第十六話:観客席の殺人者
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時間は、意味をなさなかった。
一秒が、永遠のように引き伸ばされ、永遠が、一瞬のうちに凝縮される。広瀬未央の世界は、ノートパソコンの画面と、その隅に表示された赤いボタン、そして自分の震える人差し指、その三点だけに収斂されていた。
押せば、友人が死ぬ。
押さなければ、悪魔が笑う。
ヘッドフォンからは、橘陽菜の、悪夢のように静かな作業音だけが聞こえてくる。布を擦る音。チューブから液体を絞り出す、粘着質な音。そして時折、彼女が満足げに漏らす、小さな、小さな溜息。それは、自らの創造物に心から陶酔する芸術家の、純粋な法悦の音だった。
画面の中では、桐谷海都の体が、時折ビクリと痙攣している。声にならない悲鳴が、彼の喉の奥で押し殺されているのが、映像越しにさえ伝わってくる。陽菜の指先が、蛍光塗料を纏い、彼の額に、頬に、首筋に、まるで聖痕を描くかのように、冷たい軌跡を残していく。その一つ一つのタッチが、桐谷の尊厳を、人間性を、少しずつ削り取っていく。
未央の脳裏で、二つの声が激しくせめぎ合っていた。
一つは、ジャーナリストとしての自分の声だ。
『押せ、広瀬未央。これが、お前の正義だ。一人の犠牲で、これ以上の悲劇を止められる。佐伯くんも、高村さんも、きっとそれを望んでいる。お前は、英雄になるんだ』
もう一つは、人間としての自分の声だった。
『押すな、広瀬未央。お前は、神じゃない。人の命を天秤にかける権利など、お前にはない。そのボタンは、配信開始のスイッチじゃない。桐谷海都の、命を絶つための、引き金だ。お前は、殺人者になるのか』
指が、動かない。
赤いボタンの表面が、まるで意志を持ったかのように、彼女の指を拒絶している。
押せば、桐谷が死ぬ。その光景が、脳裏に焼き付いて離れない。陽菜が、あの無邪気な笑顔で、カッターナイフを振り下ろす瞬間。鮮血が、美しい星空のアートを汚していく様。そのすべてが、自分の選択によって引き起こされる。その罪の重さに、未央の精神は耐えられそうになかった。
ああ、そうか。
未央は、その時、悟った。
陽菜は、最初からわかっていたのだ。自分が、このボタンを押せないということを。
これは、選択肢などではなかった。ただ、自分に「共犯者」という役割を、心の底から、能動的に受け入れさせるための、残酷で、美しい儀式だったのだ。自分は、桐谷の命を救うために、沈黙を選んだ。正義を、捨てた。その事実を、この身に、この魂に、永遠に刻みつけるための。
未央の指先から、力が抜けていく。
人差し指は、赤いボタンに触れることなく、だらりと、虚空に垂れ下がった。
一筋の、熱い涙が、彼女の頬を伝い、無機質なキーボードの上に、小さな染みを作った。
それは、敗北の涙だった。
◇
その瞬間、石膏デッサン室の橘陽菜が、ふっと、指を止めた。
彼女は、振り返らない。隠しカメラのほうも見ない。
だが、彼女にはわかっていた。盤上の、向こう側で起きた、小さな、しかし決定的な変化を。観客が、その役目を、受け入れたことを。
陽菜の口元に、満足げな、美しい笑みが浮かんだ。
「……ありがとう、未央」
誰にも聞こえない声で、そう呟いた。
「あなたのおかげで、この作品は、完成する」
彼女は、最後の仕上げに取り掛かった。
それは、もはや暴力ではなかった。彼女の動きは、まるで神聖な儀式を執り行う巫女のように、厳かで、優雅だった。
蛍光塗料で、桐谷の顔や体に、複雑で、美しい文様を描き上げていく。それは、古代の部族が戦士に施す化粧のようでもあり、あるいは、死者の魂を導くための呪文のようでもあった。
そして、最後に、彼女は桐谷の閉じた瞼の上に、そっと、指で触れた。
「おやすみなさい、先輩」
「あなたの才能は、ここで、永遠に、美しいまま、眠り続けるの」
陽菜は、立ち上がると、自分の「作品」を、少し離れた場所から、うっとりと眺めた。
ブラックライトの妖しい光の中で、椅子に縛り付けられた桐谷海都は、まるで異世界の神殿に祀られた、生贄の王のように見えた。彼の体表に描かれた文様が、青白い光を放ち、彼の絶望と、陽菜の狂気が混じり合って、この世のものとは思えない、禍々しくも神聖な芸術作品を創り上げていた。
陽菜は、名残惜しそうに、しかしきっぱりと、その場を後にした。
トートバッグを肩にかけ、音もなくドアを開ける。
そして、部屋を出る直前、彼女はもう一度だけ、隠しカメラのほうを、振り返った。
ヘッドフォンを通して、最後の、そして最も残酷なメッセージが、未央の耳に届けられた。
「これで、あなたも、共犯者」
「いいえ……共犯者なんかじゃない」
「あなたは、この芸術を、沈黙によって完成させた、もう一人の芸術家よ」
「また、次の作品で、会いましょう。私の、たった一人の、観客」
バタン、とドアが閉まる音。
画面の中には、静寂だけが残された。
青白い光の中で、微動だにしない、一つの「作品」だけが、永遠にそこに存在し続けている。
◇
バンの中。
未央は、ヘッドフォンを外し、ノートパソコンを、バタンと閉じた。隣に座る協力者の男子生徒が、何か言いたげに口を開いたが、未央は、それを手で制した。
今は、何も聞きたくない。何も、話したくない。
彼女は、車のドアを開け、夜の冷たい空気の中に、よろめくように降り立った。
見上げると、星ひとつない、真っ暗な空。
あの闇の向こうで、親友だった悪魔が、今頃、満足げに笑っているのだろう。
そして、自分は、その悪魔の勝利を、ただ、見届けてしまった。
「う……あ……あああああああああっ!」
声にならない叫びが、未央の喉から迸った。
それは、桐谷を救えなかったことへの慟哭か。
陽菜への、抑えきれない怒りか。
それとも、正義を捨て、殺人者の共犯者になることを選んでしまった、自分自身への、絶望の雄叫びか。
答えは、出なかった。
ただ、わかっていることが、一つだけあった。
もう、後戻りはできない。
自分は、観客席から、殺人者の舞台に、引きずり込まれてしまったのだ。
そして、この悪夢の脚本を、終わらせることができるのは、世界でただ一人。
自分しか、いない。
お世話になっております。
まだまだ、彼女の暴走は止まりません。
ここから先のお話で、彼女の行動のルーツについてお話しする機会があればいいんですが…