第二話
京都は碁盤の目で都市計画されているから、迷子になりにくい、というのは間違っている。単純化された地形であればあるほど、迷いやすい。ひたすら壁と地面だけの3Dモデルで作られたダンジョンゲームの開発者インタビューで読んだことがある。
京都出身ではなく、大学時代に京都で過ごしたが、一向に地理感覚を磨けなかったというのだ。彼が、のちのダンジョンゲームの始祖となったのは何とも皮肉だ。今その真意がよくわかる。鳩子からもらったショップカードの裏面に印字された手書き地図は、宝箱のありかのような簡易なメモ書きのようだった。
詳しく知られないようにするために、シンプル化することはよくあることだ。
地図アプリを起動してもよくわからないのは、その喫茶店が旗竿地にあったからだ。路地に見える道は私道で、客だったら問題なく堂々と通行していいだろう。店が閉まっているときに迷い込んだら、おそらく不法侵入となる。
私道路地の両脇には、隙間なくプランターがびっしりと並べられている。京都の美観を損なわないように、藍色のプランターになぜかサボテンが植えられている。たしかサボテンの花言葉は、「枯れない愛」「燃える心」「あたたかい心」。いずれにしても、情熱の大きさをあらわすパワーワードだ。見た目とその内包する言葉の熱量の違いがあるから、花や植物が好きなのだ。相手を欺くような、「芯」に心惹かれる。
ものの数十秒歩き、路地の行き止まりを右に曲がると、京都らしい町屋風の喫茶店が現れた。予定調和すぎて少しがっかりした。アンティークな彫り細工がされた木製のドアを引くと、涼し気にカランコロンとドアベルが店内に響く。まだ、三月末だというのに。
店内を見渡すと、カウンターから感じのよさげな若い男性店員が「お好きな席にどうぞ」と声をかけた。その店員に会釈のような目線を送り、店内にいるはずの鳩子を探す。ここで妙な気分に襲われた。間違い探しのような違和感。アハ体験みたいな。
二人掛けのテーブル三つに、カウンターに椅子が四つ。十客で満席になるこじんまりした店だ。
奥の二人掛けテーブル席に、鳩子がスポーツ新聞を読んでいる。一面にはアイドルの失踪ニュースが報じられている。鳩子は、俺に気づくなり軽いストロークで頭を下げる程度に会釈してきた。昨日キスした仲にしては余所余所しい。そういうものなのか、俺にもよくわからない。なんせ、ファーストキスだったのだから。鳩子はどうなのだろうか。
鳩子の表情が和らぐことがないまま、俺は席に着いた。鳩子が「コーヒーでいいよね」と強制的な同意をとりつけてきた。返事する前に、若い男性店員に、「コーヒーおねがい」とだけ常連ぽく言った。
昨日とは打って変わって、鳩子はシンプルな服装で、細身のジーンズに黒のニットだった。鎖骨が見える程度の露出が自信の表れのようにも感じた。昨日キスした腫れぼったい唇には、真っ赤な口紅が引かれていた。
「ここ、よく来るんですか?」
と手持無沙汰を紛らわすための質問に加えて、気恥ずかしさからか備え付けのビニールのおしぼりで執拗に手を拭った。
「いや、ここ私んち」
鳩子がぶっきらぼうに言うと、カウンター奥から若い男性店員が
「鳩子がいつもお世話になってます」とホットコーヒーを運んできた。鳩子からはすぐさま、兄で店のマスターだと紹介されたが顔がちっとも似ていない。背が高い、カウンター奥は窪みになっているのかと思うぐらい、フロアに出てくれば一八〇センチはゆうにある。
店内に入ったときの違和感がこれだった。あの若い店員は鳩子の兄だったのか。今時の兄と妹って、こんなに距離感近いものなのか。
兄上と呼ぼう。兄上は腕が丸太棒のように太い。それよりも特筆すべきは、肩。三角筋中部が外に張り出し、輪郭がほぼ球体に近い。首から肩に落ちるラインが絶妙。僧帽筋上部が盛り上がりすぎて、鎖骨が半分埋まっている。そのせいか、僧帽筋と三角筋の境目が、溝みたいに切れている。
――鍛えてる、じゃない。作ってる。そういう腕だ。
「ジロジロ見ちゃって、タイプなの?」
鳩子がスポーツ新聞を兄上に渡して、ニヤニヤと茶化す。
「いや、肩の筋肉が尋常じゃないなって」
それ褒めてるの? と鳩子が足を組んで尋ねると、兄上が割って入った。
「僕、鳩子とは血がつながっているわけじゃなくて、遠い親戚みたいなもので」
「なんでもかんでも正直に言わなくていいのよ、常夜」
兄上は常夜と言うらしい。変わった名前だが、俺の藤巳ってのも大概だ。鳩子の珍名さがまだまともにすら感じる。
