第一話:神は午前零時に降臨する
その日、神は午前零時に降臨した。
スマートフォンの冷たい光だけが闇を照らす自室で、橘陽菜は息を殺していた。時刻表示が『23:59』から『0:00』に切り替わった瞬間、SNSアプリのタイムラインが爆発的な勢いで更新される。
『Anonymousが新作を投稿しました』
その通知を目にした瞬間、指先が痺れるような興奮が背筋を駆け上がった。
私立彩星芸術学園において、『アノニマス』は神だ。顔も、性別も、学年も、誰も知らない。ただ、不定期に、真夜中にだけ投稿される一枚のイラストレーションによって、その存在を証明する正体不明の天才。
陽菜は震える指で画面をタップした。
現れたのは、一枚の絵。
降りしきる雨の中、ずぶ濡れになったセーラー服の少女が、割れたショーウィンドウの前に佇んでいる。砕け散ったガラス片は、まるでダイヤモンドのように煌めき、少女の絶望したような、それでいて何かを期待しているような瞳に、街のネオンを乱反射させていた。
タイトルは『贋物の涙』。
圧倒的だった。
構図、色彩、光の描写。何より、描かれた少女の感情が、痛いほど胸に突き刺さってくる。陽菜は、自分の心臓が絵の中に引きずり込まれていくような感覚に陥った。
コメント欄は、瞬く間に信者たちの賞賛で埋め尽くされていく。
『神……今回もありがとうございます』
『この光の捉え方、人間業じゃない』
『この子、何から逃げてるんだろう…考察が捗るぅ』
『アノニマス様、どうか私たちの前に姿をお見せください』
陽菜は『いいね』を押すことすらできなかった。あまりに眩しすぎて、自分の汚れた指で触れることさえ躊躇われたからだ。
彼女はそっとアプリを閉じると、机の引き出しからスケッチブックを取り出した。そこに描かれているのは、誰にも見せたことのない、本当の自分の絵。アノニマスの絵とは違う。けれど、心の奥底にある、誰にも理解されない感情を叩きつけた、自分だけの世界。
「私には……描けない』
アノニマスのような、あんなに多くの人を熱狂させる絵は。
陽菜はパタンとスケッチブックを閉じ、鍵のかかる引き出しの奥深くにそれを押し込んだ。
◇
翌朝の私立彩星芸術学園は、アノニマスの話題で持ちきりだった。絵画科、デザイン科、彫刻科、映像科。科の垣根を越えて、誰もが興奮気味に昨夜の降臨について語り合っている。
「見た?今回のアノニマス、ヤバくない!?」
教室に入るなり、快活な声で陽菜に話しかけてきたのは、広瀬未央だった。
ジャーナリスト志望の彼女は、学園内のあらゆる情報に精通している。特に、正体不明のアノニマスについては、誰よりも強い執着を見せていた。
「う、うん。見たよ」
「あのショーウィンドウのガラスの破片!あれ、少女の涙のメタファーだって考察、もう出てるんだよ。あと、ネオンの光が映り込んでるのは、都会の喧騒の中の孤独を表現してるって!もぉ、天才すぎない?」
未央のマシンガントークに、陽菜は曖昧に頷くことしかできない。
すごい、とは思う。けれど、その熱狂の輪の中に、自分はいない。まるで、分厚いガラス一枚を隔てた向こう側の出来事のようだった。
そんな熱狂に、冷や水を浴びせる声が響いたのは昼休みのことだ。
学食の大型モニターが、誇らしげに『贋物の涙』を映し出している。多くの生徒が足を止め、スマホで撮影したり、仲間と感想を言い合ったりしていた。
その輪の中心で、絵画科のエースと目される佐伯翔が、わざと聞こえるような大声で言い放った。
「またアノニマスか。騒ぎすぎだろ。どうせ誰かの作品の構図をパクった、トレース作品だよ!」
その一言で、空気が凍った。
すべての視線が佐伯に突き刺さる。その視線には、侮蔑と、純粋な怒りが混じっていた。
神を冒涜するな。無言の圧力が、佐伯にのしかかる。
「うわ、また言ってるよ、佐伯くん」
隣でランチを食べていた未央が、呆れたように囁いた。
「彼はアンチ・アノニマスの筆頭だからね。自分のプライドが許さないんだよ、自分より評価されてる正体不明の天才がいることが」
佐伯は、周囲の敵意をものともせずに続けた。
「それにこの絵、致命的なミスがあるんだよな。ここ、光の反射がおかしいだろ?ま、素人には分かんないか」
彼はそう言い残すと、取り巻きを連れて勝ち誇ったように去っていった。残された生徒たちの間には、不快な沈黙と、佐伯への明確な敵意だけが残っていた。
陽菜は、胸がざわつくのを感じていた。
佐伯の言う「光の反射がおかしい」という言葉。それは、陽菜も昨夜、絵を見て一瞬だけ感じた違和感と、まったく同じだったからだ。
◇
放課後、陽菜は美術準備室にいた。提出物のための画材を取りに来たのだが、どうしても佐伯の言葉が頭から離れない。
(本当に、ミスなんだろうか…?)
