第二話:偽りの告発者
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翌朝、学園は異様な空気に包まれていた。
いつもはアノニマスの話題で持ちきりの生徒たちは、皆一様に声を潜め、不安げな表情で顔を見合わせている。
Aアトリエの前には、昨日の立ち入り禁止テープが痛々しく残り、その前を制服警官が固めていた。
「おはよう、陽菜」
教室に入ると、すでに席についていた未央が青ざめた顔で振り返った。彼女のトレードマークである快活さは鳴りを潜め、その瞳にはジャーナリスト志望としての好奇心よりも、純粋な恐怖の色が浮かんでいた。
「……おはよう。何か、分かったの?」
陽菜が尋ねると、未央は声をひそめて頷いた。
「佐伯くん、亡くなったって。昨日の放課後、Aアトリエで……」
言葉が、続かなかった。
頭では理解している。昨日のサイレン、警察の姿。すべてがその事実を指し示していた。しかし、感情が追いつかない。つい昨日まで、あの場所で高慢に笑っていた人物が、もう、この世にいない。
「……警察は、事故だって言ってるらしいよ。画材の整理中に、棚が倒れてきて、その下敷きになったって」
「事故……」
「でも、おかしいと思わない?タイミングが良すぎる。だって彼は、アノニマスの盗作を告発しようとしてたんだよ?その矢先に、事故死だなんて」
未央の言葉は、教室にいる多くの生徒が抱いている疑念そのものだった。
これは、ただの事故ではない。
神を冒涜した者への、天罰だ。
アノニマスが、佐伯を殺したのだ。
口には出さずとも、そんな不穏な空気が、伝染病のように学園全体に広がっていくのが分かった。
陽菜は、自分の手が冷たく、小刻みに震えていることに気づいた。
(私のせい、だろうか…?)
もし、佐伯がアノニマスの正体を知って、脅迫でもしていたとしたら?そして、アノニマスが自分の正体を守るために彼を……?
いや、そんなはずはない。あんなに美しい絵を描く人が、人殺しなんてできるはずがない。
陽菜は激しく頭を振って、その恐ろしい想像を打ち消した。
その日の授業は、誰も内容が頭に入ってこなかった。
◇
放課後、陽菜は昨日の佐伯の投稿をもう一度確認しようと、自分の”裏”アカウントでSNSを開いた。
すると、あることに気づいて息を呑む。
佐伯の、アノニマスを批判していたアカウントが、消えていたのだ。
投稿どころか、アカウントそのものが存在しないことになっている。
「どうして……?」
警察が捜査のために削除したのだろうか。それとも、誰かが意図的に?
陽菜は言いようのない胸騒ぎを覚え、未央にメッセージを送った。
『ねぇ、未央。佐伯くんのアンチアカウント、消えてない?』
返信は、すぐに来た。
『やっぱり気づいた?私もさっき確認したんだけど、おかしいよね。警察が消したなら、本名のアカウントも消すはずじゃない?アンチアカウントだけ、ピンポイントで消えてるんだよ』
未央からのメッセージには、一枚のスクリーンショットが添付されていた。それは、佐伯のアカウントが消える直前に投稿された、最後の書き込みだった。
『やっぱりお前は”偽物”だったな、橘陽菜』
「ーーえ?」
声が出た。
橘陽菜。それは、紛れもなく自分の名前だった。
どうして、佐伯が私の名前を?
しかも、”偽物”とはどういう意味だ?
心臓が早鐘のように打ち始める。全身の血が、さっと引いていくのが分かった。
パニックに陥る陽菜のスマホに、未央からの追撃のメッセージが届く。
『これ、どういうこと?佐伯くん、陽菜のこと知ってたの?』
返信ができない。指が震えて、文字が打てない。
佐伯は、私を”偽物”だと言った。
そして、彼は死んだ。
アノニマスを告発しようとしていた彼が、なぜ私の名前を?
まさか。
まさか、佐伯は、私の”裏”アカウントの存在に気づいていた?私が誰にも見せずに描いている、あの絵を見ていた?そして、私がアノニマスの模倣をしているとでも、思っていたのだろうか。
「違う……」
陽菜は、必死に自分に言い聞かせた。
私は、アノニマスの真似なんてしていない。ただ、憧れているだけで。
それに、もしそうだとしても、なぜ佐伯は私を名指しで?アノニマスではなく?
混乱する頭で考えていると、再び未央から着信があった。電話に出ると、焦ったような彼女の声が耳に飛び込んでくる。
「陽菜、今どこ!?ちょっとヤバいことになってる!」
「え、な、何が……」
「佐伯くんの最後の投稿、誰かがスクショして拡散してる!『橘陽菜って誰?』『こいつがアノニマスの関係者か?』って、すっごい勢いで……!」
陽菜は、自分の足元が崩れ落ちていくような感覚に襲われた。
自分の名前が、ネットの海を駆け巡っている。
佐伯翔を死に追いやったかもしれない、謎の人物として。
アノニマスの信者たちが、血眼になって「橘陽菜」を探し始めている。
「ど、どうしよう……」
「とにかく、今日はもうまっすぐ家に帰りな!絶対に誰とも話しちゃダメだよ!」
未央の悲痛な声に、陽菜はただ頷くことしかできなかった。
スマホの電源を切り、鞄に押し込む。早く、この場から逃げ出したい。人の視線が、すべて自分に向けられているような気がして、息が苦しい。
逃げるように校舎を飛び出し、家路を急ぐ。
しかし、その背中に、冷たい声が突き刺さった。
「橘陽菜さん、だよね?」
振り返ると、そこに立っていたのは、二人の刑事だった。年のいったベテランらしき男性と、鋭い目つきをした若い女性の二人組だ。
「佐伯翔くんの件で、少しお話を伺ってもよろしいですか?」
ベテラン刑事の穏やかな口調とは裏腹に、その目は陽菜の心の奥底まで見透かしているようだった。
抵抗は、できなかった。
ただ、すべてが終わってしまった、と陽菜は思った。
神を信じた。
その神が、自分を奈落の底へ突き落とそうとしている。
いや、あるいは。
この状況こそが、神が与えたもうた試練だというのだろうか。
偽りの告発者として、衆目に晒されること。
それこそが、本物になるための儀式だとでも?
陽菜の意識が、遠のいていく。
刑事の言葉が、まるで水中で聞いているかのように、不明瞭に響いていた。
次回は、超絶重要回です。お楽しみに。