聖女の仕事は祈りではなく灯守でした。妹に譲って辺境へ参ります
王都の朝は、私が灯を点けて回ることから始まる。
夜明け前の四時。外套の裾を結んで、油差しと芯切り鋏と、魔石を磨く布を提げて、城壁沿いの階段を上る。城壁には十二基の結界灯が並んでいて、その一つ一つに、油を足し、芯を揃え、石の曇りを拭いてやる。それが聖女マリエル・フェンの仕事だった。
祈りは、その最後に一度だけ捧げる。
十二基を回り終えるのに、四時間かかる。雨の日も、雪の日も、熱を出した日も、私は回った。結界は祈りの力で張られているのではない。灯が結界を張り、祈りは、それが消えないよう背中を押すだけだ。
先代の聖女は、そう教えてくれた。
けれど今朝、王太子のアルベルト殿下は、大聖堂の広間に私を呼びつけて、言った。
「マリエル。今日をもって、君を聖女から外す」
隣には、妹のルシアが立っていた。純白の儀礼服を着て、頬を染めている。
「聖女の務めとは、民の前で祈りを捧げることだ。ところが君は毎朝、煤で汚れた姿で城壁をうろついている。見苦しい。国の象徴として相応しくない」
「殿下。結界灯の巡回は、聖女の――」
「灯の世話など、下働きにやらせればいい。聖女は聖堂で祈る。それが正しい姿だ。ルシアは美しいし、民衆に愛される。今日から彼女が聖女だ」
ルシアが、涙ぐんだ目で私を見た。
「お姉さま、ごめんなさい。でも私、一生懸命祈りますから……」
一生懸命、祈る。それだけで足りるなら、私は十年も階段を上らずに済んだのに。
私は殿下の顔を見て、ゆっくり確認した。
「巡回を、やめてよろしいのですね」
「ああ。もう二度と、あんな格好で人前に出るな」
「結界灯の点検を、どなたに引き継げばよいでしょうか」
「下働きの誰かに――いや、そんなことまで私に聞くな。お前の仕事だっただろう」
つまり、引き継ぐ先は決まっていない、ということだった。
私は、持っていた巡回表を、広間の卓の上に置いた。十二基の灯の位置、油の量、芯を替える周期。たった一枚の紙だ。
「承知しました。これは置いていきます。灯は、毎朝、四時間かけて回ってください。一日でも欠けると、三週間後に結界が薄れます」
「脅しか?」
「事実です」
殿下は鼻で笑った。ルシアは、卓の上の紙を、指先でつまんで脇へ押しやった。
私は一礼して、広間を出た。
外套の裾を結び直し、城壁の階段を、最後にもう一度、見上げた。十二基の灯は、朝日の中で静かに瞬いていた。私がいなくなって三週間の間は、まだ持つだろう。
私は、手放すことを、そのとき決めた。
*
行き先は、決まっていた。
国の北の端、ヴェルデ辺境。一年前、現地の駐屯隊長から手紙が来ていたのだ。「結界灯を維持できる技師がいない。魔物の侵入が増えている。助言を乞う」と。
私は返事に、「王都の灯守が手薄になるので動けない」と書いた。あの手紙は、ずっと胸に引っかかっていた。
馬車を乗り継いで九日。辺境の砦に着くと、迎えに出た駐屯隊長は、日に焼けた顔の青年だった。
「ヴァルター・ロウです。まさか、本当にいらしてくれるとは」
「聖女を外されましたので。手が空きました」
「それは、……災難でしたね」
「いいえ。むしろ助かりました」
私は、砦の裏手に案内された。そこには、六基の結界灯が並んでいた。三基は油が切れて黒ずみ、二基は魔石にひびが入っている。残る一基だけが、弱々しい光を保っていた。
「これでは、夜が越せなかったでしょう」
「ええ。この一年で、村を二つ、手放しました」
ヴァルターは悔しそうに唇を結んだ。
「祈るだけの聖女様なら、何人も来てくれました。ですが、灯は直らなかった」
「祈りは、灯を支えるものです。灯が壊れていたら、支えようがありません」
私は外套を脱いで、袖をまくった。
「道具を貸してください。それと、油の在庫を見せてください」
*
辺境での日々は、王都より忙しかった。
夜明け前に起きて、六基を回る。壊れた魔石は砦の鍛冶屋と相談して磨き直し、割れたものは、近くの採石場で似た質の石を探した。油が足りないとヴァルターが言えば、領内の菜種農家を一軒ずつ訪ねて、買い付けの値を交渉した。
最初は、村人たちも遠巻きに見ていた。「煤だらけの聖女様なんて」と囁く声もあった。
けれど三日目の夜、村の少年が私に言った。
「あのさ。昨日の夜、はじめて、森が静かだった」
その一言が、何より嬉しかった。
一週間で四基が直った。二週間で六基が揃った。灯が揃った夜、私は砦の見張り台で、ヴァルターと並んで、六つの光を見下ろした。
