第八章 自治省のロマンス その2
アギール伯爵令嬢リアン。
地方都市ルーマで下級役人をしている頃から頑張り屋さんでした。
留学先のイサ国でも地方行政や外交について一生懸命勉強していました。
突然の災害で両親を亡くし、癒えぬ心の傷を抱えながらも、
王都では自治省政務次官という高官職を立派に勤め上げておりました。
しかしですよ?遂に限界が来てしまったみたいです。
「鬼の政務次官」、転じて、単なる癇癪持ちのお子さまになりました。
夜明けと競うように、リアンは王府へと足を踏み入れた。
先月までの茹だるような暑さはなんだったのかと思うほど、秋の気配がそこ
かしこに感じられる。長袖を着ていても肌寒いほどだ。
寒暖の差が大きくなる、この時期特有の朝霧も発生していて、
視界が利かない。
2度目の地方視察を終え、リアンが王都キサラのアギール伯爵邸に無事
帰宅したのは昨日の深夜であった。
そのまま休む間もなく荷解きをし、睡眠もそこそこに、
翌日は早朝出勤に臨む。
次官室にヴァンサラン補佐官や8人の秘書官たちがやって来ないうちに、
溜まっているであろう書類に目を通してしまおうと考えたのだ。
加えて、非常に後ろ向きな発想ではあるけれど、視察を終え、
王府に戻ったら、自分が更迭されるかもしれない
…そのこともリアンは半ば覚悟していた。
なにせ、彼女の上官殿は清廉潔白、公私混同なぞ一切しない
…などと断言できるような御仁ではないのだ。
むしろ過去の所業を考えれば(内務省留置所に押し込める、トマス州視察に
現れる、国軍最新小銃を破壊する…とかね)、今日明日にも
「お前はクビだ」と言われかねない。
そうなった場合を想定するならば尚のこと、
リアンは急がなければならなかった。
王族出身の公爵サマ、内務省長官でもあり、自治省長官でもあるキリルが
本気になれば、いかに理不尽な命であっても
(振られたからクビにするって何だ)、リアンに覆す術はない。
しかし、いずれクビになるとしても、次官でいられる内は精一杯の
働きをしたかった。
旧カリン宮の手前で立ち止まる。
まだ次官に就任して一年と経たないのに、
この場所を懐かしいとさえ思ってしまう。
視察からこの場所に「帰ってきたんだ」と感じる自分がいる。
ふと、最上階に人影があったように思えて、目を凝らす。
霧はまだ晴れてくれない。
夜明け前から自治省に長官が居ることはまずありえないし、
公爵家から派遣された調理師や侍女が来るには早過ぎる。
リアンは目の錯覚だったのだろうと判断した。
………幻覚を見るほどに自分の症状が悪化しているとは思いたくなかった。
正面扉が開く時刻ではないので、建物の裏手に回る。
裏門用の鍵は次官就任と同時に入手してあった。
恐らく歴代自治省次官の中で一、ニを争う使用頻度である。
そこには誰もいないはずであったが…案に相違して、人影があった。
それも二人。それも若い男女。
(イェイル…)
リアンは頭を抱えて、そのまま地面に座り込みたくなった。
自分の従弟である若い近衛騎士に対して、申し訳ないとは思っていたのだ。
国軍大将であるワグナ殿下からの命令とはいえ、10日以上も地方視察に
付き合わせてしまった。
その間、彼は愛しの王女と離れ離れになっていた訳で
…帰還して直ぐに会いたいという気持ちは分かる。
(分かるが、早朝の逢い引きは止めてくれっ!)
反射的に列柱の影に身を隠した次官だったが、王女と騎士が
情熱的な接吻を交わすのをまたもバッチリと目撃してしまった。
さすが10代、若い、激しい、って、いやいや
…リアンは平常心をかき集めた。
今こそ「大人」の対応をしなければならない時。
二人の恋は露見すれば身の破滅なのだから!
(ここは私がビシッと…!)
ビシッと…何を言うのか?
