第八章 自治省のロマンス その5
リアンの愛が信じきれないキリルが目撃してしまったのは、
リアンが元恋人ラウザを抱きしめる光景。
リアン、そこでキリルを刺激するな~!という所ですが。
既に平常心が吹っ飛んでいる長官殿はさて、どうでるか。
それから前篇でレムル次官とヴァンサラン補佐官に呆れられた
求婚承諾と婚約発表は一体どうなるのでしょうか。
夕闇が迫り、金茶の髪を溶かしてゆく。
ルーマの恋人たちは失われた時を埋めるかのように一つの陰と
なって動かない。
キリルは無意識の内に内務省の小銃を握りしめていた。
ギリギリの飛距離だが眉間に命中させる自信はある。
ラウザ。
現ルーマ市長の息子。
やはり5年前に消しておくべきであった。
下手な情け心が仇となった。
彼を生かしておいたのはキリルの自尊心ゆえだ。
地方役人上がりの下級役人、離婚歴のあるような男が自分の恋敵に
など到底なり得ない。
自分がラウザ程度の男に本気で嫉妬するなどあり得ない、と。
けれども、ラウザはリアンに触れた。
奴の武骨な両腕がキリルの、唯一の女の腰に回されている。
彼女の背中の後ろでラウザの両手が固く結ばれている。
到底許せるはずがなかった。
ミルケーネ公爵は小銃の安全装置を外し、引金に指をかけた。
ふと、ラウザが死んだらリアンは嘆くだろうかと考える。
目の前で元恋人が自分に射殺されたら、彼女はどんな反応を
示すだろうか。
泣き叫んで、その黄緑の瞳で非難するだろうか。
リアンに嫌われたくはない。
けれども…彼女は知るべきだ。
自分の浅はかな行為がもたらす結果を。
ラウザを殺すのは彼ではない。彼女だ。
リアンがかける情けゆえにラウザは破滅することになる。
或いはと、キリルは別の可能性も考えてみた。
狙うのはラウザではなくて。
自分に背を向けている女の後ろ姿。
…それは甘美な誘惑だった。
公爵が逡巡している内にラウザはリアンから身を離した。
一つの影が二つに分かれる。
ラウザがリアンに言葉をかけている。
その声は届かなかったが、読唇術のできるキリルは男の言葉を
正確に読み取った。
途端、鋭い痛みが胸に走った。
リアンに向けるラウザの言葉が「愛している」だったら、
躊躇わず引金を引いていただろう。
けれども違った。
ルーマで幸せだった恋人同士を引き裂いたのはキリルだ。
それも、自分がリアンを手に入れたいという欲望のため。
その自覚はあるし、後悔もしていない。
良心の痛みもない。
しかし、だからこそ…ラウザは殺せない。
キリルは腕を下ろした。
夕闇の中、男が彼方へと消えてゆき、
女だけが自分の方へと向かって歩いて来た。
「探しましたよ、リアン」
「どわぁあ…!ちょ長官?」
淑女らしからぬ驚き方をして、次官は飛び退いた。
「いつからいらして…ってまさか、
変な誤解はしてらっしゃらないですよね?」
「私のリアンが他の男を抱き締めるのを目撃しましたが。
…これを誤解だと?」
「わわわ…これには事情が。
そそその前に、キリル、ててて手をどかして下さい!」
動揺のあまり、リアンは激しくどもってしまう。
彼女が言わんとしていることが理解できないまま、
キリルは自分の手に視線を落とした。
「引金から指を外して下さい。安全装置もかけて、
とにかく危ない拳銃は仕舞って下さいっ!」
「貴女に触れる不埒な男を始末しようと思ったのですが」
「長官が私情で人を殺しちゃダメです。殺人罪ですよ?」
「殺人罪?」
ゆっくりと小銃をしまいながら、
長官は凶悪な笑みを浮かべた。
「どこの国の話です?専制君主国家ファネにおいて、
王と公爵は平民の生殺与奪の権利があるのですよ」
忘れましたか…?
