第九話:盤上の駒
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屋上での対決以降、広瀬未央は変わった。
いや、橘陽菜の目には、そう映っていた。あれほど正義を振りかざしていた親友は、今や陽菜の影に寄り添う、従順で物言わぬ駒となっていた。
「未央、この前の警察の事情聴取、何か新しいこと聞かれた?」
「ううん、いつもと同じ。アリバイの確認だけ」
「そっか。ありがとう」
教室の隅で、二人は囁き合う。その光景は、周りの生徒たちには「事件のショックを共有し、支え合う親友同士」と映っていた。
しかし、その実態は、支配者と奴隷の歪な関係に他ならない。
陽菜は、未央を試すように、些細な「仕事」を言いつけるようになった。
「アノニマスを崇拝してるサイト、いくつかピックアップしてリスト化しておいて〜?」
「次の作品のテーマになりそうな、社会問題の記事、集めておいてくれる?」
未央は、すべてに「うん」とだけ答え、黙々とこなした。その瞳からは、かつての活気や好奇心は消え失せ、ただ、諦めにも似た静かな光が宿っているだけだった。
陽菜は、その様子に満足していた。恐怖は、最も優れた支配の道具だ。未央はもう、自分に逆らうことはできない。そう、確信していた。
だが、陽菜は気づいていなかった。
夜、自室のベッドの上で、未央の瞳に宿る光が、諦めではなく、冷徹な分析と燃えるような闘志に変わることを。
未央は、ジャーナリストとしての自分を捨ててはいなかった。戦うフィールドを変えただけだ。
警察という『表』の舞台で、録音データという決定的な証拠を突きつけるのは、陽菜の言う通り、共倒れになるリスクが高すぎる。陽菜は、自分が共犯者であることを盾に、決して尻尾を出さないだろう。
ならば、どうするか。
未央は、パソコンの画面に、無数の記事やSNSの投稿を表示させていた。それは、陽菜に頼まれた『仕事』の成果物ではない。彼女が独自に集めた、アノニマス事件に関するすべての情報だった。
(陽菜の芸術は、完璧すぎる)
それが、未央がたどり着いた最初の結論だった。
佐伯翔の事件は『事故死』として処理され、高村沙織の事件は『アノニマス信者による模倣犯の可能性』も視野に捜査が行き詰まっている。
陽菜に繋がる物的証拠は、何一つない。彼女の犯罪は、まるで物語のように構成され、すべてのノイズが計算の上で消去されている。
(――本当に、そうだろうか?)
未央は、思考の角度を変えた。
完璧すぎる物語には、必ずどこかに『設定の矛盾』が生じる。
未央の視線が、ある一点に留まった。最初の事件。佐伯翔の死。
陽菜は言った。「佐伯くんの死は、ただの事故。私は、その偶然を利用して、最初の作品を描いただけ」と。
しかし、本当にそうだろうか?
すべてが計算ずくで動いているように見えるこの物語の中で、始まりだけが『偶然』というのは、あまりにも不自然ではないか。
未央は、佐伯翔のSNSを、彼の友人関係を、過去の発言を、徹底的に洗い直し始めた。警察が見落とした、あるいは重要視しなかった、小さな、小さな矛盾を探して。
◇
数日後、未央はひとつの情報にたどり着いた。
佐伯翔が亡くなる一週間前。
彼は、アノニマスのアンチ活動とは別に、あるコンペに応募していた。それは、海外の有名美術大学が主催する、若手アーティスト向けの奨学金制度だった。
(コンペ……?)
それが、事件と何の関係があるというのか。
未央は、そのコンペの詳細を調べていくうちに、ある応募規定の項目を見つけて、指先が冷たくなるのを感じた。
『応募作品は、未発表のオリジナル作品に限る。SNS等で公開済みの作品は、審査対象外とする』
アノニマスは、SNSでのみ作品を発表する、正体不明の天才だ。
もし、アノニマスがこのコンペに応募しようと考えていたとしたら?
自分の作品は、すべて『発表済み』と見なされ、応募資格がないことになる。
――その時、未央の脳裏で、バラバラだったパズルのピースが、恐ろしい形に組み合わさった。
佐伯翔は、アノニマスのトレース疑惑を追っていた。それは、ただの嫉妬や正義感からではなかったとしたら?
もし、彼もこのコンペへの応募を考えていて、ライバルとなりうるアノニマスの身辺を調査する中で、その正体――橘陽菜にたどり着き、彼女にこう告げたとしたら?
『お前の絵は素晴らしい。だが、SNSで発表し続ける限り、お前は永遠にアンダーグラウンドの神様のままだ。俺と同じ、表の舞台には立てない』
それは、陽菜にとって、単なる批判や脅迫よりも、ずっと重い一撃だったはずだ。
自分の芸術が、自分が作り上げた神話によって、未来への道を閉ざされているという事実。
その『矛盾』を指摘した佐伯翔は、陽菜にとって、殺すのに十分な理由を持つ、邪魔者になったのではないか。
最初の事件は、事故ではなかった。
あれこそが、陽菜の最初の『作品』だったのだ。
未央は、確信した。
まだ、証拠はない。だが、陽菜の完璧な物語を崩すための、最初の糸口を見つけた。
未央はボイスレコーダーを握りしめた。これを武器にする時が、必ず来る。だが、今ではない。もっと決定的で、陽菜が決して言い逃れのできない『真実』を突きつける、その時まで。
従順な駒を演じながら、静かに、そして鋭く。
殺人鬼の親友を告発するための、たった一人の捜査が、今、始まった。
これから反撃開始となるか…?
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