マリンカ王女に対して、お立場をお考えくださいと諌める?
イェイルに対して、身分をわきまえよと叱る?
…そうやって二人に別れを迫るのか。私が?
リアンは自然と回れ右をしてしまった。
軟弱者と謗られようと、とても二人に意見などできやしない。
(ごめん。逃げる)
しかし、背後にすすり泣きが聞こえ始めて、リアンの足が止まった。
振り向けば、マリンカ王女がイェイルの胸に顔を埋めるのが見えた。
必死に声を殺しているようだが、途切れ途切れに嗚咽が聞こえる。
王女を抱きしめる騎士の身体も小刻みに震えているようであった。
リアンの胸がキリキリと痛んだ。
どこか自分の中で若い二人の恋を侮っていた。
どうせ初恋など実らないもの、一時の甘い夢の後には、
王女は将来国主となる責務を、騎士は将来伯爵となる責務をそれぞれ
自覚するようになるだろう…そう勝手に決めつけていた。
そんな自分が恥ずかしい。
年齢ではない。
マリンカもイェイルも真摯な思いで、あんなにも互いを求めているのに。
「誰かそこに居るのか?」
霧の向こうから足音が近づいてきた。巡回の警備兵だ。
リアンと同時に、王女と騎士も、誰何の声に気付いたようだ。
二人とも身を固くしたまま、動けずにいる。
この場合、走って逃げるのが一番不味い対応である。
警備兵が異変を察知して携帯している笛を鳴らしたが最後、
バラバラと八方から兵が集まり、忽ち取り囲まれてしまうだろう。
「はい、はい、私です。リアンで~す!」
リアンは片手を高く上げ、警備兵に自分の存在を知らしめた。
同時にイェイルとマリンカ王女には逃げるよう合図を送る。
二人は同時に頭を下げて、次の瞬間、朝靄の中に溶けるように消えた。
「次官殿?」
もちろん警備兵は自治省政務次官の顔を知っていた。
金茶の髪に黄緑の瞳、“アギール家の娘”に身分証は不要だ。
「お騒がせしました」
リアンはペコリと頭を下げた。
「随分お早いお越しですな」
「昨夜、視察から戻ったんですが、王府での仕事が気になってしまって…」
リアンは警備兵と当たりさわりのない会話を続けて、
王女と騎士が逃げるための時間稼ぎをした。
二人のことで見て見ぬふりをするのはこれが最後だ。
リアンは次に従弟と会う時に、自分の立場をはっきりさせる決心をした。
*** *** *** *** ***
半ば予測していたことだが、王府復帰初日の午後には
“王妃さまのお茶会”が待っていた。
他に誰が参加するか終始ビクビクしていたリアンであったが…
結局のところ最後まで誰も来なかった。
陛下も太王太后も、王女も、王弟も、長官も、だーれも来なかった。
(何なのよ、もう…緊張して損した)
フッサール伯爵夫人フローネだけが王妃付女官として王妃シャララの
傍らに控えていた。
「あらあら、折角、リアンが帰ってきたのに寂しいわね…」
王妃は残念がったが、リアンは逆に安堵した。
今朝のことがあって、マリンカ王女と顔を合わせるのは気まずいし、
長官とは…
会わないわけにはいかないが、今はそれをできるだけ
先延ばししたい心境である。
それに、キリルの方でもリアンを避けている節があり、本日再三に渡って
最上階へ帰還の挨拶に行ったのだが、ずっと不在のようだった。
居残り組のミシェラからはリアン不在中、長官が毎日自治省に出仕していた
と聞いたので、本日に限って現れないのは、やはり自分が原因なのだろう。
茶会が終わってエリエ宮を出たリアンをフッサール伯爵夫人が
追いかけてきた。
王妃の御前で何か不調法があったかと、久しぶりの小言を覚悟したが、
