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自治省の悪臣  作者: 雪 柳
39/52

第九章 自治省の悪臣 その6

「その6」になってしまいましたが…ようやく「第九章」のメインテーマが

書けました。これまでに投下したものを、そろそろ回収していかないと

最終章がまとまらなくなるので、せっせと書いていたら、意外に長くなって

しまいました。リアン&キリルだけでなく、あの人もあの人も幸せになれる

といいな、というのが本篇です。お付き合いいただけると幸いです。

嵐の後には穏やかな朝が訪れる。慈愛に充ち充ちた柔らかな光が

天から降り注ぎ、硝子窓を透過して部屋に射し込む。

小鳥の(さえず)りが優しく眠れる者を揺り起こす。

藍色の双眸がゆっくりと開き、無意識の内に白絹の手を伸ばした。

愛しい(ひと)(ぬく)もりを探す。


「リアン?」

第一声がこれである。けれども求めた感触は得られなかった。

慌てて上体を起こし、周囲を見回したが、彼女の気配はない。

ただ自分だけが王宮内に許された居室に寝かされていたのを知る。


「目が覚めた?」

「母上?」

寝台に歩み寄って来たのは、王家最長老、太王太后イルーネであった。


「キリル、本当に困った子」

イルーネは、息子の黒髪についた寝癖を優しく整えながら、苦笑した。

「リアンは?」

母親の心配もそっちのけで、ミルケーネ公爵は尋ねた。

「陛下への目通りが叶って、先ほど出かけたわ」


(陛下に?リアンが会う…)

爽やかな目覚めはどこへやら、不安と焦燥が大波のように寄せて来る。


(王太子妃でも王妃でもなってやろうじゃないの!)

リアンの声が耳に残る。彼女は確かに妃になるのを承諾してくれた。

そんな彼女に触れて、抱き締めて、口付けて…その存在を確かめた。


けれども、全ては都合の良い夢だったのではないかと疑ってしまう。


あの人は真実(ほんとう)に、自分を愛してくれるのだろうか?

国王となる自分の側に生涯居てくれるのだろうか?


「リアンなら直ぐに帰ってくると…お待ちなさい、キリルっ!」

気がつくと彼は走り出していた。母の制止も聞こえない。


リアンが陛下に会いに行った。

彼女は何を告げるのだろうか?


