第十章 自治省の鴛鴦夫婦 その1
キリル&リアン
ようやく婚約発表まで辿りつきました。
長かったです、トロかったです。イラッとしましたら申し訳ありません。
その1の後はもう少しスピードアップする予定です。
リアンはマリッジ・ブルーなのでしょうか?エグエグ泣いてばかりです。
そして遂に、キリルの封じられた名前が登場します。
10の月10の日。ファネ王国に新たな王太子が誕生する。
王太子の名はキリル。御年25歳。
先々代イランサ王の末子で、現国王ソランサには叔父に当たる。
成人後は臣籍に降りミルケーネ公爵を名乗りながら、
内務省長官と自治省長官を兼務していた。
この度立太にあたり王家に復籍し、それまでの長官職を退任した。
キリルは“偉大なる王”イランサが自ら育て上げた王子であり、
巫女姫であった母から“古王家(聖王家)”の血を引いていた。
有り体に言うと、王弟であるベリルよりも由緒正しい王子サマ
であり、それは公爵になっても変わらなかった。
容貌よし、家柄よし、財力あり、権力あり、の青年長官は以前
から人気が高かった。いささか(相当?)難のある人となりに
ついては限られた者たちしか知らないことなので…
“非の打ちどころのない”王太子の誕生に国民がどよめくのは
自然な流れであった。
立太式と同日に婚約発表が行われる。
お相手の女性はリアン・パルマローザ・アギール。
かの有名な“世紀のロマンス”が生んだ“アギール家の娘”である。
ミルケーネ公爵が王太子になると同時に婚約したことは年頃の
令嬢やその両親たちを酷く落胆させた。
しかし、王太子の婚約者たるリアン嬢を蹴落とそうという命知らず
は皆無であった。
公爵がリアン姫を溺愛しているとか、熱愛しているとかいう噂話を
挙げれば枚挙に暇はない。その一方で、リアン嬢を害そうとしたり、
反対に、懸想したりする輩は公爵に消されるという実しやかな噂も
流れていた…かなりの部分事実であったが。
“アギールの娘”は本人の意向を全く無視する形で新たなロマンスを
生み出していた。その内容たるや、内務省による情報操作に勝手に
尾ひれが付いたものなのだが。
曰く、キリルとリアンはイランサ王が認めた運命の許婚同志で
あったそうな。市井に育った姫を、星の導きにより王子が見出し、
二人は激しく恋に落ちる。けれども、“アギール家の娘”を快く
思わぬ者たちに幾度も引き裂かれそうになった。
慎ましやかな姫は二人の仲が公にされることを憂い、幾度も身を
隠すが、その度に王子は探しだして、姫に愛を囁く。
王子の熱意と真心に動かされ、姫は王子の妃となる決心をし、
二人は結婚の誓いを交わすのであった
…チャンチャン、と一大恋愛物語に仕上がっている。
内務省長官、転じて王太子のキリルは物語の出来栄えに大満足である。
王都新聞の取材には「晴れて姫と結ばれることができて幸せです」と
満面と笑みで応じている。
隣に立つ婚約者も同じく満面の笑みを浮かべていたが、
他人の聞いていないところでは、
「運命の許婚でもなけりゃ、星の導きもないし。
全編通じてイロイロ騙された感じ」
とブツブツ呟いていた。
愛する人との婚約発表である。
幸せいっぱいの二人であるが。
王太子は、この3日間を振り返り、ここまで辿り着いたことを
実感して、安堵した。道のりは長かった。
王太子の婚約者は、この3日間を振り返り、自分がしばしば
正常な判断能力を失っていたことを実感して、後悔した。
本当に…怒涛の3日間であった。
*** *** *** *** ***
10の月8の日午前のこと。
「キリル、いい加減にして!」
堪忍袋の緒がぶっつりと切れて、リアンは人目も憚らずに叫んだ。
「立太式は明後日よ。残すところ一日半しかないのよ?
