第十四話:開演のベル
決行の日、七月二十九日、火曜日。
世界は、奇妙なほどの静けさに満ちていた。空はどこまでも高く、雲ひとつない快晴。だが、その完璧な青空の下で、広瀬未央の生きる世界は、鈍色のフィルターがかかったように色褪せて見えた。
授業のチャイムが鳴り、教師が単調な声で古文の助動詞を解説する。隣の席の生徒が、小さく欠伸をする。そのすべてが、分厚いガラスの向こう側で起きている出来事のようだった。
未央の意識は、ただ一点にのみ集中していた。斜め前の席に座る、小さな背中。橘陽菜。彼女が時折、ノートの隅に走らせる、無意味な落書きのように見える線。その一本一本が、今夜執行されるであろう殺人の、冷徹な設計図に見えてならなかった。
時折、陽菜がふと、こちらを振り返ることがあった。目が合うと、彼女はいつも通り、はにかむように小さく微笑む。それは、かつて未央が愛した、内気で心優しい親友の顔だった。
しかし今、その微笑みは、すべてを知り尽くした支配者が駒の忠誠心を確認する、不気味な儀式にしか見えない。
未央は、胃が焼け付くような感覚を覚えながら、必死に穏やかな笑みを返した。二人の少女の間だけで交わされる、無言の宣戦布告。その異常な緊張感に、教室の誰も気づいてはいなかった。
一方、桐谷海都は、彼に与えられた「絶望」という役を、鬼気迫るほどのリアリティで演じきっていた。もはや、それは演技ではなかったのかもしれない。日に日に濃くなる死の影は、彼の精神を確実に蝕んでいた。
友人たちが心配してかけてくる声も、彼の耳には届かない。彼の視線は常に虚空を彷徨い、その顔には、才能を枯渇させ、神に見放された芸術家の、生々しい苦悩が刻まれていた。
学園の誰もが、彼の憔悴しきった姿に胸を痛め、同情し、そして密かに噂した。
「アノニマスの次の粛清は、もう近い」と。
陽菜は、そのすべてを、アトリエの席から、神のような視点で観察していた。未央の従順さ。桐谷の崩壊。すべてが自分の脚本通りに、完璧な精度で進んでいる。
彼女の心は、創作活動に没頭する芸術家特有の、静かで熱い興奮に満たされていた。
彼女は、スケッチブックに、人の形ではなく、ただ感情の「色」を塗りつけていた。
「諦観の灰色」「焦燥の黄色」「期待の青」。
今夜、それらすべての色が混じり合い、至高の「黒」が完成する。
その瞬間を思うだけで、全身が痺れるような歓喜がこみ上げてきた。
◇
放課後のチャイムが、まるで試合開始のゴングのように、学園に響き渡った。
未央の、最後のミッションが始まる。
旧美術棟に足を踏み入れると、ひやりとした空気が肌を撫でた。西陽が長い廊下に、牢獄の格子のような影を落としている。
絵の具と、テレピン油と、そして古い木の匂い。
そのすべてが、これから行われる儀式の、荘厳な序曲のように感じられた。
目的の場所は、最上階の石膏デッサン室。
未央は、周囲に誰もいないことを何度も確認し、震える手でドアを開けた。部屋の中では、アグリッパ、ブルータス、ミロのヴィーナスといった、名だたる石膏像たちが、感情のない白い瞳で彼女の侵入を見つめていた。まるで、これから始まる悲劇の、沈黙の観客たちのようだ。
まず、陽菜から命じられた「チケット代」を隠す。埃をかぶった戸棚の奥深くに、ブラックライトと特殊な蛍光塗料を滑り込ませた。これで、陽菜に対する「忠誠」は果たされた。
次に、本題の「罠」を仕掛ける。
未央は、持参したバッグから、指先ほどの大きさしかない超小型のワイヤレスカメラと、折り畳み式の脚立を取り出した。心臓が、肋骨を内側から叩きつけるように激しく脈打つ。
目標は、天井の隅にある、古い換気扇のダクト。
脚立を立て、軋む音に肝を冷やしながら、慎重に登っていく。ダクトのカバーを外し、その暗い内部に、磁石でカメラを固定する。角度を微調整し、スマートフォンで映像を確認する。完璧だった。部屋の中央に置かれた椅子を中心に、部屋全体が、死角なく神の視点で映し出されている。
すべての作業を終え、脚立から降りた瞬間、不意に廊下の向こうで、カタン、と何かが落ちる音がした。
未央は、凍りついた。
全身の血が、音を立てて引いていく。陽菜か? それとも、誰か別の生徒か?
