第八章 自治省のロマンス その4
「第三章 その3」にて、キリル曰く。
「11歳の時に初めて会ってから気になっていて心惹かれて、
17歳で彼女への恋を自覚して、22歳の時に求婚して断られて。」
ずっとずっと片思いしていた彼が…もう我慢できなくなりました。
“王家の塔”で二人は篇です。
王家の塔。
王宮と王府の境界にその宝塔が建てられたのは300年以上前に遡る。
ファネ現王朝の創始は297年前であるので、
古王朝(=聖王朝)末期には既に存在していたことになる。
王朝交代の混乱期に度々の火災や破壊しに遭ったが、いずれも深刻な
被害には至らず、基本の建築構造は現在に至るまで
よく保存されている。
外観は円筒形状で地上は10層、地下は3層からなり、屋上には
展望台が、地下には地下水を取り込んだ貯水池が作られている。
時の国王がその嗜好や、使用目的に応じて改修しているため、
外装・内装とも変化している。
現在の外観は、蜂蜜色の壁に花鳥紋の浮彫りが施されて、
円筒形という素朴な形状の割には優雅な趣が加わっている。
塔に入る扉は地上階に3つ。王宮に面する北側に正面扉があり、
東側と西側に細い通用口が取り付けられている。
しかし、そのいずれの扉も国民に向けて開かれることはない。
その塔が“王家の塔”と呼ばれることは、広く知られているが、
その塔が“王家の牢獄”であることを知る者はほとんどいない。
優しい外観にそぐわず、この塔が、立春祭の“彩華の塔”のように
慶事に利用されることはない。
“王家の塔”は罪を犯した王族を生涯幽閉するための場所だ。
ファネの王法により、王の血を引く者には死刑が科されない。
それを温情と解釈する者もいるが、実際には生涯幽閉という名の
終身刑を科すことで贖罪を迫るものだ。
それが嫌なら、自死を選ばなければならない。
公にはされていないが、塔が一番最後に利用されたのは、
先々代イランサ王の3番目の王妃カーラに対してだ。
表向きは事故で亡くなったことになっているが、本当のところは
王妃が国王を裏切り、反王勢力と結託していたのである。
国王暗殺に失敗して後は、捕えられて、“王家の塔”送りとなった。
イランサ王の力をもってすれば、闇に葬ることも容易かったが、
それを思いとどまったのは王妃が彼の子を3人産んでいたからだ。
王子は夭逝したが、2人の王女は順調に育っていた。
王妃カーラは塔へ幽閉された2年後に失意のまま病死している。
イランサ王の後を継いだキランサ王は思うところがあったのか、
いつでも利用できるように、“王家の塔”を完璧な状態に維持した。
それは、己に逆らう王族がいればいつでも塔に放り込むぞという
警告だったのかもしれない。
そして、現王ソランサは最近になって、塔の内装を改修し、
瀟洒でありながらも現代的な最新装備を導入している。
…あたかも中に留める貴人を想定しているかのように。
天窓から降り注ぐ月明かりにリアンはゆっくりと瞳を開いた。
直ぐに自分が見知らぬ場所に寝かされていることに気づく。
自治省次官室は3階だ。天窓があろうはずがない。
最上階の長官室にだって天窓はない
…つまり、ここは旧カリン宮ではない。
寝具の肌触りも馴染みのないもので。
次官室の仮眠室にはありえない、しっとりとした
厚手の絹織物で、しっかりと羽毛が詰まっている。
「お目覚めですか?」
小さな灯明を片手に近づいてきたのは、もちろん公爵サマだ。
リアンはその声で、慌てて上体を起こした。
「長官、起きて大丈夫なのですか?お加減はいかかですか?」
「ええ、お陰さまで。貴女もぐっすり眠っていましたね」
キリルはけっして嫌味で言ったわけではないのだが、
リアンは恥ずかしくなった。
看病しているつもりで自分の方が熟睡してしまうとは。
しかも場所を移されていることに気付かないほどに。
もちろん強制的に意識を奪われたことなど、
知る術もない次官である。
月明かりの中、きょろきょろと寝台の周囲を見回す。
警戒心ではなく、好奇心に溢れる様子だ。
その落ち着きない様子を、キリルは捕食者の面持ちで観察する。
彼の唯一の女が、次にどのような行動に出たとしても、
逃がすつもりはない。
必ず捕える。彼女を。
「それで、ここは何処なんですか?長官」
寝台の上から一通り見回して、ついにリアンは尋ねた。
「“王家の塔”です」
「あの蜂蜜色の建物の中ですか?さすが王家の持ち物。
豪華ですねぇ」
状況が全く分かっていないアギール伯爵令嬢は素直に感嘆している。
月明かりと小さな灯明だけなので、室内は薄暗いままだが、それでも
置かれている調度品の数々が芸術の域にあると察せられた。
「でも、勝手に入って大丈夫なんですか?
