第三話:神との謁見
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警察署の取調室は、灰色で、無機質で、息が詰まるほど静かだった。
陽菜はパイプ椅子に座らされ、二人の刑事に挟まれていた。年配のベテラン刑事、溝口が穏やかな口調で尋ねる。
「橘さん、落ち着いて聞いてください。我々は君を犯人だと決めつけているわけじゃない。ただ、事実が知りたいだけなんだ」
「……はい」
「佐伯くんが亡くなる直前、君の名前を投稿している。これは、どういうことなのかな?彼との間に、何かトラブルでも?」
「ありません」と、陽菜はか細い声で答えた。
「佐伯くんとは、ほとんど話したことも……」
「嘘ね」
隣から、氷のように冷たい声が飛んできた。
若手の女性刑事、相田だ。彼女は、陽菜を射抜くような鋭い視線で睨みつけていた。
「佐伯くんは、アノニマスのトレース疑惑を追っていた。そして、あなたの名前を投稿した。無関係なはずがない。あなた、アノニマスと何か関係があるんじゃないの?」
「……っ」
核心を突かれ、陽菜は息をのんだ。
アノニマスは、陽菜にとって神聖な存在だ。自分の口から、その名前を出すことさえおこがましい。ましてや、警察にその関係を邪推されるなど、耐えられなかった。
「何も、ありません。私は、ただのファンで……」
「ファン、ねぇ」相田は鼻で笑った。
「あなたは絵を描くんでしょう?美術準備室で、こっそりと。誰にも見せないような絵をね。それとアノニマスは、どういう関係なのかな?」
なぜ、そんなことまで知っているのか。恐怖で全身の血の気が引いていく。あのスケッチブックのことだろうか。誰かに見られたのだろうか。
陽菜は唇を固く結び、俯いたまま動けなくなった。何かを隠していると思われても仕方がない。事実、隠しているのだから。自分の心の最も柔らかな部分に描かれた、誰にも見せてはいけないあの絵のことは、絶対に話せなかった。
結局、数時間の聴取の後、溝口刑事が「今日はもうお帰りください」と陽菜を解放した。
しかし、それは無罪放免を意味しない。いつでも連絡がつくように、と念を押された陽菜は、自分が巨大な監視網に囚われた小さな蝶なのだと悟った。
◇
翌日からの学園は、地獄だった。
事情聴取を受けたという事実は瞬く間に広まり、「橘陽菜」は”容疑者”から”黒”へと格上げされていた。
廊下を歩けば、ひそひそと囁かれる。
「あれが佐伯を殺した女」「アノニマス様を脅してたんだって」。
すれ違いざまに、わざとぶつかられ、自分のロッカーを開けると、中からゴミが散らばった。
魔女狩りだった。
神を信じる敬虔な信者たちが、神を脅かしたとされる魔女を、集団でいたぶっている。誰も、真実なんて求めていない。ただ、憎悪をぶつけるための、分かりやすい「悪役」が欲しいだけだ。
「陽菜、大丈夫?」
休み時間、唯一、未央だけが心配そうに声をかけてくれた。しかし、その未央に対しても、周囲の視線は冷たい。「魔女の味方」を見る目だ。
「ごめん、未央。私のせいで……」
「陽菜のせいじゃない!……でも」
未央は言葉を濁し、悔しそうに唇を噛んだ。
「今は、ちょっと……目立たないようにしていよう?……ごめん」
その言葉は、陽菜の心を深く抉った。
未央が悪いわけではない。彼女を責めることなんてできない。だが陽菜は、この世界で本当に独りぼっちになってしまったのだと、痛感せざるを得なかった。
その日は授業が終わるなり、逃げるように家へ帰った。
自室のベッドに倒れ込み、毛布を頭まで被る。もう、何も考えたくない。学園へも行きたくない。このまま、消えてしまいたい。
それでも、震える手でスマートフォンを手に取り、自分の名前で検索をかけてしまう。案の定、画面は陽菜への誹謗中傷で埋め尽くされていた。
『橘陽菜の絵、見たけど、アノニマスの足元にも及ばない劣化コピーじゃん』
『こんな奴がアノニマス様を騙ってたとか、万死に値する』
『早く捕まれよ、人殺し』
涙が、スマホの画面にポタポタと落ちた。
もう、終わりだ。私の人生は、終わった。
そう思った、その時だった。
ピコン、と軽快な通知音が鳴った。
どうせまた、匿名の罵詈雑言だろう。そう思いながら、ぼんやりと画面に目を落とした陽菜は、次の瞬間、呼吸が止まるほどの衝撃を受けた。
ダイレクトメッセージの通知。
送り主のアカウント名に、陽菜は釘付けになった。
『Anonymous』
嘘だ。ありえない。偽アカウントに違いない。
そう思いながらも、指は勝手にその通知をタップしていた。公式マークこそないが、何百万人ものフォロワーがいる、本物の神のアカウント。
そのアカウントから、自分宛にメッセージが届いていた。
『君は悪くない。全部、わかってる』
心臓が、喉から飛び出しそうだった。
メッセージは、まだ続いていた。
『彼は、神の領域に土足で踏み込もうとした。だから、罰が当たっただけだ』
『君は”偽物”なんかじゃない。君の絵は、僕が今まで見てきた誰の絵よりも、美しく、気高い』
涙腺が、完全に壊れてしまった。
嗚咽が漏れる。恐怖と、絶望と、孤独で張り裂けそうだった心が、その言葉だけで満たされていく。
神が、私を見ていてくれた。私の絵を、認めてくれた。
そして、メッセージはこう締められていた。
『信じて。僕が必ず、君を救い出す』
陽菜は、スマホを胸に抱きしめた。
アノニマスは私の味方だ。この地獄から、私を救い出してくれるという。
そうだ。私は独りじゃない。
神が、私と共にいてくれる。
陽菜の瞳に、絶望とは違う、新たな光が宿っていた。それは、狂信的とも言えるほどの、強い光だった。
孤独な少女は、自分だけを救済してくれる神と出会ってしまった。
ーーその神の正体が、メッセージを読んで涙を流している…
自分自身であることにも気づかずに。
彼女は、自らを救うための完璧な筋書きを、今まさに描き始めたのだった。
物語はここから、倒叙ミステリーへと姿を変えます。
陽菜は被害者ではなく、自ら創り出した「神」に救いを求める悲劇の少女を演じることで、自分への疑いを逸らそうとする、恐るべき犯罪者なのです。
さあ、これであなたも陽菜の秘密を知る唯一の「共犯者」ですね。