夜着のまま、慌てて突っかけた室内履きに足を取られそうになりながら、

ミルケーネ公爵は王宮の長い回廊を一人走り抜けた。


*** *** *** *** *** 


“玉座の間”からほど近い国王の執務室。

そこには、国王夫妻と宰相がアギール伯爵令嬢を待ち受けていた。


意識を失ったミルケーネ公爵をフッサール伯爵やヴァンサラン補佐官の

助けを借りて王宮に運び入れたのは日付の変わった深夜であった。

リアン自身も疲労困憊でそのまま王宮内の客室に身を休めた。

彼女の場合、“王家の塔”に“籠城”中は比較的体力温存に努めていたので、

回復が早く、キリルより先に目覚めると、それからは元気に活動した。


まずは入浴で丹念にここ数日の汚れを洗い流し(乙女心が漸く回復した)、

その後は朝食とも昼食とも言えぬ食事をしっかりと腹に入れた。

そうして身綺麗にし、栄養を摂ってからキリルの様子を見守っていたの

だが、彼が目覚める前に、国王から伝令が来てしまった。


折り良く、()()()()が息子の様子を見に訪れたので、恐れ多いことながら

彼女に任せることにして、ソランサ王に会うために出掛けたのだった。


よもや…自分の後を血相変えてキリルが追いかけて来るとは思わずに。


「それで、心は定まったか、アギールの娘?」

対面するなり、王はリアンに問うた。

執務机に両肘を付き、顎の前で両手を組んでいる

…見ようによっては、まるで祈っているかのようでもあった。


「そう簡単には定まりません。今でも…これが正しい選択なのかと、

 迷う気持ちはあります」

リアンは包み隠さず自分の気持ちを語ろうと決めていた。

そうすることが、王や王妃に対する誠意の証だと信じて。


「私は王家に入ることも、王妃になることも望んでいません」

その時、背後で大きな物音がした。

振り返ると、彼女の長官が凍ったように立ちつくしている。

その藍の瞳は絶望の色に染まっていた。


「キリル、そなた…」

ソランサ王は、自分の叔父が狂ってしまったのではないかと思った。

腰紐を緩く結んだだけの夜着のまま、布張りの室内履きで現れた公爵。

およそ国王に拝謁する姿ではなく…挨拶もろくにできない状態らしい。


慌てて、リアンはキリルの元に歩み寄ると、その冷たくなった手を取った。

そうして安心させるように心を込めて口付ける。

言葉を発することができなくなっている彼と手を繋ぎ、彼女は再び国王に

向き合った。


「私が欲しいのはこの人だけです」

黄緑(ペリドット)の瞳が挑むかのように、ソランサ王を見つめていた。

公爵は、彼女の言葉を聞くや、繋いだ手を引き寄せて、

自分の“最愛で”“唯一の”姫を背後から抱き締めた。

力加減を忘れているのか、リアンの腰囲(ウエスト)はキリルの両腕によって

通常よりもかなり細く引き締まることになった。


改めて確認するまでもないが、二人きりではない。

王も王妃も宰相も二人の眼前に居るのである。

それでもキリルはリアンへの愛情表現を抑えることができないらしく、

また、抑える気もないらしい。


「キリルが王になると決めたので…甚だ不本意なのですが、

 王国で最凶の(くじ) を引いてしまったような気がするのですが、

 お妃の件、お引き受けいたします。

 この人と一緒に歩んで行きたいと思うのです。

 …最後の息を引き取る、その時まで」

要約すると“キリルが欲しいので、仕方なくお妃を引き受ける”である。

王と王妃に対し無礼千万の物言いであるが、ソランサは咎め立てしなかった。


この頃には、国王とアギール伯爵令嬢の間に一種の共感の念が湧いていた。

リアンはソランサ王を深く尊敬するようになる。

祖父(イランサ)(キランサ)叔父(キリル)(リウカ)(ベリル)