長官が元王子様なのは知っていますが、臣籍に入ったんですよね?」
次官は全く見当違いな心配をしていた。今一番彼女が心配しなければ
ならないのは、彼女自身の将来であるべきなのだが。
「最近陛下から賜りました。今は私のものです」
「ええ?何か功績があったのですか?」
「…どちらかというと、これから功績を立てることになります」
「前払いということですか?陛下も太っ腹ですね」
踏み倒されるかもしれないのに…とブツブツ続ける。
その無邪気な様子が愛おしくも憎らしい。
「貴女をここに閉じ込めてしまいたいのです…例え、どれほど
嫌われることになっても」
リアンのどんな反応も逃すまいと、
キリルは両手で彼女の頬を包みこんだ。
非難の眼差しも、拒絶の言葉も、暴れる四肢も、全て覚悟して。
…手中の獲物を逃す獣はいない。
「長官のこと…嫌ってないですよ?」
ところが次官の反応は予想をことごとく裏切っていた。
黄緑の瞳を丸くして、驚きを表すとともに、
何とキリルの首に両腕を巻きつけてきたのだ。
ミルケーネ公爵はリアンの柔らかな感触に酔いつつ、
その言葉を信じることができなかった。
「私の求婚を断りましたよね?」
「それは長官が、人の準備も、希望も、意見もことごとく無視して
突っ走ったからでしょう?覚えてないんですか?
誰が聞いてもサイテーな求婚でしたよっ!」
そうだったろうか。
キリルは首をかしげた。
とにかく陛下との約束もあって、婚約発表の日取りだけでも確定
しようと必死だった気がする。
リアンの負担を考えて、全部自分が引き受けると言った
つもりだったのだが、なぜか激怒された。
(ん…?ということは、まだ希望はあるということか?)
間近にあったリアンの顔が離れて行きそうになって、
キリルは慌てて、両腕に拘束した。そのまま寝台に倒れ込む。
「…逃がしません」
「逃げませんよ…」
リアンが次に言おうとした言葉は
息の止まるような抱擁と接吻に飲み込まれた。
キリルの本気を痛いほどに感じる。
身体だけでなく心が触れてくるのを感じる。
それは、愛しさとともに、彼の不安、孤独、焦燥。
それから切ない気持ち。
あまりの情熱にしばし逃げ腰になったリアンだが、
正面から受け止める決心をする。
自分が彼にどれほどの苦痛を強いていたか気づいてしまったから。
「リアン、いつもの添い寝とは違いますよ?」
「わかっています」
長官は次官の服に手をかけていた。
「本当にわかっているのですか?貴女を抱きますよ?」
「わかっています!!!」
リアンは思わず叫んでしまった。
室内が薄暗いとはいえ、ここまで接近していると、
キリルの藍色の瞳を確認することができる。
彼は半信半疑でいた。
アギール伯爵令嬢は全身が羞恥で火照るのを感じながらも、
自分の決意を示すために長官の服に手をかけた。
「私を受け入れてくれるのですか?」
「どうして何回も確認するの?