こんなところで油を売ってないで、早く出掛けてちょうだい!」
部屋の外ではミルケーネ公爵の指示を待つ王家、公爵家、神殿
そして内務省からの使いが一群となって、徘徊していた。
「うん。でも、物事には優先順位があってね」
それなのに表の喧騒も混乱も何のその、
綺麗サッパリ無視して、まもなく王太子になろうという公爵サマは
ゆったり長椅子に腰かけ、飽きることなく愛する女を愛でて
いらっしゃいました。
「優先順位で言えば、こちらは後回し、最下位で結構よ。
お願いだから宰相殿とレムル殿の所に行ってちょうだい」
全く誰の立太式だ。丸投げするにも程があるだろう!
リアンの苛々は募る。
「い・や・だ」
「出てけ~!」
わずかに残っていた淑女らしさもかなぐり捨て、未来の夫に扇子を
投げつける。
「だってまだ4分の1も試着していないじゃないか」
リアンの投げた扇子を2本の指で易々と受け止めながら、
やはり公爵サマは動こうとしない。長椅子に根っこを生やしている。
二人の口論の発端は、アギール伯爵令嬢が婚約披露式で着る衣装
についてだった。
リアンの祖父であるアギール伯爵ハリドが、そういう衣装は婚家
ではなく生家で揃えるものだと厳重抗議していたにも関わらず、
キリルは自身で指揮監督し、自分が動けない時や女性ならではの
細かな注意を要する場合には、フッサール伯爵夫人フローネの
助力を借りて準備した。
“王家の塔”での攻防中、リアンが自分で図案を確認することも
仮縫いに協力することもなかったので、後で選べるようにと
複数枚の衣装が縫いあげられた。
キリルとフローネで厳選したつもりだが、そこにハリドの注文と
レムルの冷静な指摘が加味され、結局仕上がった衣装は44枚にもなった。
用意された装身具の組み合わせは99種類に及んだ。
装身具は公爵家とアギール伯爵家の宝物庫から厳選して
運び出された。いずれもファネ国誇る名宝揃いである。
「ああやっぱり。そちらの深緑と蘇芳の衣装もよくお似合いだ。
肩布と帯は黄金で。紅葉の女神のようですよ」
「キリル…」
「婚約披露式では貴女が主役ですよ、リアン。
衣装選びは疎かにしてはなりません。
一番よく似合うものを探さなくては。
もちろん、これというものが無ければ、今から作り直して…」
「キリル~っ!」
リアンは涙目になった。
衣装はまだ33枚残っている。
着付けのみならず、衣装ごとに髪型や化粧や装身具を変えるため、
どんなに急いでも1衣装につき1時間は費やされる。
つまり全部試着する頃には婚約披露式が始まってしまう。
それも他に何もせず、完徹しての場合だ。
冗談ではない。
太王太后イルーネ様とフッサール伯爵夫人フローネに厳選して
作成して貰った『王家の婚姻・24時間生存法』を何としても
頭に叩き込まなければならないのだ。
本意ではないとはいえ、これまで抜け道(王妃の茶会とか)や
裏口(『王家の婚姻・七日間必勝法』とか)を用いてここまで
来てしまった。
ただでさえ庶民育ちで障害物が多いのに、ここまで何も勉強して
いないとなると情けないを通り越して悲しくなってしまう。
せめて2百頁に及ぶ『24時間生存法』くらい修得しておかないと
自分が許せなくなる。
それなのに!