個性的過ぎる身内に囲まれ苦労の連続であったはずだ。

先ごろは一人娘(マリンカ)に駆け落ちされ、永久追放を宣言せざるをえなかった。


けっして煌びやかな王でも、英雄的な王でもない。

けれども堅実に、そして真摯に王国と王国の民を守っている王だ。

自然と頭が下がる。この王に仕えたいと思う。


他方、ソランサ王は、リアンが王太子妃として、将来には王妃として背負う

であろう苦労を慮って、できるだけのことをしてやりたいと考えていた。

何となれば、彼女の代わりはいないのだ。彼女が音を上げて「もう止める」

と言ったところで、キリルは離婚も他の女との再婚も承知しないだろう。

リアンに去られた時点で、王太子は正気を失うだろうし、そうなると

あっという間にファネ王国は衰亡してしまうだろう

…そう本気で考えている。


「一度引き受けたら、返品は聞かないので、そのつもりで」

ついつい王はリアンに念押ししてしまう。


“返品”が王太子なのか妃の位なのか定かでないまま、リアンここぞとばかり

交渉に乗り出した。この数日、考えていたことを口にする。

“王家の塔”に籠城中、“万が一”妃になるとしたら、と考えていたことを。


「お引き受けするにあたって、少々お願いしたい事があるのです」

“お願い”と言いながら、その意味するところは

“妃になる代わりにこちらの言う条件を飲んでくれ”である。


「申してみよ」

ソランサの口元が自然と綻んだ。

大胆不敵な娘である。国王を見据え、公爵を背後霊にしたまま、

怯まず、動じず、己が願いを口にする。


黄緑(ペリドット)の双眸は生気に溢れ、勝気な笑みを浮かべて胸を張るその姿は

国王でさえも息を飲むほどに美しい。

“アギールの娘”。

その輝かしい魅力にこれから多くの者が惹かれることになるだろう。


リアンは右手を国王に向かって差し出した。


「陛下、お願いにございます。自治省を私に下さい」


その場に居た誰も…その“願い”であり“交換条件”を予想しなかった。


「自治省か?」

「リアン?」

前から国王が、後ろからキリルが問い返す。

リアンは肯定の意味で大きく頷いてみせた。


「ミルケーネ公爵が王太子に立ちますと、もはや自治省長官職の兼任は

 適いますまい。繰り上がりまして、私を自治省長官にしてください」

「しかし、そなたも来年早々には王太子妃になるのだぞ?」

「王太子は宰相位の兼任になることが多いと聞きましたので、

 私も王太子妃と自治省長官職を兼任してもおかしくはないかと」

むむむ、と王と公爵は同時に額に縦皺を作った。

おかしくはないかもしれないが

…いや、やはりおかしいだろう、前例がない。


「陛下はたいそう開明的な君主であられるとお伺いしております。

 女性が大臣職に就く道も拓いていただければ、有り難く存じます。

 …というのは建前で、私自身が行政に携わってゆきたいのです。

 もちろん妃としての勉強も仕事も疎かにはいたしません」

宜しくお願いしますと頭を下げた背中にキリルの体重が掛かってくる。


「リアン、貴女がお仕事大好き人間なのは良く知っているつもりですか。

 …時々、本気で自治省に嫉妬します」

「結婚しても、自治省の仕事は続けて良いって言ってくれましたよね?」

「…私の奥さんは交渉事が上手ですね」

小さな吐息がリアンの頬にかかった。


「良いのか?キリル」

ソランサ王は伯爵令嬢に貼りついたままの公爵に確認を取った。

「仕方ありません。この条件を飲まないと嫁に来てくれそうにないし。

 その代わり残業はなし。泊まり込みなどもってのほか、いいですね?」

リアンは不承不承肯く“フリ”をした。

内心では残業も泊まり込みも、地方視察もやる気満々である。


当たり前ではないか。

積み重ねてゆくべき経歴(キャリア)をすっとばして長官になろうというのだ。

誰よりも働き、誰よりも結果を出さなければ認めてもらえない。


けれど…その辺りの“交渉”はまた別の機会にする。

キリルだって王太子になるのだ。忙しくてリアンを構えない時もあるだろう。

そういう時を狙って、残業したり泊まり込みしたりすれば良いだけの話だ。


「では次の自治省長官はリアンということで、話を進めよう。

 しかし、私としては二人になるべく早く位を譲って、気楽な隠居生活に

 入りたいのだがな。イランサ王にあやかり、温泉旅行にも行ってみたい」


「何を仰せですか陛下!」

リアンがすぐさま抗議した。

「王様稼業に定年はありません!あと20年は頑張ってください!」


王様稼業って、定年って…あまりの言われように国王は呆然とした。

「リアンは酷い…」

「酷くありません!即席で王太子妃や王妃になれるわけありません!

 王国の安寧のため、どうかどうか末長く玉座にお留まり下さい」


そうして、キリルの在位期間を少しでも短くして欲しい。

つまりは、自分の王妃としての在位期間も少しでも短くして欲しい。


「温泉旅行…」

なぜかソランサ王が温泉にこだわって、なおもブツブツ呟くので、

リアンは少しばかり譲歩することにした。

「陛下が年に1、2回はお出かけになれるよう、政務に努めます。

 ですから、退位はお考えにならないで下さい」

「うむ。年に3回行けるのであれば、手を打とう…当面は」

国王もなかなか強かに交渉してくる。

リアンは背後のキリルに「どうする?」という視線を投げた。

「そういう時はね、リアン。では、年に2、3回と言って

 双方勝ちにするものです」

「なるほど」

こうして、新・自治省長官の選任と国王ソランサの在位、

そして彼の温泉旅行に関する取り決めが密かに行われた。


リアンは入室以来、王妃シャララが一言も話さないことに気がついていた。

そして王が退位と温泉旅行を持ち出した時、ひどく寂しげであったことも。


(王家の人たちって、なんだかねぇ…)

キリルも、フローネもだが、王家の血を引く者は、ちょっと愛情表現が

…間違っているとは敢えて言わないが、ズレていることがあるのではと思う。

互いを必要としながら、肝心なことがなかなか伝わっていない。


リアンは黙っておれず、余計な口出しをついつい始めてしまった。

「ところで陛下、年に1、2回の温泉旅行ですが、お一人で行かれる

 おつもりですか?」

「うむ、年に2、3回の温泉旅行だが、一人とは?」

リアンがわざと間違えたところを、しっかり訂正して問い返してくる。


「王妃様はご一緒にはいらっしゃらないのですか?」

「もちろん一緒に行くに決まっている」


「え?」

ソランサ王が断言した直ぐ横で、シャララ妃が驚きの声を上げる。

「え?」

その声に、ソランサ王も驚いてしまう。


「…わたくしもお連れくださるのですか?」

「…余が一人で行ってどうするのだ?そなたは行かないつもりだったのか?