これ以上、言ったら止めるわよ、キリル!」
「いや、ダメだ。ここまで来て、止められない」
互いに一糸纏わぬ姿になっていた。
同じ寝台に寝たことは何度もあって、寝台の中での抱擁も口付けも
初めてではないというのに…今夜は明らかに違った。
リアンの大好きな白絹の手が彼女の全身に触れていく。
自治省でグウタラ長官を演じている時には想像つかないほど、
公爵サマの身体は引き締まり、鍛錬した軍人のようだ。
月光に照らされた彼の姿態は美しく、惚れ惚れしてしまう。
けれども、触れていくうちに
左の頸動脈以外にも消しきれていない傷痕があることを知る。
一つや二つではない。幾つも…数えきれないほどに。
それは若くして彼が何度も修羅場を潜ってきたことを物語っていて。
愛しさで胸がいっぱいになる。
(生きていてくれて、ありがとう)
キリルが生きることを諦めなかったから、自分たちは
巡り会うことができたのだ。
「ん…?何か言った?」
手の次に唇を這わし始めた公爵は、きわどい箇所の手前で顔を上げた。
リアンはここで何か言わなければいけないと思った。
好き。
大好き。
愛している。
幾つかの言葉が頭を巡ったが、最後に閃いたのはフローネの台詞だ。
当代一の貴婦人にあやかろう…彼女は何と言ったっけ?
「お…」
「お…?」
キリルの十指に力が籠った。ここで万一「お断りします」が出たら
彼はもう立ち直れない…一生、人間に戻れず、獣と化すだろう。
「お慕いしています、キリル」
アギール伯爵令嬢の唇が待ち望んでいた言葉を紡いだ。
彼女の黄緑の双眸が涙で潤み、金茶の髪が肩先で揺れている。
そうしてキリルに向かって微笑かけてくる。
…どちらにしろ獣と化す運命であったようだ。
キリルの最後の理性と良心は木端微塵に吹き飛んだ。
最愛の女、唯一の女を我が物にするために、彼は激しく動き出した。
*** *** *** *** ***
差し込んできた光に違和感があってリアンは瞳を開いた。
キリルの綺麗すぎる横顔が唇の触れそうなほど近くにある。
朝から心臓に悪いではないか。
(ん…?朝…?)
違和感の正体が分かった。月の光ではない、朝の光だ。
“王家の塔”の八方に設けられた花の形をした窓から光が降り注ぐ。
遠くで、小鳥の囀りが聞こえる。
「きゃぁああ…長官、起きてください!長官、朝です」
リアンは慌ててシーツを押さえながら上半身を起こすと、
隣で眠るキリルの横顔をペチペチと叩いた。
「んんっ、リアン、まだ早いです。もう少し…」
ぐいっと腕を引かれ、リアンは公爵サマの上に倒れこんだ。
「早くないです!仕度しないと遅刻しますよ!」
朝日の中…恥ずかしくて正視に耐えないのだが、
イロイロぐちゃぐちゃなのである。
入浴は無理でも、身は清めたい。
洗濯は無理でも、寝具は剥がしたい。
「仕度って…自治省に行くつもりですか?」
リアンを腕に捕えたまま、キリルが藍の瞳を開いた。
「当たり前です!長官はサボるつもりですか?ダメですよ!」
そう言いながら、キリルの髪を優しく撫でつける。
癖のないはずの黒髪が小さく跳ねていて、
リアンはついつい笑い声を上げてしまった。
その笑顔を囲い込みながら、ミルケーネ公爵は慎重に
言葉を選んだ。
「あのですね、リアン。私は貴女とずっと一緒にいたいのです」
「私もです、キリル。私もずっと一緒にいたいです」
(だから貴女をこの塔に閉じ込めてしまいたいのです
…自分だけのものとするために)
そう告げる前に、リアンの両手が動いた。
親指と人差し指で挟んで、キリルの両頬を
ぎゅむむっと引っ張ったのだ。
「痛いです、リアン」
「目が覚めましたか?聞こえていますか?
