第六章 自治省の救助部隊 その3
リアン一行被災する、の巻。リアン、負傷する、の巻でもあります。
ほとんどシリアス。ジャンル:恋愛はどこへ行った。先に謝っておきます。
自治省視察団一行を乗せた高速鉄道ミゾノ号は最初の宿泊地である
ヤダカの町にさしかかっていた。
まだ夕刻までには時間があるものの、このまま進めばトマス州都カボンに
着くのが真夜中になってしまう。
先方の迷惑も考えて中継都市に一泊することにしたのだ。
王都キサラを出発した時は綺麗な晴天だったのに、山間部に入ってからは
強い風雨に襲われた。本格的な雨季の到来は半月も先のはずなのだが…
こうなってくると工部省自慢の“最新技術が”とやらに期待したく
なるから不思議である。
自治省政務次官は腹の中から出すものを出し尽くし、
今はサッパリした顔で地図やら行程表やらに次々目を走らせていた。
「なあ、リアン、本当にやるのか?」
ヴァンサランが言っても無駄と思いつつ、再確認する。
「やるわよ、“予定通り”」
「んでも長官にバレたらなー」
「バレなきゃいいじゃない?」
「バレないわけないだろうが」
長官の正体を知っているだろうに、とヴァンサランは目だけでそう
告げる。しかし、“女心を踏みにじる最低男”など今のリアンには
怖るるに足らず、であった。
「手続き的に何も違反してないんだから、いいでしょ?」
「んでもなー」
リアンとヴァンサランのやり取りをフローネが聞き咎めた。
「何を企んでらっしゃるの?視察を手抜きする気なのかしら?」
伯爵夫人はまだ蒼い顔をしている。
列車酔いから完全には立ち直っていないご様子であった。
「ま、さ、か。むしろ、しっかりやる気よ、私は」
リアンは口角を上げて、フローネの前に一枚の地図を広げた。
「ヤダカの町で二手に分かれる。貴女はトウトウたちと
予定通り一泊して、翌日州都に向かってちょうだい」
「そんなこと聞いてないわよ!」
「だから、今、言っているの。私は州政府が用意した、
上っ面だけの見学旅行なんかするつもりないわ」
「それで貴女はどこへ行くつもりなの?」
「私はこっち」
リアンが差し示したのは、州都や海側の別荘地域ではなく、
山側の田園地域であった。
昨年の暴風雨による被害状況報告書とトマス州政府から出された
復興支援要望書を自治省で見比べた時、ひどい違和感があったのだ。
観光推進のため海側で休暇村計画を立てるのは良い。
しかし山側の…生活基盤の再整備が言及されていないのはなぜか。
加えて、麓の町村では農地拡大のために森林伐採を急速に行っている。
「私の推測が正しければ…もちろん、正しくないことを祈りたいの
だけど、この地域は次の雨季で相当危ういわ。
昨年並の暴風雨に襲われたら、一帯が全滅する可能性もある」
「まさか」
「もちろん、何もないにこしたことはない、のだけれどね。
問題なければ、一日遅れで合流できるから、少しの間よろしく」
リアンは笑って見せたが、フローネは誤魔化されなかった。
“問題なければ”と言いつつ…自治省政務次官は自分を待ち受けるものを
半ば予測しているようであった。
*** *** *** *** ***
質素な旅装に身を包んだ5人が、岩肌のゴツゴツした山道を
速足で登っていく。
結い上げた金茶の髪をフードで隠し、リアンは連れの4人を
ちらりと見やった。
何でこうなった。
自治省政務次官が当初予定した面子は自分とヴァンサラン補佐官、
そして内務省派遣の護衛官1名の計3名だけだった。
それが何でか2名ほど余計な者たちが増えている。
一人目はフッサール伯爵夫人フローネ。
国王陛下の姪にあたる彼女が、リアンのすぐ後ろで荒い息を
吐きながら、それでも文句一つ言わず付いて来ている。
もちろんリアンは反対した。しかし、
「王妃様のご命令です。
わたくしは絶対に次官から離れることはできませんの。
それに、父の所領があるトマス州に問題が起こっているなら、
見過ごす訳にはいきませんわ」
とつんと胸を張って断言されては、拒否することもできない。
恐るべき忠誠心と愛郷心である。
二人目は近衛騎士で従弟でもあるイェイル。
彼にはトウトウ秘書官の護衛を任せようと思ったのだが
…万が一を想定するとアギール家の二人が一所に居ないほうがよい。
「俺も次官殿のお側を離れません。次官殿に何かあれば、
ワグナ殿下とアギール伯爵とシャイン子爵に八つ裂きにされます」
イェイルはどこまでも頑固に主張した。
これにも折れるのはリアンの方であった。
(もし貴方に何かあれば私は王女と祖父と叔父に泣かれるんだけど…)
内心でリアンは嘆息した。
そんなわけで5人のお忍び視察団が珍道中のただ中にあった。
