第十七話:ゼロからの設計図
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事件の発見者は、初老の警備員だった。
夜明け前の巡回。旧美術棟の廊下に、不自然に開け放たれたままの、石膏デッサン室のドア。訝しげに中を覗き込んだ彼は、懐中電灯の光の中に、その異様な光景を認めて、腰を抜かした。
少年が、一人、椅子に座っている。
まるで、眠っているかのように、穏やかな顔で。
しかし、その体は、不自然な形で椅子に固定され、顔や、制服や、剥き出しの腕には、まるで古代の呪詛のような、禍々しくも美しい文様がびっしりと描かれていた。部屋には、ブラックライトが点灯したまま放置され、その文様だけが、暗闇の中で、不気味な青白い光を放っていた。
少年は、生きていた。だが、その瞳は、何も映してはいなかった。ただ、虚空の一点を見つめているだけ。意識は、肉体を置き去りにして、遠い、暗い場所を彷徨っているかのようだった。
通報を受け、現場に駆け付けた刑事の溝口と相田は、その光景に絶句した。
「……殺人、ではない、のね」
相田が、絞り出すように言った。
溝口は、険しい顔で首を振った。
「いや、これは殺人だ。肉体ではなく、魂の、な。犯人は、目的を完全に達成している」
目的。
それは、一人の人間を社会的に抹殺し、その過程を芸術として見せつけることで、大衆に、より根源的で、質の高い恐怖を与えること。アノニマスは、またしても、完璧な「作品」を創り上げて世に放ったのだ。
その結果として生じる社会の混乱、人々の恐怖、そして捜査機関の疲弊。それら全てを計算に入れた上で、犯人は行動している。この一連の出来事によってもたらされる負の結果の総量は、計り知れない。
◇
広瀬未央が、警察からの聴取を受けたのは、その日の午後だった。
彼女は、あの夜以来、一睡もしていなかった。だが、その顔に、疲労や憔悴の色はなかった。まるで、感情という機能が、どこかに抜け落ちてしまったかのように、ただ、静かだった。
「広瀬さん。昨夜、君はどこにいたの?」
相田の、鋭い視線が突き刺さる。
「家にいました。一人で」
「桐谷くんが襲われた。君の、友人でもあるはずよね。何か、心当たりは?」
「何も」
未央の答えは、短く、平坦で、一切の感情が乗っていなかった。
相田は、苛立ちを隠さずに、テーブルを叩いた。
「いい加減にして! 君が何かを隠しているのは、もうわかっているのよ! 友人が、あんな目に遭わされて、何とも思わないの!? 君の沈黙が、犯人をさらに増長させ、次の被害者を生むことになる! それでもいいの!?」
相田の言葉は、正論だった。その一つ一つが、未央の心をナイフのように抉る。
わかっている。自分の選択が、この状況を招いた。自分の行動が、警察の捜査を妨害し、社会全体を危険に晒している。
だが、未央は、もう以前の彼女ではなかった。感情や、目先の正義感で動くことは、より大きな悲劇を生むだけだと、骨の髄まで理解してしまったのだ。
中途半端な証拠で陽菜を追い詰めても、彼女は必ず逃げ切るだろう。そうなれば、陽菜はさらに用心深くなり、その犯行は、より見えにくい場所で、より陰惨な形で行われるに違いない。そうなってしまえば、もう誰も彼女を止められない。
許容できる範囲の犠牲を払ってでも、根本的な原因を、完全に取り除かなくてはならない。それが、結果として、最も多くの人々を、未来の恐怖から救うことに繋がる。たとえ、その過程で、自分が人で亡くなるとしても。
「……申し訳ありませんが、お話しできることは、何もありません」
未央は、静かにそう言って、深く頭を下げた。
◇
病院の白い壁は、清潔で、そして絶望的に冷たかった。
桐谷海都は、ベッドの上で、人形のように静かに横たわっていた。両親が付き添い、彼の名を呼び続けているが、その瞳が焦点を結ぶことはない。PTSD(心的外傷後ストレス障害)。医師は、そう診断した。
未央は、病室の外から、ガラス越しにその光景を見ていた。桐谷の両親が、自分に気づき、憎悪に満ちた視線を向けてくる。あなたが息子を唆したのだ、と、その目は雄弁に語っていた。
両親が席を外した、ほんの数分の隙。未央は、病室に滑り込んだ。
眠っているのか、起きているのかもわからない桐谷の耳元で、彼女は囁いた。
「ごめんなさい、とは言いません」
その声には、感情がなかった。
「私は、あの夜、選択をしました。あなたの命を、選びました。その選択が、あなたから心の半分を奪った。これが、結果です。そして、この結果に対する責任は、必ず私が取ります」
彼女は、謝罪に来たのではなかった。決意を伝えに来たのだ。
「だから、待っていてください。必ず、すべてを終わらせます。これ以上、あなたや、私のような人間を、一人たりとも増やさないために。それが、あなたを生かした、私の義務です」
桐谷の指が、ほんの少しだけ、ピクリと動いたような気がした。
◇
自室に戻った未央は、机の上に、これまで集めたすべての資料を広げた。
佐伯翔の、鍵のかかったノート。事件に関する、無数のネット記事のプリントアウト。そして、あの夜の、忌まわしい記憶。
彼女は、一枚の、真っ白な紙を取り出した。
そして、その中央に、ただ一言、こう書いた。
『橘陽菜の完全な無力化』
これが、彼女の最終目的だ。逮捕ではない。社会的抹殺でもない。彼女が、二度と誰かを傷つけられない状態にすること。それが、最も効率的に、未来の被害を最小化する唯一の手段。
そのための、設計図を描き始める。
感情を、排除する。感傷を、切り捨てる。
ただ、事実と、論理と、確率だけを積み上げていく。
陽菜の行動原理。心理的弱点。そして、物理的な証拠。
彼女の視線が、佐伯のノートのある記述に、再び留まった。
『橘さんが使う画材が、いつも同じメーカーの、少し特殊なものであることまで突き止めてた』
これだ。
これまでの計画は、陽菜の心理を読もうとして、そのさらに上を行かれて失敗した。だが、これは「物」だ。心理ではなく、物理。ごまかしのきかない、客観的な事実。
未央は、その画材メーカーの名前を、ネットで検索した。都内でも、取り扱い店舗は数えるほどしかない。
陽菜は、どこでそれを手に入れている? 定期的に? 彼女の行動範囲と、購入履歴。その二つが交差する点を見つけ出せれば、あるいは。
未央の瞳に、再び光が戻っていた。
だが、それは、以前のような正義や友情の光ではない。
目的のためなら、どんな手段も厭わない。非情なまでの合理性と、冷徹なまでの意志。
絶望の淵で、彼女は、悪魔を狩るための、悪魔に限りなく近い何かに、生まれ変わろうとしていた。
お世話になっております。
また一つの水面下での戦いが終わり、歪な攻防戦が続きます。
今月内には完結させるつもりなので、よろしくお願いします。