私も一緒にいたいので、一緒に出仕しましょう!」
「…この塔はお気に召しませんか?」
王妃が幽閉されるほどの塔であるのだが。
「ええと、素敵な所だと思います。
また連れてきていただけたら嬉しいです」
素直に希望を述べてしまって…リアンは大いに後悔した。
これでは自分から夜の誘いをかけているようではないか。
目の前で盛大に照れている娘を見て、自然とキリルの唇が綻んだ。
「私より仕事を取るんですか…酷い女だ」
考え直しませんか?という風に、朝にしては濃厚な接吻をする。
あっという間にリアンの頬が紅く染まった。
昨夜から何十回とした行為でも、やはり恥ずかしいものなのだ。
けれども、ここで彼女は頑張った。
「長官と仕事を比べたりしませんよ?」
そう言って、濃厚な接吻をそのままお返しした。
キリルが固まった隙に、寝台を離れて立ち上がる。
いや立ち上がろうとしたのだが…。
「危ないっ!」
シーツごと抱き留められて、キリルに支えられる。
「あれ、あれれっ…」
「…急に立ち上がるからですよ。
私たちが眠る前まで何をしていたか忘れたんですか?」
それはもう、忘れたくても忘れられない、
あまりに生々しい記憶だ。
キリルは強引でも力ずくでもなかったが、リアンの
「待って」も「ダメ」も「ちょっと休む」も結局は流されて、
ひたすら明け方近くまで求められていた…気がする。
気がするというのは、最後の方の記憶が怪しくなっているからだ。
「あの、キリル…」
「自分で歩くとか言わないでくださいよ?
ここは塔の最上階です。浴室がある地下1階まで、
その足腰では無理ですよ」
用意周到…というか、二人分の浴衣が準備されていて、キリルは
素早く自分で着こみ、それからリアンのシーツを剥ぎ取って
着せかけた。
「私が清めて差し上げますから、大人しくしていなさい」
「いいえ、自分でできますので、お気遣いなく」
「何を言っているのですか。
これ位の楽しみはくれても良いでしょう。
全く、初めて結ばれて翌朝に“遅刻しますよ!”って
あんまりだろ?」
「何を言ってるのですか!
長官がサボる気満々って、間違ってるよ!」
そんな攻防が塔の十層から地階に降りるまで続く。
長官と次官言葉の間に、砕けた恋人たちの口調が挟まる。
もちろん、リアンは公爵サマに抱きかかえられていて、
螺旋階段の上なので下手に身動きすることもできない。
時々、藍色の瞳とともに口付けが降ってくる。
そうするのが当然、という相手の態度に
リアンの方も自然に受け入れてしまう。
段々慣らされてゆく気がする。
二人きりの時は…まだいい。
けれども、これを自治省の衆人環視のもとにやられること
だけは、断固として阻止しなければならない。
「長官、お腹が空きました…」
リアンは素直に空腹を訴えた。昨日、長官の看病
(と言えるかどうか怪しいが)をしている時に、ビスケットを
齧っただけで、結局夕食を食べそびれてしまったのである。
夜は夜でずっと激しい“運動”を強いられたので、
朝食は絶対に確保したいところだ。
「はぁ…」
「キリル?」
公爵がリアンを抱きしめて歩きながら、頬と頬をぴたりと付けて
くる。そのまま深い溜息をつかれたのだが、理由が分からない。
キリルは昨夜の自分の決心は一体何だったのかと、脱力していた。
けれど、不思議と心が充たされていて、恋人の細やかな要求に
応えてやりたいと思ってしまう。
「自治省に帰ったら、ソライに何か作ってもらいましょう」
「具沢山のお粥が良いです」
リアンは嬉しかった。
朝食に有り付けるから、とか、ミルケーネ公爵家専属調理人の
美味しいお粥が食べられるから、という理由だけではない。
キリルが自治省に「帰る」と言ったのがひどく嬉しかったのだ。