 王都に留まる方が良いのか?温泉は嫌いか?」

ここでようやく、温泉旅行をめぐる意思疎通ができていなかったことに

王は気づいた。ソランサは、妃に寛げる場所と時間を少しでも提供できれば、

とずっと願っていたのであるが。


「ご無礼をお許しくださいませ。けれども、王妃様はご自分が、陛下の

 “最愛”かつ“唯一”の御方だとご自覚がないご様子。

 …これは陛下にも落ち度があるのではございますまいか?」


どこぞの伯爵は夫人から離婚を切り出されるのが怖くて6年近くも逃げ回って

いたと聞く。上には上がと言っては申し訳ないが、20年近く連れ添っていて、

真実の愛が伝わっていないという国王夫妻もどうなのか。じれったすぎる。


王と王妃が互いをじっと見つめ合っているので、リアンは退出時と心得た。


けれども、もう一人、やはり入室してから一度も口を開かない人物がいた。

王の片腕、叔父クロンの上司、「宰相」と呼ばれる老翁である。


「宰相閣下」

リアンは、祖父ハリドから宰相の、今では白く薄くなった髪が昔は金茶色を

していたことを聞いていた。


「何ですか」

宰相はリアンから話しかけられて驚いているかのようだった。


「キリルが王太子になり、フッサール伯が内務省長官になったら、少しは

 お時間に余裕ができますか?」

「少しどころか…引退して、たっぷり自由時間ができますよ」

「それでは、その自由時間を少しだけ私に割いていただけないですか。

 私に…政務を教えて欲しいのです」


引退した宰相が王太子妃の顧問につく。

それは経験不足のリアンにとって願ってもないことであった。


宰相はしばし無言となった。その表情からは何も読み取ることができない。

王と王妃も二人のロマンスをしばし中断して、宰相を見守った。


「どの位、割けば良いのですか?」

「週3日、一日3時間位、お願いできると有り難いです!」

リアンはすかさず飛びついた。良き師匠を得るために必死である。


「私の名前はレナイドと言います」

唐突に、誰からも「宰相」と呼ばれ、誰にも名乗らなかった男が

未来の王妃を前にして己の名を告げた。


「はい、レナイド先生、よろしくお願いします!」

リアンは元気よくお辞儀をした。

またも背中にへばり付いたままでいる男の体重が圧し掛かってくる。

キリルは面白くなさそうにしていたが、反論はしなかった。

王太子妃に、王妃に加え、宰相の後見が付けば安心なのも確かだからだ。


「せ、先生はよしなさい」

宰相は盛大に照れた。

それまでの無表情がうって変って人間らしさを取り戻す。


「では、どのようにお呼びすれば?」

「そうですね…貴女の祖父殿と同じ世代なので、よろしければ“大伯父”と」

「レナイド大伯父様?よろしくご指導くださいませ」

もう一度リアンは頭を下げた。

「わ、わかりました。直ぐには難しいかもしれませんが、

 宰相を退きましたら貴女の勉強を見てさしあげましょう」

ひどく動揺した様子で、レナイドは片手で口元を覆っていた。


そこでアギールの娘はミルケーネ公爵を背中に貼り付けたまま、

もう一度国王夫妻に礼をして部屋を出て行った。

自分が王と王妃と宰相をこの上なく幸福にしたことに気づかぬまま。


「大伯父様だと?こいつめ、ちゃっかり美味しい所を持って行ったな」

三人になると国王が早速、宰相を茶化した。

「…ということで、一刻も早く宰相を辞めたいのですが」

レナイドは大真面目に願い出た。

誰にも憚ることなくリアンに会える。

それも週に3回も会える。それも3時間も一緒に居られる。

そして“レナイド大伯父様”と呼んでもらえる!

はっきり言って、良い歳をした爺さんが有頂天になっていた。


宰相の仕事はキリルに任せ…これについては全く良心が痛まない。

今まで散々彼の仕事を片替わりしてきたのだ。

それから内務省長官の仕事はレムルに任せ…これは最近極端に残業を嫌う

ようになったフッサール伯爵には申し訳ないが、頑張ってもらうしかない。


そして自分は夢にまで見た引退生活、それもリアンに会える生活!