もちろん次官はそんな悪法の存在などすっかり忘れていた。
何しろ王都キサラに来る以前は地方都市の庶民暮らしで、
王サマだの公爵サマだのは雲の上の存在だったのだ。
まずは一生お目にかかれない。
「ラウザではなく…貴女を撃つことも考えました」
「ええっ?」
物騒な事を言われリアンは仰天する。
また少し距離を取りたくなって、そっと動こうとした時、
腕を取られた。長官の白絹の手は鋼鉄製だ。
「貴女を撃って自分も死のうかと。
そうすれば誰にも邪魔されない世界に二人で行ける」
「いやいやいや…その発想はダメでしょう」
どうしたことか。
朝は一緒に入浴したり、お粥を食べさせあったり、
手を繋いで出勤したりと…それはそれは恥ずかしいことを
次々にリアンに要求しては実現させ、上機嫌だった公爵サマが、
何故かものすご~く後ろ向きになっている。
「ラウザが最後に貴女に言ったこと…
あれがなかったらどうなっていたか分かりません」
つまりはラウザかリアンの、あるいは双方の命が風前の灯で
あったわけだ。
(公爵と幸せに、リアン。さよなら)
(さよなら、ラウザ。貴方も…幸せに)
それが最後に交わした言葉だった。
「別れた奥さんとやり直すって言ってた」
ラウザが婿入りしていた家は中央貴族の家柄で、舅は財務省の
高官職にあった。はっきり聞かされたわけではないが、
立春祭後に行われた王権左派の一斉検挙により、元・舅は捕まり、
元・婚家は没落したらしい。
別れた妻が、独りきりで寂しく暮らしをしているのを知り、
ラウザは見捨てておくことができなくなったという。
それは彼の優しさであり、また、政略の道具として妻を
顧みなかったことへの償いでもあった。
彼の決心に胸が一杯になってしまって、ついつい昔の気安さから
抱き締めてしまったのだが…それがいけなかった。大失敗だ。
「長官…もう…」
(このままだと砕けます)
リアンは声すら満足に出すことができなかった。
迷路園の出口で、キリルに殺人的な力で抱きすくめられる
ことになった。それは恋人たちの甘い抱擁とは程遠い…
背骨と肋骨が同時に声なき悲鳴を上げていて、
呼吸困難な状態に陥る。
実際、過去にこの方法で、彼は人を圧死させた経験が
あるかもしれない…そう思わせるほど力技だ。
「リアン、二度と、私の前であの男の話はするな」
意識が混濁してきた時、耳元にそう囁かれる。
そこで漸く拘束が緩んだ。
ただし、緩んだだけで白絹の手はまだ絡み付いたままである。
「自治省に戻りましょう。
話し合わなければならないことがあります」
口調こそ柔らかいものに戻ったが、
リアンが否といえる雰囲気はどこにもなかった。
ああ、今日もアギール家に帰れない…伯爵令嬢は
公爵サマとのイロイロ面倒くさい一夜をまたも覚悟した。
*** *** *** *** ***
ミルケーネ公爵に引き立てられるようにリアンが自治省に
戻るのを確認して、二人の人物が大椿の木から飛び降りた。
迷路園の中から様子見していたのは内務省政務次官にして
フッサール伯爵レムル。
もう一人は、自治省次官付秘書官の一人モムルである。
モムルは長官がリアンを探しに出かけた後、不安になって跡を
付けたのだった。農業省の役人がリアンに面会を求めて来たのは
先刻承知であったのだが、長官に告げるのは憚られたのだ。
そうして、やはり長官の挙動不審を心配して追って来たレムルと
合流することになる。内務省の密偵として気配を消すことに熟練
していた二人は、適度に距離をとって大樹の上に潜んだ。
「何とか流血の惨事は避けられたようだな」
レムルは一息ついて自分の小銃を懐に仕舞う。
長官が農業省の役人を撃つなら止めるつもりはなかった。
公爵の女に手を出すとはそういうことだ。
理由も知らず、知らされず、突然眉間を撃ち抜かれても仕方ない。
そうなった場合、レムルが行うのは、死体を部下に命じて
淡々と片付けさせることだけだ。
但し、銃口がラウザにではなく、リアンに向かった場合、
内務省次官は自分の小銃で長官を阻むつもりでいた。
夕闇の中にあっても、レムルの腕をもってすれば、長官を
傷つけることなく、小銃だけを弾き飛ばすことができる。
