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第十五話:悪魔の選択

毎日18時更新

 時間と、空気が、凍りついた。

 広瀬未央は、バンの薄暗い車内で、ヘッドフォンから響き渡る親友の声が、自分の脳が生み出した幻聴ではないかと、本気で疑った。しかし、ノートパソコンの画面に映る光景は、その声が悪夢のような現実であることを、無慈悲に証明していた。


 石膏デッサン室の中央。橘陽菜は、まるで舞台挨拶を終えた女優のように、優雅な笑みを浮かべていた。その視線は、寸分の狂いもなく、天井の隅に隠されたレンズを捉えている。

 彼女は、知っていた。最初から、すべて。


「な……んで……」


 未央の唇から、か細い声が漏れた。隣に座る、桐谷の友人で、この配信計画の技術協力をしている男子生徒が、呆然と画面を指さしている。だが、そんなことはもうどうでもよかった。


 陽菜は、その小さな問いに答えるかのように、再び口を開いた。その声は、ヘッドフォンを通して、未央の鼓膜だけを直接、甘く揺さぶる。


「どうして、かなんて。簡単なことだよ、未央」


 彼女は、まるで生徒に教え諭す教師のように、ゆっくりと、しかし楽しそうに言葉を紡いだ。


「あなたは、ジャーナリストだから。芸術家じゃない。あなたは、真実を『記録』し、『暴露』することで、世界を変えられると信じている。そんなあなたが、この状況で、私をただ殺させたり、捕まえさせたりするだけで満足するはずがない。あなたは、私が神の座から堕ちる瞬間を、動かぬ証拠として、全世界に配信したかった。違う?」


 未央は、息ができなかった。自分の思考、計画、そのすべてが、陽菜によって完璧に読み解かれていた。


「桐谷先輩の演技も、素晴らしかった」


 陽菜の視線が、椅子に座ったまま金縛りにあったように動けない桐谷へと移る。


「あの『絶望』は、ほとんど本物だった。でもね、先輩。今日のあなたの瞳には、ほんの少しだけ、不純物が混じっていた。それは、恐怖だけじゃない。『希望』の色。すべてを賭けたギャンブラーが、最後の一手に勝利を確信した時の、あの汚くて、美しい色。あなたのその瞳が、私に教えてくれたんだよ。この舞台には、もう一人、脚本家がいるってね」


 そして、陽菜は、とどめを刺すように言った。


「私が頼んだ『チケット代』。あれを、あまりにも従順に、完璧に、用意してくれたでしょう。あれが、最大のヒントだった。あなたは、私が完全にコントロールされていると私に思い込ませることで、私をコントロールしようとした。古典的だけど、美しい罠だったよ。感動した」


 計画は、筒抜けだった。自分たちが仕掛けたつもりの罠は、初めから、陽菜の巨大な舞台装置の一部に過ぎなかったのだ。未央の心に、絶望よりも深い、底なしの虚無が広がっていく。

 しかし、陽菜の言葉は、まだ終わらない。


「でも、安心して。怒ってなんかいないよ」


 彼女は、心からの笑みを浮かべた。その瞳は、新しいおもちゃを見つけた子供のように、無邪気な狂気で輝いていた。


「むしろ、感謝してる。あなたの、この素晴らしい演出のおかげで、私の作品は、新しいテーマを得ることができたから」


「当初のテーマは、『才能の墓標』。でも、今は違う」


「今のテーマは、『観客席の殺人者』」


「そう……あなたのことだよ、未央。これから行われる芸術を、安全な場所から覗き見ている、あなた。そのあなたに、この作品の結末を、決めてもらうことにした」


 陽菜は、トートバッグから、あの特殊な蛍光塗料のチューブを取り出した。そして、桐谷の前に立つ。


「さあ、未央。あなたに、悪魔の選択をあげる」


 彼女は、隠しカメラを、まっすぐに見つめた。


「あなたのパソコンの画面に、『配信開始』のボタンがあるはず。それを押せばいい。そうすれば、この部屋で起きていることが、全世界に配信される。アノニマスの正体が、白日の下に晒される。あなたの『正義』は、成し遂げられる」


 陽菜は、そこで一度、言葉を切った。そして、ぞっとするほど甘美な声で、続けた。


「――ただし。あなたがそのボタンを押した瞬間、私は、桐谷先輩を殺す」


「あなたの正義は、彼の死によって贖われる。英雄になるんだよ、未央。友人の命と引き換えにね」


 桐谷の顔が、恐怖で引きつった。

 陽菜は、そんな彼には目もくれず、話を続ける。


「もう一つの選択肢。それは、何もしないこと」


「ただ、黙って、私の創作活動を、最後まで見届ける。私の、プライベートな観客になるの。もし、あなたが最後まで、何もせずに、この芸術の完成を見届けることができたなら……」


「――私は、先輩を殺さない」


「ただ、彼を私の『作品』にして、立ち去るだけ。彼は、心に一生消えない傷を負うでしょうけど、命だけは助かる。恥辱と、命。どちらが大切かなんて、言うまでもないよね?」


 これが、陽菜が提示した、悪魔の選択だった。


 正義と、一人の命。

 告発と、沈黙。

 英雄になるか、共犯者になるか。


「私が、この作品を完成させるまでが、あなたのシンキングタイム。さあ、どうするの、未央? この舞台の結末を決めるのは、神でも、私でもない。たった一人の観客。あなたなんだよ」


 陽菜はそう言うと、未央の返事を待つこともなく、手際よくゴム手袋をはめ、桐谷へと向き直った。彼女は、もはや未央のことなど見ていない。目の前の、震えるキャンバスにのみ、集中していた。

 彼女は、桐谷の腕を、持参した麻のロープで椅子の肘掛けに優しく、しかし決して解けないように縛り付けていく。


「動かないで、先輩。最高の芸術品になるんだから」


 そして、蛍光塗料の蓋を開けた。チューブから、透明な液体を指先に取り、彼の頬に、そっと触れる。冷たい絵の具の感触に、桐谷の体が大きく跳ねた。


 バンの中の未央は、そのすべてを、ただ見ていた。

 ヘッドフォンからは、桐谷の荒い呼吸と、時折聞こえる陽菜の楽しそうな鼻歌だけが響いてくる。

 目の前の画面では、親友だった少女が、生きた人間を、自分の芸術品として、ゆっくりと、丁寧に、陵辱していく。


 涙が、頬を伝った。それは、悲しみからか、怒りからか、あるいは、自らの無力さからか。もう、わからなかった。


 彼女の視線は、画面の隅にある、「配信開始」と書かれた赤いボタンに釘付けになっていた。

 人差し指が、震えながら、ゆっくりと、そのボタンへと伸びていく。


 押せば、友人が死ぬ。

 押さなければ、悪魔が笑う。


 どちらを選んでも、待っているのは地獄だけだ。


 時間の感覚が、なかった。

 ただ、画面の中の悪魔が、恍惚の表情で、その指を動かし続けている。


 そして、未央の指先は、赤いボタンの上、数ミリのところで、止まったままだった。

こんばんわ、下朴公脩です。

いやぁ…狂ってんな…

何が彼女をここまでさせたんでしょうね?

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