表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
自治省の悪臣  作者: 雪 柳
2/52

第一章 自治省の有閑長官

今の時代、こんな長官いたら袋叩きになるでしょうね…

高給取りのくせに、仕事をほとんどしないで遊んでいるのですから。


しかし一方では、こんな優雅な生活をちょっぴり体験してみたいものです。


ファネ国王都キサラ。

北辺に聳えるカプレス山脈を背負うように王府が築かれている。

中央省庁の多くは王府南面にある建物群のに集中している。

自治省は南東門からほど近い旧称カリン宮の東棟に在り、

同じ宮の中央棟には商務省、西棟には工部省が入っている。


4階建ての建物の最上階、東棟中央にバルコニーを抱えた

豪奢な部屋が自治省長官キリルの執務室である。

王族出身、現国王の叔父君、そしてミルケーネ公爵である青年。


彼のために用意された部屋は、工部省長官と商務省長官のそれとは

明らかに…誰が見てもそれと分かるほどに、格が違っていた。

一応キリル以外の二人の長官室も各棟の最上階に位置している

のだが、その規模はずっと小さい。


自治省長官室にのみ言えること。

調度品の多くは繊細な彫刻が施された黒檀づくり。

寄木細工の床をほとんど隠してしまっているのは、

高山地方の穢れなき乙女が10年以上かけて織るという厚手の絨毯。


毎日公爵家から執事が銀器を磨きにくる。

毎日公爵家から専属の庭師が新しい花を活けにくる。

長官のためだけに用意された侍女2名、調理師1名。

…要するに役所の仕事部屋ではなく、大貴族様のサロンなのだ。


「リアン、君の好きなようにしたら良いよ」

ヴァンサランを伴い、朝一番にやって来たリアンに長官はあっさり

承諾の意を示した。

朝一番というのは、キリルが自治省でその日最初に面談した人物

という意味で、その実、正午に近い。


リアンは就任二日目にして誰よりも早く来省し、バリバリ仕事をこな

していたが、若き公爵サマは予想を“裏切らず”、重役出勤であった。


「ええと、提案書をきちんとご覧いただけましたか?

 よろしければ本日午後からでも実行に移したいのですが」

昨日のアンケート、もとい、抜き打ちテストと、幹部のみが閲覧できる

人事調書を参考にして、リアンは少しばかり自治省内の組織を動かして

みることにした。

長官に手渡した提案書にはその具体的プランがまとめられている。

一応、キリルは最初の頁から最後の頁までパラパラと目を通した。

1頁、1秒。


それで内容把握ができるなら、あんたはどんだけ天才なんだ、と

リアンは心中穏やかではない。


提案書はあっという間に彼女の手に戻ってきた。

末尾に長官のサイン(それだけで芸術のような筆跡!)と

角印(宝石としても十分通用する等級の翡翠製だ!)が付されて。


「さて、少し早いがお昼にしましょうか。リアン、そちらにどうぞ。

 サラン、君も一緒に食べよう」

リアンの言葉を待たず、キリルが銀の呼び鈴を一つ鳴らす。

たちまち二人の侍女が現われた。

一礼するや二人は息のあった所作で中央に置かれた長テーブルに

レース編みのクロスをかけ、銀食器を並べてゆく。

クロスにも銀食器にも公爵家の紋が入っている。

一応、自治省の紋が入った高官用の食器もあるはずなのだが。


(ああ、このお貴族様め~)

リアンは作り笑いを浮かべるのも嫌になった。

彼女とて貴族出身、まごうかたなきアギール伯爵令嬢である。

しかし、両親が駆け落ち婚をした煽りをもろに喰らい、

その人生のほとんどは庶民暮らしであった。


政務次官就任のために不本意にも貴族の肩書を持ち出す

ことになってしまったが、彼女に伯爵令嬢としての自覚は

皆無である。


(午前中にした仕事が書類1件の決裁だけって、どうなのっ)

