第五章 自治省の殲滅部隊 その3
リアン、官員食堂で昼食をお楽しみ中。
やって来た御方は、内務省政務次官。
実はこの方、とあるご婦人のお身内ですが、
それが出てくるのはまだ先のお話です。
旧カリン宮と旧シノイ宮を結ぶ半地下の空間。
そこには一度に200人は収容可能な官員食堂が
設けられている。
半地下、とは言うものの中央には硝子張りの丸天井があり、
陽の光が十分射し込むよう工夫が凝らされている。
旧カリン宮に入っているのは商務省、工部省、自治省。
旧シノイ宮に入っているのは農業省、教育省と内務省の外局。
その官員食堂は、主として2つの建物に所属する、
平民出身・下級役人が昼食や小休憩を取るのに利用する
場所であった。
自治省次官は同僚から食堂の存在を教えてもらって以来、
週にほぼ3日はここへ足を運ぶようになっていた。
ここにきてようやく、仕事の配分も分かってきて、
就任当初のように連日泊まりこむことはなくなった。
同時にアギール伯爵家からの差し入れは極力お断りして、
なるべく自省・他省の役人と交流する時間を作った。
“政務次官”であり“アギール家の娘”であるリアンが
下流とされている官員食堂に度々現れることについて、
一部の誇り高い貴族たちは苛立ち露骨に表わし、
一部の小心な平民たちは戸惑いを隠せなかった。
しかし、そこはリアンである。
そんな自分を取り巻く微妙な雰囲気に頓着しない。
今日も今日とて13時をとうに過ぎた頃に、一人食堂に行き、
その日売れ残った(一番不人気の)定食にパクついた。
正午には行列のできるこの場所も今は閑散としている。
遅くに行くと、人気料理にはありつけないが、それでも
何かしらは残っいるもので、食いっぱぐれることはない。
中央省庁で女性官吏の登用が始まったのは3年前のこと。
少しずつ数を増やしてきているとはいえ、その割合は未だ
全体の1割に充たない。
自然、食堂で出される料理は
量多め(下級役人には若者も多い)、
値段安め(下級役人は薄給だ)、
直ぐ出てくる(下級役人は昼休みのんびりできない!)
の三拍子が揃っている。
問題は味だが…リアンはそう悪くないと思っている。
涙が出るほど感動的、とはお世辞にも言えないが、
一般的な家庭料理の水準は保っている。
何より、日替わり定食は毎回3種類ほど用意されていて、
主菜の他にスープ(具だくさん!)、パン(朝焼いたもの!)、
副菜(野菜炒めなど)、季節の果物などがついて
栄養配分もしっかり考慮されている。
高級食材も、凝った調理法も、繊細な包丁技も一切ないが、
リアンは故郷の街の人気食堂を彷彿させるこの場所が
とても、とても気に入っていた。
本日、次官がありついたのは、豚肉のニンニク炒め定食であった。
この定食が最後まで売れ残った理由は容易に想像できる。
下級役人の狭い事務空間では臭いが籠ってしまうのだろう。
リアンもしばし躊躇したが、生憎と今日に限って他に
目ぼしい料理が残っていない。
午後に重要な会合もないのでまぁいいか、とリアンは売れ残りの
定食をいただくことにした。
お昼はサラダだけ、などという乙女にありがちな
減量志向は一切ない。むしろ成人男性並みにしっかり食べる。
政務次官は体力勝負なのだ!
