第十三話:偽りの絶望
その日から、広瀬未央と桐谷海都の、命を賭した二重生活が始まった。
日中、学園という舞台の上で、彼らは橘陽菜という名の脚本家兼演出家が望む通りの役を演じた。
桐谷海都は、『絶望』を演じた。
あれほど人好きのする笑顔を浮かべていた青年は、日に日にその光を失っていった。授業に集中できず、ぼんやりと窓の外を眺め、友人からの励ましの声にも力なく首を振るだけ。アノニマスからの死の予告に怯え、才能の枯渇に悩み、社会的に孤立していく悲劇のスター。その姿は、あまりにもリアルで、教師や生徒たちの同情を誘った。
広瀬未央は、『監視者』を演じた。
彼女は、陽菜の忠実な駒として、桐谷の『絶望』を逐一報告した。
「桐谷先輩、今日もほとんど誰とも口を利いていませんでした。デザインの課題も、手つかずみたいです」
「そう。いい感じに、壊れてきてるねぇ〜」
陽菜は、その報告を聞くたびに、満足げに微笑んだ。自分の芸術が、人間の心を意のままに動かしているという全能感に、酔いしれていた。
しかし、舞台から降りた夜、役者たちは本当の顔を取り戻す。
二人は、互いのアリバイを偽装しながら、深夜のファミリーレストランや、騒々しいカラオケボックスの個室で密会を重ね、陽菜を嵌めるための罠を、緻密に、慎重に構築していった。
「問題は、どうやって『その瞬間』を記録するか、だ」
ドリンクバーのカップを手に、桐谷が低い声で言った。
「あいつは、異常に用心深い。監視カメラの位置も、スマホのレンズが向けられる角度も、すべて計算しているはずだ」
「だから、カメラを意識させない方法が必要なんです」
未央は、テーブルの上に、一枚の殴り書きの地図を広げた。それは、彩星学園の旧美術棟の見取り図だった。
「陽菜が選ぶ犯行現場は、おそらくここ。旧美術棟の、最上階にある石膏デッサン室。そこは、彼女にとって特別な場所だから」
「特別な場所?」
「佐伯くんが、生前最後に見つかった場所の、すぐ上の階です。彼女は、物語の始まりと終わりを繋げようとするはず。それが、彼女の美学だから」
未央は、事件に関するすべての記事と、過去の学園の資料を読み込み、陽菜の行動パターンと心理を、プロファイラーのように分析していた。恐怖は、彼女から多くのものを奪ったが、代わりに、異常なまでの集中力と洞察力を与えていた。
「この部屋には、窓が二つ。一つは廊下側、もう一つは中庭に面しています。そして、天井には、古い換気扇のダクトがある。私たちは、これを使います」
未央の計画は、こうだ。
超小型のワイヤレスカメラを、換気扇のダクト内部に仕掛ける。そこからなら、部屋全体を死角なく見下ろすことができる。そして、その映像を、少し離れた場所に停めた車の中で、リアルタイムで受信、録画、そして……配信する。
「配信……? まさか、ネットで!?」
「そうです。警察に証拠として提出しても、陽菜は言い逃れをするかもしれない。弁護士が、いくらでも理屈をこねるでしょう。でも、彼女が最も恐れるのは、法的な罰じゃない」
未央の瞳が、冷たく燃えていた。
「彼女が最も恐れるのは、自分が作り上げた『アノニマス』という神話が、信者たちの目の前で、最も無様な形で引き摺り下ろされることです。神が、ただの小狡い人殺しだったと、全世界が知ること。それこそが、彼女にとっての、本当の死刑宣告なんです」
桐谷は、息をのんだ。目の前にいるのは、もう、ただの後輩の女子生徒ではなかった。殺人鬼と対峙するために、自らもまた、人の道を踏み外す覚悟を決めた、復讐者だった。
◇
一方、橘陽菜は、自らのアトリエで、最後の仕上げに取り掛かっていた。
彼女は、画材店を何軒も回り、ある特殊な絵の具を探し出していた。それは、桐谷が佐伯から聞いていた、陽菜が愛用するメーカーのものだったが、通常の色とは違う。ブラックライトにのみ反応し、青白く発光する特殊な蛍光塗料。
(もっと、光を…)
陽菜の脳裏には、完成予想図がはっきりと見えていた。
暗闇の中、力なく椅子に座る桐谷の体。その周りに散らばる、無価値なトロフィー。そして、彼の体から流れ落ちる血痕のように、床に描かれた模様が、ブラックライトの光を浴びて、まるで銀河のように、幻想的に、青白く輝いている。
死と、絶望と、そして、星空。
これ以上の、美しいコントラストがあるだろうか。
彼女は、恍惚とした表情で、スケッチブックの隅に、小さな文字を書き込んだ。
『決行は、三日後。新月の夜に』
その夜、陽菜は未央を呼び出した。
「未央。あなたに、最後の仕事をあげる」
陽菜は、一枚のメモを差し出した。そこには、いくつかの画材と、小型のブラックライトの品番が書かれていた。
「これを、明日の放課後、旧美術棟の石膏デッサン室に、隠しておいて。見つからないように、うまくやってね」
「……これは?」
「私の最高傑作を、特等席で見るための、チケット代だよ」
陽菜は、楽しそうに笑った。
彼女は、未央を試しているのだ。最後の最後で、自分を裏切らないかどうかを。そして、自らの犯行計画に、親友を間接的に加担させることで、決して逃れられない共犯者という鎖を、さらにきつく締め上げようとしていた。
未央は、表情を変えずに、そのメモを受け取った。
「わかった」
その短い返事の裏で、彼女の心は決まっていた。
(ええ、もちろん。最高の舞台を、用意させてもらうわ。あなたが、神の座から堕ちるための、最高の舞台を)
三日後。
すべてが闇に包まれる、新月の夜。
神の天罰か、人間の罠か。
どちらが勝つかを決める、運命の舞台の幕が、静かに上がろうとしていた。