第9話 指揮棒と声
六月の風は、もうすっかり夏のにおいを帯びていた。
教室の窓から差し込む日差しも、どこかまぶしすぎて、落ち着かない。
「誰か、指揮やりたい人いる?」
担任のそのひとことで、教室の空気がぴりりと張った。
合唱コンクール――本来なら秋に行われるはずのこの行事は、今年から“初夏の音楽祭”として刷新されることになった。1学期に開催することで、“新しい学年の絆を育む”のが目的らしい。
そうはいっても。
新しいクラス、新しい空気。
ようやく慣れてきたはずのころに、また“誰かが目立つ役”を担わなきゃいけない。
その緊張を、里緒菜は、真正面から受け止めた。
「……やります」
手を挙げた自分の声が、やけに大きく教室に響いた。
本当は、怖かった。
また「出たがり」と言われるんじゃないか。
また、「あのとき」と同じことが起こるんじゃないか。
でもそれでも、自分を変えたかった。
あのノートに書いた言葉が、嘘じゃなかったって、証明したかった。
自分から変わらなきゃ、なにも変わらない。
そう思ったから、里緒菜は指揮者に立候補した。
昼休み。
パート練習の予定を黒板に書き込んでいると、女子たちが声をかけてきた。
「里緒菜、男子ほんと歌わないね。サボってばっか」
「もうちょっと強く言ってよー、リーダーでしょ?」
冗談まじりのその声に、里緒菜はにこりと笑ってうなずいた。
「分かった。ちょっと私から言ってみる」
“ちゃんとしなきゃ”
“私がしっかりしなきゃ”
そう思っていた。
でも――
放課後の練習中。
「なにアイツ、なんか指揮者ぶってない?」
「指揮者ってそんな偉いわけ?」
男子の小さな声が、背後から聞こえた気がした。
ちらりと視線をやると、スマホを見ながらくすくす笑っている子たちがいた。
聞こえたのは空耳じゃなかった。
SNSに、自分の名前の略称がついた投稿も回ってきた。
「あの子、また“がんばってるアピール”してるんじゃん?」
「あれって、自分のためだよね、絶対」
胸の奥が、ふ、と冷たくなる。
自分の指揮の腕じゃなくて、
自分の“意図”ばかりが噂されている。
夜。
机に置いた水筒の氷が、かすかに溶ける音だけが響いていた。
スマホの画面を伏せたまま、
里緒菜は、ふとあのノートを開いた。
あのとき、自分が「とも音がやった」と言った、
あの記憶が、またページの隙間から顔を出してくる。
「わたし、ただ、聞いてほしかっただけなのに」
とも音の最後のことばが、ページの奥から滲み出すようだった。
その夜、里緒菜は指揮の練習をやめなかった。
でも、指揮棒の先で「正しい音」ではなく、
「今ここにいる、誰かの声」を、
拾えるようになりたいと、思っていた。