未来の夫は、政務も式典準備も賓客応対も全てそっちのけで、
リアンの衣装選びに朝から付きあっているのだ。
このままでは結婚する前から悪妻の評判が立ってしまう。
良い奥さんになりたいのに…こんなんじゃ全然ダメだ。
リアンは不覚にも涙が零れて来るのを止められなかった。
白絹の両手が静かに伸びて来て、次の瞬間、頬を包まれた。
それから柔らかな唇が降りてきてリアンの涙を優しく拭う。
「貴女の怒った顔も困った顔も可愛い。
でも黄緑の瞳を伝う涙は格別です。
貴女はその泣き顔で何度も私の心臓を止めることができますよ」
そのままキリルはリアンを抱き締めた。
リアンの頭はキリルの胸に押し付けられる形になって
…それは彼女をとても安心させる。これ後どんな失敗をしても、
笑って乗り越えられると思うくらいに。
「貴女がいけないんですよ、リアン」
藍の瞳と黄緑の瞳が出会えば、キリルは人の悪い笑みを浮かべた。
やはりというべきか、朝方から公爵サマは静かに怒っていたのだ。
「貴女が私を放っておくから」
確かに、リアンもちょっぴりは悪いなと思っていた。
昨晩は“次代の王”としての顔を取り戻したキリルと別れてから早々に
自治省に戻り、当座の仕事を片付けるのに没頭した。
8人の秘書官が何故か魂を飛ばしたまま(次官が将来長官になる
衝撃から立ち直れないでいる)真夜中まで仕事を手伝ってくれたが、
それでも終わらない。“残業”と“泊まり込み”を極端に嫌うキリルが
迎えに来るなり小言を始めたが、
「でもそれ長官になってからの約束だから」と軽くかわし、
あまつさえ、未来の国王サマに空が白むまで手伝わせた。
更には、「少しでも休もう」という彼を邪険にして、
「ちょっと実家に帰ってきます」と言い放ったリアンであった。
キリルがむくれるのも無理はないのだが、リアンにも言い分はある。
婚約するというのに祖父にも叔父にもほとんど相談せず、
アギール家を空けたままにしていたのだ。
二人は、彼女の遺された数少ない身内、大事な大事な家族なのだ。
ことに息子を失って落胆しているであろう叔父にはできるだけ
寄り添ってあげたいと思うのに、それができないばかりか、逆に
迷惑をかけてしまった。
祖父と叔父が従弟の追放後も暫く国軍と内務省にそれぞれ留め
置かれていたのと知って、リアンは本当に申し訳なく思った。
「私に仕事して欲しいですか、リアン?」
キリルの問いにリアンはこくこくと頷いた。
「直前学習にも協力して欲しいですか、リアン?」
これにも黙って、首肯する。
別に“協力”してくれなくてもよいが、邪魔はしないで欲しい。
今、リアンが切実に欲しているのは読破のための24時間だ。
「賓客の応対に出て欲しいですか、リアン?」
なおも問いかけるキリルに対して自棄っぱちになって頭を振る。
国内外から祝賀のための使節が集ってきているのだ。
国王夫妻が盾になって守ってくれているとはいえ、
王太子本人が姿を見せぬなど、言語同断だ。
「…全く貴女は我が儘ですね」
キリルの指摘に、「それ、おかしいでしょ?」と反論したいのは
やまやまである。“我が儘”と言うけれど、その中身はキリルが
立場上やらなければならない事ばかりだ。
けれど…ここで正論を吐いても堂々巡りとなるだけである。
「いいでしょう。貴女の“我が儘”を叶えるために、
これから式典が終わるまで“次代の王”サマやって来ます」
その代わり、と条件提示が当然のように続く。
「夜はちゃんと睡眠を取ること。
目元に隅を作って披露式に出るつもりですか、貴女は。
それから私と一緒に休むこと。今晩も明晩もですよ?勝手に
自治省に泊まり込んだり、実家に帰ったりするのは禁止です。
それから残りの衣装は披露式が終わって落ち着いたら、
全部着て見せてくれること。いいですね?約束できますね?」
どちらが悪いと言えばキリルであることは確かなのに、
言い負かされ、不利な条件を飲まされ、
リアンはえぐえぐと子どものように泣き出した。
“王家の塔”での勝利(とリアンは思っていた)は束の間のことで、
再び主導権は公爵サマに移ってしまった気がする。
「それでは頑張って下さい、私の奥サマ。でも無理は禁物ですよ」
最後に涙顔のリアンに濃厚な接吻を見舞って次代のファネ国王は
足取り軽く部屋を後にした。
「みっともなく取り乱している場合ではありませんことよ」
苛立ちを込めた声が背後から響く。
先ほどまで二人の世界が展開していたが、
衣装合わせに使っていた大部屋には他にも人がいた。それも大勢。
「フッサール伯爵夫人…」
リアンは呆然と呟いた。振り向けばフローネが立っていて、
その後ろには王宮女官が3人と侍女が5人控えている。
それから衣装直しができるようにとお針子が3人、女性の細工師が
3人呼ばれていた。
つまり、衆目の中で先ほどの痴話喧嘩?が繰り広げられていて、
しかもリアンだけが取り残された。
「フローネ、どうしよう、このまま負けが続いたら」
キリルの言いなりになっていたら、王国が瓦解する。
リアンは彼の伴侶として、彼を支えるとともに、
時には対抗できる者にならなければいけないのに。
「何を馬鹿なことを言っていますの?