「リアン、これもよければお食べ」
厨房の主が少し形の崩れた蜜柑入り牛乳寒天を持って来てくれた。
気っ風の良い女将さんで、最初こそ自治省次官だという貴族令嬢を
警戒していたが、リアンが毎回美味しそうに完食するのを見て
すっかり打ち解けてくれた。
「うわぁあ~有難うございます~いただきます!」
御満悦で、リアンはデザートの入った皿を引き寄せる。
遅い時間に来ると、料理の中身は選べないが、時々こうして女将さん
から「おまけ」を頂戴することができる。
素朴な牛乳寒天はリアンの好物だ。
今日は良い日だと、それだけで気分が向上する。
「おや、お客さんのようだよ?」
デザートに夢中になっている食いしん坊の娘に注意を促す。
女将さんの視線の先には、見知らぬ上級役人が一人立っていた。
「自治省政務次官リアン殿?」
「…そうですが」
急いで蜜柑の欠片を飲み込む。
相手は自治省で待たずに、わざわざリアンを探しに来たようだ。
纏う雰囲気は温和そうだが、間違いなく中央貴族のそれだ。
「内務省政務次官レムルと申します。
お食事中にお邪魔して申し訳ありません」
「これは失礼しました…」
リアンは慌てて口を拭うと、椅子から立ち上がった。
政務次官として官位は同等…といっても明らかに相手の方が格上だ。
各省の間に表向き上下関係はないとされているが、
宰相直轄の内務省は別格だ。
しかも相手は推定30代半ば。
俄か次官のリアンよりずっと経験豊富な“正統派”高官である。
女将は気を利かして奥に引っ込んだ。リアンの幸運は終わったようだ。
内務省政務次官がわざわざ足を運んで来るとは…
しかし、心当たりが一つあった。
先日、内務省長官宛てに出した申請書の件だろう。
「結論から申しますと、先日の申請は却下となりました」
丁寧な口調。しかし、曖昧さを一切残さない。
「…理由をお伺いしても?」
「逆にこちらがお伺いしたいことです、リアン殿。
“カラス”を携帯しなければならないほどの危険が
身近に迫っているのですか?」
「それは…」
「正直なところ、私は伯爵家のご令嬢が“カラス”の通称を
知っていることすら驚きなのですが」
優しい口調でいて、レムルの眼は少しも笑っていなかった。
感情を殺した表情がリアンに圧力をかける。
“カラス”…銃身も引金も握りも全て黒一色で
塗りつぶされているためその名で呼ばれている。
しかし一般には普及していない代物だ。
その通称も国軍もしくは内務省の、国防・警察・諜報などに
従事する一部の役人のみが用いる、いわば隠語のようなもの。
「…中央官庁の長官・次官は申請により武器を携帯できると
伺っておりますが」
まさか立春祭・総披露で殺気を感じまして、などと漠然とした
理由をあげる訳にもいかず、リアンは規則を持ち出した。
「仰る通り、長官・次官級であれば護身用拳銃の携帯が
認められています。が、国王、国軍大将、宰相もしくは
内務省長官の権限で申請を却下することもできます」
「なるほど」
リアンは引き際を心得ていた。
正しく相手をみて、これ以上争っても無駄と判断する。
誰が却下したにせよ、若輩の女性次官に武器携帯を許すことを
危ぶんだ結果であろう。まぁ当然か、とも思う。
「お手数をおかけして申し訳ありません、レムル政務次官」
相手は無言のままリアンを見つめていた。
あからさまな敵意はぶつけられていない。
しかし、どこか観察されているようで居心地が悪い。
明らかに貴族だと分かる風情にもかかわらず、爵位を
名乗らなかった男。態度こそ丁寧だが警戒すべき人物だ。
「ご参考までお伺いしたいのですが。仮に“カラス”が
給付されたとして、貴女にお使いになれるのですか?」
「さて…それはどのようにお答えすべきでしょうか?