フローネが口にしたのは全く別のことだった。
「大叔父上と別れたそうね」
一瞬誰のことかと思ったが、
フローネにとっては祖父にあたる先代キランサ王の異母弟。
なるほどキリルは確かに大叔父であった。
フローネより一つ年上なだけだが。
「長官とはスッパリお別れしています。今後、フローネ様と
親戚付き合いすることはありませんので、その点、ご心配なく」
ついつい嫌味で応酬してしまうリアンだったが、
意外にもフローネは毒を吐かなかった。
「あの大叔父が簡単に引き下がるとも思えないのだけど
…誰が見ても丸分かりの愛情表現でしたし」
「長官の愛情表現なんてサッパリ分かりませんよっ!」
リアンは思い切り反論してしまった。
ここでフローネに喰ってかかったところで始まらないのだが、
胸の内のモヤモヤを抑えることができなかったのである。
「何でも一人で決めてしまって、何もするな、動くな、迷惑だ、
しかも最後には要らないって何サマですか?」
「リアン」
「分かっています。偉ーい公爵サマですね。でも私は人形じやない。
全部自分に任せておけだの、大人しく守られておけだの、
私の意志をことごとく無視するような人は…」
「リアン」
フローネのやんわりとした静止は無視され、リアンの文句が滔々と流れた。
フッサール伯爵夫人は地雷を踏んでしまったのだ。
萎れきっているミルケーネ公爵を見かねて、少しだけ助力してあげようか
などと、珍しく情け心を出したのが失敗であった。
「でも、リアン、振ったのは貴女の方なのでしょう?」
「そうですよ、長官なんてもう知りませんっ」
…だんだん子どもの癇癪になってきている。
「それで、振った方の貴女が何で落ち込んでいらっしゃるの?
公爵に未練があるのなら、
どうしてもう一度きちんと話そうとなさらないの?」
そう畳かけるように問う。リアンは呻いた。
今回フローネから頂戴するのは「小言」ではなく「説教」のようだ。
年下のクセに…。
「フローネはいいわよねっ!」
ついにリアンの苛立ちは八つ当たりとなって
フッサール伯爵夫人にぶつけられた!
我慢に我慢を重ねて
「大人のできる女」のフリをしていたのがプチンと弾けてしまった。
「王家の血を引く高貴なお姫様で、洗練された貴婦人で、
いろいろあっても気にかけてくれる両親や弟さんがいて、
王妃さまの信頼も厚くて…別居中とか聞いたけど伯爵家に
お嫁に行っていて。
貴女なんかに分からないわよっ!
“アギール家の娘”とか変な注目されているだけの、庶民育ちの田舎者で、
しかも…嫁き遅れの私の気持ちなんて、絶対貴女に分からないっ!」
途中から支離滅裂。しかも自分で自分を貶めてしまうなんて最低だ。
すっかり感情の制御できなくなったリアンである。
彼女がこんな癇癪玉を破裂させることは、
もしかして人生で初めてかもしれない。
いろいろ有り過ぎて、許容量を超えた果ての、一種の退行現象だろうか。
「言いたいことは、それだけ?」
リアンが興奮するのと対照的にフローネは冷静になっていった。
目の前で喚きたてる娘に驚きつつ、なぜか嫌な気がしない。
本音をぶつけられることが嬉しいとすら思ってしまう
…今までそんな相手などいなかったから。
「リアン、私は決心したわ」
すっと背筋を伸ばして、そう宣言した伯爵夫人は
女王のように堂々としていた。
「えっ、な、何を?」
子どものような振る舞いをしたリアンはさすがに恥ずかしくなって
口ごもる。
「死ぬ前にやりたい事が二つあると言ったでしょう?
