のせい気のせいと自分を
誤魔化してきたのだ。
一度、キリルの父親で自分の名づけ親と知るや、忌避する気持ちは失せていった。
さて。てっきり飛びついてくるかと身構えていたリアンなのだが、
婚約者殿がすぐ傍らで身じろきもしないでいるので、不安になる。
ちらりと振り返って…眼を丸くする。
(何と!)
リアンの予想を覆す事態が生じていた。
先々代王イランサの末の王子、ミルケーネ公爵、内務省長官、自治省長官と
いろいろな姿を見せて、現在、ファネ国王太子という青年は…声もなく、
大粒の涙をボロボロ零して泣いていた。
透明な涙があとからあとから水晶の珠となって頬を伝ってゆく。
「貴方が泣くのを初めて見たわ」
「そうですか?貴女が“王家の塔”で籠城した時、最後の方はずっと
泣いてばかりいましたよ、私は」
リアンが伸ばした両手を取って、キリルは告白した。
(誓います…何度でも幾らでも誓いますから、もう赦して下さい。
リアン、貴女の姿が見たい、貴女に触れたい。
私を赦して下さい。これ以上は耐えられない)
“王家の塔”でキリルから許しを乞われた時、リアンの頭の中に
大粒の涙を溢す公爵サマの映像が浮かび上がった。あの時は、
(キリルが泣くなんて…ふっ、ありえない)
と思ったものだが、では彼は真実泣いていたのだ。
何度も死線を潜って今日まで生き延びた彼は、
ずっと独りで泣いていたのかもしれない。
そう思うと、切なさと愛しさがこみ上げる。
多少、いや、かなり変態なところはこの際、目を瞑ることにする。
「ごめんね、キリル。いっぱい心配させて、不安にさせて。
ちゃんと…愛していますよ?自分ばかりズルイとか不公平だと思って
いるかもしれないけれど、私だって負けない位、貴方を」
そこで息継ぎをしてリアンは口調を改めた。
「愛しています、キリル」
そうして、まだ動けずにいる未来の旦那様を、自分から優しく抱きしめた。
さすがにイランサの霊とイルーネが居る前でそれ以上のことはできない…と
思っていたのだが。
忽ちにキリルが息もつけないくらい強くリアンを抱きしめ返し、
額に瞼に頬に唇にと接吻の雨を降らす。それはもう遠慮もなく。
ここが何処であるかとか、誰が一緒にいるかとかは忘れ去っているらしい。
「愛しています、リアン。絶対に貴女を離しませんっ!
貴女だけが私の“唯一の女”。私の全ては貴女の物です」
「う、うん。嬉しいけど、その、時と場所を…」
弁える余裕がなくなった王太子に花壇の茂みに引き摺られて行きそうになる。
しかし。
「いい加減にせんか、この馬鹿息子っ!」
見かねた、イルーネが園芸スコップの柄でキリルの後頭部を殴った
…あまり手加減せずに。
ファネ国王太子の意識はそこで途切れる。
「まだまだ息子の制御が甘いのう」
リアンは、倒れたキリルに膝を貸しながら、イルーネの口から洩れる
イランサの言葉に呆然としていた。
*** *** *** *** ***
アギール伯爵ハリドの次子、シャイン子爵を名乗るクロンは王立植物園で
独り放りだされた後、一世一代の使命に向かって歩を進めた。
(叔父上、私は早く彼女を叔母上と呼びたいの。
アギール家の未来のためにも、絶対にこの使命をやり遂げて頂戴!)
可愛い姪っ子はそう言って彼を送りだした。
応援してくれているのは分かる。分かるが、しかし…。
心臓が口から飛び出しそうだ。手の平も背中も汗ばんでいる。
ふさふさの金茶の髪もこれで禿げてしまうかもしれない。
向かった先は、温室の一角に向けられた水連池。
品種改良して作られたオレンジの水連が池の中にポツリポツリ浮かんでいる。
「シーシェル、愛しています。結婚してください!」
クロンは相手の姿を認めるなり、その背に向かって叫んでいた。
右手に小型の網、左手にバケツを持っていた女園芸士が振り返る。
「私、結婚しても仕事は辞めないわよ?」
「植物園でも園芸店でも君が好きな仕事を好きなだけしていて構わない。
でも一緒に暮らしたい。もう離れているのには耐えられない。
結婚してくれ」
好きだ、大好きだ、愛している、までは何百回と告げてきたクロンだが、
“結婚してくれ”を言うのに、20年近くかかってしまった。
兄が駆け落ちした時、父と彼は王都にあって
中央貴族たちからの非難の矢面に立たされた。
それは別に構わなかった。
尊敬する兄が愛する女性と結ばれて幸せになってくれるのであれば。
ただし、自分の恋人については別問題だ。
クロンが愛した女性は王都の裕福な園芸店の一人娘であったが、平民階級である。
伯爵家の次男と裕福な平民娘が結婚すること自体は不可能ではない。
ただ、兄が王家に背を向ける形で駆け落ちし、跡目が回ってきた次男がまたも
中央貴族の神経を逆撫でするかのように平民娘と結婚するとなると
…ただでは済まない。
現に、シーシェルは王家の信奉者から殺されかけ、一時は生死を彷徨った。
クロンはアギール家の問題で愛する女性を失うのことを怖れた。
その結果、父を通じてイランサ王の妃にシーシェルの保護を求め、
生まれたばかりのイェイルを王宮騎士団の信頼できる者に託した。
そうして自分は表立っては夫とも父とも名乗らず見守り続けて
いつしか時が流れた。