リアンは目だけでをヴァンサランに問うた。

彼は肩をすくめただけで何も言わない。


キリルは瞳の色に近い藍色の服を好んで着るようだった。

上着はだらしない…とまではゆかないが、かなりゆったりと

銀糸の入った帯で結ばれている。


肩までの黒髪は藍糸と銀糸を撚った組み紐でまとめられていた。

およそ仕事向きの装束ではないが、王族出身の若様には

よく似合う。しかし見とれている場合ではない。


「長官、せっかくのお誘いですが、就任したばかりでまだ立て

 込んでおりますので。昼食会はまた後日にでも。

 サラン、行こう」

リアンは不遜にも公爵サマのお誘いを断って踵をかえした。

ヴァンサランは侍女の手にした籠からひょいひょいと

幾つかパンをつまんで抱え込むと、リアンの後を追う。


「リアン」

挨拶もそこそこに、ほとんど逃げるように部屋を出ようとした彼女を

キリルは呼び止めた。


厚手の絨毯が敷かれた床は靴音を消してしまう。

ゆったりと羽織られた上着の衣擦れの音だけが微かに響いて、

あっという間に、長官が目の前に立っていた。


そのまま少し前かがみになるようにして、リアンの目線と同じ高さに、

顔を近づけてくる。


(いや~っ。近い、近い…なんなの、このヒト)

昼の光を浴びて、藍色の瞳が輝く。底知れぬ煌めきを湛えて。

どこまで意識的にやっているのか、まだ読みきれないが、

自分の美貌が女性全般に及ぼす効果を熟知しているに違いない。


「リアン、政務次官として貴女がやるべきと信じることをやりなさい。

 でも、約束なさい、仕事のために自分の命を危険にさらさないと」

「は、い、長官」

必死の能面顔も保てなくなり、リアンは何とか返事をした。


「それから、私のことは官職名ではなく、名前で呼んでください。

 歳も近いですし、堅苦しいのは抜きにしましょう」

仲良くしましょうね、そう小さく付け加え…

何と公爵サマはその白絹の手でリアンの頭を撫でたのである!


(ぎゃぁあ~やめて、何これ、セクハラ?パワハラ?)

昨夜も今朝も時間なくて、洗髪していないのにーっとどうでも良いこと

まで思い浮かべて、動揺激しい新米次官。

しかし彼女はすばやく立ち直った。


「長官を名前で呼ぶなど、とんでもございません。

 恐れ多いことにございます。

 それではこれにて、御前失礼いたしますっ」


ヴァンサランがすぐ横でひどく面白そうに若き長官と若き次官を

交互に見比べていた。

しかし、リアンにはそんな補佐官の様子に気づく余裕はなかった。


繰り返すが、リアンは庶民育ちである。

18の歳より4年間、地方都市ルーマで下級役人を経験している。

その後、州の奨学金を得て、2年館、隣国イサへ留学している。

つまりは一般的な貴族の箱入り娘に比べれば、人間関係の上で相当

鍛えられているのだ。

男女の関係もそれなりに…まぁ、豊かとは言えないものの、

深窓の姫君に比べればずっと経験値があるはずだ。


王族出身とはいえ、身にまとう高貴さに中てられたとはいえ、、

ぐうたら長官にドキドキするはずなど、断じてないのだ!


「サラン、長官っていつもああなの?」

ヴァンサランが長官室から要領よく持ち出したパンを受け取ると、

白いハンカチで包んで袋状にして、階下に運ぶ。

昼食をとりに行く時間がほとんどないのを察したのか、

赤毛の大男は意外によく気のつく、優秀な補佐官である。


「ああって?」

「…天然タラシ」

「お姫さまが使う言葉じゃねーな」

「お姫さまじゃないから、私。知っていると思うけど」


「長官はどちらかというと女嫌い、いいや、人間嫌いな方だと

 思うよ…」

どう説明したらいいのか、ヴァンサランは困った。

別に口止めされているわけではないのだが、リアンのことを

相当気にかけていることを今この時点で言うべきかどうか。


キリルがリアンに対したこの二日間。

ヴァンサランを補佐官として直近の部下に配したこと。

自分から手を差し出してまで、リアンと握手したこと。

耳朶に唇が触れそうなほど近づいて、何か囁いたこと。

官職名ではなく、名前で呼ぶように頼んだこと。

危ないことはするなと言って、頭を撫でたこと。


一見すると何気ない言動のようで、しかし、だ。

長官の本性をよく知るヴァルサランにとっては、そのどれ一つを

とっても「ありえね~」「誰だこいつ~」という事態である。


実はあの人、いろいろ難しい人なんですよ~気を付けてくださいね、

と正直に警告するわけにもいかず、ヴァンサランは口をつぐんだ。

それを見て、リアンは、やっぱり彼は「長官側の人」だ、と思い

パンの一件で下げられた警戒度数をまた少し戻すことにした。


(負けるな、私…)