鳩子は俺の心の中を察したのか、バカにするなよと言わんばかりに、アッカンベーと舌を出した。何に対する挑発なのか考えあぐねる。鳩子がそのまま細い脚をさらりと組み直すと、カウンターに戻っていた常夜がフルーツサンドを運んできた。
「これは、僕からのサービスです」
生クリームたっぷりのフルーツサンドにイチゴの断面が光沢を放つ。キウイのタネまでも両断されている。
二等辺三角形にカットされたフルーツサンドが四切れ皿に互い違いに向き合って、盛りつけられていた。隣にいらないであろうパセリがひとつ。
さて食べようとフォークに目をやり瞬きしたら、もう二切れに減っていた。海辺のトンビにかっ攫われるような、納得のいかない奪われ方だった。鳩子が両手を交互に忙しく動かして、フルーツサンドを頬張る。真っ黒に塗られた爪が白いサンドに甘く食い込んでいた。
生クリームの乳製品らしい丸い香りとイチゴの甘酸っぱさが鼻腔のさらに奥を刺激する。
「おいしいよ、これ」
鳩子の短い賞賛に、常夜は嬉しそうにほほ笑む。その瞬間だった。
皿に延ばした右手に激痛が走った。ケーキナイフが人差し指と中指の分かれ目、分岐している付け根を貫いた。「いでぇええええ」と俺の情けない声が店内に響く。常夜が興味深そうに、俺の手を眺めながらケーキナイフを引っこ抜いた。ズブリと抜くときの方が音を立てた。いつの間に、常夜はカウンターからテーブルまで来ていたのか。気配すら感じなかった。
「僕は、自分の目で見ないと、どうにも信じられないタチでして。だから、地球が丸いかどうかも、いまだ懐疑的なのです。もっとも、象が支えているってのも見たことがないので信じてもいませんが」
常夜は白い前掛けエプロンに付属している言い訳みたいな小ポケットから緑色のハンカチを取り出した。俺の右手から抜いたナイフを、すうっと音を立てながらハンカチで拭う。
「何するんですか!」
俺が当然の叱責を常夜に飛ばすと、腑に落ちない表情をしつつ、鳩子を見た。こんなことされても敬語な自分に少し嫌気がさした。
「ごめんね。藤巳くんが死なない身体って、常夜にもホントだったよって説明したんだけど、どうにも信じてくれなくて」
鳩子は前髪をいじりながら、悪びれることなく切り出した。どうにも誠意が感じられない。
「だからって、それはないでしょうが」
ちょっと丁寧語をやめてみた。
「ほら、見て、常夜。手の傷、もう治ってる」
鳩子は俺の右手を、クリームのついた白黒入り混じる爪で指した。タネのわからない手品でも見たように、常夜は言葉を失い、目を丸くした。鳩子の手の動きに少し遅れて、生っぽく甘ったるいクリームの香りが追従する。
「ほうぅ、なるほど。本当ですね。信じました」
常夜は俺の傷の治りを見て、回復力については納得したようだった。だが、不死の身体であることにはまだ懐疑的だった。
「じゃぁ、今度は頭を撃ち抜きますか?」
屈強な右肩が俊敏に動く。カウンターチェアの座面を器用にめくると、銃を取り出した。マットというのか、艶のない、プラスチックみたいな黒い銃。オモチャみたいだ。ゲームで見た気がする、グロック17だったかな。
なんだか、かすかに焦げた臭いがする。油っぽい。火薬の臭いか、花火みたいな。さっき使ったばかりなのか。死を操る生々しさが、狭い店内を埋め尽くしていた。
深い黒目のような銃口が俺をじっと見ている。
鳩子が常夜を目で制止し、銃口は静かに俺への軌道から外れた。鳩子がこの場の空気を支配しているのは確実だった。
「常夜は殺し屋時代の兄貴分で、私の教育係だったのよ。常夜は肉体改造と顔の成型、骨格矯正で身長もニ十センチも伸ばして、別人になったの。背骨の一部を切り出して、組織にも送り付けた」
鳩子がため息をつきながら、俺に告白してきた。店内に流れていた軽いジャズがいつの間にか、アイドルのポップスに変わっている。
「誰がどこに送りつけたの?」
俺の問いは今ここですべきことなのかわからないが、思いついたものを優先順位なしで聞くべきだと思った。疑問が洪水のように湧いては、新しい疑問がそれを塗り替えるからだ。
「私。私が常夜の胸椎の一本を取り出して、殺し屋の組織に送り付けた。真田の手下宛てにね。殺したよって証。足りなくなった胸椎はチタンにしたわ。だからサイボーグだね、常夜は」
鳩子の話を静かに聞いている常夜は、兄貴分だったことが想像しにくい。あの馬鹿みたいに鍛え上げた肉体は、特に両肩は、殺し屋組織の目を欺くためとは。胸椎は一般的には十二本で構成されている。そのうち一本でも欠損すると、歩行障害が起こっても不思議ではない。チタンの偽胸椎が代わりになるのかは知らないが。
