あなたにとって一番必要のないもの
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朝5時。まだ真っ暗な冬のオルキ諸島は、日の出よりも前に目覚める。
羊達の世話をする畜産農家、漁業者、そしてその日の料理担当。
それぞれが当たり前に働き、誰一人としてそれをさぼらない。ここまでやらなければならないと目標を建てられた訳でもないが、それでも自主的に働く。
誰かが手を抜いたなら島民全員が困る事になる。その穴埋めを他人か、あるいは人形達がする事になる。そんなプライドのない国民など、オルキは必要としない。
本音を言えば手を抜きたいし、さぼりたいし、働きたくて働くわけでもない。
それでも、皆はこの国のために、よりよい未来のためにせっせと働く。
「おはよう、起きる時間よ」
イングスとニーマンが建てたばかりの1棟を借りたトリス達は、質素な部屋の中で目を覚ました。
戦艦で使われていた布団類を使い回した寝床に、これまた戦艦から持ってきたテーブル。
棚などはイングスとニーマンのセンスに任せられているため、どの家でも必ず同じ大きさ、同じ形に仕上がる。
床に広くくり抜かれた四角い穴の中には泥炭の囲炉裏。腰掛けたなら足元が温かく、部屋全体も暖まる。
湯たんぽと温かい羊毛の部屋着も準備された、島では一般的な一軒家だ。
まだ浄化槽が整っていないため、トイレと風呂シャワーは共同浴場を使わなければならないが、共同浴場は42度と適温になった天然温泉だ。
といっても、トリスは共同という言葉の響きで拒否したため、トイレ以外まだ体験していないが。
寒い島の暮らしに耐えられるだけの全ては揃っている。
しかし、トリスには不満しかなかったようだ。
「ん……何時……」
「もう5時20分よ、みんなもう仕事に出ている時間」
「ん……はあ? 5時ですって? こんな早い時間に起こすなんて何考えてんの、私は朝はたっぷり寝るの、邪魔しないで」
護衛の者達はさすが、皆が眠そうな顔を見せずに起きて来た。
トリスはまだ起きるつもりがないらしい。
「ああ、そう。あなたは島の誰もが起きる時間に起きられないんだ? へえ、あなたには出来ないのね、そう」
「あんた……そのムカつく言い方なんとかなんないの」
「じゃあどう言ってあげるべき? あらあらお嬢ちゃん、まだ眠いんでちゅねえ、起きられないのぉ~? かわいそうに~よちよちって言ってあげたら満足? だったら明日からそうしてあげる」
「あーもう! ムカついて寝てらんない!」
「顔を洗ったら5時半から朝ごはんの準備よ。集会所の横の炊事場に来てね」
ソフィアは有無を言わせず戸を閉める。外では当たり前のように明るい声の挨拶が飛び交う。
無理矢理でも明るく振舞う事で、1日の半分以上が暗い陰鬱とした冬と戦っているのだ。
トリスはイライラを隠しもせず、髪を梳かして1つに縛り外に出た。
昨晩はアリヤに頼み込んで家に入れて貰い、化粧を落とさせてもらった。だが、起きて顔を洗おうにも外の手洗い場の水は凍るような冷たさ。しかもメイクするには部屋が暗い。
「あーもう! あんた達お湯が出ないって文句言ってきてよ!」
「おー、やっと起きたのか金持ち女。お湯が出ないって、そもそも出るように作られてねえんだよ。どこに給湯器があるってんだ」
「レバーを左右に振るだけでお湯か水か選べるでしょ! お湯と冷水のハンドルが2つある奴でもいいから、今すぐこの家に付けなさい!」
「……あんた、もしかしてお湯が出る仕組み知らねえの?」
家の前を通りかかったのはケヴィン。ケヴィンはため息をつきながら家の中に入り、囲炉裏の傍で放置されていたやかんに水を入れた。その間にボウルへと水を入れ、お湯が沸いたら足していく。
「ほら、お湯」
お湯を手に入れるのではなく、お湯にする。
何もかもが揃った環境にいたせいで、その発想すらなかったトリスは素直に感動していた。
「護衛のあんたらも、シルトン家の常識に染まっちまったんだな。ちょっとは頭を使えば」
「……」
「ソフィアが来なかったか? 呼びに来てたはずだから、言われた通りにしといた方がいいぞ」
「……顔を洗ったら行くってば、お湯がないから洗えなかっただけ!」
「そっか。ま、この島で暮らしたら、あんたに足りないものが何でも手に入るから、素直に聞いてみて」
「こんな何もない島で手に入る? 何言ってんの」
「まあ、そのうち分かるさ。例えば化粧してなくても人と会える生活とかな」