一つはトマス州で果たせたけれど」
生母であるリウカ王女の死因を確かめること。
それはまた、父であるアジヤ侯爵の心の内を知ることにも繋がる。
リアンはその「真実を尋ねる」場に確かに立ち会っていた。
「王都に戻って、なかなかもう一つを実行に移せなかったのだけれど
…いつまでも逃げていてはダメね」
「ちょ、フローネ、何するつもりなの?」
前回は祖父ハリドが殺人容疑者にされていた。
どうせ今回もロクなことではあるまい。
「今から内務省へ行くわよ…“真実を告げる”ために」
「え?長官のトコ?いいです、私は遠慮します」
ただ今の醜態を告げ口されたら立ち直れない。
「いいえ、次官の所よ」
「レムル殿の?何しに?」
リアンの場合、次官同士ということで時おり業務指導をしてもらっていた。
しかし、王妃付女官と内務省次官というのは接点がなさそうだが。
「付き合ってもらうわよ、リアン。
私が玉砕するのを見て、少しは反省するがいいわ」
「はぁ?」
玉砕だの反省だの訳が分からない。
分からないままに、フローネが何やら重大な決心をしたと悟って、
リアンは内務省への同行をお断りすることができなかった。
*** *** *** *** ***
バアンと勢いよく内務省次官室の扉が開け放たれる。
秘書官と打ち合わせしていたレムルは、はっと顔を上げた。
内務省はファネ王国の警察と諜報も管轄している重要部署である。
そう簡単に外部からの侵入者を許すはずもないのだが…何事も例外はある。
「次官殿、少しお話がありますの。お時間を頂戴してよろしいかしら?」
王女リウカを母に持ち、大貴族アジヤ侯爵を父に持つ貴婦人。
王族に準じる高位にあるこの女性を止めることができる役人は内務省には
いなかったらしい。
紅潮した顔のまま、フローネはいきなり切り出した。
その直ぐ後ろからリアンは入室したが、これから何が始まるのか
サッパリ検討がつかない。
「ただ今、打ち合わせ中でして…」
突然現れたフッサール伯爵夫人に内務省次官は
珍しく狼狽えた表情を見せた。
丁重にお帰り願おうとしたのだが。
「申し訳ないけれど、しばらく退室していただけるかしら?」
言葉とは裏腹に申し訳ないとは全く思っていなさそうな、
きつい視線を秘書官に投げる。
内務省次官付秘書官たるもの、相手が当代一の貴婦人であっても
簡単に引くべきではないのだが…何となく剣呑な雰囲気を察して、
彼はすばやく一礼するや姿を消した。
「レムル、聞いていただきたいのだけど」
「ちょ、ちょっと待った…何で自治省のリアン殿までいるんだ」
フローネの態度から、二人は知り合いだとリアンは察した。
「彼女には見届け役になってもらおうと思いまして。つまり、証人です」
「見届け役って…証人って…」
レムルは上手に言葉を紡ぐことができずにいるようだった。
激しく動揺する様が見てとれる。
敵味方双方に対してアメとムチを使い分け、上手に操るレムル政務次官。
抜群の統率力と指導力を有する内務省の要。
性格的に時々「ん?」と思うことがあるものの、
リアンがちょっとは尊敬している先輩次官である。
しかし、いつもの自信溢れる姿は何処へやら、今やフローネの一挙一投足に
怯える子犬のようである。
(何これ…?)
レムル次官が突然変になったのか、それともリアンが知らないだけで、
フローネが実はもの凄く恐ろしい存在であったりするのか。
「レムル、はっきり言わせていただくわ」
フローネが近寄った分だけ、レムルは後ずさりする。
ほどなくして内務省次官は壁まで追い詰められ、退路を絶たれた。
すうっと二人が同時に息を吸い込んだ。
「もう別居は嫌ですの!」「離婚だけは勘弁してくれっ!」
互いに互いの叫び声を打ち消し合ってしまう。
「お慕いしていますの!」「愛しているんだ!」
そして互いに「え?」という顔をして、相手の顔をまじまじと見つめる。
「え?だって貴方は王家の血を引く姫だから陛下に言われて仕方なく
結婚したのではなかったの?
