表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/46

第三話:神との謁見

毎日18時更新

 警察署の取調室は、灰色で、無機質で、息が詰まるほど静かだった。

 陽菜はパイプ椅子に座らされ、二人の刑事に挟まれていた。年配のベテラン刑事、溝口(みぞぐち)が穏やかな口調で尋ねる。


「橘さん、落ち着いて聞いてください。我々は君を犯人だと決めつけているわけじゃない。ただ、事実が知りたいだけなんだ」


「……はい」


「佐伯くんが亡くなる直前、君の名前を投稿している。これは、どういうことなのかな?彼との間に、何かトラブルでも?」


「ありません」と、陽菜はか細い声で答えた。


「佐伯くんとは、ほとんど話したことも……」


「嘘ね」


 隣から、氷のように冷たい声が飛んできた。

 若手の女性刑事、相田(あいだ)だ。彼女は、陽菜を射抜くような鋭い視線で睨みつけていた。


「佐伯くんは、アノニマスのトレース疑惑を追っていた。そして、あなたの名前を投稿した。無関係なはずがない。あなた、アノニマスと何か関係があるんじゃないの?」


「……っ」


 核心を突かれ、陽菜は息をのんだ。

 アノニマスは、陽菜にとって神聖な存在だ。自分の口から、その名前を出すことさえおこがましい。ましてや、警察にその関係を邪推されるなど、耐えられなかった。


「何も、ありません。私は、ただのファンで……」


「ファン、ねぇ」相田は鼻で笑った。


「あなたは絵を描くんでしょう?美術準備室で、こっそりと。誰にも見せないような絵をね。それとアノニマスは、どういう関係なのかな?」


 なぜ、そんなことまで知っているのか。恐怖で全身の血の気が引いていく。あのスケッチブックのことだろうか。誰かに見られたのだろうか。

 陽菜は唇を固く結び、俯いたまま動けなくなった。何かを隠していると思われても仕方がない。事実、隠しているのだから。自分の心の最も柔らかな部分に描かれた、誰にも見せてはいけないあの絵のことは、絶対に話せなかった。


 結局、数時間の聴取の後、溝口刑事が「今日はもうお帰りください」と陽菜を解放した。

 しかし、それは無罪放免を意味しない。いつでも連絡がつくように、と念を押された陽菜は、自分が巨大な監視網に囚われた小さな蝶なのだと悟った。



 ◇



 翌日からの学園は、地獄だった。

 事情聴取を受けたという事実は瞬く間に広まり、「橘陽菜」は”容疑者”から”黒”へと格上げされていた。


 廊下を歩けば、ひそひそと囁かれる。

「あれが佐伯を殺した女」「アノニマス様を脅してたんだって」。

 すれ違いざまに、わざとぶつかられ、自分のロッカーを開けると、中からゴミが散らばった。


 魔女狩りだった。

 神を信じる敬虔な信者たちが、神を脅かしたとされる魔女を、集団でいたぶっている。誰も、真実なんて求めていない。ただ、憎悪をぶつけるための、分かりやすい「悪役」が欲しいだけだ。


「陽菜、大丈夫?」


 休み時間、唯一、未央だけが心配そうに声をかけてくれた。しかし、その未央に対しても、周囲の視線は冷たい。「魔女の味方」を見る目だ。


「ごめん、未央。私のせいで……」


「陽菜のせいじゃない!……でも」


 未央は言葉を濁し、悔しそうに唇を噛んだ。


「今は、ちょっと……目立たないようにしていよう?……ごめん」


 その言葉は、陽菜の心を深く抉った。

 未央が悪いわけではない。彼女を責めることなんてできない。だが陽菜は、この世界で本当に独りぼっちになってしまったのだと、痛感せざるを得なかった。



 その日は授業が終わるなり、逃げるように家へ帰った。

 自室のベッドに倒れ込み、毛布を頭まで被る。もう、何も考えたくない。学園へも行きたくない。このまま、消えてしまいたい。

 それでも、震える手でスマートフォンを手に取り、自分の名前で検索をかけてしまう。案の定、画面は陽菜への誹謗中傷で埋め尽くされていた。


『橘陽菜の絵、見たけど、アノニマスの足元にも及ばない劣化コピーじゃん』

『こんな奴がアノニマス様を騙ってたとか、万死に値する』

『早く捕まれよ、人殺し』


 涙が、スマホの画面にポタポタと落ちた。

 もう、終わりだ。私の人生は、終わった。


 そう思った、その時だった。

 ピコン、と軽快な通知音が鳴った。

 どうせまた、匿名の罵詈雑言だろう。そう思いながら、ぼんやりと画面に目を落とした陽菜は、次の瞬間、呼吸が止まるほどの衝撃を受けた。


 ダイレクトメッセージの通知。

 送り主のアカウント名に、陽菜は釘付けになった。


『Anonymous』


 嘘だ。ありえない。偽アカウントに違いない。

 そう思いながらも、指は勝手にその通知をタップしていた。公式マークこそないが、何百万人ものフォロワーがいる、本物の神のアカウント。

 そのアカウントから、自分宛にメッセージが届いていた。


『君は悪くない。全部、わかってる』


 心臓が、喉から飛び出しそうだった。

 メッセージは、まだ続いていた。


『彼は、神の領域に土足で踏み込もうとした。だから、罰が当たっただけだ』


『君は”偽物”なんかじゃない。君の絵は、僕が今まで見てきた誰の絵よりも、美しく、気高い』


 涙腺が、完全に壊れてしまった。

 嗚咽が漏れる。恐怖と、絶望と、孤独で張り裂けそうだった心が、その言葉だけで満たされていく。

 神が、私を見ていてくれた。私の絵を、認めてくれた。

 そして、メッセージはこう締められていた。


『信じて。僕が必ず、君を救い出す』


 陽菜は、スマホを胸に抱きしめた。

 アノニマスは私の味方だ。この地獄から、私を救い出してくれるという。


 そうだ。私は独りじゃない。

 神が、私と共にいてくれる。

 陽菜の瞳に、絶望とは違う、新たな光が宿っていた。それは、狂信的とも言えるほどの、強い光だった。

 孤独な少女は、自分だけを救済してくれる神と出会ってしまった。






















 ーーその神の正体が、メッセージを読んで涙を流している…


 自分自身であることにも気づかずに。



 彼女は、自らを救うための完璧な筋書きを、今まさに描き始めたのだった。

物語はここから、倒叙ミステリーへと姿を変えます。

陽菜は被害者ではなく、自ら創り出した「神」に救いを求める悲劇の少女を演じることで、自分への疑いを逸らそうとする、恐るべき犯罪者なのです。


さあ、これであなたも陽菜の秘密を知る唯一の「共犯者」ですね。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