リアン一行はヤダカの町から車で2時間、そこから更に徒歩1時間という
ハナ村に辿りついた。最後の1時間が徒歩なのは、昨年来道路状況が悪くなって、
軍用車でもない限り走行不可能となっていたからだ。
村に一つきりという居酒屋兼宿屋に辿りつく頃にはとっぷり日が暮れていた。
翌朝、自治省お忍び視察団一行は日の出とともに起きた。
幸い雨は上がり、日差しが戻ってきていた。気温も上昇している。
5人は一緒にスープとパンだけの簡単な朝食を取った。
昼食はきちんとした形で食べられない可能性が大なので、
リアンが王都から持参した「行動食」を仲間に分けた。
「これはミヨンのビスケット?」
フローネが自分の取り分をしげしげと見つめてリアンに尋ねた。
「ミヨンって誰?官員食堂の女将さんが作っているものよ」
「その人がミヨンよ」
「知り合い?」
リアンは驚いた。官員食堂はお気に入りの場所だが、
王家の血を引く伯爵夫人サマが立ち寄りそうな場所ではない。
「ミヨンはソライの奥さんよ」
しかしフローネは何を今更という風に話を進めてくる。
「えーと、そのソライさんという方も分からないのですが」
リアンは重ねて尋ねた。
自分は、実は物忘れが酷いのか、などと心配になりながら。
「ミルケーネ公爵の調理師の名前よ。何度も顔会わせている
はずでしょ?自治省長官室に常駐しているのだから」
あの人、ソライさんというんだ、とリアンは今更ながら理解する。
立春祭でひどい風邪を引いた時、美味しいお粥を作ってくれた人だ。
そうか、食堂の女将さんとご夫婦だったのか
…とほのぼのしたのはそこまでで、かっきり3秒後、
キッと吊り上がった黄緑の瞳が赤毛の大男に向けられた。
「ルバーブ・ジャムの瓶」
リアンがそれだけ言うと、ウァンサランの頬がぴくりと引きつった。
そして、無言のうちに横を向いてしまう。
…それだけで次官は確信した。フルフルと怒りに身が震える。
官員食堂の女将さんが密偵だとは言わない。
けれど…リアンお気に入りの場所は内務省の陣地だったわけで、
当然そこで起こることは長官に筒抜けだ。
わざとだ、絶対にわざとヤツは瓶を割ったのだ!
何て底意地悪い男なのだ!
アギール伯爵令嬢の中でキリルの格付けがまた一段と下がった。
「ちなみにミヨンとソライは二人とも包丁さばきの達人よ。
今は専ら食材を取り扱っているけど…昔はもっと“生きの良いもの”を
相手にしていたらしいわ」
フローネがさらりと、聞いてもいない二人の過去をリアンに暴露した。
*** *** *** *** ***
一行が宿を出て行動を開始する前に、「それ」は起こった。
空気がひび割れるような奇妙な感覚と地を伝ってやってくる震動。
そして何かが流れ落ちる音…遠い、けれども確かに聞こえる轟音。
自治省政務次官は「それ」の正体を知っていた。
ルーマ州で救助活動をしている時に何度か体験している。
意外にも「それ」は晴れた日にやって来る。
悪天候の後に迎える朝日に人々に束の間の希望を見出す時、「それ」は
狙ったかのように恐怖と絶望を伴って天から降りてくる。
リアンは慌てて外に飛び出した。
四方を見渡せる場所まで走り、災害地点の特定を試みる。
山際にはまだ朝靄が消えておらず、視界が十分に効かない。
「大変だ!」
村人数人が宿のある居酒屋に駆けこんできた。
その足元が泥でぐちゃぐちゃに汚れている。
「ナンとカルが山崩れでやられた!」
彼らはリアンの正体を知らなかった。
しかし、お忍びの貴族サマ一行らしいという噂が勝手に流れていて、
何とか支援してもらえないかと頼みにきたのだった。
「被害状況は分かりますか?」
リアンは相手をそれ以上興奮させないよう、穏やかに尋ねた。
頭の中に地図を思い浮かべ、ナン村とカル村の位置を確認する。
状況は、政務次官の予測を超えた「最悪」へと転がっているらしい。
雨季の到来以前に、山崩れが起こるとは。
地滑り防止対策はどうやら満足に行われていなかったようだ。
カル村の西側…つまり現在リアンがいるハル村の側なのだが
…昨年の暴風雨によって形成された自然の堰き止め湖がまだ数か所、
水を湛えたまま放置されていた。
更にその南側には農業用水のための貯水池群がある。
これが万一、次々に決壊するような事態になれば、
トマス州北部の田園地帯は6割以上が水に覆われることになる
…以上はリアンが専門家に諮問して大ざっぱに出させた数値だが、
事態は予測よりも早い展開となっていた。
もう一度、空気がひび割れるような違和感が届いた。
続く震動と轟音が確実に近くなっている。
「避難命令を」
「え?家畜や畑が…」
「死んでしまっては何もならないでしょう?
