3話: 『吉良殿、絶対切腹しないで仕返ししてやる!』
「浅野内匠頭、刃傷事件を起こすもお咎めなし! お家健在のまま、吉良殿への合法的な仕返しを開始する――!」
もしもあの赤穂事件で、浅野家が改易されずにそのまま存続していたら?
本作は、そんな歴史のifから始まる、前代未聞の「お家健在型・仕返しコメディサスペンス」でございます。
切腹を免れた内匠頭が仕掛けるのは、武力による討ち入りではなく、現代のハッキングにも通じる緻密でバカバカしい「合法的な嫌がらせ」の数々。
昼は浅野家からの正式な贈答品、夜は謎の偽名「小石」から届く不気味な進物――。昼夜を問わぬ波状攻撃に、吉良殿や清水一学、そしてお隣の脇坂淡路守殿までもが巻き込まれ、江戸中を巻き込んだ大騒動へと発展していきます。
さらに、吉良邸のお掃除奉公人(ソソソの班長)こと尾三次には、元・普請部次長にして柳沢吉保の密偵という驚きの裏設定が……。
お堅い武家法マナーの呪縛と、張り巡らされた奇妙な伏線。
クスッと笑えて、最後にはあっと驚く知略の応酬が繰り広げられます。
歴史の枠をちょっとだけ飛び越えた、人間味あふれる男たちの粋な化かし合いを、どうぞ最後までじっくりとお楽しみください!
九章三話 金目鯛煮付之助、風雲吉良城を視察
【長月・本所松坂町、吉良邸】
長月も半ばを過ぎ、本所松坂町には朝霧が深く立つようになっていた。
竪川の水面が白く煙り、屋根瓦の上を渡る霧が、まだ眠っている町をぼんやりと覆っている。どこかで早起きの鶏が鳴き、それに応えるように犬が一声吠えた。吉良邸の長屋門の前で、霧の中から一台の駕籠がゆっくりと姿を現した。
〈一〉大目付、到着す
駕籠の主は、大目付・金目鯛煮付之助である。
齢五十がらみ。丸顔、丸眼鏡、丸い体つき。あらゆる部分が丸く、その丸さが「敵を作らない」という処世術そのものを表しているような人物であった。表向きは公儀の目付として中立を装いつつ、実のところ風向きの強い方へ自然と体が傾く、という習性を持つ。
駕籠から降りた金目鯛は、霧の中で一度大きく伸びをした。
「ふむ。今日もよい霧でございますな」
供の者が誰もいなかったので、金目鯛はその感想を自分自身に向けて呟いた。
吉良邸の門番が、慌てて取り次ぎに走った。
〈二〉清水一学、出迎えに駆ける
「大目付様、これはこれは……!」
清水一学が、寝間着の上から羽織だけを引っ掛け、転がるように玄関先まで出てきた。神君拝領ユンビタA丸の本日分はまだ服用前であったが、それでも一学の気力は本能的に全開になっていた。
「視察と聞いておりましたが、こんなに早くお越しとは」
「いやなに、霧の中の道行きというのも、悪くないものでして」
金目鯛は丸い顔をさらに丸くして笑った。
その笑顔の奥で、目だけが静かに邸内をひと巡りしていた。
長屋門の格子。塀の高さ。庭の飛び石の配置。一学が気づかぬ速さで、金目鯛の視線はすでに三周ほど邸を巡っていた。
〈三〉色部又四郎との対面
奥座敷で、色部又四郎が出迎えた。
「上杉家・色部又四郎にござる」
「これはこれは、上杉様のご助勢とは、吉良殿も心強いことでございましょうなあ」
金目鯛は丸い笑顔のまま、色部の顔をちらりと見た。
色部は、何も言わず一礼した。
その短い所作だけで、金目鯛は色部の「格」を即座に測った。長年大目付として様々な武家を見てきた目である。値踏みは速い。
(これは、できる御仁だ)
金目鯛は内心でそう思ったが、表には出さなかった。丸顔のまま、にこにこと座についた。
〈四〉風雲吉良城、視察
吉良上野介自らが、金目鯛を邸内の案内に立った。
「なははは。大目付殿、ご覧の通り、当家の備えは万全でございましてな」
吉良は得意げに、すりこぎ筆の豪文字(盲之助の作品、植木に「綱一坊」の文字が大きく刻まれている)や、回転壁トラップ、縄跳びトラップを順に紹介した。
金目鯛は、ひとつひとつ、丁寧に頷きながら見て回った。
「なるほど、なるほど」
「これはまた、見事な仕掛けで」
「ほほう、これはどなたの発案で」
相槌だけは丁寧であった。しかし金目鯛の目は、吉良の説明よりも、むしろ別のものを見ていた。
庭の飛び石。色部が以前気にした、あの三枚目の石。
金目鯛はその前で、わずかに足を止めた。
「この石組み、最近、組み直されましたか」
吉良は得意げに答えた。
「いえいえ、古くからこのままで」
金目鯛は「ほほう」と言いながら、丸眼鏡の奥の目を一瞬だけ細めた。
その視線の先に、色部がいた。
色部もまた、その石を見ていた。
二人の視線が、一瞬だけ交わった。
どちらも、何も言わなかった。
〈五〉一学、ノイローゼ気味の説明