階下の自室に向かってリアンは走った。


*** *** *** *** ***


午後の優雅なひととき。

自治省長官は客人と差し向かいに座って、香茶を飲んでいた。

場所は、中央バルコニーに設けられたサンルーム。

ミルケーネ公爵と彼の迎える客人にのみ許された特別な場所である。


「例の娘がめでたく自治省に就任したそうだな。

 中央での業績皆無の者を 政務次官にとは、また思い切ったことを。

 陛下の弱みを何かつかんで、取引したのか」

客人は口髭をはやした中年の紳士である。

キリルと同じ癖のない黒髪は短く切りそろえられている。

やはり同じ藍色の瞳はしかし、ぐっと鋭く威圧的ですらある。

そして王府内でも帯剣を許されているのは、この男が軍人である証だ。


「…人聞きの悪い。きちんと仕事ができると思ったからこそ抜擢

 したのですよ」

「ふん、田舎でちょっとばかり役人をやっただけで、人を動かせる

 ようになるものか。留学経験だって高が知れている」

「そういう貴方だって、数年前から突然、女性官吏の登用やら

 女性の爵位継承やらに積極的になりましたよね」

…誰か、王府に呼びたい女性でもいたのですか、キリルの目はそう

問いかけている。

「私を出し抜いて、あの娘を囲いこんだつもりか…公爵」

「とんでもありません。私はただ、私の“可愛い人”がこの王府で

 どれだけ自分を通せるのか見てみたいと思っただけですよ」

そのために少々お膳だてしただけです、とキリルはいたずらをした

子どものような顔をした。それを見て客人は苦笑する。


「お会いになりますか?ここにお呼びしてもいいですよ」

「いらん。会いたい時は自分で会いに行く。お前の指図も受けん」


客人は大げさなことを嫌い、非常用の隠し通路を使って

自治省長官室を訪ねていた。

したがって、彼の来訪をリアンを含む階下の人間は誰も知らない。


「先ほど、隠し窓から少しばかり観察させもらった。

 政務次官付の数名を凄い勢いで叱り飛ばしていたぞ

 …あれはとんでもないジャジャ馬だな」

「とかく地味な自治省もここに来て活気づきそうですね」

「黄緑の、ペリドットの瞳が…“あの人”と一緒だった」

客人から遠い昔を懐かしむ、愛おしくも切なくなるような声が漏れた。

キリルは香茶を口に含むふりをして、しばし沈黙する。

相手が「あの人」のことを語り始めたら下手に追及してはならない

…過去から学んだ教訓だ。 


「だが、金茶のくせ毛はあの男譲りか。

 気に食わないな、どうしてくれようか」

客人の表情が一転、憎しみの色が暗く激しく浮かび上がる。

腰に佩いた剣で金茶の髪を首ごと落としかねない勢いだ。


しかし、彼にあの娘は殺せない…キリルはそう確信している。


「殿下、私の“可愛い人”をいじめるのも大概にしてくださいね」

「お前の指図は受けんと言っているだろう。

 第一、 お前のモノじゃない」

「さて、私たちは敵同士ではないはずなんですがね」

…ここでいがみあうのは得策ではないですよ。

客人の空になったカップに手ずから香茶を注ぎながら、

自治省長官は心とろかすような笑みを浮かべた。


キリル長官の“可愛い人”と客人の“あの人”。なんかビミョーです。

客人が何者かは第3章で出てきます。ひげ面軍人のおっさんですが、

準主役級の方です。

ちなみに二人が飲んでいた「香茶」は紅茶に数種の薔薇の花びらを合わせた

公爵家オリジナル・ブレンドです。もちろん茶畑も薔薇園も領地にあります。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