全村民をシンバまで避難させなさい」
シンバの町はリアンがハナ村に来る途中で車を捨てた場所である。
山側を回りこんだ地点で、有事の際の避難場所に指定されていた。
それからのリアンの行動は、ある村人いわく「鬼神の如く」であった。
ヨボヨボの村長を叱咤し、その息子や村の青年団を使い倒して、
村民あげての避難に全力を尽くさせた。
リアンが発令したのは、「避難勧告」ではなく「避難命令」だ。
自治省政務次官ならではの強権発動ともいえる。
家畜や田畑を後に残すくらいなら死んだほうがまし、と考える農民も
多いため、最初から命令を出して強制避難させることにしたのだ。
イェイルに協力させ、付近一帯に危険を知らせるための音花火を
上げさせるとともに、ナン村やカル村から逃れてきた人々の誘導を
行わせた。ハナ村もいつまで保つかわからない状況なのだ。
フローネには、内務省派遣護衛官とともに先に山を降りてもらう
つもりだった。
護衛官には内務省支局と国軍に救援要請してもらわねばならないし、
フローネにはアジヤ侯爵領への避難民受け入れに動いてもらわねば
ならない。地縁はこういう時に利用するものだ。
ところが…二人の答えは、否だった。
「村長の息子に手紙を持たせたわ。私が直接行く必要はないし…
むしろ、ここに留まっていた方がアジヤ家からの救援も迅速に
届くでしょう」
確かに。主君の姫が危険地帯にいるのが分かれば、アジヤ侯爵家が
総出をあげて動くだろう。だが。
「…ここに留まるのは危険よ?」
「私も、もの凄く不本意で、残念至極だけど、
次官の側を離れることは許されないの。村から脱出する時は一緒よ」
フッサール伯爵夫人は、リアンにとって要注意人物その1だが、
また勇気ある誠の「貴婦人」であることも認めなければならないだろう。
護衛官もリアンの元を離れなかった。
彼はハナ村に一つだけあった旧式の電信装置を何とか操って、
シンバの町を中継し、ヤダカの町にある軍用施設まで電報を打って
いち早く救援要請を出したのだった。
したがって、彼もまた次官を残して現場を離れる理由がないという。
「それに、あと5、6時間もすればワグナ殿下がお越しになります」
「…殿下が?王都から軍用列車で来るにしても早すぎない?」
「詳細は不明ですが、何でも軍の視察で近くまでいらしているようです」
リアンは大きく息を吐いた。
王弟ベリルの日ごろの言動はともかく、彼が国軍大将として直々に
現地入りしてくれればこれほど心強いことはない。
しかしまた、こんなところまで母ミアンとの約束が有効なのかと思うと、
戸惑いも隠せない。
まず間違いなく、「小娘ー。俺の仕事を増やすなっ!」とダミ声で
怒鳴られるのは確実であろう。
村長の息子が誘導して、第一次避難組が山を降りていく。
村の青年団が高齢者や子どもたちを助けながら、麓のシンバを目指す。
その後を第二次避難組が村の財産ともいうべき物を積んだ荷車を
引いて移動を開始する。これでハル村の3分の2が出て行ったことになる。
その頃になると、ナン村やカル村といった奥地から、命からがら逃げて
きた人々でハル村は次第に混乱し始めていた。
リアンたちが協力して集めた情報によると、
山崩れによってナン村はほぼ全壊、カル村は半壊の状況だという。
直ぐにも救援に向かいたいところだが、数名が走ったところで何の役にも
立たない。
そしてまた…一帯に雨が降り始めていた。
空を覆い始めた黒雲は容易に退きそうにはない。
また轟音が届いた。今度はごく近くだ。
「まったく役所の連中は当てにならん!
