第十話:死神のための習作
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橘陽菜は、退屈していた。
世界は、彼女の脚本通りに動いている。警察の捜査は停滞し、世間はアノニマスという架空の神に熱狂し、広瀬未央という唯一の脅威は、恐怖という首輪に繋がれた従順な犬になった。
すべてが完璧で、すべてが順調。
だが、完璧な世界は、芸術家にとって毒だ。インスピレーションが、湧いてこない。
「何か、面白いニュースない?」
昼休み、陽菜は屋上で弁当を広げながら、隣に座る未央に尋ねた。その口調は、友人に語りかける気軽なものだが、未央にはそれが「次の作品のテーマを探せ」という命令に聞こえた。
「……えっと、環境問題とか、政治家の汚職とか……」
「退屈」
陽菜は、一言で切り捨てた。
「もっと、こう……私たちの身近にある、醜くて、美しいものはないの?」
その時だった。中庭から、ひときわ大きな歓声が上がった。
見下ろすと、大勢の生徒たちに囲まれ、笑顔でサインに応じている男子生徒の姿があった。
デザイン科三年の、桐谷海都。彼は、先日行われた大手企業のロゴデザインコンペで、最優秀賞を受賞したばかりの学園のスターだった。
「ああ、桐谷先輩か」
未央が呟いた。
「すごいよね。在学中にプロの仕事で認められるなんて」
陽菜は、何も答えなかった。
ただ、その瞳は、獲物を見つけた蛇のように、桐谷海都の姿に釘付けになっていた。
彼の笑顔。彼の、人に好かれるであろう快活な態度。そして何より、彼がデザインしたとされる、あの凡庸で、魂のこもっていない、金のためのロゴマーク。
――見つけた。
陽菜の心に、漆黒のインクが一滴、静かに落ちた。
これ以上ないほどに醜く、そして、芸術の対極にある、最高のテーマ。
『才能の売春』
その日から、陽菜の「創作活動」が、静かに再開された。
彼女は、まるで恋する乙女のように、桐谷海都を観察し始めた。彼の授業のスケジュール、移動経路、よく利用する画材店、休日の過ごし方。そのすべてを、陽菜はストーカーのように、しかし芸術家がモチーフを研究するかのごとく、冷静に、緻密に記録していく。
スケッチブックには、様々な角度から描かれた桐谷海都のデッサンが増えていった。笑う顔、悩む顔、友人と談笑する顔。だが、どの絵の瞳にも、陽菜は黒い穴を描き込んだ。魂が、抜け落ちているかのように。
「ねえ、未央。桐谷先輩って、どんな人か知ってる?」
陽菜は、あくまで無邪気に、未央に尋ねた。
「え? ああ……すごくいい人だって評判だよ。明るくて、誰にでも親切で」
「ふぅん」
陽菜は、スケッチブックにペンを走らせながら、楽しそうに言った。
「親切な人が、自分の才能を安売りするんだ。面白いね。まるで、自分の子供を売り飛ばす親みたい」
その言葉の冷たさに、未央は背筋が凍るのを感じた。陽菜が、次なるターゲットに桐谷海都を選んだことを、確信した。
未央には、時間がなかった。
陽菜の狂気が次の「作品」を完成させる前に、決定的な証拠を掴まなければならない。
彼女は、陽菜から命じられた「桐谷海都のリサーチ」を装い、彼の過去を深く、深く掘り下げていった。そして、ある奇妙な事実に突き当たる。
桐谷海都は、一年生の時、一度だけ絵画科のコンクールに出品し、落選していた。その時の審査員の一人が、佐伯翔の父親であり、有名な現代美術家でもある、佐伯剛三だったのだ。
点と点が、繋がりかける。
未央は、最後のピースを求めて、行動を起こした。佐伯翔の親友だった男子生徒に、「翔くんを偲ぶ会を開きたいから、思い出の品を探すのを手伝ってほしい」と嘘をつき、彼の遺品が残る空き教室へと忍び込むことに成功したのだ。
段ボールに詰められた、絵の具とスケッチブック。その中に、一冊だけ鍵のかかった古いノートがあった。
これだ。
未央は、咄嗟にそれを自分の鞄に隠した。
その夜、自室で、震える手でノートの鍵をこじ開ける。
中には、佐伯翔の几帳面な文字で、アノニマスに関する詳細な調査記録がびっしりと書き込まれていた。トレース元と思われる海外作家のリスト、投稿時間から推測される生活リズムの分析。
そして、最後のページ。
未央は、そこに書かれた一文を見つけて、息をのんだ。
『橘陽菜。彼女は天才だ。だが、彼女は知らない。彼女の神聖な芸術が、父さんのような権威には決して評価されないことを。彼女を本当の世界に引きずり出すには、一度、その幻想を壊すしかない。俺が、その役目を引き受ける』
やはり、佐伯の動機は、嫉妬ではなかった。歪んだ形ではあったが、それは彼なりの、陽菜の才能への敬意と、救済の試みだったのだ。
だが、未央を本当に震撼させたのは、その最後の文章ではなかった。
ノートの、最後の最後に、走り書きでこう付け加えられていた。
『コンペの件、桐谷に相談。あいつも、同じ壁にぶつかっていた』