第6章 うそをついたこと、ありますか?
第二音楽室のドアが、静かに閉まった。
放課後の校舎はすっかり夕暮れに染まり、
窓の外には、春の薄桃色の光がまだ残っている。
三ツ石が譜面をしまいながら、
「どうぞ、座ってていいよ」と言った。
でも、里緒菜は座らなかった。
教室の中央、譜面台の隣に立ったまま、口を閉じていた。
三ツ石は無理に問いかけようとはせず、
ただ、片付ける手をゆっくりと動かしていた。
……その静けさの中で、ふいに。
「先生、」
里緒菜が、ぽつりと口を開いた。
「先生って――
うそを、ついたことありますか?」
手の動きが、止まる。
それは、あまりに唐突な問いだった。
でも、その声には、どこか“覚悟”のようなものがあった。
三ツ石は、少しだけ間を置いてから、
手を止めたまま、ゆっくりと顔を上げた。
「あるよ」
やわらかく、でも迷いなく、そう答えた。
「若いころ、間違ったままごまかしたこともある。
『大丈夫だよ』って言いながら、自分が怖くてたまらなかったこともある。」
里緒菜は、何も言わなかった。
でも、その手が小さく、スカートの裾をつかんでいた。
三ツ石は、視線を逸らさずに続けた。
「その“うそ”が、誰かを傷つけたこともあると思う。
……でもね。
うそをついた自分をずっと嫌いでいたら、
もう一度誰かと向き合うことすら、できなくなっちゃうから。」
風が音楽室の窓を揺らした。
カタ……カタ……
それは、昨日とも音がいた場所で鳴っていたのと、同じ音だった。
里緒菜が、ゆっくりと口を開いた。
「――わたし、名前を言ったの。
本当は、あの子がやったって、ちゃんと見てたわけじゃないのに。
“とも音なら、やりそう”って……勝手に思って、言っちゃったの。」
声が震えていた。
でも、目はまっすぐ前を見ていた。
「それなのに、
ずっと黙ってて。
なんにも言わずに、
“知らない”って顔してて……
でも、ずっと、
心の中が、ざらざらしてた。」
三ツ石は、何も言わずに聞いていた。
「それって、もう、取り返せないんですよね?」
沈黙。
でも、そのあとに返ってきたのは、
先生の、静かで、あたたかい声だった。
「取り返せないよ。
でも――手渡すことはできる。
“わたしは、あのとき、こう思ってた”って。
その想いを、ちゃんと手渡すことは、きっとできる。」
里緒菜は、何度もまばたきをして、
それから、ふっと、肩の力を抜いた。
そして、はじめて。
譜面台のそばに、腰を下ろした。
カバンからハンカチを取り出しながら、
小さな声で、こう言った。
「先生の“うそ”、
ちょっとだけ、救われます。」