未央は、息を殺して、数分間、その場に立ち尽くした。だが、それ以上、物音はしない。
おそらく、古い校舎が立てる、ただの物音だったのだろう。そう自分に言い聞かせたが、心臓はまだ、警鐘を鳴らし続けていた。
◇
夜。すべてを飲み込むような、新月の闇。
桐谷海都は、自室のベッドの上で、ただ時が過ぎるのを待っていた。恐怖は、すでに彼の感覚を麻痺させていた。これから自分は、殺人鬼の待つ処刑場へ、自らの足で向かうのだ。
スマートフォンの画面に、未央からの短いメッセージが表示される。
『舞台は、整いました。あとは、主役の登場を待つだけです』
その、どこか芝居がかった言葉が、不思議と桐谷の心を落ち着かせた。そうだ、これは芝居なのだ。自分が主役の。
彼は、深く息を吸い込むと、重い足取りで、闇に沈む学園へと向かった。
石膏デッサン室のドアを開けると、中は完全な闇だった。月明かりさえない夜。彼は、手探りで部屋の中央にある椅子を探し当て、そこに深く腰を下ろした。
沈黙。自分の呼吸の音だけが、やけに大きく聞こえる。石膏像たちが、闇の中で、自分を嘲笑っているような気がした。
どれくらいの時間が、経っただろうか。
不意に、背後のドアが、ほとんど音もなく、ゆっくりと開いた。
◇
その頃、学園から数ブロック離れたコインパーキングに停めた、ありふれたレンタルのバンの中で、未央はノートパソコンの画面を凝視していた。
画面には、隠しカメラからの映像が、リアルタイムで映し出されている。暗視モードに切り替えたため、モノクロの、ノイズ混じりの不気味な映像だ。椅子の上の桐谷の姿が、かろうじて見て取れる。
未央のヘッドフォンが、ドアの開く、わずかなノイズを拾った。
画面の隅から、すっと、人影が入り込んでくる。
橘陽菜。
彼女は、昼間と同じ制服姿のまま、小脇に画材の入ったトートバッグを抱えていた。その足取りには、何の躊躇いもない。まるで、自分のアトリエにでも入ってくるかのように、自然だった。
陽菜は、椅子に座る桐谷の周りを、まるで彫刻家が大理石の塊を吟味するかのように、ゆっくりと一周した。桐谷の恐怖、絶望、そしてわずかな覚悟。そのすべてを、その場の空気ごと味わっているかのようだった。
未央は、息をのんだ。配信サーバーへの接続は完了している。あとは、このボタンを押せば、この悪魔の所業が、全世界へと拡散される。
陽菜は、歩みを止めると、やおらトートバッグから、あのブラックライトを取り出した。そして、部屋の壁、床、そして桐谷自身に向けて、その妖しい紫色の光を照射し始めた。
すると、昼間、未央が隠した蛍光塗料が反応し、事前に陽菜が仕掛けていたのであろう、目には見えない無数の線が、床や壁に、星空のような美しい模様として浮かび上がった。
なんと、周到な。
ここは、彼女が作り上げた、死のプラネタリウムだったのだ。
陽菜は、その光景にうっとりと目を細めると、満足げに頷いた。
そして。
彼女は、ゆっくりと顔を上げ、天井の隅を――寸分の狂いもなく、隠しカメラが設置された換気扇のダクトを、まっすぐに見た。
その顔には、すべてを悟った、悪戯っぽい、美しい笑みが浮かんでいた。
ヘッドフォンを通して、陽菜の澄んだ声が、クリアに、未央の鼓膜を震わせた。
「未央。見てるんでしょ」
「桐谷先輩も、お疲れ様。最高の演技だったよ」
「さあ、始めようか。最後のレッスンを」
「一緒に、最高傑作を、創りましょう」
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