表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
自治省の悪臣  作者: 雪 柳
25/52

第七章 自治省の自治部隊 その2

現実世界はまだまだ冬ですが、リアンの世界は真夏になりました。


金茶の髪を短くカットした彼女に某長官が壊れます。


そして工部省のせいで、またも自治省は大変なことに~!


ファネ国祭事の一つに8の月の“精霊祭”というものがある。

2の月の賑やかな立春祭とは異なり、先祖や故人を追悼する厳かな神事である。

伝統を重んずる人びとは精霊祭の3日前から精進潔斎し、

精霊祭前日、当日、後日の3日間、薄墨の衣を着て過ごす。


衣は麻布を染めたもので、藁をよっただけの簡素な腰紐を付ける。

頭にも麻布の被り物をし、やはり藁紐で固定をする。

亡き人への敬意を示すために、絹物や宝石の類を身につけるのはご法度である。


精霊祭は身内やごく親しい人の間で行われるべきもので、

王府では特別な行事を行わない。

但し、前後3日間が公休となり、これに合わせて有休をとる役人も多いため

(先祖供養のため帰省すると言われれば断れない)、お祭前1週間は

多忙を極める。

自治省は特に全16州からの駆け込み陳情が届くので、

朝から晩まで自らの身体能力の限界に挑戦することになる。


今年の夏は前年比3倍以上の陳情書が届いていた。

例年になく暑さが厳しいことから、水不足や農作物不良に起因する支援要請が

多いのは当然だが、これに加えてトマス州視察による

“アギール家”出身政務次官の活躍が広まった結果だ。

つまり、今までは「どうせお上に訴えても無駄だ」と思っていた下層民が

「もしかしたら」と一縷の望みを抱いて、苦手な筆を恐々とるように

なったのだ。


古紙にたどたどしい文字を綴った手紙が遠い山村や魚村から届く。

本来は州政府が一括して受けて中央に送るべきものだが、

途中で却下されたものであろう。

リアンはできる限り、それらに自分で目を通した。

独りでできることなどたかが知れている。

それでも…動いていれば何かしら得られるものがある。

ルーマ州で味わった絶望を二度と味わいたくないのだ。


精霊祭前一週間、次官は自治省へ連日泊まりこみになった。

自ら招いた事態だ。文句は言えない。

時々、仮眠が必要な時は黙って机の下に潜る。

ヴァンサラン補佐官も8人の秘書官も何も言わない。


(どうせ夜もきちんと寝ていないのだ。

こまめに仮眠くらいとってもらわないと)と静観しているのだ。

但し、長官(キリル)には嘆かれ、レムル内務省次官には呆れられ、

フッサール伯爵夫人には叱りとばされ、ワグナ殿下には踏まれていた

…がリアンの悪癖は改まりそうにない。


「フェイ、この前の予算執行の件…」

机の下からむくりと起き上がった次官はすぐさまフス州担当秘書官に尋ねた。

どうやら夢の中でもお仕事しているらしい。


「終わっています」

「ありがとう」

左手で髪をなでつけながら、右手はもう筆を握っている。

少し癖のある金茶の髪が肩の所で揺れている。


そう。もはや忘れることのできない厄日となった8の月初日。

アギール伯爵令嬢の「髪」によって、、自治省を激甚災害が襲った。


なんのことはない、次官が「暑い、蒸れる」という理由で

腰まであった髪を肩先までに短くしただけだったのだが、

最上階におはしますミルケーネ公爵さまがご乱心あそばされたのである。


「勝手に切った!」

と怒り、

「綺麗な髪だったのに!」

と嘆き、

「折角、私が、私が、私が…一所懸命手入れしたのに!」

と怨み、自治省をしばし暗黒世界に(おとしい)れた。


いつ長官が次官の髪を「手入れした」のか、もちろん誰も追究したりしない。

次官付秘書官たちは、リアンがトマス州視察に行った翌日から長官もまた

不在になったことを覚っていたが、内務省のレムル次官が代行すると

言ってきたので成り行きにまかせた経緯がある。


「ひどいっ!リアンはぜんぜん、男心が分かっていない!」

ぎゃあぎゃあと次官執務室で喚く長官に、次官が一言。

(うるさ)いです」


その瞬間、工部省ご自慢の最新冷却(クー)装置(ラー)は不要という事態になった。

辺り一面に永久(ツン)凍土(ドラ)が出現したのだから。

間の悪いことに、そういう時に限って、長官の署名を必要とする、

それも急ぎの書類が回ってくる。


大人気なく拒否権発動をしたキリルに、今度はリアンが逆切れし、

旧カリン宮最上階と3階は一時非常事態宣言が発令された。

…冗談ではなく、真実(ほんとう)の話である。