彼にとっても、そこが帰る場所なのだと感じて。
*** *** *** *** ***
レナン宮にある内務省本部はファネ王国の内政を司る
中枢機関といえる。
国王ソランサが任命した宰相が直轄する機関であるため、
宰相が内務省長官を兼任していると信じている者も多いのだが、
実は長官は別にいる。
キリル・ヒョウセツ・ミルケーネ。
先々代王イランサの末子であり現王の叔父にあたる公爵。
内務省長官として公式の場に出ることはほとんどないが、
彼こそが内務省の警察機関と諜報機関を統べる者である。
25歳という若さながら、その権力は国王に次ぐ三勢力、
即ち、王弟・宰相・公爵の一つを担っている。
自治省でグウタラ長官をしている時とは正反対に、
レナン宮でのキリルは一切の甘さを見せない。
やはり最上階にある長官室は旧カリン宮のものに比べて
5分の1の広さしかないが、質実剛健を具現化した造りを
している。
直属部下に指示を出す時を除いて、キリルがレナン宮の長官室に
居ることは稀で、王国に敵対する犯罪者の捕縛や尋問のために
外で陣頭指揮を執ることも多かった。
ミルケーネ公爵の名誉のために付言すると、
彼が自治省に出仕するのが正午近くになるのは、
夜中に捜査活動や諜報工作を指揮していて、
それがしばしば明け方近くにまで及ぶからである。
自治省次官は勝手に「宵っ張りの朝寝坊」と決めつけているが、
内務省長官としてせっせと王国のために働いている時もあるのだ。
「それで捕らえた刺客の処遇ですが…」
キリルは内務省次官から自治省次官を襲撃した者の正体と
背後関係について報告を受けていた。
“王家の塔”での幸福な一夜の後、キリルはリアンの願いを叶えて、
自治省に一緒に出仕した。
公爵家専属調理師が腕に寄りをかけて作った
(彼なりの祝福の表れだったのだろう)具沢山粥を
銀の匙で食べさせあいこまでした。
もちろんリアンは恥ずかしがって抵抗したが、
その程度の要求は飲んでもらった。
当然だろう!
生涯幽閉しようとまで追い詰めていたのに、
翌日定時に出勤って一体何なのだ。
自治省でずっと一緒に居たかったが
(そして彼が署名する傍らで押印してもらいたかったが)、
彼女を殺そうとした者の処遇を他人任せにはできなかった。
「長官…?」
戻ってきてください、というレムルの心の声が聞こえた気がした。
はっと顔を上げると、正面で内務省次官が返答を待っている。
ヴァンサラン補佐官も主人に従って、内務省にやって来ていた。
彼はキリルのすぐ傍らに立ち、次の指示を待っている。
自治省次官の殺害を企てたのはソイ州での不正がバレて
失脚した大臣の身内であった。
視察中はキタラ、ヴァンサラン、モムル、クロン、イェイルの
鉄壁ともいえる守護陣があり、送りこんだ者たちが悉く返り討ちに
遭ったため、思い余って、王府で自ら動くことにしたらしい。
いずれにせよ…許すわけにはいかない。
「両目を抉り、耳と鼻を削ぎ、十指の爪を剥いで、
生きたまま城門に晒せ。大烏を放ち、後の処理を任せよ」
「長官、それは…」
キリルが真面目に命じてきたので、レムルは困惑した。
「どうした?古王家では普通に行われた刑罰だぞ?」
何百年前の話だ。
レムルは頭を抱え、ヴァンサランは小さく嘆息した。
「逆恨みで王国の政務次官を殺害しようとした罪は重い」
それはそうだが。
「私のリアンを狙うなど八つ裂きにしても足りない」
…どう考えても、私情で断罪しているだろう。
「犯人には自治省次官が将来のミルケーネ公爵夫人だという
認識はありませんし、それに未遂ですよ?」
狙われた次官はぴんぴんしていて、
今日も元気に自治省でお仕事している。
「関係ない」
キリルはレムルのまっとうな主張をにべもなく撥ね付けた。