しかし…ぎりぎりと胃が競り上がるような緊張を強いられた。
「自治省の方は大丈夫か?」
「念の為、3階と4階は避難勧告を出しました。
お二人が戻る頃には無人となっているはずです」
モムルは次官室を出る際に後の事をヴァンサラン補佐官と
キタラに任せた。この二人はモムルの正体を知っている。
「賢明だな」
キリルとリアンが旧カリン宮最上階でどのような展開を
見せるか…次官には酷な話だが、レムルはそこまで面倒をみる
つもりはない。
内務省としては今後の警備体制を改組する関係で一刻も早く
今後の日程を確定してほしいところだ。
「次官殿、大丈夫でしょうか」
珍しくモムルが私情を口にした。自治省の方向を心配そうに見つめている。
ほう、とレムルの目が面白そうに瞬いた。
「なぜ書簡を見つけながら、私の所に直接持ってこなかった?」
レムルが尋ねたのは、彼とフローネの恋文のことだ。
「あれを次官殿がどう使うか…見てみたいと思いまして」
つまり彼は、リアンを試したのだった。
「それでお前の判定結果は?」
「まさか“復縁”祝いに進呈してしまうとは思いませんでした。
兄上はあの書簡を取り戻すためなら、かなり無茶な要求でも
飲んだでしょうに。まさか無償で贈ってしまうとは、ね」
何の取引もしなかった上司。
「期待はずれか?」
「いえ、こんな上司も面白いかもと思いました」
「あの次官殿で良いのか、モムル?」
「兄上こそ、あの長官殿で良いのですか?」
顔を見合わせて、どちらからともなく苦笑が洩れる。
「お互い上司の趣味が悪いな」
「全くです」
勤務中に兄弟らしい会話をしたのは久しぶりだった。
兄を慕って、内務省に入省した弟であった。
その弟が真に仕えるべき者を定めようとしている。
それが兄として、誇らしく、また少し寂しかった。
*** *** *** *** ***
旧カリン宮東棟、つまり自治省が入る棟は雲の子を散らした
ように無人となっていた。退勤時間を少し回ったばかりで、
普段であれば各階に残業者が居るはずである。
3階の次官室については言えば、大抵一番早く帰宅するキタラが
そろそろ出ようかという頃合いで、つまりは全員居るのが常態
であったはずなのだが。
しかし、他の階同様、次官室も無人となった。
ヴァンサラン補佐官は、当初、3階と4階に避難勧告しようと
したのだが、もっともらしい理由をでっち上げるのが面倒で、
本日「残業禁止の日」と勝手に定めて、実行に移した。
もちろん、自治省役人一同これを歓迎した。
どうして誰も出てこないのか。
疑問に思う間もなく、リアンは最上階の一室に閉じ込められた。
キリルに静かに放り投げられた先は、
何度か利用したことのある寝台の上。
「ええと、長官、話し合うのでは?」
「…それは後です」
公爵サマは性急に動いていた。
自治省長官の“休憩室”は次官の“仮眠室”とは天と地
ほども異なる、王族並みの豪華寝室である。
そして、内側からは強固な鍵がかかるし、何より
防音構造がしっかりしている。
少々派手な“喧嘩”をしても他人に見られたり、
“騒音”が漏れたりする心配はない…それは良いのだが。
「ちょ、ちょっと待って、ええっまだ宵の口…」
リアンは寝台の上でもがいたが、無駄な悪あがきで、
たちまちに身ぐるみを剥がされて転がされてしまう。
「暴れないでください。貴女を傷つけたくない」
なお抗議を続ける次官の唇を封じて、
長官はそのまま覆い被さってきた。
「キリル、お願い、聞いて…っううん」
最後まで言わせてはもらえなかった。
「後できちんと聞きます。
まずは貴女の存在を…感じさせてください
我慢できないんです。貴女が他の男に触れていたなんて」
その後しばらく、リアンは全力疾走状態を強制された。
キリルは昨夜よりも貪欲に、最愛の女を喰らった。
彼の稀有なる治癒能力ゆえか、
リアンはさほど身体的な苦痛を感じなかった。
けれども心が痛い。
それは己の自由を奪われ、公爵の中に繋がれた故ではなく、
愛する男が未だ孤独の檻に囚われたままいることを知って。
ようやく手にした自分を離すまいと必死になっている。
(離れたりしないのに…)
けれども今はどんな言葉をかけても届かない。
キリルの激情が鎮まるのを待つしかなかった。