「鳩子の身代わりになってもらえませんか?」
常夜の申し出は、丁寧な言葉を放たれているものの、内容は不躾というか、身勝手すぎる。
「俺、死なない身体って知ったの昨日のことで。本当にそれ、再現性があるのかってわかんないじゃないですか」
じゃぁ、と常夜が再びグロックを構える。
「やめてよ、そういうのじゃないから」
鳩子は俺が食べる予定だったフルーツサンドのひとつを常夜に投げつけた。回転軌道を瞬時に判断し、前歯で受け取ると、大きな口で咥えひと飲みした。鳩子が俺の口から出るであろう言葉に耳を澄ます。
「わかりましたよ。やりますけど」
悪い癖だ。両親が不仲だったからかもしれない。後から分かったことだが、二人とも殺し屋だったってことで、お互いのプライドが常にバチバチにぶつかっていたのだと思う。るのが俺の役割だと思っていたし、この場でも同じことだ。鳩子と常夜は満足気に頷いた。
一つ疑問が涌いた。
「身長は同じぐらいだけど、変装程度で鳩子には見えないんじゃないですか?」と切り出した。さっきの常夜の改造の話は聞いたが、話半分だろうと思ってのことだ。
鳩子は店の二階へと俺を連れて行った。ギシギシと歩くたびに軋む狭い階段を上がると、ドアがひとつ。銃弾ぐらいなら貫通はしない分厚い鉄製のドアだと、鳩子は自慢げに言った。ぎいいっと体重を乗せてドアを引く。八畳間をふたつほど無理やりつないだ柱のない空間だった。無機質そのもの。窓はなく、歯医者によくあるリクライニング式のチェアベッドが一台。
ここはメイク室だと言い、鳩子は俺をチェアベッドに座らせた。ずいぶんと広いもんだ。鳩子は突然唇を合わせてきた。昨日の続きがはじまるのか。俺は拒むでもなく、受け入れるでもなく、ただ流れに身を任せた。その方がラクだ。自分の意思を示すことほど、あとから厄介なことはない。これも報酬のひとつなのだろう、と気軽に受け取ることにした。
途端に眠気が襲う。舌が絡んで、堅結びされるほどのキスだった。何かを口移しで流し込まれたのか。こんな回りくどいやり方をしなくてもいいのに、と思いながら俺は深い眠りの底に落ちた。ザラザラとしたその底辺は、決して居心地がいいとはいえなかった。
俺が目を覚ましたのは、一時間ほど経った頃だった。スマホのアラーム音が鳴ったのだ。昨日、卒業式で校門前に集合と忘れないようにするためのアラームだ。アラームが鳴ることはなかった。俺はずいぶん早く校門前に着いて、アラームを消した。早く着いたせいで、美紀ちゃんのストーカーに刺されたという始末だ。
それにしても、昨日、俺は誰を待っていたんだ。
「目が覚めた?」
鳩子が逆さ顔で俺を覗き込む、ちょうど頭部から逆方向で俺を見ている。逆から見てもきれいな顔立ちだ。
「鏡見てみる?」
鳩子はご満悦だ。ぎいいっと鉄のドアが開くと、常夜がおおぉ、と獣丸出しの雄たけびをあげた。
部屋の真ん中に置かれている姿見は、ユニロクの店内でも見かけるほどの大きさ。全身が上から下まできっちりと映りこむ。細く見えるなどの歪もない。俺は姿見で自分を確認した。常夜の雄たけびの真意がよくわかった。
紛れもない、これは、鳩子だ。いつのまにか鳩子のワンピースを着させられている。
「ごめんね、私のスキニージーンズじゃぁ、やっぱり脚入らなくて」
早い話が、鳩子が俺に特殊メイクを施したということだ。改めて鳩子から、かかった時間が一時間程度と聞かされ、驚いた。背丈はプラスマイナス、十センチ程度なら骨格矯正で調整できるとも。鳩子と背はほとんど同じだが、骨太さや筋肉は異なる。このあたりはある程度、華奢めに骨と骨のつなぎ目を押し込み圧縮し、リンパ液を流しこみ、筋肉の位置を動かす。腹と背中の肉は、胸側へと押し込まれ、見事なバストへと変化していた。しばらくこのままでいたいものだ、と言うと変態だとなじられるだろう。常夜がグロッグをこっちに向けないように、俺はその言葉たちを飲み込んだ。
「あんまり見ないでよ、それほぼ私のおっぱいと同じだから」
自分でそこまでのディテールを創り上げながら、恥じらう
階段で落ちて入れ替わる、ならば、俺の身体はどこだ? となる。そうじゃない。俺は〈ほぼ〉指揮嶋鳩子になっていたのだ。メイクまで施されている。
常夜が「区別つかないね」とまじまじ言うと、鳩子が常夜の脛を軽く蹴り上げた。二秒ほど遅れて「痛ッ」と聞こえたが、この程度の掛け合いはいつものことらしい。ともかく、俺は鳩子の身代わりに、なれたようだ。