王と王妃がいなければ、彼はこの場で踊り出していただろう。


某子爵家に養女に出したため、表向きの繋がりは断たれたが、

レナイドの妹メルルはアギール伯爵ハリドに嫁いでいた。

つまり宰相は本当にリアンの大伯父にあたるわけである。


愛する妹の孫にあたるリアンを彼は遠くから見守ってきたが

…これからは大手を振って近づくことができる。

愛する妹を奪ったハリドに良く似たクロンやイェイルは可愛くないが、

愛する妹によく似たリアンは特別である。


「良かったな、レナイド。ところで…」

「は、申し訳ありませぬ。わたくしめはこれにて退出いたします。

 人払いをしておきますので…ごゆっくりどうぞ」

宰相は王と王妃に意味深なことを述べると、素早く執務室から消えた。

その後、ソランサ王とシャララ王妃が今まで以上に仲睦まじくなったのは

言うまでもない。


*** *** *** *** *** 


「あの、長官、いい加減、重いのですが…」

王宮の長い廊下を背中に怪しい物体を貼り付けたまま、リアンは歩いていた。

王家の私的(プライベート)空間(スペース)であり、ごく限られた者の立ち入りしか

許されないとはいえ、人目はやはりある。


かれこれお昼近いにもかかわらず、夜着姿の公爵が、さながらおんぶお化けの

ようになっている様子は…彼の立太式のために身を粉にして働いている者から

してみれば、実に「あんぐり」、続いて「がっくり」という光景であった。

ミルケーネ公爵がアギール伯爵令嬢を熱愛しているという“真実”は既に

王都中を駆け巡っていて、王宮王府の人間は未来の王太子の逆鱗に触れぬよう

未来の王太子妃に関わることに神経を尖らせている。


「目覚めた時、貴女がいないのがいけない」

何とかキリルを元いた居室まで連れ戻した。

太王太后は既に帰ってしまっていて、リアンはがっくりしてしまった。

早くキリルを置いて、次の行動に移りたい。

内心、ハラハラしているのだ。


いざ王太子妃となる決心をすると

…婚約披露式まで3日を切った!という現実が重い。重すぎる。


ファネ王国史上一番お妃修行をして「いない」令嬢なのは確実で、

『王家の婚姻・七日間必勝法』ですらロクに目を通してしない。

ここはもう、太王太后イルーネを拝み倒し、フッサール伯爵夫人フローネに

泣きついて何とか体裁だけはとり繕わねばならなかった。


「ごめんね、キリル。式典準備サボっていた分頑張るからそろそろ行くね」

リアンはできる限り可愛らしく謝って部屋を出ようとした。

自分もだが、王太子になるキリルはもっと忙しい身の上に違いない。

「嫌です」

しかし、がっちり羽交い締めにされて動けない。そのまま寝台まで直行された。

「ちょ、真っ昼間から何しているの!

 キリル、時間がないのは分かっているでしょ。あ、だめっ」

襟元から白絹の手が差し込まれて、リアンは身体を熱くした。

嫌なわけではない。だからこそ、すごく困る。困ってしまう。


「何日貴女に触れていなかったと思うのです。少しだけ…許して下さい」

心情的には許したい。しかし常識的にはダメだろう、これは!