「…ごめんなさい、キリル」
荒い呼吸を何とか整えて、リアンがまず口にしたのは謝罪だった。
長官は次官の上から退き、真横に身を横たえている。
「なぜ、謝る?何か疚しいことがあるのか?」
キリルの声はまだ固い。
そのくせ、白絹の手がリアンの金茶の髪を優しく梳いている。
「疚しくない、ラウザとの事は…」
噛み付くような接吻が与えられた。
「奴の名前は出すな。警告したはずだ」
「うん…ごめん」
「それで、さっきの“ごめんなさい”の意味は?」
「私も、キリルが他の女の人を抱き締めていたら、すごく嫌だな、
と思って。それがどんな理由でも…何だか、想像しただけで、
すごくムカムカしてきて。だから…“ごめんなさい”」
今度は優しく抱きしめられる。キリルの広い胸に頬を当て、
リアンは相手の熱く、速い鼓動を感じていた。
「そんな可愛らしい“ごめんなさい”をもらったら、私は陥落する
しかないですね。貴女は確かに“魔性の女”だ」
「何ですか…それは」
長官には最初から振り回されっぱなしだ、とリアンは思っている。
次官には最初から振り回されっぱなしだ、とキリルが思っている
ことも知らずに。
「私のことを愛してくれますか?」
キリルは身を起こすと、リアンをも起こして、その両手を取った。
「…長官、そこから何ですか?」
昨夜展開された“王家の塔”でのあれこれは何だったのか。
自分はどれだけ信用されていないのかと、リアンは少し
恨みがましくなった。
公爵サマは彼女の手を握りしめたまま、返答を待っている。
ものすごく恥ずかしいが告白するしかない。
「愛しています、キリル」
どうも“お慕いしています”は失敗だったようだ。
もっと直接に言っておけば良かった。
「私と結婚していただけますか?」
「はい」
承知したものの、あまりにも今更で、雰囲気もなくて、
がっくりしてしまう。
寝台の上で、乱れた姿のまま向かい合う二人。
求婚するにも、もう少し、時と場所を選べなかったものか。
せめてもと、リアンは寝台の上で三つ指突いてみた。
「ふ、ふつつか者ですが幾久しく、よろしくお願いします」
そう言って頭を下げる。
胸元のシーツが肌蹴そうになり、慌てて押さえたので、
厳粛さを出すのは失敗したが。
そうして上目遣いで相手の反応を伺ってみると…
キリルが“鳩が豆鉄砲を食ったような”という表現を浮かべていた。
王族出身の公爵サマに凡そ似つかわしくない
…そう思ってぼんやり眺めていたら、
不意にキリルは片手で自分の口元を覆った。
しかし、隠しきれていない。
「何と言うか…あまりにリアンらしくなくて」
憎まれ口を叩きながらも、キリルの顔はそれこそ彼らしくなく、
紅く染まっていた。
(照れている。あの長官が照れている)
リアンの中で、初めて公爵サマが可愛い「かも」と思えた瞬間
であった。
「それで、そのう、婚約発表の日取りなのですが」
前回“破局”の原因を作った問題が再浮上して来た。
そこでリアンは甘えも甘さも消して真顔で相手に向かった。
「長官、私に隠していることがありますよね?」
「うう」
そう詰め寄られ、心当たりが有りすぎる男は形勢不利を悟る。
「何で今月とか来月じゃなきゃダメか、
きちんと話していただけませんか?」
よくよく考えてみたら、「来年の立春祭の頃」と提案した
自分の方が常識的な判断なのだ。
貴族が婚姻を結ぶ場合、国王の許可がいる。
これが王族に准ずる大貴族となると、単なる届出制ではなく、
王族による厳格な審査制となる。
しかも、公爵が自分より爵位の低い家から妻を娶る場合、
その娘は王族の誰かから規定の講義を受けなければならない。
つまり、いろいろ煩雑な過程を一つずつ通過するには
それなりに時間がかかるのだ。
「それは一刻も早くリアンと結婚したいからで…」
キリルはこの期に及んで、白を切ろうしたが、リアンの
表情を見て黙り込む。一刻も早く結婚したいのは嘘ではないのだが
…ついに彼は観念して、白状した。
「陛下に、マリンカ王女との結婚を命じられていまして」
「ええっ!」
思わずリアンは相手の首を締め上げてしまった。
やっぱり予想していた通りだ。王の娘と王の叔父。
「待ってください、リアン。 私にも相手にも、その気はなくて…」