…年も離れていて、ずっと子ども扱いして、王妃付きの女官を
引き受けたら別居するって仰って…」
「え?だって貴女は一刻も早くアジヤ家を出たくて、仕方なく婚姻に
応じて…年も離れていたから、ずっと打ち解けてもらえなくて。
女官になるほどフッサール家にいたくないのかと。
だから別居して、何とか離婚だけは思いとどまってほしかったんだ」
何だよ、この流れは
…リアンは「見届け役」をやりながらヤサグレたくなった。
レムルがその醸し出す雰囲気から中央の上流貴族であることは察していた。
しかし、彼が敢えて爵位を名乗らなかった理由をもっと考えるべきだった。
言わなかったのは、
リアンの知る他の誰かと関係があるからに違いないのに。
リアンの目の前でフッサール伯爵夫妻の「愛、再び」が展開されている。
何でこんなことに付き合わされるのか、とげんなりする思いだ。
「わたくしはずっと子どもの頃から貴方をお慕いしていましたの。
だから結婚できた時は本当に嬉しくて
…でも貴方はお仕事で伯爵邸にはあまりお戻りにならないし、
わたくしが居るから気づまりなのかと思って。
それで王妃様に相談して女官に取り立てていただいたのです」
「私はずっと君を待っていたよ。
子どもの約束を本気にしてはいけないと思いながら…私には君だけだった。
結婚した頃は、内務省次官に就任したばかりで、王家の周辺できな臭い
事件も多くて、帰宅できない日が続いていたんだ。
それで、貴女が突然女官になると言ったものだがら、完全に嫌われたかと
思って。歳も一回りも違うし、
若い貴女に愉しんでもえるような事も考えつかなくて。
でも離婚だけは絶対に嫌だった。
形ばかりでも貴女を妻として縛りたかった」
二人の言葉が重ねられていく。
それに従って心も重なっていくようであった。
壁に張り付いていたレムルが、
ゆっくりとフローネに向かって両腕を伸ばした。
そして二人は何年かぶりに熱い抱擁を交わす。
リアンは冷静に頭の中で計算してしまった。
一回りの歳の差は別にいい。貴族社会では普通のことだ。
しかし、レムル次官はフローネが子どもの頃から目を付けていたようで…
(レムル次官って、もしや幼女好きだったとか…?)
リアンの不審げな顔を察したのか、レムルが最愛の妻から視線を外した。
「見届け役ご苦労さま、リアン殿。
もう退出してくださって構いませんよ?」
その真意はもちろん、邪魔だから出ていけ、である。
(フローネ、玉砕するじゃなかったの…)
伯爵夫妻の不幸を願うわけではないが、こうまで「めでたしめでたし」と
なると何だか納得できない。
そもそも、結婚してから今まで何をやっていたんだと言いたい。
フローネが成人してから今までということは24引く18…6年以上もだ。
(ん?長く平行線の夫婦って…)
頭の中で何かが引っ掛かる。
自分は半月近く謎解きに挑戦していなかったか。
薄紅と薄緑の書簡。歳の離れた夫婦。
「あ~っ、あの手紙の!」
自治省次官は作法も忘れ、二人を指さしてしまった。
「何ですか?リアン殿」
レムル次官に睨まれる。彼の両腕はフローネに回されたままだ。
「“ご主人さま”と“私の大切なお嬢さま”の往復書簡!」
思わずにやりとしてしまったのは仕方ないだろう。
心当たりがあるのか、レムルもフローネも顔を赤くした。
「なぜ知っている?」「どうして知っていますの?」
二人の声が同時に重なり、また「え?」とお互いを見つめる。
「貴女にいただいた大事なお手紙を失くしてしまって。
ずっと身に着けていたのですが、捕り物で相手と揉みあっている最中に
落としてしまったらしくて。ずっと探していたのです」
「私も、ずっと持ち歩いていたのですが、ある時、盗難にあって鞄ごと
奪われてしまったのです。ずっと探していたのですが、見つからなくて」
リアンは胸元から二通の書簡を取り出して、伯爵夫妻に手渡した。
恋文を見る機会は他にもあったけれど、これほど初々しく、また瑞々しい
ものは初めてであった。
「どういう経緯かは聞いていませんが、モムルとミシェラが探し出して
私の所に持って来ました。見つかって何よりです」
「これを返してもらえますか?」
もちろんリアンはそのつもりだった。
二人にとって大事な愛の証なのだろう。
「どなたのものか知らされていなくて、お返しするのが遅れて
申し訳ありません」
持ち主が分かっているなら、モムルもミシェラも直接返せばよかったのだ。
なぜリアンに託したのだろう。縁結びのお守りにしていたではないか。
「…何か条件はないのですか?」
「条件?もともとお二人のものでしょう。お二人の“復縁”祝いに
謹んで進呈いたします。良かったですねぇ」
最後の一言が意地悪なるのは許してほしい。
長官と破局して悶々としているところに、濃厚な恋愛場面を
見せつけられたのだ。
つくづく勘弁してほしいものだ、フッサール伯爵夫人!