庶民育ちの私が拳銃などに触れる機会はない“はず”
ですからね」
リアンは昼食のお盆を持って立ち上がった。
話は終わりとばかりに。
「御父君のクロス殿は都を出奔する前、近衛騎士団長として
お勤めなさっていましたね」
去り際に相手がにこりと笑ったので、リアンも微笑み返した。
傍目から見れば政務次官同士の和やかな会談だった。
しかし、実際には内務省次官から自治省次官に対する訊問だ。
(ううっ…やっぱり、内務省。苦手だわ…)
レムルの後ろ姿を横目で見ながら、リアンは嘆息した。
自分は何も悪いことはしていない「はず」なのだが、
警察だの諜報だのという連中とは反りが合わない。
実は、リアン父クロスが母ミアンと駆け落ちするに際して、
拳銃を含めた数種の武器・弾薬類を密かに持ち出していた。
身を守るためにそれらが本当に必要だったのだと聞いている。
娘のリアンが長ずると、父クロスは「護身術」と称し、
持ち出した幾つかの武器について、若干の手ほどきをした。
それも“ご令嬢としての嗜み”ではなく、ある程度必要に
迫られてのことであったのだ。
そんなリアンの過去を内務省政務次官が知っているはずはない。
知っているはずはないのであるが…彼女の脳裡に
レムルと名乗った男が“要注意人物その3”として刻まれた。
*** *** ***
自治省の退勤時間は17時半。
定時を少し回ったところで、次官付8人も一人また一人と
帰宅して行った。
20時を過ぎたところで、執務室にはリアン一人になる。
ヴァンサランは「帰宅する時は必ず護衛を付けろ」とだけ
言いおいて、またもや姿をくらませていた。
本来ならば補佐官が上司を放って何処かに行ってしまうなど
ありえないのだが、リアンは目を瞑っている。
最近ヴァンサランは疲れた顔をしていて、何やら別の仕事に
忙しいそうだったからだ。
「さて、どうしようか…サランには頼めないし、
イェイルを呼びに行くのも面倒だし」
リアンは机の上で腕を組んで考えこんでいた。
目の前には数枚の手紙が散らばっている。
ここ数日密かに問い合わせていたことへの回答書だ。
「ここで悩んでいても仕方ない、か」
覚悟を決めて椅子を蹴る。
一度決めたら彼女の行動は速かった。
あっという間に仕度を整えると、外套を引っ掴んで
執務室を飛び出す。
しかし、2、3歩も行かぬ内に反対側から音もなく現れた人物と
あわや激突しそうになる。
「…こんな夜中にどこに行くのですか?」
見上げれば藍色の双眸。
リアンをその胸で受け止めたのは
5日ぶりに会う自治省政務長官だった。
(まずいところに…)
再会の喜び、などは一切ない。リアンは舌打ちしたい気分だった。
油断していた。
まさかこの時機で彼が戻ってくるとは。
「ただ帰宅するだけなら、そんな格好はしませんよね?」
…しかも彼女の上司は変なところで目敏かった。
咄嗟に外套で隠そうとしたが、誤魔化しきれなかったらしい。
キリルは白絹の手でしっかりリアンを抱えこんだまま動かなかった。
優雅な公爵サマの背後に何故か暗雲が立ちこめる。
リアンは次官としてのカチリとした執務服を着替えて、
町人娘の普段着のようなものを身につけていたのだ。
髪も、いつものお団子頭ではなく後ろ一本の三つ網に直していた。
「え~と、私用がありまして。
帰宅途中に、ちょっとニム街に寄ってきます」
何も言い訳を考えていなかったため、うっかり目的地を
零してしまう…大馬鹿だ。
途端、腕の拘束が強まった。
「へぇ…独りで?夜の歓楽街に?…ありえないですね」
「歓楽街って…そんなに奥まで行きませんよ。
手前にある居酒屋さんにちょっと寄るだけです。
あの辺、わりと詳しいので、心配ないですよ」
必死に弁解するも、ますます墓穴を掘ることに。
「あの辺りに詳しいって…」
「あ、あのっ、任官前に祖父や叔父と何度か飲みに
行っていますので!」
しかし、ご帰還したばかりの長官は
何故かドンドン不機嫌になっていく。
「…仮にも伯爵令嬢で政務次官の君が歓楽街に詳しい
というのもいただけませんね」
「長官、私、ちょっと急ぎますので」
今日のところはこれにて…と、えへへ笑いを浮かべながら、
リアンは何とか逃れようとした。
5日も行方不明で、突然遅くに戻ってきたと思ったら、
いきなり小言。本当に勘弁してほしい、とリアンは思う。
しかし、キリルにしてみれば。
“押してダメなら引く作戦”に自分が音をあげ、
会いたくてたまらなくなって来てみたら、相手は夜中に一人で
外出するところだと言う。
寂しいどころか、彼の存在すらキッパリ忘れられていたようで。
…本当に勘弁してほしい、とキリルは思う。
「政務次官に就任する時、危ないことは独りでやらないと
約束しましたよね」
「危ないことはしません。ただちょっと…様子を見に行くだけで」
「…そのお姐さんやお婆さんは、見張られている可能性が
ありますよね?