「陛下のご命令なら逆らえないでしょう!」
「私は逆らいました!貴女以外を妻と呼びたくなかった。
そうしたら王がマリンカ姫の成人前に貴女との婚姻を
決めるようにと。それができなかった場合…王命に従えと」
「つまり、マリンカ姫の成人式よりも早く、私との婚約発表を
しないと、王女と結婚させられちゃうと?」
「つまり、そういうことです…」
長官の声がどんどん小さくなった。
昨年末にリアンを自治省に迎えた当初、彼には自信があったのだ。
3ケ月、どんなにノンビリしても、6ヶ月。
それだけあれはリアンを誘惑し、陥落できる、と。
ところが現実は全く予想通りにいかなかった。
「貴方はそんな約束を陛下と…」
リアンの身体が小刻みに震える。もちろん怒りからだ。
「ごめんなさい。でも私を助けると思って、来月18の日までに
婚約発表して下さい。お願いします!」
今度はキリルが三つ指突いて頭を下げた。
ここはひたすら謝り倒すしかない。
「こればかりは私一人が承知しても
…審査や講義がとても間に合いませんよ」
「それは大丈夫です。審査省略・講義終了で進めますから!」
がばっ身を起こすと、キリルは再びリアンの両手を握りしめた。
「…どういうことです?」
リアンの瞳が不穏に光る。キリルはまたも形成不利を悟った。
その後、鬼のような次官に責め立てられ、長官が白状したことには、
毎度リアンが呼び出されていた“王妃様のお茶会”が
王族審査と講義を兼ねていたとのことであった。
つまり知らぬは本人ばかりで…王族一同は公爵サマの求婚を静観、
時々応援(イルーネ太王太后とか)、時々邪魔(ワグナ殿下とか)、
していたことになる。
「でもでも講義とか、お茶を飲んで昔話をしていただけで、
何も勉強していませんよ?」
「大丈夫です。母も王妃様も伯爵夫人も嫁入り前に
勉強した『王家の婚姻・七日間必勝法』なる門外不出の暗記本が
あるそうですから」
「はぁ」
だんだんリアンはヤケッパチな気分になってきた。
暗記本があるにせよ、キリルが引き合いに出した3人と
自分では出発地点が違うのだが。
リアンが庶民育ちだということは忘れてやしないか、この男は。
いっそ審査で「不適」をもらうか。
「では今から一週間後を想定して…」
また長官が無茶なことを言いだしたので、リアンは慌てた。
「待って、来月の18日迄、猶予があるのでしょう?」
「あんまり成人式にぶつけるようにするのも失礼ですよ?」
「じゃあ、来月の10日。10の月の10の日!」
自ら代案を出して叫ぶ!
途端、キリルがにやりとした。
また、やられた。
「承知しました奥様」
ああ大変なことになってしまった…大げさな溜息は
キリルの口付けに優しく封じられた。
この夜、ミルケーネ公爵とアギール伯爵令嬢の婚姻が
周囲の人曰く、漸く、漸く、まともな前進を果たした。
“世紀のロマンス”が生んだ一粒種は、
ミルケーネ公爵夫人として新たな一歩を踏み出す決心を
したのである。
*** *** *** *** ***
キリルとリアンが愛を深め合う同じ夜。
近衛騎士イェイルはファネ国軍総大将に呼び出され、
深夜のワグナ宮を訪れていた。
彼の上司は近衛騎士団長なのだが、なぜか軍部最高位の
ベリルから直接、命令を受けることの方が多かった。
「明日付けで近衛騎士団から出向を命ずる。
行き先は自治省。次官の護衛役を務めよ」
イェイルの顔を見るや、ベリルはそう言って、出向命令書を
放って寄越した。
「お前の従姉は無謀にも公爵夫人になる決心をしたらしい。
今まで以上に護衛が必要だ」
「お待ちください。どうして…」
大事な姉上だ。近衛騎士団から出向することも、護衛役に付く
ことも不満はない。不満はないが、正直この時期に騎士団を
抜けるのは痛かった。
「どうして?それを俺に言わせるのか、イェイル」
ワグナ殿下は酒瓶を片手に若い騎士を見下ろしていた。
「いつまで王女の周りをうろちょろしている気だ?」
色恋に鈍い従姉にもバレるくらいなのだ。
国軍大将が察知していないはずはない。覚悟はあった。
けれども実際に糾弾されると、イェイルの心は重く沈んだ。
「自分の立場はよく分かっているだろう、イェイル?