ウァンサラン補佐官と8人の次官付秘書官がますます結束し、

心の絆を強めていったのは言うまでもない。


「これで何とか精霊祭3日は休めそうね」


トントンと紙束を揃えながら、安堵のため息を漏らす。

リアンとて鬼ではない(いや、しばしばそうなるが)。

良い上司はきちんと部下に休みを与えるものだ。


王都出身者には規定通り3日間の公休を、地方出身者には最大7日間の

休暇が取れるよう便宜を図っている。

もっとも一昔前と違い、休暇を取った何人が真面目に先祖供養をするのか

分かったものではない。単なる娯楽休暇にする者が増えていることも

…王都一の歓楽街ニムがこの時期賑わうことで証明されている。


「精霊見舞の方も順調?手伝いに行こうか?」

一つ階下で大詰めを迎えているのが、“精霊見舞”の発送作業である。

要するに、暑中見舞いのようなものだが、相手先によって文面や

内容物(自治省に功績があった家には銀の(しおり)が贈られたりする)が

異なるため封入作業が面倒くさい。

しかも精霊祭当日に届くのが良いとされ、到着日指定をしなければならない。


明日が精霊祭前日なので、今残っている発送先は王都内とその近郊だけだ。

とはいえ、数としては一番多い。

面子を気にする伝統貴族や縁起を担ぐ豪商たちも大勢いるので、

精霊見舞・発送責任者は緊張でピリピリしていた。


臨時雇(バイト)いも入れましたので、次官殿にまでお手伝いいただかなくとも

 大丈夫かと。何事もなければ定時までに仕上がって、発送業者に渡せるでしょう」

補佐官最長老のキタラが請け合う。

彼の頭の中はもうすっかり明日から始まる休暇のことで一杯だった。

最長老が酒を呑んで浮かれることを想像する傍らで、最年少のミシェラも

明日からのことで頭が一杯だった。

但し、こちらは男爵として一族を代表して祭祀長を務めなければならず、

祭壇の設営やら供物の準備やらで戦々恐々しているのであった。


「何事もなければ、か」

リアンが口の中で呟いたまさにその時である。


頭上で、ギギギーキッキガガーッという謎の音が響き渡った。

上の階にあるのは、「自治省長官執務室」という名の豪華応接室(サロン)なので、

もちろんリアンは真っ先に「他称」恋人を疑った。


が、すぐに変だな、と思い直す。

長官室は旧カリン宮・本来の伝統様式を残しつつ、防音装置などの

最新設備も備えている。そんな簡単に音漏れがするはずないのだ。


それに、怪音は頭上だけでなく壁づたいにも響いていた。

次の可能性に思い当たって、リアンは壁の振り子時計を確認した。

11時30分。まずい時刻だ。


「ヴァンサラン…今の音」

「ああ。また工部省がやらかしてくれたみたいだな」

最新の冷却(クー)装置(ラー)とやらが壊れたのだ。


「これからドンドン気温が上昇するのに…」

ミシェラが呆然と呟く。次官執務室にはリアン、ヴァンサラン、キタラ、

トウトウ、モムル、ミシェラの6人しかいなかった。

他の4人は既に休暇に入っている。


ただでさえも忙しいのに、残り半日、冷房なしは死ぬほどつらい。

いや…それよりも。


「モムル、下の階を見てきて。発送準備がヤバイかも」

2階には多人数で作業できる空間(スペース)があるが、他の建物との

接続部分(渡り廊下)がある分、3、4階に比べると風通しが良くない。

高温となった室内で作業を続ければ、間違(ミス)いも増えるだろうし、

何より脱水症状で倒れる役人も出てこよう。


モムルが次官室の扉に手をかけた時、反対側から飛びこんでくる者があった。

旧カリン宮の警備兵だ。


「ただ今、旧カリン宮、旧シノイ宮、レナン宮の全冷却装置が故障しました」

「えっ3宮ともやられたのっ」

旧カリン宮と旧シノイ宮は隣接しているので納得だが、

独立した建物を有している内務省・レナン宮(王宮時代からの建物では

ないので“旧”という冠が付かない)まで被害に遭うとは。

リアンがにんまりしたのはもちろん内緒である。


「例年以上の酷暑続きのため、“想定外”の負荷が装置にかかったとか。

 工部省が現在復旧に乗り出していますが、不足の部品などもあるため、

 完全に回復するのは早くとも明日午後とのことです」

「だめじゃん、工部省!」

リアンの中で、()の省に対する恨みが静かに降り積もっていく。

真冬に風邪を引く羽目になったのは暖房装置の故障が発端だった。

トマス州視察途上で吐いたのは…もちろん二日酔いもあったのだが、

工部省ご自慢の高速鉄道がやたらに揺れたせいだ。


そして今回、よりにもよって、である。

(何で公休前の折半詰まった状況の時に冷却装置が壊れるのよ!