貴女には最強の切り札があるでしょうに」
「最強の切り札?」
リアンには見当が付かない。
「“もう結婚やめる”って言えば良いのです。
ちなみに結婚した後は“もう離婚する”と言えば。
大叔父が折れること請け合いですわ」
「伯爵夫人っ!」
その場に居合わせた、フローネとリアンを除く全員が一斉に
悲鳴を上げた。フローネが告げた“切り札”は確かに最強だが、
同時に最凶になりうる。
リアンが今後「婚約破棄」だの「離婚」だのを冗談でも口にした
場合、阿鼻叫喚の地獄が出現するのが目に見えるようだ。
そう想像できてしまえるくらい、誰の目にも公爵サマの熱愛ぶりは
激しかった。
「幾ら私でも今更、結婚止めるなんて言ったりしないわよ。
…でも正直、婚約披露式は延期はしたいわね」
「リアン様っ!」
またも一同の悲鳴が部屋にこだました。
*** *** *** *** ***
10の月9の日。立太式と婚約披露式前夜のこと。
「リアン、そろそろ日付が変わりますよ。いい加減、寝なさい」
「もうちょっとだけ」
もはや当たり前すぎて誰も指摘しないのだが、婚約披露式「前」に
二人は同じ寝台に入っていた。
上半身を起こしたまま、キリルはリアンを背中から抱き締めて、
金茶の髪に頬を埋めている。愛情表現あふれる公爵サマに対し、
リアンは『王家の婚姻・24時間生存法』から目を離さなかった。
最終章がまだまるまる残っているのだ。
「『もうちょと』はこれで3回目。
明日は早いのですから、これ以上はいけません」
キリルが本を取り上げようとするも、
リアンは素早く横を向いて逃れた。
「あとちょっとだから」
そのまま未来の夫を無視して、頁をめくる。
直ぐ傍に居て、触れているのに目も合わせてくれない。
そんなつれない態度に公爵サマが我慢できるはずはなかった。
「私は寝たいのですが…」
公爵サマの静かな怒りをリアンは別の方向に解釈した。
「あ、ごめん。疲れているのに邪魔しちゃって。
眩しくて眠れないよね。私、隣の部屋に行くから」
おやすみ~と本を片手に寝台を降りようとしたリアンを
キリルは慌てて引き留めた。
はしっと掴んだ手首を引き寄せ、唇を奪う。
相手が怯んだ隙に、本を抜き取り、床に放った。
「ひどいわ!折角、イルーネ様とフローネが作ってくれたのに」
「私は昨晩から母上にもフローネにも本にも嫉妬しているのですが」
昨晩は同じ寝室に居ても、ほとんど無視された。
しかもリアンはキリルの小言を聞き流し、ろくに眠っていなかった。
リアンの学習時間が激減したのは彼にも責任あることなので、
それでも一晩は我慢したが、今宵までは許容できない。
「目が真っ赤ですよ。どうするつもりですか」
えぐえぐ泣きやら睡眠不足やらで、兎の目になっており、しかも
擦ったせいで瞼も目尻も赤くなってしまっている。
「け、化粧で誤魔化すから大丈夫」
その回答はもちろん公爵サマを余計に怒らせるだけだった。
「いつまで意地を張るつもりですか。
私に頼むのがそれほど嫌ですか」
キリルの治癒能力をもってすればリアンの目を治すことは容易い。
けれどもリアンの許可なく力を振るわないと約束したので抑えていた。
いつ泣きついてくるかと密かに楽しみにしていたのだが
…結局、彼の方が我慢の限界だった。
「ほら、“お願い”とおっしゃい。一言で済むことですよ」
「イヤです」
「リアン!」
一体何が気に入らないんだと、こちらを向かせながら、二人して
寝台に倒れこんだ。
まさかこの後に及んで婚約を嫌がりだしたのかと思い、
不安と苛立ちから、ついつい指先に力が入ってしまう。
「キリルの力は本当に困った時に使うべきもので、
放っておいても治るような怪我や病気に使うべきじゃないわ」
その言葉は彼に頼ることを…彼を否定するかのようで、
キリルの顔は強張っていった。
「何故そう思うのですか?」
どんな答えが返ってきても彼女を逃がさぬように、
しっかり腕に包んでから尋ねる。
「何故って…人外の力は人の身に負担をかけると言うもの。
知らず知らずに寿命を削ることになっていたらどうするの?