「ずっと、こんな景色だったんでしょうか。昔は」
「分かりません。僕は、灯が消えかけた景色しか知らなくて」
ヴァルターは、静かに息をついた。
「マリエル様。あなたのやっていることは、祈りより、よほど尊いと思います」
「尊くはありません。ただの、点検です」
「点検を、十年やる人間が、国にどれだけいるでしょう」
彼の言葉は、飾りがなくて、私は照れてしまった。
*
三週間後の夜、王都の城壁で、最初の灯が消えた。
そのことを私が知ったのは、辺境に届いた早馬の知らせによってだった。
十二基のうち、巡回の最後に当たる七、八、九番の灯が、油切れで消えた。祈りを捧げ続けたルシアは、毎日聖堂の前で人々に微笑み、夕刻には疲れて休んだ。誰も城壁を上らなかった。灯の世話は、下働きの仕事とされたまま、その下働きは、何をどうすればいいか教わっていなかった。
二日後、王都の北門に、魔物の群れが現れた。
結界の薄れた城壁を、獣の群れが這い登った。騎士団が駆けつけて、どうにか押し返したが、被害は少なくなかった。
殿下は、会議の場で、真っ青な顔をしていたという。
「聖女の祈りが足りないのではないか」
彼はルシアに詰め寄った。ルシアは泣きじゃくった。
「祈っています、毎日! お姉さまは何をしていたの? 私、ただ祈るだけなんて聞いていたもの!」
「マリエルが置いていった紙は、どこだ」
誰も、答えられなかった。
あの日、ルシアが指で脇へ押しやった紙は、卓の端から滑り落ち、掃除の下女が屑かごに入れていたのだ。
*
一か月後、辺境の砦に、王都からの使者が到着した。
馬車から降りたのは、アルベルト殿下本人だった。供回りも少なく、外套は埃にまみれていた。
「マリエル」
彼は私を見るなり、膝をついた。
「戻ってきてくれ。国が危ういのだ。ルシアでは、駄目だった。頼む。聖女の座は、すぐに返す」
私は、砦の庭で、灯の芯を切っていた手を止めた。
「殿下」
「あの紙を失くしたのは、私たちの落ち度だ。だが、君なら思い出せるだろう。巡回の順番を、教えてくれ」
「十二基。毎朝、四時間。油は三日に一度。芯は七日に一度。魔石は月に一度、磨く」
私は、そらんじてみせた。
「それだけです。私は殿下に、あの日、そう申し上げました」
「聞いていなかったのだ。私が愚かだった」
「ええ」
私は頷いた。他に言いようがなかった。
「巡回の手順は、いくらでもお教えします。ただ、戻る気はありません」
「なぜだ。聖女の座を返すと言っている」
「聖女の座は、私が欲しかったものではないからです」
殿下は顔を上げた。
「私は、灯を回す仕事が好きでした。祈りの前に、油を足す手の温かさが好きでした。それを見苦しいと言われた場所には、戻れません」
庭の向こうで、ヴァルターが静かに立っていた。口は挟まず、ただ、私が望む言葉を待つように。
「ですから、お約束できるのはこれだけです。王都の灯守を育てるために、一か月だけ、派遣の講師として伺います。給金は、正規の聖女の三倍。宿は聖堂ではなく、城壁の見張り小屋に。そして、灯守は聖女の下ではなく、独立した役職にすること」
「そんな条件、通るかどうか――」
「通らないなら、お帰りください。辺境には、私を待っている灯があります」
殿下は長い間うつむいて、やがて、小さくうなずいた。
*
半年後、王都の城壁には、十二人の灯守が立つようになった。
彼らは煤だらけで、毎朝四時に階段を上る。住民たちはいつしか、彼らを「朝の灯守さん」と呼んで、パンを差し入れるようになった。ルシアは聖堂で、祈りを捧げる役を続けている。灯守たちが回り終えた灯に向かって、毎朝、静かに。ようやく、祈りが背中を押す番になった。
私は、その様子を見届けて、辺境に戻った。
北の砦の見張り台で、夜明け前の風を受けながら、六基の灯を数える。一基ずつ、油を差す。芯を揃える。曇りを拭く。
隣で、ヴァルターが同じように、布を動かしていた。
「マリエル様。手が冷えています」
「いつものことです」
「温めても?」
私は、少しだけ迷ってから、手袋を外した。
灯の光の下、彼の大きな手のひらが、私の指先を包んだ。ひどく、温かかった。
祈りの言葉は、いつもの通り、最後に一度だけ。
けれどその朝は、十二基でも、六基でもなく、この砦から見える、国中の灯に向けて、ゆっくりと口にした。
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