背後には間違いなく州の有力役人と中央貴族がからんでいる」
キリルの低い声が耳元をかすめる。リアンははっと息を飲んだ。
時々…ほんの時たま、彼を怖い人だと思ってしまう。
自治省長官室で優雅にお茶していたり、歴史書を読んでいたり。
日がな趣味にばかり時間を費やし、グウタラしているようで。
…そのくせ、リアンがしていることを全て知っているかのようで。
(いけない。流されては、だめ…)
リアンは束の間、自分を強く、けれど暖かく包む人に何もかも
委ねたくなり…慌てて頭を強く振った。
「リアン?」
力で突っぱねても公爵サマの腕力には敵わない。
そうであれば、とリアンは違う作戦を取ることにした。
…自分に色仕掛けができるなどとは思っていない。
しかし、両手で長官の頬を包み、ぐぐっと顔を近づけると、
相手は明らかに狼狽した様子であった。
二人の距離が唇が触れそうなほどに近い。
このままイケるかも、と期待してしまったのがキリルの敗因だ。
「それではご一緒しましょう、長官。
二人で夜の街に繰り出そうじゃないですか!」
リアンは彼の予想の範疇を全く超えた提案をしてきた。
「ええっ?」
正常な判断能力を麻痺させたミルケーネ公爵は一瞬何を言われたか
理解できなくて…そして反論する前に押し切られてしまった。
「まずは、しっかり変装してくださいね、長官!」
*** *** *** *** ***
目の前に立った青年をまじまじと見つめつつ、
リアンは躊躇いがちに問うた。
「…長官ですよね?」
「…他に夜の街にご一緒する方がいるのですか?」
「いえっ、でも、その、意外で…」
元・王子サマ、現・公爵サマ、そして自治省長官、という
高貴な御方の姿は今やどこにもなかった。
灰色混じりの黒いモジャモジャ髪。分厚い丸眼鏡。
生成りのシャツの上に毛織物の上着。少し草臥れた綿のズボン。
リアンの前には貧乏学生、もしくは、貧乏書生のような男がいた。
鬘も眼鏡も服装も…すごく自然で、どこにも違和感がない。
「えーと、それでは行きますか…」
キリルのあまりといえばあまりの変わり様に、
当初の目的が吹き飛びかけたリアンだが、何とか自分を取り戻す。
先に立って歩き出そうとしたところを、止められて振り返る。
眼の前にはガラスの小瓶が差し出されていた。
「出発する前にこれをどうぞ」
「…何ですか?」
香水の瓶のようにも見えるが。これを付けろというのか。
「薄荷水です」
「!?」
リアンは咄嗟に自分の口を押さえた。
公爵サマが意地悪く笑っている。
「口を漱いでいらっしゃい…まだニンニク臭いですよ」
(まぁ私は気にしませんがね…)
最後まで聞かず、リアンは小瓶を奪い取ると、
真っ赤になって化粧室に駆け込んだ。
…ささやかな乙女心はズタズタになった。
「会いたかった~」とか「寂しかったですぅ」という甘い言葉を
ちょっぴり期待していた長官は、とてもガッカリして、腹が立って、
最後に少しリアンに意地悪しておりました。
余談ですが、リアンに食堂の存在を教えた同僚も、食堂の女将も
実は某長官の息がかかった人たちです。当然、某長官命令で、
食堂のメニューも雰囲気もさりげなくリアン好みに工夫されて
いたりします…まぁ本人は一生知らないままかもしれませんが。
次回「自治省の殲滅部隊 その4」
キリルの“似合いすぎる変装”にリアンは昔を少し思い出します。
モジャ髪に丸眼鏡、ひょろりとした姿、彼女は確かに彼に会っています。それは…の巻。




