第十八話:物理的痕跡
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広瀬未央の、孤独な捜査が始まった。
それは、正義や友情といった、青く、脆い感情に突き動かされたものではない。ただ、冷徹なまでの合理性――『橘陽菜』という、社会にとって最大級の負の存在を、如何にして効率的に、かつ完全に無力化するか――その一点のみを目的とした、無機質な作業だった。
最初のターゲットは、佐伯翔が遺したメモにあった「特殊な画材」。
ネットで検索すると、すぐにその正体が判明した。フランス製の、ある老舗メーカーが富裕層のパトロン向けに受注生産している、最高級の絵の具。特に、陽菜が犯行現場で使ったと思われる、ブラックライトにのみ反応する不可視の蛍光塗料は、その中でも特注品に近く、日本国内での正規取扱店は、東京にわずか四店舗しか存在しなかった。
(どうやって、一介の高校生が、こんな高価な画材を、定期的に、誰にも知られずに手に入れている?)
これが、陽菜の完璧な芸術における、最初の物理的な「綻び」になるはずだった。
未央は、週末を利用して、新幹線に飛び乗った。彼女は、もはや「ジャーナリスト」を名乗ることはできない。警察にマークされている今、迂闊な行動は、陽菜だけでなく、自分自身の首を絞めることにもなりかねない。
彼女は、自分に新しい役割を与えた。地方から出てきた、少し内気な美大受験生。憧れの画材メーカーについて、卒業制作のテーマとして調べている、という設定だ。
銀座の、ショーケースに宝石のように絵の具が並ぶ高級店。新宿の、巨大な世界堂。渋谷の、流行に敏感な若者が集うアートショップ。
未央は、三つの店舗を巡った。だが、収穫はなかった。店員たちは、マニュアル通りの丁寧な対応に終始し、一個人の購買履歴について、口を開くことはなかった。たとえ話したとしても、毎日、何百人という客が出入りする中で、特定の少女のことなど、記憶に残っているはずもなかった。
焦りが、じりじりと未央の心を蝕んでいく。時間は、有限だ。陽菜が、いつ次の「創作活動」を始めるかわからない。その間にも、桐谷先輩は、病院のベッドの上で、心を殺され続けているのだ。
◇
一方、その頃。橘陽菜は、日常という名の舞台の上で、完璧な「悲劇のヒロイン」を演じていた。
桐谷の事件の後、臨時休校となっていた学園は、厳戒態勢の中で再開された。校門には警備員が立ち、生徒たちの間には、目に見えない不信感と恐怖が渦巻いていた。
そんな中で、陽菜の存在は、ある種の拠り所となっていた。彼女は、アノニマスの最初の標的(とされている佐伯)の友人であり、高村のいじめの被害者であり、そして、桐谷の事件の、間接的な被害者でもあった。アノニマスの闇に、最も深く触れた少女。
そんな彼女が、健気に、しかし毅然として学校に通い続ける姿は、一部の生徒たちにとって、恐怖に立ち向かう聖女のようにさえ映っていた。
「未央、顔色が悪いよ。ちゃんと眠れてる?」
昼休み、陽菜は、心配そうに未央の顔を覗き込んだ。その瞳は、どこまでも澄んでいて、底なしの闇を抱えていることなど、微塵も感じさせない。
「警察の人たち、しつこいんでしょ。ごめんね、私のせいで、未央まで……」
「ううん、大丈夫」
未央は、吐き気と闘いながら、無理やり微笑んでみせた。この少女が、友人の心を弄び、その命さえも、自らの芸術のための絵の具としてしか見ていないのだ。
「最近、ちょっと画材の研究をしてて。寝不足なだけ」
未央は、わざと、その単語を口にした。
「画材?」
陽菜の瞳が、ほんの、ほんの僅かに、鋭い光を宿したのを、未央は見逃さなかった。だが、それも一瞬。すぐに、彼女はいつもの、無垢な笑顔に戻った。
