第九章 自治省の悪臣 その2
騎士イェイルと王女マリンカの未成年カップル。
ついに駆け落ちしました。
まぁ、するだろうな、と予想していた方も多かったでしょうか。
二人を追うはベリル率いる国軍とキリル率いる内務省諜報部隊。
さて、この恋の行く末は?リアンができることはあるのでしょうか?
近衛騎士イェイルと王女マリンカの駆け落ち。
アギール伯爵家令息クロスとフェヌイ子爵令嬢ミアンが
巻き起こした“世紀のロマンス”から28年。
同じ駆け落ちながら決定的に違うのは身分の差だ。
クロスとミアンの場合は貴族同士の幼馴染みであった。
横槍を入れてきたのは王家の方だ。
しかし、イェイルとマリンカは違う。
一介の騎士と世継の王女。
これが世継の王子と騎士の娘というならまだしも可能性があった。
現王ソランサは貴族と平民の垣根を取り払おうとしているし、
その中間に位置する騎士身分(一代貴族となる)を重用している。
あるいは昔ながらの方法で、平民出身の女性の場合、一旦どこかの
名門貴族の養女という体裁を整え、そこから嫁ぐという方法もある。
しかし、いかに開明的なソランサ王とて世継の王女の相手として
イェイルを認めることはできなかった。
「キリル…」
官用車を使って、二人は王府まで一緒に戻ってきた。
これからリアンは旧カリン宮で「自主待機」、キリルは
内務省長官として王宮に赴くことになる。
リアンは無意識の内に長官の袖を握りしめていた。
何か言わなければならないと思うのに、何を言ったら良いのか分からない。
イェイルとマリンカが心配。
それは本当だ。特に従弟の身が気にかかる。
陛下がどのような命令を出すかによるが、最悪は、捕縛と同時に殺される。
王女を拐かしたと看做されれば、即刻死刑だ。
弁明の機会は与えられないだろう。
「忌々しいな」
長官はリアンを抱き寄せながら、小さく舌打ちした。
「よりにもよって貴女の誕生日にこんな騒動を起こすなんて。
あまりに腹が立って、二人を捕まえても、
まとめてあの世送りにしてしまいそうですよ」
どうやら恋人との初・逢瀬を邪魔されて、すっかりつむじを
曲げてしまったらしい。
しかし、長官の気分でうっかり大事な従弟を消されてはたまらない。
「二人を捕まえるつもりですか?」
「陛下がそうお命じになるならば」
できるものならば…リアンは、二人には無事逃げ延びてほしかった。
けれども、それをキリルには頼めない。内務省長官である彼には。
「生きたまま捕まえて下さいと、お願いしても良いですか?」
息子を喪った祖父の哀しみを知っている。
叔父にはそんな辛い哀しみを味あわせたくない。
「…貴女がそう望むならば。けれどもリアン、
それがイェイルにとって最善とは限りませんよ?
命拾いしたとしても、近衛騎士には戻れない。
自分の愛した王女が他の男を夫とし、その男の子を産むのを、
指を加えて見ているしかない。
それくらいなら、王女の目の前で死んでしまった方が
ましかもしれませんよ?