アノニマスに限って、そんなことがあるはずがない。きっと何か意図があるはずだ。そう思いながらも、心のどこかで小さな棘がチクチクと痛んでいた。
自分の才能のなさに落ち込み、ふとスマホに手が伸びる。開いたのは、フォロワー数十人の自分の”裏”のアカウント。『hina』という名前で、誰にも気づかれないように、時々、空や花の風景画を投稿しているだけの、臆病なアカウントだ。
ーー自分の本当の絵を、ここに載せられたら。
そんなあり得ない夢想を振り払うように、タイムラインをスクロールする。すると、佐伯翔の投稿が目に飛び込んできた。彼は、アノニマスを批判するための専用アカウントまで作っていたのだ。
『例の神絵師(笑)の新作、やっぱり黒だったわ。元ネタの海外作家、特定完了。証拠が揃い次第、すべてを暴露する。神の化けの皮が剥がれる瞬間を、お楽しみに。#アノニマス #トレース疑惑』
陽菜の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
証拠?本当に、盗作だったというのか?
信じたくない。けれど、あの佐伯がここまで言うのなら。もし、本当にそうだったとしたら、学園はどうなってしまうのだろう。
信じていた神が偽物だと知った時、あの熱狂は、一体どこへ向かうのだろう。
言いようのない不安に駆られた、その時だった。
遠くから、微かにサイレンの音が聞こえてきた。気のせいかと思ったが、その音は徐々に大きくなり、学園の敷地内に入ってくるのが分かった。
窓の外が、急に騒がしくなる。
何事かと廊下に出ると、生徒たちがざわつきながら美術棟の方を指さしていた。
その瞬間、陽菜のスマホが震えた。未央からのメッセージだ。
『陽菜!大変!美術棟のAアトリエの前、パトカー来てる!』
Aアトリエ。
そこは、いつも佐伯翔が使っている場所だった。
陽菜は、何かに引き寄せられるように窓際へ駆け寄った。
夕焼けに染まる中庭の向こう、美術棟の周りには、すでに人だかりができ始めていた。教員たちの怒号が飛び交い、非常線のテープを持った警察官の姿が見える。
立ち入り禁止、と書かれたそのテープが、無情にもAアトリエの入口に張り巡らされていく。
陽菜の視線は、その一点に釘付けになった。
佐伯の挑発的な投稿が、脳内で何度も再生される。
『神の化けの皮が剥がれる瞬間を、お楽しみに』
「……嘘」
誰にも聞こえない声で、そう呟いた。
翌日、この学園の神話を根底から揺るがす凄惨な事件の第一報が伝えられるまで、あと数時間。
まだ、誰も本当の”悪夢”の始まりを知らなかった。
この物語の舞台は、とある芸術大学の附属高校という設定です。
多くの生徒がSNSで作品を発表し、評価を競い合っています。
もしかしたら、こういう学校も将来的にスタンダードになるかもしれませんね。