第8話 星が見えなくても ― 光は届く、と信じていいですか
放課後の校舎は、しんと静まり返っていた。
日が沈む直前の光が、第二音楽室の窓をオレンジ色に染めている。
譜面台の影が、床に長く伸びていた。
三ツ石真帆は、音もなくそこにいた。
椅子に腰掛けたまま、手にしていた楽譜をそっと閉じる。
とも音が「みんなが帰ったあとに会いたい」と言ってきたのは、数日前のことだった。
担任を通して届いた、シンプルなメモには、たった二行――
「できれば、放課後の誰もいない時間に。
先生と、音楽室で話がしたいです。」
それだけだった。
だから今日、真帆は待っていた。
誰にも知られず、誰にも気づかれず、
夕陽が消えていくこの時間に――
ひとりの少女が、ふたたび音のそばへ戻ってくるのを。
ガラリ――
音楽室のドアが、静かに開いた。
とも音は、制服のままだった。
小さな肩に、春の夕方の風が残っていた。
「こんばんは」
その声は、ごくかすかだったけれど、まっすぐだった。
「来てくれて、ありがとう」
真帆は、椅子から立ち上がって微笑んだ。
「ここ、あったかいですね」
とも音は、カーテン越しに赤く染まる室内を見渡した。
「夕陽ってね、八分十九秒前の光なの。
今見えてるこの光は、もう太陽が放つのをやめた光。
でも、それがちゃんと届いて、こうして私たちを照らしてくれてる」
とも音が、そっと窓の外を見た。
西の空が群青に変わりつつあり、ひとつ、またひとつと星が瞬きはじめていた。
「……星も、そうなんですか?」
「うん。近い星でも、光が届くまで何年もかかる。
もっと遠い星なんて、何千年もかかってる。
だから、今見えてる星の中には、
もうそこに存在してないものもあるのよ」
「でも……見えるんですね」
「そう。ちゃんと届いてる」
真帆は言った。
それは、音のような声だった。
「だからね、今は何も言えなくても、
今は何も返ってこなくても、
あなたが灯した光は――いつか、誰かに届く。
時間がかかっても、きっと。
それって、音楽と、すごく似てると思わない?」
とも音は少しだけ、目を細めて空を見た。
ガラス越しの夜空に、白く光る星が浮かんでいた。
「……見えないのに、信じられるんですね」
彼女はぽつりと、呟くように言った。
「うん。私は、そうやって生きてきたから」
真帆は笑った。
その笑顔は、太陽の残り火のように、あたたかかった。
窓の向こうに、星がまた一つ、静かに瞬いた。
とも音は、それをしばらく見つめたあと、
そっと目を閉じた。
手に何も持っていないのに、まるで楽器を抱えているような姿だった。
真帆は、その背中に向かって、そっと囁いた。
「その光を、信じていいよ」