王女は一生彼を忘れることができないでしょうから」
キリルはそれ以上言わなかったが、イェイルが死ねば
…王女の立場も少しは回復する。
世継の姫としての責任を放棄し、騎士と逃げた王女は国民の顰蹙を
買うだろう。しかし、愛する騎士が処刑されたとなれば、
今度は国民の同情をかうことができる。
いずれにせよ…騎士の命は軽視される。
「さて、私は王宮に参ります。
貴女がこの駆け落ち騒動に何ら関与していないことは、
私が一番分かっていますが、自治省を出ないで下さい。
イェイルの縁者だとバレていますから、くれぐれも行動は慎重に。
良い子で居て下さいよ、リアン」
最後は頭を撫でられて、子ども扱いされる。
「あの、キリル…」
踵を返そうとした長官を呼び止める。
キリルは尚もリアンからイェイルの助命嘆願を聞くことになると
予想して気色ばんだ。狭量と思われようが、リアンが他の男のために
一生懸命になる姿を見るのは嫌だった。
例え相手が恋愛対象外の身内だとしても。
ところがリアンの発した言葉は全く予想外のものだった。
「気をつけて、キリル。
怪我をしないで、早く帰ってきて下さい…行ってらっしゃい」
最後の“行ってらっしゃい”を言う頃には蚊の鳴くような声で、
首まで赤くなっている。
そのまま後ろを向いて行ってしまおうとするので、堪えられず、
キリルは追いかけて背中から抱き締めた。
「全く貴女という人は…」
自分を心配してしてくれる心遣いが嬉しい。
早く帰ってきてと願ってくれるのが楽しい。
「今日ほど仕事に出かけたくないと思った日はありません」
「い痛たたっ…長官、何か背骨に食い込んで痛いのですが」
しまった。またも力加減を間違えてしまった。
気をつけてはいるつもりだが、あまりにリアンが愛しすぎて、
キリルは時々、我を忘れてしまう。
それともう一つ。
“三匹の子羊亭”で渡しそびれた物があることを思い出した。
「これを貴女に。前のものを失くしてしまって、
気落ちしていたとシェリアから聞いたので」
「何ですか?」
包んであるので中身が分からない。
「後で開けてみて下さい。気に入っていただけると良いのですが
…行ってきます」
口付け一つを額に残し、今度こそキリルは王宮へと向かった。
「熱々(ラブラブ)ですね」
後ろを歩くヴァンサランが主を冷やかした。
もちろん彼は長官と次官のやり取りをずっと…見せつけられていた。
甘過ぎて砂を吐きたい気持ちだ。
「よくも邪魔してくれたな」
キリルはまだ怒りを鎮めていなかった。
「すいませんねぇ」
「極秘に捜索隊は出しているのだろう?何か手掛かり?」
「今のところはまだ。 イェイルは若いが、なかなか頭の切れるヤツです。
そう直ぐには捕まらないでしょう」
ワグナ殿下からは苛められつつも鍛えられ、騎士団長の覚えはよく、
優秀な若者であった。ヴァンサラン自身も目をかけていたのに。
「王都を出る前に何としても捕まえろ。箝口令をしき、
王女の駆け落ちは“なかったこと”にする」
「畏まりました」
キリルがそうくるだろうとヴァンサランは予測していた。
「まったくお子さま達が困ったことをしてくれる」
公爵サマにとって若い二人の行く末なぞ、どうでも良かった。
が、さすがに主君の姫君だけに放置はできない。
イェイルについては、リアンに泣かれたくないので、
これも命「だけ」は何とかしてやるつもりではいる。
「遅参しまして申し訳ありません」
迷惑顔を努めて出さぬようにしながら、キリルは王の御前で頭を垂れた。
*** *** *** *** ***
翌日も翌々日も自治省長官は旧カリン宮に戻って来なかった。
ヴァンサランだけが、内務省と自治省を行ったり来たりして
状況を教えてくれる。
王女マリンカと駆け落ちした騎士イェイルは正式には“アギール”を
名乗っていなかったが、現当主ハリドの孫であり、
ハリドの次子クロンの息子であることは広く知られていた。
このため、駆け落ち騒動が持ち上がるや、事情聴取と逃亡幇助防止のため、
アギール伯爵とシャイン子爵は拘束されることになった。
ハリドは国軍の在るワグナ宮に、クロンは内務省の在るレナン宮に
送られた。ヴァンサラン曰く、待遇は悪くないらしい。
リアン自身もイェイルの縁者であるが、直接の関わりはないと
判断されて、今のところ旧カリン宮での“自主謹慎”で済んでいる。
特段、事情聴取などもなく次官室で通常勤務を続けることを