子どもだと思っていたイェイルが近衛騎士になり、よりにもよって世継ぎの
王女と恋に落ちて、思いを全うするために全てを捨てて国を出て行った。
駆け落ちした息子を責める気持ちは、ない。
むしろ約束された近衛騎士としての将来も、子爵や伯爵としての爵位も
かなぐり捨てて、ただ愛する女性と共に生きることを選んだ息子の覚悟を
誇らしく思う。
けれど、その一方で親として“置いていかれた”という寂しさがあるのも事実。
その寂しさを自分よりももっと深く感じているであろう女性を慰めたい、
側に寄り添いたい…もう離れては暮らせないという思いに突き動かされる。
本当に王太子のことを嗤えない。彼が十五年越しなら、こちらは二十年越しだ。
シーシェルは水連池の脇に網とバケツを置くと、
緊張のあまり跪いたままブルブル震えているシャイン子爵を見下ろした。
「不思議ね。シーシェルとして過ごした日々よりも、シェリアとして
過ごした日々の方が長くなってしまったわ。王立植物園で働きながら
時々はイルーネ様のお手伝いで侍女のまねごとをしてみたりして」
「貴方は園芸士としてだけではなく、侍女としても優秀な方です。
姪のリアンがいつもお世話になっています」
王妃の茶会にイルーネが出席する時はいつもシーシェルが女官シェリアと
して同行していた。アギール家の娘が苦労するのを見るに忍びなくて、
気づけば随分とリアンに肩入れしていた。
リアンが自治省次官として2度目の地方視察としてソイ州に赴く時、
太王太后の願いでフッサール伯爵夫人フローネに代わり侍女として同行した。
その時、思いがけず、護衛役についたクロンやイェイルと一緒になり、
シーシェルは束の間、家族の真似ごとのような日々を楽しむことができた。
…けれども息子はもういない。
自分で育てることができないまま、あっという間に成長して。
いつの間にか、愛する女性ができて、そして世界に羽ばたいてしまった。
もちろんイェイルとマリンカの幸せと願っている。
願ってはいるけれど、寂しいという思いは拭えない。
そして…母親として、無力であった自分が情けない。
「イェイルが、王女様と駆け落ちしてしまうなんて…本当に貴方のお家は」
深く嘆息したシーシェルにクロンは一層身を縮めて平謝りした。
「すみません、ごめんなさい」
クロンの兄クロスは王の姉を袖にして駆け落ち婚。
クロンの息子イェイルは王の一人娘と駆け落ち婚。
クロンの姪リアンは王の甥と結婚して未来の王妃。
アギール伯爵家。
間違いなく、王都一、いやファネ国一のお騒がせ一族である。
そんな一族に喜んで加わりたい、という者はよほどの物好きだ。
けれども、渦中にいるのは、シーシェルの愛する男で。
そして息子を失って彼も彼女も互いの温もりを求めていた。
「イェイルを自分で育てることができなくて、本当に哀しかった」
「すまない、シーシェル。君とあの子を危険に晒すよりはと思って。
ずっと辛い思いをさせてしまって、ごめん」
「私、賑やかな家族というのに憧れているから。
…それで、もうそんなに若くないけれど、
あと一人や二人は何とかなると思うの。協力してくださる気はある?」
「全力で協力させていただきます!」
こちらは止める者もいなかったので。
シャイン子爵クロンはその場で愛する園芸士を押し倒した。
(叔父上、何をぐずぐずしてらっしゃるの?今ならもう大丈夫でしょう?
愛する方を捕まえてらして!)
姪の声が彼の背中を押してくれた。
外は凍てつく冬の最中でも王室植物園の中はどこまでの暖かく…
クロンと侍女シェリアことシーシェルは遅い春を迎えていた。
バックナンバー・チェック
その1 キリル愛読『古ファネ王朝実録記』
…「第8章 自治省のロマンス その3」でリアンのモト彼・ラウザや
町医者ベツレムとの記録を読み返していました。
その2 梅の木の栽培案
…「同上 その3」にてワグナ殿下がキリルの書類に混ぜ込んだ
「果樹採取用の梅園建設」案を実現させるための試験栽培です。
ワグナ発案→キリル適当に承認で最終的にリアンにお鉢が回って来ました。
その3 声なき声
(やられっぱなしか、パルマローザ?)は「第九章 自治省の悪臣 その4」
に出ております。リアンにはっぱをかけたのがイランサだと気付いた方は
いらっしゃいますか?貴人名がヒントでした。
“偉大なる王”は死しても…常人とは違いました。どうも愛するイルーネ様が
亡くなるその時まで付いて(憑いて?)いく気のようです。
その4 キリルの涙
(…私を赦して下さい。これ以上は耐えられない)の台詞は
「第九章 自治省の悪臣 その5」参照。
キリルの涙が見たかったのは作者だけ?
その5 クロンの恋人
「第六章 自治省の救助部隊 その2」
「第七章 自治省の自治部隊 その1」
「第八章 自治省のロマンス その1」
など実は要所要所でちらっと出てきていたイルーネ様の
侍女シェリアさんことシーシェルがクロンの恋人で、イェイルの
母親でした。今回ようやく明かすことができて、ちょっと肩の荷が
降りました。
次回「第十章 自治省の鴛鴦夫婦 その3」
婚姻式を目前に、リアン倒れます。
治癒力を持つキリルが直ぐ側にいるのに何で?というところで
物語最後の?シリアス展開となります。