クロンの嫡子と認められて、シャイン子爵、いずれは
アギール伯爵を継ぐことになっても、母親の出自は消せない。
どう取り繕ったところで、王都下町の花屋の息子だ。
女王の婿には絶対になれん。愛人どまりがいいところだ」
「わかっています…俺には到底届かぬ人だと」
唇を噛みしめる。
この恋に幸福な結末はないのだと何度も自分に言い聞かせて。
それでも…マリンカに一目会いたくて、僅かでも触れたくて。
今日まで終わらせることのできないまま来てしまった。
「もっとも、お前の身内で派手に駆け落ちした奴がいるから、
真似をしてみるか?
二人で逃げるというなら…手助けしてやってもいいぞ」
ベリルが物騒な提案をした。
どこまで本気か。いや全て冗談ととるべきか。
「…それで殿下に何の得が?」
「お前は一応、私の可愛い部下だからな。
それに、マリンカは私の可愛い姪っ子だ」
いけしゃあしゃあとのたまう。
何が“可愛い部下”だ。父もろとも事あるごとに苛められてきた。
ワグナ殿下の愛する女を奪ったのは、イェイルの伯父にあたる
クロスであったから。
マリンカ王女に対してだって、宮中で一度も“可愛がって”いるのを
見たことはない。声をかけることすら稀であったはずだ。
「もちろん私にも得はある。だがそれは、お前に関係ないことだ」
それは甘美な誘惑だった。
会ったことのない伯父は伯母との愛を守るため伯爵家を捨て、
王家や王国も捨て去った。
自分に同じことができるだろうか。
情熱だけでは不可能だと分っている。
内務省と国軍が共に動いたら、王都脱出すら叶わない。
あっと言う間に捕えられて、二人の仲は引き裂かれる。
そして自分は殺され、王女は…自由を奪われて、
王命による婚姻を強いられることになるだろう。
過ちを犯した王女はその後、女王に立つことがあっても
直接統治は認められず、最悪、“世継ぎを産むための道具”
として扱われるかもしれない。
けれども、もしも、ワグナ殿下が味方してくれたら?
少なくとも、国軍出動をしばし抑えてくれたとしたら?
そうすれば、国境まで逃れることができるだろうか?
イェイルもマリンカもまもなく18になる。
成人を迎え、異国においてなら、結ばれることも
あるいは…夢見ても良いだろうか。
それとも暫くの間、愛する王女から離れ、
彼女が王家に相応しい貴族の男と結ばれるのを耐えるべきか。
そうして王女の騎士として…或いは、“愛人”として生涯
彼女を守ってゆくべきか。
若い騎士はとるべき道を見つけられぬままワグナ宮を後にした。
という訳で、キリル&リアンの婚約発表、来月10日に決定となりました。
おめでとうございます!(めでたくないよ~!とリアン早くもマリッジ・
ブルーかもしれませんが)。
レムルとモムル、ようやく兄弟だと明かせました。当初その予定はなかった
のですが、偶然名前が似ていて、しかもモムルが内務省の密偵ということで、
ん…?と作者も途中からこの事実に気付きました。
ちなみに名前ネタを少々披露しますと、お気づきと思いますが、
ファネ国王は「~ランサ」(イランサ、キランサ、ソランサ)になって
おりまして、
国王に准ずる男子には「~リル」(ベリル、キリル)が付いています。
さて、第八章、これにて終了とさせていただきます。
次章いよいよ「第九章 自治省の悪臣」スタート。
作品名と一緒なのでややこしいかもしれませんが。
この章はこの名前でないといけないという作者のコダワリがあるのです。
さて、
ようやく良い感じになってきたキリル&リアンですが、周りに
あれだけ個性の強い人ばかりいて、そうそうウハウハできません。
二人が、というより、二人を巻き込んで王都に激震が走ります。