「自治省長官の件は了解しました。国王夫妻のご旅行も承認しました。

 宰相殿の指導も黙認しました」

だから少しくらいは自分にも、ということらしい。

王の御前で彼にしては大人しいと思っていたが、こういう魂胆があったのか。

リアンは全身で彼の重みを受け止めながら、何とか逃れる口実を探した。


そして…その口実は向こうからやって来た。


「お邪魔しましたか?」

入ってきたのはフッサール伯爵レムルであった。


「今、邪魔シタラ殺ス」

20年来の守役にキリルは掛け値なしの本気をぶつけた。

反対にリアンは助けを求める視線を投げた。

今、ミルケーネ公爵を説得できるのはレムル次官しかいない。


「…分かりました。夕方また来ます」

しかし、彼はリアンの期待を見事に裏切った。


「え?あの、レムル次官?」

待って下さい、置いて行かないで~と涙目で訴えるも、

視線を合わせもらえなかった。“王家の塔”での協力関係は解消され、

フッサール伯爵の忠誠は本来の(あるじ)のもとへ戻ってしまったらしい。


この時のレムルであるが、下手に邪魔だてすれば己が生命が危ないことを

知っていた。彼は、ここ数日、アギール伯爵令嬢に触れるはおろか姿を

見ることも叶わなかった公爵がいかに煩悶していたかを知っている。

男としても(あるじ)の気持ちが痛いほど理解できるだけに、ここはリアンに

泣いてもらうことにしたのだった。


「キリル、もう昼よ。着替えましょう。食事もしましょう。

 あの、それは、よ、夜まで待って!」

フッサール伯爵が退出してからも無駄な抵抗を試みるリアンである。


「夜まで待てません。この激しい飢餓は貴女を食べなければ充たされない」

肌を合わせれば、リアンの身体が溶けてゆき、本気で嫌がっているわけ

ではないことが相手にも知られてしまう。

唇を封じられて、それ以上の抗議はできなくて…そう自分に言い訳しつつ、

リアンはキリルを包んで溺れていった。


夕刻になり、再訪したフッサール伯爵が見たものは、リアンに髪を

梳いてもらい、瑠璃色の組紐で結わってもらって嬉しそうにしている

公爵サマの姿だった。

その後、公爵サマは更に駄々をこね、リアンに銀の匙でお粥を

食べさせてもらって、ようやく“次代の王”としての顔を甦らせた。


キリルに仕事をしてもらうには、彼の我儘に付き合うのが結局は近道と

悟ったリアンは、公爵サマの完全復活を見届けてから、

ヴァンサラン補佐官を伴い、バタバタと自治省に向かったのであった。


*** *** *** *** *** 


「皆様ご面倒をおかけしました」


旧カリン宮にて、退勤間際の次官付き秘書官8人を掴まえて、

リアンは改めて謝罪と感謝を述べた。


忙しい中にも皆の顔がニコニコと明るい。


それも当然で自治省の安寧、という建前の自分たちの平穏が帰ってきたからだ。


長官が王太子になる。めでたい。

そして自分たちの長官ではなくなる。更にめでたい!

次官が長官と結婚する。スバらしい。

そして王太子妃になって、自分たちの次官ではなくなる。更にスバらしい!

それを思えば、立太式や婚約披露式の忙しさなど何ほどのことはなかった。


しかし…。

「これからも宜しくお願いします」とリアンが重ねて頭を下げた時、

彼らの夢見た幸せな未来は…儚くも消え失せた。


次官曰く、ミルケーネ公爵が王太子となり、自治省を退いた後は、

自分が長官となること。

経験不足は否めないので、師匠として引退した宰相を招くこと。

王太子妃である間は自治省長官としての仕事を続けること。


そんなリアンの未来計画を秘書官たちは魂の抜けた表情で聞いていた。

アギール伯爵令嬢が長官になること自体を悪いとは言わない。

彼女は誰よりも仕事熱心だし、隠れた不正を暴く能力もある。


しかし…王太子妃が自治省に留まる以上、王太子も洩れなく付いてくる。

キリルが長官を辞めたとて、リアンのために頻繁に顔を出すのは確実だ。

そして、なぜかリアンを“気に入っている”ワグナ殿下が今まで以上に

出向いて来るのも確実である。更に更に、引退した宰相がこれに加わる。

要するに、三勢力が王太子妃の元に集ってくるわけで

…厄介は何倍増しになるのだろう。


ヴァンサラン補佐官だけが、

「ま、いいんじゃね?今更、余所から下手な長官が後任に就くよりも」

と秘書官たちに変な慰め方をしていた。


ミシェラは涙を飲んだ。このほど4番目の子ども…次女を授かった男爵は

一家の大黒柱として自治省を首になるわけにはいかない。

(お父さんは負けない)と内心で決意を新たにした。


モムルは内務省を辞めてリアン付きの侍従に志願するつもりであったが、

自治省次官の職位(ポスト)を狙うのも悪くないと悩み始めた。

8人の秘書官の中で好敵手(ライヴァル)の名乗りを挙げる者は…恐らくいない。

むしろ皆から感謝されるだろう。ここで恩を売っておくのも悪くない。


そうして、ファネ王国にはまもなく初の女性長官が誕生することになる。

聖王家の血を引く公爵を骨抜きにし、国軍大将に己が命を守らせ、

国王の信頼を得、王妃と宰相を後見にした“アギールの娘”。


後に“男女同権”だの“言論の自由”だの“法による裁判”だの、

およそ専制君主を戴くファネ王国にそぐわぬ戯言(たわごと)を唱えるようになる

“自治省の悪臣”がここに誕生する。


さて、相変わらず…困った長官です。

これがもうすぐ王太子、そして将来国王ですよ?

何と彼は今回、「このまま、婚約発表までお預けなんて許しませんよ~」と

作者を脅して首を絞めたのです。そんなんで「リアンを食べる」が挿入され

てしまいました。


宰相殿の名前もようやく出てきました。彼の心情的に「身内」と言えるのは

もうリアンだけなので、本当に良かったです。


王と王妃も愛娘を失いましたが…雨降って地固まる?という感じでしょうか。


さて、第九章が終わりました!

残すところ最終章「自治省の鴛鴦夫婦」のみとなりました。

あと一回、大きな山があります。



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