内務省のあるレアン宮を出ながら、自治省次官は我が身を省みる。
フローネは玉砕する覚悟だった。
きっと相手に拒まれたら離婚する決意だったのだろう。
長く思い続けた相手を諦めるのは辛いことだ。
けれど彼女は偽りの中に身を置くことを止め、前に進もうとした。
その勇気を讃えたい。そして、その結果を祝福したい。
しかし。
(お互い歩みよらないと、あっという間に6年経っちゃうのね)
それは苦い教訓でもある。これは自分もウカウカしていられない。
ぐずぐずしていたら本当に三十路越えだ。
長官ともう一度きちんと話し合おう。
それで駄目なら、今度こそルーマ州のシロさんか、イサ国のポチさん
の中から素敵な人を探そう。
(よし!何か元気でてきた)
フローネのように上手くいかないかもしれない。
けれど、玉砕してもいい。
そう思えるだけの勇気を彼女は貰っていた。
「ああ、リアン、ここにいたのかい?」
旧カリン宮の手前で呼び留めたのは、見知ったお婆さんであった。
「“三匹の子羊亭”の…」
王都キサラの歓楽街ニムで大衆居酒屋兼食堂を経営している女主人。
「ちょっとあんたの耳に入れておきたいことがあってね…」
立春祭で知り合って以来、彼女は時々、市井で仕入れた興味深い情報を
リアンに持ってきてくれる。ちなみに彼女は来るたびに
「ところで情報料はいつ払ってくれるんだい?」と請求を繰り返すのだが、
リアンは踏み倒し続けている。
自治省次官がケチなのではない。
このお婆さんが旧カリン宮の壁から剥ぎ取った金箔が
それなりの額になるのだ。
それが相殺されるまでは一文も払わなくて良いとリアンは考えている。
「イェイルっていう近衛騎士…あんたの身内なんだろ?」
その先を想像して、リアンは折角浮上した気持ちをまたも下降させた。
市井で、もしも王女とのことが噂になっているのであれば、かなり
深刻な事態である。
「お婆さん、それは…」
場所を移そうと言いかけて、リアンは女主人の背後から凄い勢いで
接近してきた男の存在を察知した。警備兵の姿をしているが…違う。
「危ないっ!」
リアンは女主人を抱え込んだまま、横に飛んだ。そのまま地面に転がる。
旧カリン宮の前庭に数発の銃声が続けざまに響いた。
父の小銃も国軍の小銃も持たぬ次官に反撃する術はなかった。
ロマンスはロマンスですが、相手が違~う!とお怒りの方。
まずはリアンに元気になって闘ってもらわないといけないので。
王女マリンカと騎士イェイルの恋は前途多難…というかほとんど絶望的。
でも6年以上疎遠であったフッサール伯爵夫妻はここへきて復縁しました。
さて、肝心のリアン&キリルは…はぁ、ようやく次回です。
「第八章 自治省のロマンス その3」
王都に戻ってきたばかりで、いきなり襲撃されたリアンですが…?
さて、しおしおしていた長官もようやく復活、なるか…?
注:もしも更新が遅れたら、作者がラブラブを書けなくて悶えていると
思ってください。お許しを…