“許されていた”。但し、警備兵は増員され、体の良い軟禁状態である。
(早く帰って来てってお願いしたのに)
ついつい恨みがましく思ってしまうものの、
王宮が今てんやわんやの状況なのは理解していた。
この二日、気持ちが落ち着かなくなると、右手が左手首に
触れるようになっていた。
そこにはキリルから贈られた猫目石の腕輪が嵌まっている。
最初にニム街で買ってもらったものはトマス州での騒動で無くして
しまい、それをキリルに言い出せずにいた。
二度目の視察でイルーネ太王太后の元から派遣されたシェリアに
こぼしたことがいつの間にやら長官へと伝わったらしい。
新しく貰った腕輪には調整用鎖が付いていて、大きさを変えることができる。
リアンは手首のやや肱寄り、袖に隠れる位置に嵌めて、
自分の溢れる思いを隠そうとした…こんな時に浮わついてなんかいられない。
もう一人、自治省次官室でそわそわしている人物がいた。
次官付秘書官8人の中で一番若いミシェラである。
彼は柱の振り子時計を眺めては書類に目を落とし嘆息、という行為を
朝から何十回となく繰り返していた。
ちなみに彼に割り当てられた仕事はちっとも捗っていない。
「ミシェラ、有休余っているんでしょ。許可するから家に帰りなさいよっ」
見かねて、リアンが叫んだ。
「いえ、こういうことで男ができることはないですし…」
「でも、ここにいても仕事にならないじゃないの」
次官が自治省を一歩も出ないことについて、秘書官一同に事情は
知らされていなかった。ただ“何かおかしい”とは皆感づいている。
秘書官最長老のキタラと内務省密偵モムルだけは王女と騎士の
無謀な逃避行について聞き及んでいたが、知らないふりを続けている。
今後何が起こるにせよ、8人は“自治省の安寧”という建前の
“自分たちの平穏生活”を守るため、共闘するつもりでいた。
そんな中、ミシェラだけがやや隊列を乱しているのは、
彼の妻が今朝方から産気づいているからだった。
初産ではない…4回目なのだが彼の顔面は蒼白になっている。
「意地張ってないで帰りなさいよ、ミシェラ」
リアンは重ねて促した。
「帰りたくても帰れないんですよ、こいつは」
あわあわしている男爵を横目にフェイが口を挟んだ。
省内人事(特に家族関係や家庭事情)に詳しい彼は得意げに披露した。
「初産の時、はりきったミシェラは出産に立ち合うも妻が苦しむのを
見ていられず失神。
2回目、雪の日。産室の前で待機するも落ち着かず、
うろうろする内に滑って階段を転落、またも失神、腕を骨折。
3回目、長女が生まれて大喜び。誰かれ構わず抱き付いて
小躍りしていたところ、最後に鉄柱を抱擁したことに気づかず
額を強く殴打して丸一日意識不明」
「華々しいわね~!」
奥方が生まれるまで来てくれるなと厳命するのも分かる。
頼りになるどころか、もの凄く迷惑な旦那だ。
奥方は子爵家出身の美女だが、ミシェラより10歳年上で離婚歴ありと
聞いている。きっとしっかりと家庭を守る逞しい女性なのだろう。
(私が産む時はキリルどうなるかな)
ふと考えてしまい、次の瞬間に、慌ててその妄想を駆逐した。
(子どもって、産むって、何考えているの、早すぎでしょ!!!)
(貴女によく似た娘が生まれたら、きっと可愛いでしょうね)
不意に長官の言葉が甦る。
リアンはミシェラに負けないくらいアワアワしてしまった。
「ダメだ!もう辛抱できないっ」
遂に男爵覚悟を決めたようであった。
「次官殿、半休をいただきますっ」
叫ぶなり部屋を飛び出す。
「サナン、ミシェラを追っかけて、男爵家まで無事送り届けて!」
「畏まりました!」
このままでは焦るあまり帰宅途中で事故に遭いかねない。
4番目の子と引き換えに奥方が未亡人になったら気の毒過ぎる。
「仮にも男爵家の当主ともあろう者が、なんたる醜態。情けないですわ」
相変わらずの毒舌で登場したフッサール伯爵夫人であった。
「うん、でもフローネが出産する時は、
レムル殿もあれくらい動揺すると思うよ?」
サクッとリアンは切り返した。伯爵夫人の頬が朱に染まる。
復縁を果たした内務省政務次官ことフッサール伯レムルと
フローネはその後上手くいっているようで何よりだ。
聞くところによると、伯爵の溺愛ぶりが激しく、
伯爵夫人は近く王妃付女官を退くことになるらしい。
「そ、そんなことより…大変ですわ、リアン」
