第五話:聖女と生贄
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アノニマスの新作『舌は災いの根』が投下された翌日、私立彩星芸術学園の権力構造は、一夜にして塗り替えられていた。
昨日までの女王、高村沙織は、今日、誰からも避けられる『穢れ』そのものになっていた。
彼女が廊下を歩けば、モーセの前の海のように人垣が割れる。誰も彼女と目を合わせようとしない。昨日まで媚びへつらっていた取り巻きでさえ、呪いを恐れるように距離を置いていた。
「自業自得、だけどね。ちょっと可哀想かも」
教室の隅からその光景を眺めながら、未央が同情的に呟いた。
「次は自分が殺される、って本気で思ってる顔だ」
陽菜は何も答えなかった。ただ、怯える子鹿のように周囲を警戒し、青ざめた顔で席につく沙織の姿を、じっとその目に焼き付けていた。
まるで、デッサンの対象を観察するかのように。
◇
放課後、陽菜は意図的に帰る時間を遅らせた。
一人、また一人と生徒が去っていく教室で、沙織だけが動けずに席に座っている。家に帰るのも、一人になるのも怖いのだろう。
陽菜は静かに立ち上がると、まっすぐ彼女の元へ向かった。
物音に気づいた沙織が、ビクリと肩を揺らして陽菜を睨みつける。
「……なによ! あんたも私を笑いに来たわけ!?」
その声は震えていた。必死に虚勢を張っているのは明らかだった。
陽菜は、怯えた、慈愛に満ちた表情を作った。
それは、この数日間で彼女が完璧にマスターした『悲劇のヒロイン』の仮面だった。
「ううん、違うの」
陽菜はゆっくりと首を振り、囁くように言った。
「高村さん……大丈夫? あなたの気持ち、少しだけ、わかる気がするの。私も……同じだから」
「は……?」
「私も、佐伯くんが死んだ時、みんなから人殺しみたいに言われた。今だって、そう思ってる人はいる。アノニマスに狙われてるって、どんなに怖いことか……」
『被害者』である自分を強調することで、相手の警戒心を解く。
陽菜の予想通り、沙織の瞳から敵意が消え、代わりに戸惑いの色が浮かんだ。自分と同じ苦しみを知る(とされている)人間の登場に、張り詰めていた彼女の心の糸が、ぷつりと音を立てて切れた。
「私……私、何もしてない!」
沙織は、堰を切ったように泣きじゃくった。
「机に落書きはしたわよ! でも、殺されるようなことじゃない! みんなやってた! なんで私だけが!」
「うん、うん」
陽菜は、壊れた子供をあやすように、優しく相槌を打つ。そして、決定的な言葉を引き出すために、静かに待った。
「佐伯くんも、だから殺されたんだわ!」
沙織は、確信したように叫んだ。
「彼は気づいてたのよ! アノニマスは、ただのトレース野郎なんかじゃないって! もっと……もっとヤバい奴なんだって言ってた! この学園の内部にいて、私たちの全部を見てるんだって……!」
その言葉を聞いた瞬間、陽菜の心は凍てついた。
聖女の仮面の下で、殺人者の理性が警鐘を鳴らす。
(佐伯翔は、私が思う以上に真相に近づいていた……)
トレース疑惑は、ただのきっかけに過ぎなかった。彼は、アノニマスの異常性、その正体が身近な人間である可能性にまで気づいていた。この高村沙織という少女は、自分の計画にとって、あまりにも危険な『不確定要素』だった。
「陽菜! こんな所にいたんだ」
突然、教室の入口から未央が顔を覗かせた。その手には、取材用のボイスレコーダーが握られている。
「高村さん! ちょっと話を聞かせ……」
「ひっ……!」
未央の姿を認めた沙織は、悲鳴を上げて後ずさった。
その反応を見た陽菜は、即座に動いた。沙織の前に立つようにして、未央を制止する。
「未央、ダメ。今はそっとしておいてあげて」
その声には、有無を言わせぬ響きがあった。
「私が、彼女の相談に乗るから。ね?」
「え……あ、うん。わかった。陽菜は優しいね」
未央は少し不満そうだったが、陽菜の迫力に押されて素直に引き下がった。
陽菜は、未央という邪魔者を排除し、迷える子羊を完全に自分のコントロール下に置くことに成功した。
「大丈夫。私がついてるから」
陽菜はそう言って、泣きじゃくる沙織の背中を優しく撫でた。その手つきは、どこまでも慈悲深く、そしてどこまでも冷たかった。
◇
その夜。
自室のベッドの上で、高村沙織はスマホを握りしめ、絶望的な気持ちでタイムラインを眺めていた。アノニマスの新作に寄せられるコメントは、今や完全に『高村沙織への公開処刑』を望むものばかりになっていた。
もう、誰も助けてくれない。
そう思った、その時だった。
ピコン。
一通のDMが届いた。
送り主の名前に、沙織の心臓が鷲掴みにされたかのように跳ねた。
『Anonymous』
震える指で、メッセージを開く。
『君に、真実を話そう。佐伯を殺した犯人のことを』
『君が、次に狙われている理由も』
『今夜、午前1時。旧美術棟の第二準備室へ、一人で来なさい。誰にも言ってはいけない。これは、君を救うための最後のチャンスだ』
救済か、罠か。
沙織には、判断がつかなかった。しかし、このまま部屋で怯えていても、いずれはじりじりと追い詰められて殺されるだけだ。だとしたら、一縷の望みに賭けるしかない。
同じ頃、橘陽菜は自室のベッドに静かに横たわっていた。
つい先ほど高村沙織に送ったDMの履歴を、手際よく完全に削除する。
そして、机の上に置かれた画材道具に、冷たい視線を送った。
新しい絵の具。鋭い切れ味のカッターナイフ。
まるで、これから始まる創作活動のために、お気に入りの道具を並べる芸術家のように。
彼女の顔には、何の感情も浮かんでいなかった。
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