「そっか。私も新しい絵の具、欲しいな。今度、一緒に見に行かない?」
その誘いが、どれほど恐ろしい意味を持つか。未央は、ただ曖昧に頷くことしかできなかった。
◇
警察の捜査もまた、暗礁に乗り上げていた。
アノニマスを名乗る、模倣犯や便乗犯による予告がネット上に溢れかえり、捜査資源は分散し、現場は疲弊していた。溝口は、取調室で、吸い殻の山を築いていた。
「奴は、社会そのものをキャンバスにし始めた。我々が踊らされるほど、奴の作品は、より価値を増していく。悪循環だ」
「橘陽菜と広瀬未央。この二人が、事件の鍵を握っているのは間違いありません。ですが……」
相田が、悔しそうに唇を噛む。
「物的証拠が、何もないんです。二人の少女の、友情とも共依存ともつかない、歪な関係性。そんな、目に見えないものを根拠に、令状は取れない」
「視点を変えろ、相田」
溝口は、新しいタバコに火をつけながら言った。
「我々は、幽霊を追っている。だが、幽霊とて、この物理世界に干渉するには、何かしらの『媒体』が必要だ。犯人の心の中を覗こうとするな。奴が、物理的に『何を使って』『どこで』『何をしたか』。その痕跡だけを追え」
溝口の直感は、奇しくも、広瀬未央の論理的な捜査と、同じ方向を向き始めていた。
◇
最後の希望を胸に、未央は、四店舗目の画材店を訪れた。
神保町の、古本屋街の片隅に、ひっそりと佇む、個人経営の小さな店。店内は、年季の入った木の匂いと、油絵の具の濃厚な香りが混じり合っていた。
店主は、銀縁眼鏡をかけた、人の良さそうな老人だった。未央は、これまでの三店舗とは違うアプローチを試みた。自分の作品だと偽って、質の高い風景画のスケッチをいくつか見せ、老人の職人気質をくすぐったのだ。
作戦は、功を奏した。老人は、最近の若い学生の画力について嘆きながらも、未央の「才能」を認め、次第に心を開いていった。
そして、未央は、勝負に出た。
「実は、今、フランスの、あのメーカーの画材について調べてまして。特に、不可視の蛍光塗料に興味があるんです」
その言葉に、老人の目が、キラリと光った。
「おお、お嬢ちゃん、わかっとるのう! 『幽霊の絵の具』のことじゃな。あれは、ただの飛び道具じゃない。光と闇の関係を、根底から覆す、魔法の絵の具じゃ」
「はい! それで、もしご存知でしたら……」
「知っとる、知っとる。あんな、高こうて、癖の強い絵の具を使う物好きは、そうはおらん。わしの店でも、お得意様は一人だけじゃ」
未央の心臓が、大きく跳ねた。
「その方は、定期的に? もしかして、高校生くらいの……」
「そうじゃよ。数ヶ月に一回、わざわざ遠くから買いに来られる。いつも、現金でな。本当に、絵を描くのが好きなんじゃろう。あの絵の具を手に入れた時の嬉しそうな顔は、わしも忘れられん」
来た。
未央は、逸る気持ちを抑え、最後の質問を投げかけた。スマートフォンの画面に、何気ないクラスの集合写真を表示させる。その中には、もちろん、橘陽菜の姿もあった。
「この中に、その方、いらっしゃいますか……?」
老人は、眼鏡を押し上げ、画面を、じっと覗き込んだ。
そして、皺の刻まれた指で、ある一点を、ゆっくりと、指し示した。
未央は、息をのんだ。
だが、その指が指し示していたのは、橘陽菜では、なかった。
老人は、怪訝そうな顔で、未央に言った。
「いやあ、この中にはおらんよ」
「いつも、あの子と一緒に来られる、お母様が、支払いをされるからのう」
――お母様。
その言葉が、雷鳴のように、未央の頭の中に轟いた。
共犯者。
それは、自分のような、脅されて駒にされた存在ではなかった。
計画の、根幹から関わる、大人の、協力者。
橘陽菜の、母親。
物語は、根底から、覆った。彼女の狂気を育み、支えていたのは、血を分けた、実の母親だったのだ。