 何が“想定外”じゃ、ど阿呆っ!)

一応、心の中で悪態をつくだけにしているので、“アギール家伯爵令嬢”の

体面はかろうじて保たれている。

何しろ彼女はこれから自治省のさ迷える子羊たち…いやそんな可愛いらしい奴は

いない…ぶうたれた狸たちを束ねていかなければならないのだ。


止めの一撃は精霊見舞発送責任者から放たれた。

真っ青を通り越し、真っ白な顔になった責任者は次官を前にブルブル震えていた。


「どうしたの?」

リアンはなるたけ優しく尋ねた。

先日、長官との闘争(バトル)現場を目撃されていまい、以来、恐怖の大魔女王の

如く接されているのだ。


「冷却装置が停止したので、窓を全開して作業を継続していたのですが

 …焦った臨時雇(バイト)いの者がインク壷を倒しまして…」


リアンは微笑みを維持するため、顔の全筋肉を動員させた。


「汚れてしまった書簡に再度長官の署名をいただきたく…」


くらり。目眩がするが、踏み留まり。


「…何通くらいですか?」

「365通です」

しっかり数えてくれていたらしい。

365通。

文面書いて署名もらって押印して…もちろん他の書簡の封入作業もある。

既に次官室の温度も上昇し始めていて、頭がクワンクワン痛む。


「リアン、大丈夫ですか?」

狙ったとしか思えない絶妙の時機(タイミング)にキリルが姿を現した。

「何だか階下が凄いことになっているようですが」

どうやら長官は外出先から戻ったばかりのようだった。


リアンは自分の額に手を当てて思い悩んでいる最中だったが、

指の間からキリルの様子を伺った。

自治省全体が恐慌状態の中、一人だけホケホケしている。


(許せん)


