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第十九話:聖母の肖像

毎日18時更新

「――お母様」


 その、老店主が何気なく口にした一言は、広瀬未央がこれまでに築き上げてきた、すべての推理、すべての前提を、根底から、そして暴力的に破壊する、巨大な鉄槌だった。


 共犯者が、いた。


 それは、自分のような、脅されて駒にされた存在ではない。脅迫も、弱みも、必要としない。血と、愛と、そしておそらくは、娘と同じ種類の狂気によって結ばれた、絶対的な、そして最強の共犯者。


 橘陽菜の、母親。


 未央は、神保町の古書店街の雑踏の中で、しばらく立ち尽くしていた。夏の、じっとりとしたアスファルトの熱気が、足元から這い上がってくる。頭が、働かない。

 陽菜の母親の顔を、思い出そうとする。入学式や、保護者会で、遠くから見かけたことがあるはずだ。物静かで、少し幸薄そうな、どこにでもいるような、平凡な中年女性。あの、聖母のような穏やかな微笑みの下で、自分の娘が犯す連続殺人の、手助けをしていたというのか。


(どうして? なぜ? 金のため? それとも……)


 思考が、まとまらない。

 だが、一つだけ、確かなことがあった。

 これは、ゲームのルールが、根本から変わったことを意味する。自分は、一人の天才的なサイコパスを相手にしているのではなかった。自分は、親子という、最も原始的で、最も強固な絆で結ばれた、二人組の怪物と、たった一人で戦っていたのだ。


 絶望、という言葉では、生ぬるい。それは、まるで、盤上で相手のキングを追い詰めたと思った瞬間、盤そのものが、相手の手のひらの上で転がされていたと知らされたような、絶対的な無力感だった。



 ◇



 その週末、未央は、陽菜からの「お見舞い」という名の、監視任務に付き合わされていた。

 桐谷が入院している病院とは別の、郊外にある、緑に囲まれた静かな療養施設。そこに、橘陽菜の母親、(たちばな)美咲(みさき)はいた。


「お母さん、未央ちゃん、来てくれたよ」


 陽菜が、車椅子に座る母親に、優しく語りかける。

 美咲は、ゆっくりと顔を上げた。その顔色は、病的に白く、その瞳は、どこか虚ろだった。だが、未央を見つめるその視線には、鋭い、見定めるような光が宿っていた。


「まあ、広瀬さん。いつも、陽菜がお世話になっております」


 その声は、か細く、しかし、凛とした響きを持っていた。


「ごめんね、こんな格好で…。少し体が弱くて…。定期的に、ここで検査を受けているんです」


 美咲が、何でもないことのように説明する。

 だが、未央には、そのすべてが、嘘偽りで塗り固められた、完璧な舞台設定にしか見えなかった。


 病室での会話は、当たり障りのない、空虚なものだった。天気の話。学校の話。陽菜が、いかに未央を信頼しているか、という、棘を含んだ賞賛の言葉。


 未央は、ただ、相槌を打ち、微笑むことしかできない。目の前にいる、この病弱で、儚げな女性が、自分の娘のために、高価な「幽霊の絵の具」を買い与え、その犯行を、おそらくは、計画の段階から手助けしていた。その事実が、現実感を失わせる。

 帰り道、陽菜は、楽しそうに言った。


「お母さんね、昔は、すごく有名な画家だったんだよ」


「え……?」


 初耳だった。


「でも、ある時、大きなスランプに陥って。自分の才能が、信じられなくなって、筆を折っちゃった。それから、ずっと、心が病気なの」


 陽菜は、夕陽に染まる街並みを見ながら、続けた。


「だからね、お母さんは、私の絵を、自分のことのように喜んでくれる。私が、お母さんの代わりに、お母さんが描きたかった、本当の芸術を、完成させているって。私の作品は、お母さんと私の、二人の作品なんだ」


 その言葉を聞いた瞬間、未央は、すべてを理解した。

 これは、歪んだ母性愛の物語なのだ。


 自らの才能に絶望し、夢を絶たれた母親。その母親の、果たせなかった夢と、歪んだ芸術への渇望を、娘が、最も過激で、最も純粋な形で、代行している。母親は、娘を、自らの才能の「器」として、あるいは、自らの復讐の「代理人」として、この世に解き放ったのだ。


 陽菜の狂気は、生まれつきのものではなかった。母親によって、長年かけて、丹念に、育て上げられたものだったのだ。



 ◇



 警察の捜査もまた、新たな局面を迎えていた。

 溝口は、これまでの捜査資料をすべて白紙に戻し、一つの仮説を立てていた。


「犯人は、単独犯ではない」


 彼の長年の刑事としての勘が、そう告げていた。一人の女子高生が、これほどまでに周到で、大胆な犯行を、誰の助けもなしに、完璧に遂行できるとは、到底思えなかった。


「共犯者がいる。それも、橘陽菜の、ごく身近な人間に。親、兄弟、あるいは……」


 相田が、その言葉を引き取った。


「橘陽菜の母親、橘美咲。経歴を洗いました。二十年前、将来を嘱望された新進気鋭の画家でしたが、あるコンクールでの落選を機に、精神のバランスを崩し、画壇から完全に姿を消しています。そして、その時のコンクールの審査員の一人が……」


「……佐伯剛三」


 溝口が、苦々しげにその名前を口にした。最初の被害者、佐伯翔の父親だ。


「動機としては、十分すぎる。二十年の時を超えた、復讐か」


「ですが、溝口さん。それも、すべて状況証拠です。彼女には、鉄壁のアリバイがある。犯行時刻、彼女は、都内の療養施設にいた。複数の看護師が、それを証言しています」


「アリバイ、か……」


 溝口は、タバコの煙を、深く、深く、吐き出した。


「そのアリバイこそが、奴らが仕掛けた、最大のトリックだとしたら…?」



 ◇



 その夜、未央は、眠れなかった。

 陽菜と、その母親。二人の怪物を前に、自分は、あまりにも無力だ。

 もう、打つ手はないのか。

 諦めかけた、その時だった。


 ふと、神保町の、あの老店主の言葉が、脳裏に蘇った。


『いつも、あの子と一緒に来られる、お母様が、支払いをされるからのう』


 ――いつも?

 未央の脳内で、何かが閃いた。


 老人は、確かにそう言った。母親が、一人で買いに来るのではない。いつも、「あの子と一緒」に、つまり、陽菜と美咲、親子二人で、あの店を訪れているのだ。

 そして、母親には、鉄壁のアリバイがある。


 ならば。

 一つの、ありえない可能性が、未央の頭に浮かんだ。


 もし、あの日、あの店に、陽菜と一緒に現れた「母親」が。

 橘美咲本人では、なかったとしたら?

お世話になっております。

徐々に、犯人周りの事情が明らかになってきました。

矛盾がないように気をつけます。

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