第十二話:盤上のゲーム
ピロン、と鳴ったその無機質な電子音は、橘陽菜がこのゲームの支配者であり、自分たちは盤上で嬲られる駒に過ぎないという事実を、残酷なまでに突きつける宣告だった。
桐谷海都の顔から、血の気が引いていく様を、広瀬未央はスローモーションのように見ていた。人気者で、誰からも好かれる快活なスター。
その仮面が粉々に砕け散り、剥き出しになったのは、死の恐怖に怯える、ただの十八歳の青年の顔だった。
「……なんだよ、これ」
彼の声は掠れ、目の前のスマートフォンに表示された画像から視線を外せないでいる。少し離れた校舎の窓から盗撮された、今まさにここで話している自分たちの姿。そして、その下に添えられた、神託のような、あるいは死刑宣告のようなテキスト。
『面会は済んだかな?』
『最終的な習作のための面談は、すぐに始まる』
「逃げるぞ!」
桐谷が、弾かれたように立ち上がった。その思考は、パニックによって『警察へ』という一点にしか向いていない。
「待って!」
未央は、彼の腕を強く掴んだ。その手は、恐怖で氷のように冷たくなっていたが、瞳だけは燃えるような光を宿していた。
「ダメ! 今、警察に行っても無駄です!」
「無駄なわけないだろ! これは脅迫だ! 殺人予告だぞ!」
「誰が信じるんですか!」
未央は叫んだ。
「『人気イラストレーターのアノニマスに脅迫されました』って? 警察は、ただの悪質ないたずらとして処理するだけです。陽菜は……アノニマスの正体は、橘陽菜です。彼女は、それを計算している。私たちが騒げば騒ぐほど、彼女の思う壺なんです!」
「橘……陽菜……? あの、絵画科の地味な……嘘だろ……」
「彼女は、私たちが警察に駆け込んだら、今夜にでもあなたを殺します。そして、それは『度を超したいじめに耐えかねた、可哀想な少女の悲劇的な犯行』として、世間の同情を集めるでしょう。アノニマスの神話は、それで完成してしまう」
未央の言葉には、異様な説得力があった。それは、彼女自身がその狂気の渦中で、共犯者として踊らされてきたからこその、重みとリアリティだった。
桐谷は、その場に崩れ落ちそうになるのを、必死で堪えた。未央の言う通りだ。巨大な蜘蛛の巣に、すでに足を取られてしまっている。もがけばもがくほど、強く絡め取られていくだけだ。
「……じゃあ、どうしろって言うんだよ」
絞り出すような声だった。
未央は、周囲を警戒しながら、静かに、しかしはっきりと言った。
「彼女のゲームに、乗るんです。そして、その土俵の上で、彼女を打ち負かす」
「……正気か?」
「正気じゃいられませんよ、もう」
未央は、掴んでいた桐谷の腕を離すと、努めて平静を装って立ち上がった。
「行きましょう、先輩。彼女は、見ています。私たちが、この後どう行動するのかを。怯えて逃げ出す獲物を、観察している」
そう言うと、未央は何もなかったかのように、校舎へ向かって歩き始めた。その背中は、不思議と、少しも震えてはいなかった。桐谷は、悪夢の中にいるような気分で、その後ろ姿を追いかけるしかなかった。
◇
旧美術棟の三階、今は使われていない音楽準備室。
橘陽菜は、窓の外で繰り広げられた小さな茶番劇を、スマートフォンの画面越しに、満足げに眺めていた。望遠レンズで捉えた彼らの恐怖に歪む顔は、彼女の創作意欲を強く刺激した。
ーー面白いーー
広瀬未央。彼女は、ただの従順な駒ではなかった。恐怖に屈しながらも、その瞳の奥には、諦めない光が燻っている。そして、桐谷海都という新しい駒を手に入れ、ゲームを続けようとしている。
それは、陽菜にとって脅威ではなかった。むしろ、歓迎すべきスパイスだった。
完璧すぎる舞台は退屈だ。予期せぬアクシデント、主人公たちの健気な抵抗。それらがあってこそ、悲劇はより一層、美しく残酷に輝く。
「いいよ、未央」