何度も何度もお山が危ないって陳情したのにっ」
「かかあが水に飲まれちまってよう。誰か探してくれよ、助けてくれよ」
「お母ちゃんが、いないよう。お母ちゃんー」
「痛え。足に木の枝が刺さって抜けないんだ。医者はどこだ?」
「この春、建てたばかりの家が…」
段々と恐慌が広がっていく。
怒号と泣き声、叫び声があちこちで上がる。
リアンは記憶の再燃現象で身動きすることができなくなった。
これを同じことを彼女はほんの2年前に体験している。
彼女が隣国イサから帰国した時、ルーマ州は既に最悪の状況から
脱してはいたが、被災地の混乱はまだ続いていたのである。
怒りの声も嘆きの歌も、耳に木魂するほど聞いている。
「リアン!」
そのまま崩れ落ちそうになった身体を赤毛の大男が支えた。
頬を容赦なく張られて、はっと正気に返る。
そうだ。ここで倒れている場合ではない。
「ヴァサラン、今いる全員を連れてシンバまで撤退する」
「了解。全員撤退!」
補佐官の大声が村中に響き渡った。
赤毛の大男の威勢につられて、皆が行動を開始した。
負傷者のために急場しのぎの簡易担架が作られ、それに乗せて
運ぶことになった。その一つにはすっかり腰を痛めて動けなく
なった村長が横たえられた。
いつぽっくり逝ってもおかしくない位、青白い顔になっている。
「ふざけんなっ!ナンもカルも見捨てる気か!
誰も助けないってのか」
身体中、泥だらけの男が半狂乱になって叫んだ。
倒壊した家の中にいる老親を何とか救ってもらいたくて、
必死になって走ってきたのに。
「とても酷いことを言うようだけど、私たちだけで行っても
何の役にも立てないわ。それに…分かっているのでしょう?
ここもそう長くは保たない」
どんなに客観的で冷静な分析でも、それこそ「何の役にも立たない」。
一瞬で家族も財産も奪われた人を楽にさせることのできる言葉が
あったらリアンは2年前に習得していただろう。
「あんたは誰だ?余所者だろ?お偉いお貴族サマって奴か?」
どんな言葉を紡いでも相手の怒りは解けない。
それもリアンには分かっていた。
彼女に掴みかかろうとする暴徒の手はヴァンサランによって
振り払われた。背後はイェイルがきっちり守っている。
こういう時に必要なのは強力な指導力。超人間的な資質。
そんなものを持っているとは微塵も自惚れていないが、
リアンは張り子の虎を演じるつもりであった。
ヴァンサランは「やめろ」という素振りをしたが、
自治省政務次官はフローネから離れて一人前に進み出た。
そして雨の中でフードを取ると、金茶の髪と黄緑の瞳を人々の前に晒した。
「私はリアン・パルマローザ・アギール。自治省の政務次官です」
自治省官符を目の前に掲げる。大勢の前で使用するのはこれが初めてだ。
「アギール家の…」
どうやらこんな小さな村でも「世紀のロマンス」は伝わっているらしい。
アギールの名は王家の次に有名、というのもあながち嘘ではないらしく、
恐慌状態がほんの少しだけ緩んだ。しかし…
「王都の役人が不正を行うからこんな事態になったんだろっ!」
「税金泥棒っ!」「村を返せ!」
次の瞬間、怒号と共に複数の投石があった。
すぐさまヴァンサランとイェイルが飛び出して手甲で払い落す。
しかし、完全には防ぎきれず、中の一つがリアンのこめかみにを打った。
鋭い断面を持っていた石のようで、たちまちに頭部が血で染まる。
「リアンっ!」
慌てて自らの袖を破ると、フローネが走り寄って患部を圧迫止血した。
そうして、彼女はこの十年で一番という大声を張り上げていた。
「私はフローネ・エルダー・フッサール!アジヤ侯爵の長女です!