どうにも城門に生ける屍を晒さないと気が収まらないらしい。
さて、どうするか。
レムルは無言の内にヴァンサラン補佐官と視線を交わした。
長官の暴走を止めるのは次官の役目だ。
実際、国内屈指の有力貴族であるフッサール伯爵には
そうするだけの力がある。
しかしながら、ことリアンに関して長官が頑固になるのは
明らかなので、正面からぶつかることは避けたいところだ。
そこで、ヴァンサランがレムルの煩悶を余所にあっさりと問題を
解決してしまった。
「リアン殿に嫌われますよ、城門なんかに晒したら。
誰がやらせたかなんて直ぐバレるでしょう?」
その効果はてきめんだった。
キリルは小さく舌打ちをした後、自分の言を撤回したのである。
「…強制労働先に送れ。極寒のカプレス山脈最奥で
森林の枝打ちと炭焼きでもやらせろ。
刑期は取り敢えず7年。まぁ、それまで生きていればだが」
「畏まりました。司法省と協議して、そのように計らいます」
妥当な結論にレムルは頭を下げた。
ところで、と前置きしてレムルは面を改めた。
次官としてではなく、20年以上の付き合いがある守役の顔になる。
「リアン殿と仲直りできたのですね。おめでとうございます」
いつもなら「お前には関係ない」くらいのことを言いそうなのだが、
今日の公爵サマは違った。
へらっと頬が弛んだのである。
「フッサール伯爵夫妻も無事に復縁できて何よりだ」
今度は内務省次官の頬がへらっと弛む。
レナン宮の内務省長官室に初めて醸し出されたホノボノした雰囲気
…ヴァンサラン補佐官は驚愕した。
「それで日取りはどのようになりました?」
ミルケーネ公爵とフッサール伯爵は一しきりニコニコした後、
レムルの方から具体的な質問が出た。
次官としても伯爵としてもキリルに協力するつもりであった。
ところが、である。
「え…日取り?」
長官が最初から躓いた。
「婚約発表の日取りです。
王家に準ずる婚姻ですから、婚礼式の日にちは勝手に
決められないとしても、婚約発表の日取りくらいはだいたい
決めたのでしょう?
内務省で特別警戒体制を組まなければならないので
…って長官?」
先刻までの和やかな雰囲気はどこへやら、
レムルの目の前でキリルが固まってしまった。
(そう言えば、“今後の日程”について何も決めていなかった…)
合間合間に互いに何か囁いた気がするが、よく覚えていない。
ひたすら可愛い可愛い可愛い…
(以下、千回続く。スペースの関係で省略:作者注)
リアンに溺れて、本能のままに動いていた気がする。
「長官」
レムルのイラっとした声が飛んだ。
フローネからの離婚宣言を恐れて、6年近く逃げ回っていた
彼が非難する資格は全くないのだが。
同族嫌悪というやつかもしれない。
「念のため、お伺いしますが、
リアン殿にちゃんと“愛してる”って言ってもらいましたよね?
それから結婚の承諾をきちんともらったのですよね?」
フッサール伯爵の畳みかけるような問いに、
ミルケーネ公爵は真っ青になった。
(愛してる…?)
いや、リアンはそんな言葉を使わなかった。
なんだったか
…そうそう彼女には凡そ似つかわしくない“お慕いしている”
なんて気取った言葉を使っていた。
それは好きと同義であり…
「兄を慕うとか、師を慕うとか、上司を慕うとか、
いろいろな“慕う”があるな」
「はぁ」
レムルの気の抜けた相槌は、長官の耳に届かない。
(どの“慕う”なんだろう。そういえば、確認を怠った!)
挙句、求婚の「再」返事ももらいそこね、
婚約発表の日取りも決めそこなった…とんでもない失態だ。
それなのに、自分はウキウキと、
リアンと一緒に“王家の塔”を出てしまったのである。
何たることだ!!!