トリスは突然の環境の変化とイライラで、化粧していない事を全く意識していなかった。急に思い出したトリスは急いで顔を洗い、備え付けのランプの明かりと手鏡を頼りにいつもより薄く化粧をして眉を描く。
口紅を塗ってふわふわのコートを羽織って、ようやく炊事場へと向かった。
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「あ、やっと来たましたね。おはようございますトリスさん」
「炊事場に来いって言ったのはあんた達でしょ。こんな早くから何? 寒いんだけど」
「5時過ぎに起こしに行って、今何時か分かってる? もう6時20分! まさか2度寝した?」
「はあ? 起こされたからそのまま準備して急いで来たじゃない」
「5時半から朝ごはんの準備って、言ったよね。あなたが滞在する間、毎日5時半から朝ごはんの準備だから。来なかったらその日の朝と昼の食事は無しだから覚悟して」
トリスは自分なりに急いだと文句を言ったが、5時半に来いと言われた事を守らなかった。
急いだのにとブツブツ言うトリスに対し、他の者達が急いだかどうかは関係ない、5時半に来たかどうかだと教えたが、トリスの機嫌は悪いままだった。
7割がた終わった準備に途中で加わってからも酷かった。
肉と根菜を出し汁で煮込んだスープの鍋の前で、見ていてと言われたなら本当に見ているだけ。
煮立って泡を吹いても「何か大変な事になってない?」と尋ねて終わり。素直ではない分、初期のイングスより質が悪い。
パンをカゴに入れてテーブルに置くように言われても、バターがない、ジャムがない、クロワッサンがないと大騒ぎだ。
「ふーん、あなた料理出来ないんだ?」
「はあ? その出来ないって言い方ムカつくんだけど。やった事ないんだから仕方ないでしょ」
「じゃあ今日から覚えて。やった事ないからしないなんて、馬鹿丸出しな事言わないよね? アリヤを見習ったら?」
アリヤはもうすっかり料理上手だ。料理が上手い者はソフィアやドルガ、フューサーなど何人もいるが、アリヤもいいものを食べて来たからか味覚とセンスが良い。
自分よりももっと高貴なアリヤでもやっていると聞けば、トリスも渋々従う。
「あなたみたいなお嬢様が、実は料理上手で出汁を使った温かい家庭料理も作れる。そういう意外性と庶民も共感できるものを持っていれば、そこからあなたを好きになる人がもっと増えるわ」
「そんなのなくても、私は十分慕われているし好かれてるから」
「ふーん、今で満足するんだ。作ってもらわなきゃ食べる事にも不自由する女、ねえ? この島ではね、島の外で得た地位も名誉もプライドも、お腹いっぱいにはしてくれないの」
「だからその性格悪い言い方やめろって! いい加減にしなよあんた!」
「お嬢ちゃん。あなた挑発されなきゃ何もしないでしょうが。この島ではあなたが金持ちだろうが関係ないからね。理由なんてどうでもいいからやるべき事をやりな。分かった?」
朝に弱い事を自他共に認めるジャンがトリスを真顔で叱りつける。ただ寝起きなだけのジャンの血走った目がトリスの減らず口を閉じさせた。
「ま、そのまま起きて来ないよりはマシって事で、今日は許す。明日からも同じ調子だったら許さないからね。ソフィアちゃんほど優しくないよ、私」
せっかく早く起きたのに、朝昼のメシ抜きは勘弁だ。トリスは不満そうにしながらもそれ以上反抗せず、おとなしく用意を手伝い席についた。
「島長は今日は港の方の朝食に行ってるんだよね。じゃあ今朝はガーミッドさんね」
「はい。それでは皆さん、全ての恵みと命に感謝を。いただきます」
「いただきます!」
「あ、イングス有難う! んー、朝の温かい紅茶、最高ね!」
「そうなんだね」
食事を摂らないイングスとニーマンが飲み物を注いでくれる。これだけでも贅沢を感じる朝のひととき。そんな中でも、トリスだけは不満そうにパンを残してスープだけを食べている。
「ちょっと、これパンの耳を食べろって事? 柔らかい真ん中だけ提供するのが常識でしょ?」
「パンに耳はないよ。ないものは食べられない。常識でしょ」
「は? 何言ってんの」
「パンに何を言おうが聞いちゃくれないんだから、さっさと食べろという事ですよ、トリスさん」
イングスの純粋な回答に、ニーマンが機転を利かせる。
全くタイプが違うようですっかり良いコンビとなった2体に対し、トリスは早起きと労働でも最早言い返す気力もなく、最悪と言いながらパンの耳をちぎって食べ始めた。