次官は、長官から好きに使って良いと言われた最上階の客間に
フッサール伯爵夫人を案内した。
「本当に貴女の従弟は大変なことを仕出かしてくれたわね!」
「…貴女の従妹もね」
顔を見合わせ、お互いに溜め息をつく。
その瞬間、少なくともこの件に関してだけは、相手を“同士”と認めた。
「二人の駆け落ちが世間にバレたわ…もはや穏便に処理することも
できやしない」
フローネが携えてきたのは王都で広く読まれている新聞や雑誌の類いだった。
お固い「王都新聞」から大衆娯楽紙の「王都薔薇色通信」、
服飾女性誌の「王都流行」まで一面で騎士と王女の駆け落ちを報じている。
「許されざる恋の行方」「世紀の駆け落ち再び」「王室の責務と責任」
などなど、見出し文字がリアンの前で踊る。
「キリルが…箝口令に失敗したの?」
「彼が、というより、私の旦那様が、と言うべきね。
情報統制はレムルの管轄だったから」
「二人の行方は?」
「まだ分からない…王都を脱出したのかさえ分からないのよ。こんなのおかしいわ。
内務省と国軍が動いていて、手がかりすら掴めないなんて」
それはリアンもおかしいと思っていた。
ワグナ殿下の国軍とミルケーネ公爵の内務省密偵組織。
若い二人が逃げおおせるとも思えない。
「王都周辺の山や川を捜索するよう進言した大臣もいたそうよ」
「まさかっ!」
縁起でもなかった。
逃げ切れないと悟った二人が心中?最悪の脚本だ。
「イェイルはアギールの男よ。そう簡単に命を捨てたりしないわ」
「マリンカも王家の女よ。そう簡単に諦めたりしない」
もう一度、顔を見合せて嘆息する。二人ができることはあまりに少ない。
「リアン、今度長官が戻ってきたら、彼を誘惑して、引き留めて、
捜査を骨抜きにしてしまいなさい」
煮詰まったフローネが過激な提案を次官に吹っかけてくる。
「そんなの無理に決まっているでしょう?長官が私の誘惑なんかで
仕事を疎かにするわけないじゃないっ!フローネこそ、ご主人に迫って
内務省の機能を麻痺させてよっ!」
「だ、旦那様に私から迫れるわけないでしょ!」
復縁して以来、やたらと濃厚になった夫婦生活に防戦一方なのだ。
レムルに迫るなど、とんでもないことだ。
…フッサール伯爵夫人もアギール伯爵令嬢もまだ分かっていない。
それぞれが伴侶に与える絶大な影響力を。
「それからリアン、婚約発表までの準備だけど、
『王家の婚姻・七日間必勝法』を後で届けさせるから確認してね。
明日から私とイルーネ様が交代で夕方の3時間、勉強をみるから」
「はぁ?何を言っているのよ、こんな時に。
婚約発表の日程だってどうなるか分からないのに、
とても勉強なんてする気になれないわ」
従弟が死ぬかもしれないという時に、婚姻の知識だの作法だの頭に入らない。
「いいえ、リアン。婚約発表は10の月10の日、何が起ころうと
取り行われるわ」
フローネがいやにきっぱりと断言した。
「あの公爵が、延期にしたり中止にしたりするわけないでしょう?
例え、国王が倒れても、隣国が侵攻しても変更はありえないわ」
覚悟なさい…伯爵夫人は新たな鬱屈解消方法を見出したようであった。
彼女が王宮に戻った後、はたして『王家の婚姻・七日間必勝法』なる暗記本が届いた。
それはリアンの中指程の厚さのある皮装本で、全部で3冊あった。
最初の頁をめくって…あまりの字の小ささと内容の細かさに次官は
うっかり婚約発表など承諾した、己の迂闊さを呪った。
*** *** *** *** ***
騎士イェイルと王女マリンカが駆け落ちした二日後。
国軍総大将は王妃からの呼び出しを受け、エリエ宮に赴いた。
二人がのんびりと一緒にお茶を楽しんだのはそう昔の事ではない。
けれども、茶会を行った同じ部屋で再び向いあった時、王妃の中で何かが砕けていた。
清楚な白百合と称えられ、居るだけで周囲の雰囲気を優しいものにしていた
シャララ妃が今や見るも無残なほど怒りと悲しみを噴出させている。
それはベリルに19年前を思い出させた。
嵐の夜に身も世もなく泣き崩れた義姉の姿を。
王妃としての威厳がまだかろうじて彼女を支えているが、
崩壊直前のよう見える。
それほどに…最愛の娘の裏切りはシャララの心を深く抉っていた。
そう、騎士との駆け落ちは許しがたい裏切りだ。
マリンカに王位を渡すために、そのために生きてきたのに。
「ベリル、説明なさい。
なぜ、マリンカが見つからないの?