「な~にをやってたんですか、あんたは」
敬語を吹き飛ばしたヴァンサランが、
心底呆れたという声を出した。
昨晩、意識を失ったリアンを抱えて悲壮な顔付きで塔に
向かう主を見送った彼である。
リアンの処遇を巡って、最悪、王家が割れたり、
アギールが反逆したりすることも想定したというのに。
翌朝初々しい新婚夫婦のように手を恋人繋ぎに絡めて
(もちろんリアンは嫌がったがキリルが押し切っている)
出仕してきた二人を見て、
ヴァンサランは顎が外れそうになったものだ。
これはよほど上手くいったのだと喜んでいたら
…肝心なことは何も決まっていなかったらしい。
「主殿に何ら言質を取らせないとは。
次官殿も意外に、男心を弄ぶ罪な女人だな」
ポロリともらしたヴァンサランの軽口をレムルが引き取る。
「ああいう無邪気で一途そうに見える方が意外に魔性の女
だったりするんですよ」
二人ともこの時点では事態を楽観視していた。
長官が不甲斐ないものの、やることはやっているのだ。
程なく纏まることになるだろう、と。
しかし、キリルの針は真逆の方向に傾いた。
「リアンに弄ばれた…?リアンが魔性の女?」
「主殿!」「長官!」
すっかり疑心暗鬼に捕らわれてしまったキリルに
二人の叫びは届かない。
昨晩、確かに彼とリアンは快楽を共にしたけれども、
彼女にとって「それだけ」だったとしたら。
「好きだけど、愛してない」
「好きだけど、結婚はしたくない」
そう思われていたらどうすれば良いのだ。
とても耐えられない。
たくさんの「好き」の一つでしかないなど、許せない。
自分以外の「好き」は全部潰してしまわなければ。
「リアンに問い正してきます!」
遂にキリルは椅子を蹴って立ち上がった。
そのまま走り出してゆきそうな公爵サマの両肩を
レムルとヴァンサランが両側からガシっと押さえ込んだ。
「…何の真似だ?」
藍の瞳が剣呑に煌めく。
止めだてする二人に本気で腹を立てている。
「まぁ、主殿、ちょっと落ち着きましょう」
「せっかく、上手くいってそうなのに、
また自分でぶち壊しにするつもりですか」
この状態で、キリルが自治省に戻り、
リアンの前で喚き立てたらどうなるか。
まず間違いなく、激怒したリアンに二度目のお断りを
もらうこと確実だ。
勘弁してほしい。
二人の莫迦莫迦しい喧嘩はしかし、放っておけば
自治省や内務省のみならず、王家や王国へと波及してゆく。
ここで食い止めねば。
「リアン殿に何をお尋ねになりたいか存じませんが、
せめて夕刻までお待ちください」
「みっともない姿を見せて嫌われたくないでしょう、主殿」
(リアンに嫌われる…)
キリルが静かになった。
「内務省でお仕事しましょうね、長官」
その後、鬱々と机に向かった公爵にヴァンサランとレムルは
付き合うことになった。
こういう時の長官は機械化するので、
未決拘留者の処遇がサクサクと決まっていく。
内務省次官は抜け目なく、
長官が「使える」機会を最大有効活用した。
その代わり、この後、彼が2、3日引き籠ったり、
失踪したりしても、「大目に見てやる」つもりだ。
ヴァンサランはリアンに警告を発しようかと思いあぐねたが、
結局は何もしないことに決めた。
男女の仲に横から嘴を挟まぬ方が良い、というのが彼の持論だ。
そうこうして退勤時間に近づき、
キリルはいそいそと自治省に帰って行った。
そのまま3階に直行するも、肝心の次官がいない。
モムルが妙に暗い表情、固い声でリアンが気分転換に
散歩に出かけたことを告げた。
間もなく戻るだろうと必死な様子で引きとめるのだが、
待ちきれずに公爵サマはリアンを探しに外に出かけた。
そうして…迷路園の出口で見つけてしまったのだ。
彼の最愛の女が自分以外の男を抱き締める姿を。
相手は農業省の役人ラウザ。
リアンの元恋人であった。
「その6」を回避したいので、
本篇の中にぎゅむっと詰め込み、ちょっと長くなってしまいました。
キリルが山を上り、谷を下り、と大忙しです。
雪豹よどこへ、ハツカネズミ状態ですよね…あれ?
次回「自治省のロマンス その5」(章の最後を予定しています…が)
リアン&ラウザを前に…長官、どうする?です。
それから、またベリルが暗躍します。
まぁ、イロイロやってくれる方です。