吉良邸の蔵の前まで来たところで、一学が説明を引き継いだ。
「こちらが、当家の蔵でございます。財はすべて、安全に管理されておりまして……」
蔵の脇から、小県小人の佑が転がるように現れた。手にはソロバンを抱えている。
「小人、小人! 大目付様、ご視察とは……!」
小人の佑は、一学の隣に並ぶと、ソロバンをパチパチと叩き始めた。緊張すると指が止まらなくなる、という持病めいた癖がある。
「蔵の中身は、こちらの帳面の通り、寸分の狂いもなく……パチパチパチ……小人、小人……」
金目鯛が、丸い目でその帳面を覗き込んだ。
「ほほう、見せていただいても?」
小人の佑の手が、ぴたりと止まった。
ソロバンの玉が、最後の一個だけ、コトリと音を立てて揺れた。
「……あ、いや、こちらは控えの帳面でして、本帳面は別に……」
「別に、ございますか」
「ございます。ございますが、今は手元に……パチパチパチパチ……」
一学が横で、額にじわりと汗を浮かせた。
蔵の中の財宝が、いつから「コンサル料」「御礼の品」という名目で出入りしているのか、一学自身、正確には把握していなかった。数えるたびに、数が合わないような気がしていた。気がするだけで、深く考えないようにしていた。
小人の佑も同じであった。数字が合わない時は、ソロバンをより激しく弾くことで、思考そのものを止める癖がある。
金目鯛は、その二人のやり取りをひとしきり見て、にこやかに言った。
「いや、結構結構。さすがは吉良家のご管理、見事なものですなあ」
一学と小人の佑が、同時にほっと息を吐いた。
その息の合った安堵を、金目鯛はしっかりと見ていた。
〈六〉盲之助、一矢を放つ
視察の最後、庭先で豪文字盲之助が特大虫眼鏡を構え、すりこぎ筆を振り上げていた。
「大目付様! ご覧あれ! この豪文字!」
ばばばばと、植木に向かって新たな文字を書き殴る。
「金目鯛も風見鶏ァァァ! いずれ風向きで色を変えるに相違ない!!」
座が、一瞬静まった。
金目鯛の丸い顔が、ぴくりと動いた。
「これはまた……鋭いお方ですな」
愛想笑いを浮かべながら答えたが、その声はわずかに硬かった。
色部又四郎が、横でその様子を見ていた。
盲之助の的外れな豪文字が、たまたま核心をかすめる。それが、この邸の妙な味わいだと、色部はすでに理解しかけていた。
吉良本人だけが、何も気づかず「なははは」と笑っていた。
〈七〉霧の中の帰路
視察を終え、金目鯛は駕籠に乗り込んだ。
霧は、まだ薄く残っていた。竪川の方角から、朝の光が少しずつ差し込み始めている。
駕籠が動き出す直前、金目鯛は供の者に小さく呟いた。
「飛び石、財布、それから豪文字の御仁の一言……ふむ、ふむ」
供の者は、何も答えなかった。聞いていなかったのか、聞こえなかったのか、定かではなかった。
駕籠は霧の中へ、ゆっくりと消えていった。
吉良邸の門前で、一学と小人の佑だけが、何かいやな予感を覚えながら、その背中を見送っていた。
「なぜでございましょう……今日はやけに、肌寒く感じます」
「小人も……何か、ソロバンの玉が、いつもより冷たい気がします……」
霧のせいだ、と二人は自分に言い聞かせた。
今宵の一句
霧深く 風見の鶏 値踏みする
あっちゅ寝太郎エッセイ
(吉良殿、丸い人ほど油断できませぬよ)
金目鯛煮付之助という人は、表向き愛想がよく、誰の話にも「ほほう、ほほう」と頷きます。しかしその丸い目の奥では、ちゃんと値踏みをしているのです。色部殿の格、一学殿と小人の佑殿の息の合った誤魔化し、盲之助殿の的外れな一矢、すべて静かに見て、帰っていきました。吉良殿、霧の朝はただ寒いだけではないのかもしれません。なははは。
史実をよくご存じの方であれば、吉良殿の屋敷の隣は本来、土屋主水正殿の屋敷ではないかと思われるかもしれません。
ですが、本作では作者の好みにより、あえて脇坂安治の末裔である「脇坂淡路守」殿の屋敷を隣に据えさせていただきました。ちなみにこの脇坂家、途中で養子が入って家名を繋いでいるお家柄でもあります。
なぜ脇坂殿なのかといえば、あの松の廊下の事件直後、取り乱した吉良殿にぶつかられて衣類に血を付けられた脇坂殿が、「無礼者ッ!」と吉良殿をピシャリとやったという、講談でお馴染みのあの小気味よい逸話がどうしても好きだからです。このお方なら、内匠頭の仕返しを隣でニヤニヤしながら面白がってくれるに違いないと、物語の妙としてお引越し願いました。
ちなみに、そんな風にいがみ合っていた両家も、現代ではすっかり仲直りをして和解しております。歴史の枠をちょっとだけ飛び越えた、脇坂殿の粋な立ち回りを、どうぞ温かい目でお楽しみいただければ幸いです。




