第二十九話:祭りの後
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あの狂乱のステージから、一夜が明けた。
彩星芸術学園は、まるで巨大な嵐が過ぎ去った後のように、静まり返っていた。校門は、警察によって、固く閉ざされている。昨日まで、あれほど鮮やかに学園を彩っていた、創星祭の手作りの装飾たちが、今は見るも無残に破れ、散乱し、その喧騒の残骸を晒していた。
ゲートの前には、おびただしい数の報道陣が、詰めかけていた。彼らは、昨日の衝撃的な事件の続報を、あるいは、新たな醜聞の匂いを嗅ぎつけて、まるでハイエナのように、獲物を待っていた。
橘陽菜が、約束した『創世記』。
それは、確かに一つの世界を、終わらせた。この学園が、長年育んできた平和と、信頼と、そして芸術への純粋な憧れ。そのすべてを、一夜にして破壊し尽くしたのだ。
◇
警察署、第一取調室。
その無機質な空間で、広瀬未央は、溝口、そして相田と向き合っていた。
もはや、彼女は参考人でも、被害者でもない。この前代未聞の事件を終結へと導いた、最重要人物として、そこにいた。
「……見事な、パフォーマンスだった」
溝口が、深く紫煙を吐き出しながら、静かに言った。その声には、皮肉も、非難もなかった。ただ、純粋な畏怖と、そして、呆れが混じっていた。
「君は、我々警察組織を、そしてマスメディアを、さらには橘陽菜自身をも、駒として利用し、君だけの脚本を完成させた。恐ろしい少女だよ、君は」
「……結果的に、そうなっただけです」
未央は、力なく答えた。
「私が望んだのは、ただ、これ以上の犠牲者を出さないこと。その、一点だけでした」
「そのために、法を犯したことも、ですか」
相田が、鋭く切り込んできた。彼女の瞳には、未央の、その危うい正義に対する戸惑いと、そして、わずかな非難の色が、浮かんでいた。
「ええ」
未央は、それを真っ向から認めた。
「彼女を、ただ逮捕するだけでは、意味がなかった。それでは、彼女は悲劇のヒロインとして、あるいは、反逆のカリスマとして、神格化され、第二、第三のアノニマスが、生まれるだけだったでしょう。彼女を殺すには、彼女が最も大切にしていた、その芸術という名のプライドと神話を、民衆の目の前で完膚なきまでに、破壊するしかなかったんです」
それは、未央がたった一人でたどり着いた、功利主義的な結論だった。
彼女は机の上に、一つのUSBメモリを、静かに置いた。
「ここに入っています。私が調べ上げた、すべての情報が。佐伯くんの、遺したノート。桐谷先輩の、証言。綾波玲子と、橘美咲の、関係。そして……私が、非合法な手段で入手した、あらゆる証拠が。すべて、お渡しします。私の罪も、これで明らかになるはずです」
◇
その頃、事件の主犯たちは、それぞれ別の場所で、法の裁きを待っていた。
綾波玲子は、留置場ですべてを自供していた。二十年に及ぶ、橘美咲との歪んだ友情。陽菜の才能を盲信するあまり、その狂気に加担してしまった、自らの愚かさ。彼女は、ただ、泣き崩れていた。
橘美咲は、療養施設の監視下に置かれていた。事件のすべての黒幕。しかし、彼女は現実と、夢の境界線を、さまよっていた。娘の逮捕の報を聞いても、その表情は変わらなかったという。ただ虚ろな目で、壁にかけられた、自らの若き日の絵画を、見つめ続けているだけだった。
そして、橘陽菜。
彼女は、警察病院の精神科、特別病棟にいた。
あの日、ステージの上ですべてを失った彼女は、その心を、完全に閉ざしていた。言葉を失い、感情を失い、ただ生きているだけの、美しい人形になってしまった。医師の診断は、『解離性健忘』。あまりにも強い精神的ショックによる、自己防衛。彼女は、アノニマスであった自分を、橘陽菜であった自分さえも、忘却の彼方へと、葬り去ろうとしていた。
芸術家は、死んだのだ。法で、裁かれる、その前に。
◇
長い、長い、事情聴取が、終わった。
未央が、両親に付き添われ、警察署の正面玄関から出た瞬間。
世界が、白い光で、爆発した。
無数のカメラのフラッシュ。怒号のように浴びせられる、質問の嵐。
「広瀬さん! あなたが、アノニマスを暴いたんですか!?」
「橘陽菜とは、どういう関係だったんですか!?」
「英雄ですか!? それとも、あなたも共犯者だったんですか!?」
未央は、フードを深く被った。両親が、必死で彼女を人垣から守り、待たせていた車へと押し込む。
車は、ゆっくりと喧騒から、離れていく。
窓の外を流れていく見慣れた街並みが、まるで、知らない外国の風景のように見えた。
もう、以前の日常には、戻れない。
自分は、英雄でも、犯罪者でもない。ただ、祭りの中心にいて、その熱狂と狂気に巻き込まれただけの、一人の少女だったはずなのに。
自室に戻る。
壁のホワイトボードは、まだ、あの時のままだ。無数の線と、文字。狂気の設計図。それはまるで、遠い前世の、記憶のようだった。
ベッドに倒れ込む。
このまま、眠ってしまいたい。一年でも、十年でも。すべてを、忘れてしまいたい。
そう、思った、その時だった。
コンコン、と、控えめなノックの音。
「未央? ……桐谷さんが、見えてるけど……」
母親の、戸惑ったような声。
未央は、重い体を起こした。そして、ドアを開ける。
そこに、立っていたのは、桐谷海都だった。
病院着ではない。きちんと、服を着ている。その顔には、まだ深い疲労の色が滲んでいたが、あの虚ろな瞳ではなかった。彼の瞳は、静かに、未央を捉えていた。
二人の、生存者。
その間に、長い沈黙が流れた。
先に口を開いたのは、桐谷だった。
「……終わった、んだな」
それは、断定ではなかった。確認でもない。
ただ、自分たちにこれからのしかかる現実の重さを、確かめるような問いかけだった。
「……これから、俺たちは、どうすればいいんだろうな」
その問いに、未央は答えることができなかった。
怪物は、いなくなった。
だが、物語は終わらない。
傷跡だけが残された、この、がらんどうの世界で。
自分たちは、これから生きていかなければ、ならないのだ。




