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第三十一話:空白のキャンバス

毎日18時更新

 午前二時過ぎ。


 街は、真夏の湿り気を帯びた、重い夜気に支配されていた。広瀬未央は、眠れずに自室のベッドの上で、ただ、暗闇を見つめていた。


 数日前、自らの手で、白く塗りつ潰した壁のホワイトボード。それは、今の自分の心の中を、映しているかのようだった。事件という、あまりにも強烈な色彩で、塗りたくられていた感情も思考も、すべてが消え去り、そこにはただ、空虚な空白だけが広がっている。


 祭りは、終わったのだ。

 これから、どうすればいいのだろう。


 未央は、まるで夢遊病者のように、ベッドから抜け出した。そして、誰に見せるでもない、完璧な日常を演じ始めるかのように、Tシャツとショートパンツに着替えると、静かに玄関のドアを開けた。


 夜明け前の海沿いは、別世界のように静まり返っていた。海岸から吹き付けてくる潮の香りを含んだ風が、火照った頬を優しく撫でていく。未央は裸足になると、まだ夜の冷たさを残した、砂の感触を確かめるように、ゆっくりと波打ち際へと歩いていった。


 ザザーン、ザザーン……。


 寄せては返す、規則的な波の音。それは、地球の心臓の鼓動のようだった。

 この雄大な自然の営みの中で、自分が必死に戦っていたあの事件が、あの狂気が、ちっぽけで馬鹿馬鹿しい、人間のおままごとのように思えた。


 だが、消えない。

 あの記憶は、この体に、魂に、深く刻まれてしまっている。


 東の空が、少しずつ白んでくる。水平線の彼方から、新しい一日が否が応でも、始まろうとしていた。

 自分は、この新しい一日を、どうやって生きていけばいい?



 ◇



 その日の、昼過ぎ。

 未央は、何かを振り払うように、駅ビルにある大型書店へと向かった。

 本の中に、答えがあるわけではない。ただ、人の喧騒の中に、身を置きたかった。


 しかし、それは間違いだった。

 雑誌コーナーの、最も目立つ平積みの台に、その見出しが、嫌というほど並んでいた。


『特集:女子高生アート殺人事件の深層』


『緊急追跡! 神か悪魔か、アノニマス・橘陽菜、その狂気の半生』


『独占スクープ! 事件を終結させた、謎の女子高生〝M〟の正体!』


 そこには、おびただしい数の憶測と、悪意と、そして安っぽい正義感が溢れていた。自分たちが、命を懸けて駆け抜けた、あの地獄のような日々が、ワイドショーのゴシップのように、面白おかしく消費されていく。桐谷先輩の心の傷も、佐伯くんの死も、陽菜の狂気さえも、すべてが切り刻まれ、安価な物語として売り買いされている。


「……気持ち、悪い」


 思わず、声が漏れた。

 近くで立ち読みをしていた、女子高生たちの会話が、耳に突き刺さる。


「ねえ、この広瀬未央って子、すごくない? 犯人と親友だったんでしょ?」


「なんか、この子も裏で操ってたって噂だよ」


「マジで? こわーい……」


 ほら、見ろ。

 これが、世界だ。

 真実なんて、誰も求めていない。


 人々が欲しいのは、わかりやすい勧善懲悪の物語と、その物語を肴にして、他人を叩きのめすための、娯楽だけだ。

 陽菜がやろうとしていたことと、本質は何も変わらない。


 未央は吐き気を覚え、その場から逃げ出した。

 そして、吸い寄せられるように、ノンフィクションやジャーナリズムに関する書籍が並ぶ書棚の前に、たどり着いた。


 その、一冊を手に取る。

 それは、ある高名な戦場ジャーナリストが書いた、手記だった。


 パラパラと、ページをめくる。

 そして、その一節に、彼女の目は釘付けになった。


『――事実は、無数にある。だが、真実は一つしかない。我々の仕事は、その瓦礫の中から、たった一つの真実を掘り起こし、それを物語として語り継ぐことだ。そうでなければ、死んでいった者たちの声は、永遠に、雑音の中に消えてしまうのだから』


 ――死んでいった者たちの、声。

 その言葉が、未央の空っぽだった心に、深く、深く、突き刺さった。


 佐伯翔。

 彼は、何を伝えたかったのか。


 高村沙織。

 彼女の死は、何だったのか。


 そして、桐谷海都。

 彼は、今も生きながらにして、心を殺され続けている。


 橘陽菜。

 あの怪物の内側で、泣いていた少女の、声は。


 その、すべてを知っているのは、世界で自分しかいない。

 このまま沈黙すれば、彼らの本当の声は、ゴシップという雑音の中に、永遠に葬り去られてしまう。


(……これか)


(これが、私がやるべき、ことなのか)



 ◇



 家に帰ると、両親が心配そうな顔で、彼女を出迎えた。


「未央……大丈夫? 学校の方で、カウンセリングも受けられるそうよ」


「うん。大丈夫」


 未央は、その時初めて、心の底から、そう答えることができた。


「お母さん。私、大学に行きたい。東京の大学で、ジャーナリズムを学びたい」


 その、あまりにも唐突な、しかし、迷いのない宣言に、両親は、ただ目を見開いていた。


 自室に、戻る。

 未央は、今日書店で買ってきた、一冊の真新しいノートを、机の上に置いた。

 そして、その空白の、最初のページを開く。


 彼女は、ペンを手に取ると、そこに一つのタイトルを、書き記した。

 それは、これから始まる、彼女の長い、長い戦いの始まりを告げる、タイトルだった。



『匿名のアトリエ』

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