キリルが私のせいで早死にするようなことになったら、
私はどうすれば良いのよ…」
怒涛の式典準備ですっかり涙腺が緩んでいるリアンはまたも
エグエグと泣き出した。
キリルは…腕の中の可愛いらしい生き物の存在に呆然とした。
最愛の女で唯一の女だ。
だからこそ、自分を頼って欲しかったし、もっと言うならば
自分に依存して欲しかった。
彼なしでは生きていられないくらいに溺れて欲しかった。
なぜなら彼がリアンに対してそうだからだ。
けれども今、彼を思うからこそ、彼に頼りたくないとリアンは言う。
そんな風に大切にされていることを、愛されていることを知らされて、
どう返していいか分からない。
「貴女はどうして…」
言葉が続かない。幸せ過ぎて泣きそうだ。
「キリル?」
言葉の代わりに唇を差し出す。左と右の瞼に当てて力を注ぎ込む。
「キリルっ!」
リアンの顔が泣き顔から怒り顔に変わる。
自分を思って、怒ってくれる。
本当に…愛しさが溢れてどうして良いか分からない。
「大丈夫ですよ、リアン。
私はたぶん長命ですから、多少削ったところで何ほどの
ことはありません。
披露式では世界で一番可愛い貴女を見せつけたいので…」
おやすみなさい…その言葉を最後にリアンの意識は途切れた。
キリルが彼女を抱き締めて、夢の世界に誘ったのだ。
*** *** *** *** ***
立太式のキリルは誰が見ても感嘆するほどに美しかった。
瞳の色と同じ藍色の古代風衣装を纏い、銀糸を織り込んだ肩布を掛け、
肩まである黒髪をこれも銀糸で束ねている。
国王から王太子の証である宝剣と額環を受け取り、身につけると
さながら神話の王が顕現したかのようであった。
リアンは未来の夫を一心に見つめていた。
立太式は婚約披露に先立って行われたので、リアンに特別な役は
なく、貴賓席で優雅に坐していれば良かった。
両脇をアギール伯爵とシャイン子爵に守られ安心してもいられた。
未来の夫に惚れ直し、ぼうっとしていても咎められなかった。
問題は婚約披露式である。
披露「宴」ではなく、「式」なのは、これが王家の厳粛な式典の
一つだからである。国王の前で宣誓し、神官長の前で宣誓し、
最後に国民の前で宣誓するのだが、その一つ一つに問答があり、
誓いの言葉も違う。これを誤ると…一巻の終わりである。
リアンは『王家の婚姻・24時間生存法』で絶対に落とせない
部分、落とすと目立つ部分を中心に学修した。
父王から一風変わった教育(山賊や海賊や魔女の中で生活など)を
施されたとはいえ、キリルは生まれながらの王子サマである。
全ての過程に余裕綽々であったが、リアンは全ての過程にハラハラ
ドキドキの連続であった。
完璧とは言えないが、何とか全てを達成した自分を褒め称えたい。
偽物の笑みは、“彩華の塔”で手を振る頃には本物の笑みに変わった。
立春祭の頃には想像もつかなかったことだ。
まさか自治省長官と次官が並んで国民に婚約の宣誓をし、一般参賀を
受けることになるとは。
締めくくりは婚約披露「宴」で、これは王家の公式行事に数えられず、
慣例により行われるもので、要は「式」の参列客に挨拶して回る
というものであるである。
参列客が多いため、王太子とその婚約者は別れて挨拶周りをすること
になる。こういう時、婚約者はやっかみを受けて狙われたりするもの
だが、リアンの左右はフッサール伯爵夫妻が固め、彼女を守ってくれていた。
二人に助けられながら、リアンは自分でも上手くやれたと思う。
フローネがあれこれ注文を付けて飾り立ててくれたお陰で、
(今日の私は、ちょっとは見られるんじゃない?)