「長官」

自治省政務次官は極上の微笑みを浮かべて公爵サマの両手を取った。

惚れた弱みで、キリルは嬉しそうだが、

ヴァンサランはリアンを横目で見ながら

(今から身ぐるみ剥ぐぜ、という女盗賊みたい)だと感じた。


「今、私は、切実に長官が必要なんです」

「貴女のためならば。リアン、何でも言ってください!」

ぐぐっと顔が近づき、接吻(キス)まで人差し指一本分の距離。

確認しておくが、次官室にはキリルとリアン以外に、

ヴァンサラン補佐官と5人の秘書官、精霊見舞責任者と護衛兵がいる。

つまり16の瞳に注目されている訳で、

普段であれば「長官、近いです」とリアンが実力行使に出るところである。

が、今回、彼女は気の毒な部下たちのために身体を張って頑張った。


「長官の白絹の手と大きなお部屋を貸して下さいっ!」

黄緑(ペリドット)の瞳がうるうるとキリルを見上げる。

唇がほのかに開いて、真摯な言葉が紡がれる。


リアンにしてみれば何とか発送作業を刻限までに終わらせるために必死だった

のだが、キリルにしてみれば、それはもう誘っているようにしか思えなかった。


「もちろん、手でも部屋でも、いくらでも使って下さい。

 全て貴女のものです、リアン」

殺し文句を並べて、遠慮なく唇を奪いにくる。

衆人環視の下でなされた、その行為に真面目な次官は耳まで赤くなったが、

黙って耐えた。

しかしそれから数分で立ち直った彼女は流石(さすが)である。

長官を含む自治省全体に号令をかけた。


「封入作業を長官室に移して継続します。

 長官は奥の小部屋へ移動願います。そこで再度の署名を。

 キタラ、トウトウ、封をする前の最終確認をお願い。

 ヴァンサラン、モムル、発送作業以外の急ぎの仕事をそのまま進めて。

 ミシェラ、責任者を手伝って、長官室への移動を指揮して」

それから全作業室に飲料用の水差しを置いて、

官員食堂売店から塩飴買ってきて、と実に細々した指示を飛ばす。


一度衝撃から立ち直れば、リアンの行動は迅速かつ的確であった。

実はルーマ州で下級役人をしていた頃も似たような経験をしたのだ。

ルーマは王都より涼しかったが、下級役人の大部屋に冷房なぞなかったのだ。


その日、自治省長官の白絹の手は休むことなく艶麗な文字を創り出した。

大変な作業だが、“愛しの姫”が隣に侍っているので大満足なのだ。

リアンは長官印と自治省印を交互に押しては、

急ぎの書類にも目を通すという器用なことをやってのけた。


隣室の大部屋(長官専用の正餐室)では、封入作業が続けられていた。

冷却装置が別系統であるため、自治省最上階の長官専用空間(スペース)だけは依然涼しい

ままであった。それも「工部省最新」を超える香油(アロマ)空気浄化装置付きで快適だ。

さらには上機嫌な長官の命で、大部屋の片隅に休憩コーナーが作られ、

公爵家の調理師により軽い食事と小菓子が用意され、公爵家の侍女たちにより

お茶が給仕(サーブ)された。至れり尽くせりである。


そうして精霊見舞は定時を1時間過ぎたところで、無事に作業を終えたのであった。


日が暮れて、建物内がだいぶ涼しくなったところで、リアンは次官執務室に戻った。

窓を開けておけば、風が入ってくるので、仕事を続けるのに支障はない。

一息ついたところで、ヴァンサラン補佐官はまたも行方不明となり、

トウトウは発送業者の所から直帰するので戻らないことになった。

部屋には次官付秘書官の内、最長老のキタラ、最年少のミシェラ、

それにモムルの3名が残っていた。


もともと自治省に泊まることを想定していたリアンは補佐官3人を(ねぎら)い、

適当なところで帰宅するよう促した。自分は精霊祭当日1日のみ休みをもらうが、

前日と後日は休日返上で出勤するつもりでいた。


「リアン次官、お疲れさまでした。これを…私からの(ささ)やかな贈り物です。

 先日骨董の競売(オークション)で見つけまして」

「なあに?また詩集?」

ミシェラが以前贈ってくれた某殿下の詩集を彼女は腹の底から楽しんだ。

自ずと期待してしまうのだが、今回ミシェラが差し出してきたのは本の

体裁ではなく、薄紅色の一枚の料紙だった。


「さる高貴なお方の恋文です。上手にお使いになれば、

 きっと強力な武器になりますよ」

そう言って、訳の分からずキョトンとしている次官に手を振って帰って行った。

気の毒な男爵はこれから徹夜で祭祀の準備をすることだろう。


「ミシェラの奴、わざわざ競売(オークション)落札(おと)すなんて、なかなかやりますね」

モムルはリアンの手にあるものが何だか知っているかのようであった。


「先を越されましたが、私もこちらを長官に贈ります。

 ミシェラのと併せて使えば更に強力なものとなりましょう」

そう言ってモムルも一枚の料紙をリアンに手渡して帰って行った。

こちらは薄緑色だが、手触りからして同じ料紙の色違いと分かる。


中身を確認する前にキタラが近づいてきた。


「なかなか部下たちに慕われているようではないか、嬢や」

彼がリアンに「嬢や」などと呼びかけるのは初めてだ。


「でも、これ何だか分からないですよ?」

「上手くゆけば、長く平行線の夫婦が幸せになって、

 嬢の恋も大きく前進できる。そういう代物だ」

キタラもやはり中身が分かっているらしい。

しかし“平行線の夫婦”とは、どこのご家庭だ。リアンは首を捻った。

そもそも他人様の恋愛事情にかかずらわっているほどの余裕はないのだが。


「キタラ、昔悪い事をして首が飛ぶところ、

 終生の忠誠を誓って恩赦になったって聞いたけど、何をやったの?

