第四話:偽りの福音
毎日18時更新
神からのメッセージは、陽菜に二つのものを与えた。
一つは、この地獄を生き抜くための「希望」。
そしてもう一つは、すべてを自分の思い通りに描き変えるための「脚本」だった。
翌日、陽菜は意を決して行動に移した。
眠れなかった、と誰の目にもわかるように隈をつくり、憔悴しきった表情を顔に貼り付けて、親友の元へと向かう。
彼女の計画における、最初の、そして最も重要な登場人物。広瀬未央。
「未央……」
陽菜は、まるで重大な秘密を打ち明けるかのように、声を震わせた。
「信じてもらえないかもしれないんだけど……きのう、その……」
「どうしたの、陽菜?大丈夫?」
心配そうに駆け寄る未央の手を掴み、陽菜は自分のスマホの画面を見せた。
そこに表示されているのは、アノニマスとのDMのやり取り。
『僕が必ず、君を救い出す』
未央は、画面と陽菜の顔を二、三度、信じられないというように見比べ、やがてその目を大きく見開いた。
「……嘘でしょ」
息をのむ音。そして、それはすぐにジャーナリストの卵としての興奮へと変わった。
「神が……アノニマスが、陽菜に直接コンタクトを!?やっぱり!やっぱり陽菜は無実だったんだ!」
未央は、陽菜が思い描いた通りの完璧な反応を見せた。
「佐伯くんを殺したのは、アノニマスの熱狂的な信者か、あるいはアンチの誰かで、本物のアノニマスは陽菜が巻き込まれたことを知って、助けようとしてるんだ!そういうことだよね!?」
「わ、からない……」
陽菜は涙を浮かべ、か弱く首を振った。
「でも、怖いの。アノニマスのことも、警察のことも……。でも、あの人だけが、私を信じてくれるって……」
その姿は、未央の庇護欲と正義感を燃え上がらせるには十分すぎた。
「大丈夫。私がいる」
未央は陽菜の両肩を強く掴んだ。
「私が、絶対に陽菜の無実を証明してみせるから!」
最初の駒は、盤上の正しい位置についた。
◇
その日の午後から、学園とネットの空気は、奇妙な変化を見せ始めた。
いくつかの匿名掲示板やSNSで、こんな噂が囁かれ始めたのだ。
『速報:橘陽菜、アノニマス本人から保護されていた』
『佐伯を殺した真犯人は別にいる。橘陽菜はスケープゴートにされただけ』
『警察は無能。神はすべてお見通し』
情報源は、もちろん広瀬未央だ。
彼女は自分の持つ情報網とスキルを駆使し、陽菜を「アノニマスに選ばれた悲劇のヒロイン」として祀り上げるための世論操作を開始した。
あからさまないじめは鳴りを潜め、生徒たちは遠巻きに、好奇と少しの畏怖が混じった目で陽菜を見るようになった。
◇
この不自然なまでの流れの変化を、警察が見逃すはずはなかった。
警察署の一室で、相田刑事は苛立たしげにタブレットをデスクに置いた。
「妙です、溝口さん。急に橘陽菜を擁護する流れができてる。まるで誰かが脚本でも書いているみたいに。情報源は、おそらく友人の広瀬未央でしょう」
「……」
溝口は、黙ってタバコの煙を吐き出した。
「橘陽菜を悲劇のヒロインに仕立て上げて、我々の捜査を攪乱する狙いかもしれません。だとしたら、その背後にいる脚本家は、相当な食わせ物だ」
「橘陽菜本人、という可能性は?」
「さて、どうだろうな」
溝口は鋭い目で煙の先を見つめた。
「あの怯えた子鹿のような少女が、そこまでの役者だとしたら、だが。……引き続き、広瀬未央の動きも含めて、二人を注意深く見ておこう」
◇
陽菜の計画は、静かに、しかし着実に進行していた。
だが、世論がどう変わろうと、陽菜の机に刻まれた「人殺し」という落書きは消えない。
これを書いたのが、デザイン科で女王のように振る舞う高村沙織とその取り巻きであることは、暗黙の了解だった。
授業中、陽菜は教室の隅から、高村たちが自分を見て嘲笑うのを、ただ静かに見つめていた。以前の陽菜なら、視線を逸らし、泣き出しそうになるのを必死で堪えていただろう。
だが、今の彼女の瞳には、怯えの色はなかった。
それは、次の作品のモチーフを吟味する芸術家のような、冷たく、どこまでも客観的な光を帯びていた。
――次なる生贄は、決まった。
◇
その夜。
世界が寝静まった午前零時。
神は、再び降臨した。
『Anonymousが新作を投稿しました』
通知に気づいた者たちが、我先にとその作品に群がる。そこに描かれていたのは、あまりにもショッキングな一枚だった。
タイトルは、『舌は災いの根』。
茨の蔓が幾重にも巻き付いた舌。その舌を貫いた鋭い棘からは、血の代わりに黒いインクが流れ落ちている。声を発することのできない絶望と苦痛。そして、何よりも見る者を震撼させたのは、その絵の少女の顔立ちが、驚くほど高村沙織に似ていたことだった。
コメント欄は、もはや熱狂ではなかった。恐怖と戦慄、そして歓喜が入り混じった、異常な興奮のるつぼと化していた。
『神の警告だ……』
『佐伯の次は高村沙織……口は災いのもと……』
『神の粛清が始まったんだ!』
『次はいつですか? 次は誰ですか? 神よ、我らにお示しください!』
自室のベッドの上で、陽菜はその狂乱を、ガラス玉のような無感情な瞳で眺めていた。
彼女は静かにスマホの電源を落とすと、机の引き出しから、鍵のかかったあのスケッチブックを取り出す。
そして、真っ白な新しいページに、鉛筆を走らせ始めた。
まるで、それが神から与えられた、次なる仕事であるかのように。
彼女の顔には、一片の罪悪感も浮かんでいなかった。