なぜ、箝口令が破られ、駆け落ち報道が行われたの?」
「さてな」
王弟は王妃の焦燥を目の当たりにしながら、憐憫の情を一切示さなかった。
酷薄な笑みを浮かべたまま長椅子に寝そべっている。
「イェイルを八つ裂きして、マリンカを連れ戻しなさい。
王妃として命じます!」
我を忘れてシャララは叫んだ。彼女にとって大事なのは娘だけだ。
騎士のことなぞどうでもよい。その若者がアギール家の縁者で
あることも、もはや王妃にとって減刑事由にならなかった。
「既に陛下の命を受けて内務省と国軍が動いている」
「そんなこと承知しているわ。わたくしが知りたいのは…
なぜ本気で国軍を動かさないの、ベリル?」
「俺が手抜きしていると?」
「それどころか内務省を妨害してさえいるようだけれど、
わたくしの気のせいかしら?」
ワグナ殿下の口角が微かに持ち上がった。さすがに長い付き合いだ。
ソランサ王を間にして同志である二人は互いに隠し事することが難しい。
「そんなに、自分の娘が愛する男と一緒になるのが嫌か?」
「ふざけないで。マリンカは女王になるために生まれた娘よ。
騎士と恋はできても、結婚はできない。
そんなことは、あの子だって最初から分かっていたはず」
シャララが次代の女王にするために産み、育てた娘だ。
そのために王も王妃も…王弟も犠牲を払った。
「あの子は女王にならなければ」
そのためにはミルケーネ公爵との婚姻が望ましかったが、王妃は
この点では譲歩していた。
キリルがリアンを妻にしたいと言った時、これを許したのだ。
リアンを枷にして、キリルを王家に繋ぐことができれば、
それで構わないと判断した。
ベリルやキリルを周囲に配置することによって、次代の治世を固める。
それなのに…要となる自分の娘がいない。
よりにもよって、男と逃げるなど。
「あの子は女王にならなければならないのに」
「それは誰の望みだ?」
淀んだ沼の中にベリルが一石を投じた。
彼の藍の瞳、キリルのものより一層険の有る瞳が王妃を責めていた。
「女王にしたいというのは、陛下の望みか、お前の望みか?」
「何を言うの?義父上が自らの血を引く者に跡を継がせたいと。
そのために陛下も私も…」
「陛下が、娘の幸せを全て奪ってまで、それを願うと
…本当にそう思うのか?」
「…娘の幸せ?」
「マリンカの願いを、お前は一度でも母親として聞いてやった
ことがあるのか?マリンカがお前に、一度でも女王になりたいと
言ったことがあったのか?」
「母親として…あの子に」
シャララはようやく己の過ちを悟った。
「お前は立派な“王妃”だった。それは俺も認める。
けれども、マリンカにとって、“母親”ではなかった」
シャララは一生懸命に娘を養育した。娘を慈しんでいた。
娘が大事だった…けれども、母親として接することはなかった。
涙が溢れてくる。
何て重荷を自分は娘に課してきたのだろう。
「ひどい人ね…ベリル。今更、口を挟んでくるなんて。
あの子の父親は陛下なのに」
「もちろん父親は陛下だ。だが、俺は一度だけ、叔父として、
あの子に何かしてやってもいいと思った。単なる気紛れだ。
だから、二人に尋ねた。どうしたいか、と。
これまでの全てを捨てても“一緒に生きたい”そうだ」
「あの子は見つけたのね…全てを賭けても良いと思える存在を」
涙が溢れてくる。けれど、先ほどとは違う涙。
あの子が幸せになってくれるのなら。
「さて、どうしたいシャララ?
今なら王や宰相や公爵を説得するのに力を貸すぞ?」
「私も母親として、一つくらい、あの子のために何かしたい。
もう二度と会えなくてもよいから、あの子には生きてほしい。
…愛する人とともに」
王妃は立ち上がった。
騎士イェイルと王女マリンカは帰ってこない。
二人の幸せと、王国の将来を守るために、シャララがしなければ
ならないことがある。
彼女がマリンカを諦めなければ、ソランサ王は動かない。
あの愛しく優しい王は、彼女が動くのを待っている。
“王の間”に向かう王妃に、ワグナ殿下は臣下がするように
三歩後ろに下がって、恭しく付き従った。
愛する娘マリンカを助けるために、王妃シャララが初めて母親として
行動します。ベリルも…生涯でただ一度だけ、マリンカを助けます。
自分が本当の父親だと名乗ることはありませんが。
さて、書いてて時々、登場人物に感情移入してしまうことがありますが
皆さまは読んでていかがでしょうか?、
今回リアンとフローネのやり取りを「あ~あ、この二人は」と思って書きつつ、
後半になってシャララとベリルのやり取りには涙ボロボロ流しながら
書いておりました。
次回「自治省の悪臣 その3」
イェイルとマリンカを助けるためにキリルとリアンが大きな
代償を払うことになります。