 教えてもらってもいい?」

とりあえずミシェラとモムルからの贈り物は横に置いて、

リアンはかねてから気になっていたことを尋ねてみた。

次官付秘書官8人の中で最長老のキタラは退勤時間が大抵早いので、

なかなか二人きりになる機会がなかったのだ。


「おや、嬢は知らなかったのか…暗殺未遂じゃよ、王族の」

「それって…ええっ?」


目が疲れた、肩が凝った、腰が痛いなどと毎回のように愚痴をこぼす、

でも好好爺の口から「暗殺」などという物騒な単語が出た。

それも王族の。例え未遂でも打ち首は免れない大逆罪だ。


「殺し損ねたのは先々代イランサ王の末の王子。つまり…」

「長官?!」


リアンの胸が痛んだ。

かつてキリルが暗殺されそうになったと想像するだけで。


「並みの人間なら確実に死んでいただろうな。

 今度、この部分をとっくり見てみればいい。消しきれない傷跡があるはずだ」


“この部分”とは左頸動脈の真上だった。

ではキリルは本当に危なかったのだ。

母親譲りの治癒能力…回復能力がなければ、たぶん死んでいた。

心臓をわし掴みにされたような衝撃が襲った。


キタラはリアンの反応をなぜか満足そうに眺めていた。


「その後、いろいろあって、わしは自分が殺し損ねた相手に命を救われる

 ことになった。わしが忠誠を誓ったのは正確には王家に対してではない。

 キリル・ヒョウセツ・ミルケーネ、その人にだ」


だから嬢は私を警戒する必要はないんじゃよ、と笑って、

キタラは優しくリアンの頭を撫でた。その後、

「嬢がしっかり舵取りしてくれたら、長官も王国も安心じゃ。頑張れ」

などと謎の激励を受けた。


キタラが帰宅した段階で、ちょうど日付が変わった。

精霊祭前日となる。

今日より3日間、中央官庁は公休となり王府内は静まりかえる。


「リアン」

独りになったのをどうやって知るのか、キリルが姿を見せた。

半日にわたり、その白絹の手を酷使させ、豪華執務室を占拠した

次官としては長官を邪険に扱うこともできなかった。


「もう遅いから休もう」

それはトマス州にいた時、毎晩の決まり文句になっていた。

“もう遅いから”と“休もう”の間に“一緒に”が隠れている。


「私の仮眠室、冷房効かないので暑苦しいですよ?」

次官の仮眠室には窓がないのだ。


「ん?じゃあ、上に来る?寝台は大きいし、部屋は涼しいよ?」

「…そうします」

言うなり、すちゃっと立ち上がって、書類をまとめ始める。

「ええっ?」

いつになく、リアンの積極的な態度に焦ったのはキリルである。

「何で驚くんです?お借りしちゃだめですか?冗談で仰られたんですか?」

「いや、ダメじゃない。冗談じゃない。あれ?

 冗談じゃなくない?あれれ?」

一人で混乱する長官を後ろに従えて、リアンは最上階へ足を踏み入れた。

安眠を誘うラヴェンダーの香りが(かす)かに漂う。


「…もしかして、今日のことを負い目に思っている?」

ある意味、キリルの恋心を利用して、リアンは自治省の窮地を乗り切ったのだ。

しかし。

「よく考えてみれば、長官は自治省の長官じゃないですか。

 自治省の危機に自ら率先して身を削って当然のはず。

 何で私が“長官に悪い”とか思わなければならないんですか」


それにつけても工部省め~と付け加え、リアンの怒りが再燃する。

途端、キリルは表情を翳らせた。


「ごめんなさい、あの故障、工部省のせいではないのです」

「え?どういうことですか?」

「…詳しくは言えませんが、内務省諜報部の関係で銃撃戦がありまして。

 その時、地下の動力系統を一部破壊してしまったのです」

さらりと不穏なことを聞かされる。


「銃撃戦…って王府内で、ですか?」


精霊祭前で手薄になっているところを狙われて…ご迷惑をお掛けしました、

とキリルがしおらしく謝る。


「そんなことより、お怪我は?大丈夫なんですか?」

キタラから過去の暗殺話を聞いたばかりなのだ。リアンは血相を変えた。


「…心配してくれるんだ」

にんまりとキリルの顔が綻ぶ。


やられた。


彼の術中に嵌まったのを悟るも、もう遅い。


「…当然です」

リアンの口元が悔しそうに歪み、そのままぷいっと横を向いてしまった。


*** *** *** *** *** 


その晩、やはり悪夢にうなされたリアンを、キリルは優しく揺らした。

半分だけ目を開けたリアンはほとんど無意識に長官の首に手を這わせた。


左の頸動脈に僅かに違和感がする。暗くて目には見えないが指の感触で分かる。

心臓に向かって傷跡が走っているようだった。

やはり傷跡までは完全には消せないらしい。


(この人は幾度、死にそうな目に遭ったのだろう)


リアンは震えていた。

また失うかもしれないという恐怖が心を侵食してゆく。

不安(何が?)で心配で(何を?)相手にすがりついてしまう。


「…リアン?大丈夫ですよ。安心してお眠りなさい」


けれども、その日、彼女は熟睡することができなかった。

海の上を一枚の板きれに掴まって漂いながら、

何度も何度も波を(かぶ)るように…夢と現実(うつつ)を繰り返しさ迷った。


そして朝日の中に目覚めた時、それまでの悪夢は消えることなく、

彼女の中に存在していた。


キリルの豪華執務室が幸いして、自治省は危機を乗り切りました!


けれども、リアンがまたも精神不安状態になっていきます。


次回「第七章 自治省の自治部隊 その3」


精霊祭当日です。辛くても死者と向き合わなければならない日です。

リアンは礼拝堂で何を想うのか。そこでは思いがけない再会もあって。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