陽菜は、誰に言うでもなく呟いた。
「あなたのおかげで、私の作品は、もっと傑作になる」
彼女は、スケッチブックを開いた。そこに描かれていたのは、椅子に力なく座り、首を垂れる桐谷海都の姿。その周りには、無数のトロフィーや賞状が、彼を嘲笑うかのように散らばっている。作品のタイトルは、もう決めていた。
『才能の墓標』
陽菜は、自分のスマートフォンを取り出すと、未央宛に短いメッセージを送った。
『余計なことは考えないで。舞台は整った。私の最高傑作を、汚さないでね』
それは、支配者からの、慈悲深い警告のつもりだった。
◇
その夜、二人は繁華街の、騒々しいゲームセンターの片隅で落ち合った。けたたましい電子音と人々の歓声は、盗聴を恐れる彼らにとって、好都合なノイズだった。
「話して、ください。先輩が、佐伯くんから聞いたこと、全部」
未央の真剣な眼差しに、桐谷は観念したように話し始めた。
「あいつ……翔は、橘さんの才能に、心底惚れ込んでた。と、同時に嫉妬もしてた。自分にはない、純粋で、商業主義に染まっていない、剥き出しの才能に」
桐谷自身も、そうだったという。絵画科からデザイン科に転向したのは、自分の才能の限界と、橘陽菜のような『本物』の存在に打ちのめされたからだ。
「翔は言ってた。アノニマスとしてSNSに作品を上げることは、彼女の才能を安売りする行為だって。本物のアーティストになるには、一度、その神話を壊し、世間の評価という嵐の中に身を晒さなければならないって。だから、コンペに応募させようとしたんだ。自分の手で、彼女を表舞台に引きずり出すつもりだった」
「それが、殺害の動機……」
「ああ。橘さんにとって、翔は救済者なんかじゃなかった。自分の聖域を破壊しようとする、最大の敵だったんだ」
桐谷は、さらに続けた。
「翔は、橘さんの弱点を探していた。あいつ、妙なところに執着するからな。橘さんが使う画材が、いつも同じメーカーの、少し特殊なものであることまで突き止めてた。証拠にもならないような、小さなことだけど」
「画材……」
その言葉は、未央の頭に深く刻み込まれた。今は役に立たなくても、いつか切り札になるかもしれない。
「どうするんだ、これから」
桐谷が尋ねた。
「あいつは、俺を殺す気だ」
「ええ。おそらく、近いうちに」
未央は冷静に答えた。恐怖は、すでに彼女の一部になっていた。
「だから、罠を仕掛けます」
「罠?」
「陽菜は、芸術家です。自分の作品が、最高の形で完成されることを望んでいる。彼女が最も望むシチュエーションは、『才能の枯渇に絶望し、孤立した桐谷海都が、自ら死を望むように、アノニマスの粛清を受け入れる』というもののはず」
「……俺が、死ぬフリをしろってのか」
「フリじゃありません。本気で、その役を演じてもらうんです。先輩は、彼女の『作品』になる。そして、私たちは、その創作の過程を、全世界に暴き出す」
未央の計画は、あまりにも大胆で、無謀だった。アノニマスこと橘陽菜が、桐谷海都を殺害しようとするその瞬間を、何らかの形で記録し、全世界に生中継する。警察に証拠として提出するのではない。彼女が最も大切にする『アノニマス神話』そのものを、信者たちの目の前で、完膚なきまでに破壊するのだ。
「そんなこと、できるのか……」
「やるんです」
未央の瞳には、狂気と紙一重の、強い決意が宿っていた。
彼女は、自分のスマートフォンを取り出すと、陽菜からのメッセージを開いた。そして、一言だけ、返信を打ち込んだ。
『わかってる。汚したりしない』
『あなたの最高傑作を、特等席で見届けさせてもらうから』
それは、奴隷からの、服従の返信ではなかった。
盤上の駒から、ゲームのプレイヤーへと変わった少女の、宣戦布告だった。
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