このトマス州でアジヤ家と争いたい方がいるなら、私に言いなさい」
トマス州民にとって“アジヤ家”の名は州府以上に重いものだ。
何しろ一昔前はこの地一帯を総べていた領主の家柄なのだ。
今回の災害でどこまで州府がアテになるか分からない以上、
アジヤ家を怒らせるのは得策ではない
…その程度の計算は大抵の村人にもできた。
「…さすが、フローネ。王妃様と貴女に大感謝だわ」
リアンは激昂している伯爵夫人にそう囁くと、彼女の「地縁」を
最大活用して残りの村人を動かすことに成功した。
シンバの町へは普通に歩けば1時間ほどなのだが、
雨の中の怪我人連れでは容易には行かなかった。
風も強くなってゆき、もはや全員がびしょ濡れ状態、
しかも山道は所々で崩壊し、泥川ができて、滑りやすくなっていた。
小さな悲鳴が聞こえて、リアンは振り返ると、
伯爵夫人が雨に濡れた斜面を滑り落ちていくのが見えた。
どうやら腕を貸していたお年寄りを助けようとして、自分が転落して
しまったらしい。リアンは自分が面倒を看ていた怪我人を他の村人に
預けると、斜面から身を乗り出して下の様子を伺った。
「フローネ!生きている?」
「勝手に人を殺さないでほしいわ!…でも一人で登り返すのは無理かも」
「イェイルに縄を持って降りてもらうから、少しだけ待っていて!」
しかし近衛騎士の準備が整う前にフローネのいる方向から
枝がバキバキ折れる音が聞こえた。
「フローネ!」
「だめ、支えきれないっ!」
リアンの叫び声とフローネの悲鳴が同時に上がった。
大きく身を乗り出そうとしたリアンをヴァンサランが引き止める。
足元が勢いづいた雨水で崩れる…自分まで危ないところだった。
またもリアンを過去の幻影が襲う。骸となった両親が見えた。
それから愛したかもしれない男の…変わり果てた姿も。
もうたくさんだった。
また何もできずに死なせる位ならいっそ自分が死にたいとすら
思ってしまう。しかしヴァンサランに反対側の頬を叩かれる前に、
リアンは行動を起こした。
避難民にはそのままシンバへ向かうよう指示する。
幾らアジヤ家出身の伯爵令嬢といえども一行を立ち往生させる訳
にはゆかない。そうしてからイェイルと内務省護衛官に、
フローネが滑り落ちた斜面を偵察してもらう。
強風に攫われて、伯爵夫人が巻いてくれた応急手当の布が飛んでいく。
頭の傷が剥き出しになり、新たな血が顔の輪郭を伝って流れた。
心が粉々に砕けそうだった。
その時………足元から這い上ってきたのは聞き覚えのあるダミ声だ。
「小娘〜っ!俺に余計な手間をかけさせんじゃね〜!」
予想した通りの台詞で現れたのは国軍大将ベリルであった。
そして、その男の背中で、泥だらけになりながらも、元気にフローネが
手を振っていた。
「ちゃんと生きているな、小娘」
「当たり前です!」
リアンは精一杯虚勢を張って見せた。
しかし王弟殿下の目に映ったのは、金茶の髪を振り乱し、顔半分を血だらけにし、
片頬を腫らし、全身泥まみれ…という世にも不細工な女であった。
*** *** *** *** ***
ベリルはトマス州に駐留する国軍大師団と州軍を派手に動かした
…そこからは自治省次官の出る幕などほとんどなかった。
それでも追加支援要請などで深夜まで働き続けたところ、
遂にリアンはヴァンサランから仮眠しろと軍宿舎の一室に追い払われ、
外から鍵を掛けられた。
浴室も化粧室も付設している、恐らく上官用の特別室だろう。
頭の傷を手当してくれた医官から今日1日は入浴するなと言われていたので、、
着替えをして、身体を湯で拭くだけに止める。髪を洗いたいが難しそうだ。
こんな時に眠れるものか…と思いつつ、イェイルが差し入れてくれた
香茶をいただいた途端、速効で眠ってしまった。
一服盛られたと悟っても後の祭りである。
「お目覚めですか?」
再び目を開いた時、ここにいるはずのない人の
…吸い込まれるような深い藍の双眸がリアンを静かに見つめていた。
暗い、痛い、書いてて辛い…じゃあ書くなよ、と怒られそうですが、
立場の違うリアンとフローネが少しずつ歩みよる場面です。
自治省次官補佐でありながら、いつもどっかに行ってしまう赤毛大男も
今回少しは活躍しています。
次回「第六章 自治省の救助部隊 その4」
内務省査察官…という触れこみで某長官がやって来ます。
それから死にかけたフローネは一大決心をして十年以上絶えていた
「父との対話」に臨みます。リアンも巻き込んで。