という自信もあったから、笑顔で対応することができた。
それに、キリルが心配そうに何度も視線を投げてくるのが
分って心強かった。
さすが、というか、やはり、というべきか、男女を分けて挨拶して
いる訳ではないのに、王太子の周りには若い令嬢ばかりが集まった。
真実なのか嘘なのか不明だが、キリルにしてみれば笑顔の
大盤振る舞いだ。傍から見ていてモテモテなのがよく分かる。
対抗するつもりはないのだが、未来の王太子妃として、リアンも
極上の笑みを作って、こちらは老若男女問わず対応した。
参列客は多く、挨拶周りは夜遅くまで続くかと思われたが…
意外に早く終わってしまった。
王太子が婚約者となった令嬢を抱き上げ、早々に退出してしまった
からである。
それは参列客に対してかろうじて失礼にならない、ギリギリの線であった。
「ええっ、ちょっと、キ、殿下」
「キリルでいい。誰も聞いていない」
「こんなに早く出てしまっていいの?皆さまに失礼では?」
「あれだけ回れば十分です。もう我慢できません。貴女は酷い」
「え?私、何か間違った?」
所詮は付け焼刃。
本人の知らぬところで失敗があったのかもしれない。
「何であれほど、惜しげもなく笑顔を振りまくのです?
広間中の参列客を魅了するつもりですか?
あれだけ可愛くて、明るくて、親しげな態度ができるなら、
普段の私にもそうしてください」
どうやら…一生懸命愛想良くしたのが裏目に出たらしい。
公爵サマ、いや、王太子サマが面倒くさい人物であることを
リアンは思い出した。
「全然嫉妬もしてもくれないし」
若い令嬢たちに、にこやかに対応していたのも単に王太子として
歓待していたためではなかったらしい。
「それにリアン、私は怒っているのですよ。
痛いなら痛いと言えば良いものを。無理をして」
リアンが両足とも靴ずれを作ったことがバレたらしい。
先が細く、踵の高い靴などトンとご無沙汰だったのだ。
おまけに、姫君の正式な衣装というものは、
重い、動きにくい、歩きにくい、の3重苦である。
キリルが抱き上げてくれて、正直リアンはほっとした。
怒涛のような3日間の疲労が押し寄せて、羞恥心をどこかに
置き忘れていた。
「キリル…王になるのですね」
「随分先のことですがね、いずれは」
王太子の胸に身をゆだねて、しばしリアンは昔日に思いをはせた。
「ユランサ王」
「リアン、その名を…」
覚えていてくれたのですか。
キリルの歩みが止まった。二人の視線が絡み合う
。
生まれると同時に封じられた名前を、彼は確かに彼女に告げていた。
自分の唯一に初めて会ったその日に。
少年のような少女に会ったその日に。
「貴方ときたら、そんな大事な名前を初対面の子どもに」
彼があの時の彼だと思い至ったのは最近のこと。
そうして告げられた名が、真実だと知ったのも。
「初対面の子どもなのに、持っていて欲しいと思ったのです」
「貴方がユランサ王を名乗る時は、私も王妃として隣に立つ
覚悟です」
「キリルの名も、ユランサの名も貴女に捧げています、リアン」
どちらからともなく唇が近づき、深く重なった。
ユランサ。
イランサ王とイルーネ妃により一度は封じられた王の名が、
ここに甦る。愛しき女、唯一の女の召喚によって。
ということで「ユランサ」出てきました!
さて、次回「自治省の鴛鴦夫婦 その2」
また王弟ベリルがちょっかい出してきますよ~。
それから、リアン、幽霊に会います。
『自治省の悪臣』は怪奇ものではありませんが、
一人だけ幽霊が出てきます。誰だか見当がつきますか?
この御方、とある方に憑いております。