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第2章 とも音、音楽室に現る

 放課後の校舎は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

 窓の外では、春の風が桜の花びらをひとひら、ふたひらと舞わせている。

 その風が、そっと第二音楽室のすりガラスを揺らすたびに、カタ……カタ……と小さな音がした。


 三ツ石真帆は、譜面台の前でひとり、トランペットを構えていた。

 唇をマウスピースに当て、静かに息を吹き込む。

 流れ出した旋律は、かつて金曜の夜を彩ったあのメロディ――『フライデー・ナイト・ファンタジー』。


 この曲は、彼女にとって特別だった。

 中学生の頃、テレビから流れてくるこの曲を聞きながらベッドに入ったこと。

 時には眠い眼をこすって我慢してみたロードショー――

 すべての記憶が、この曲とともにある。


 音は教室の壁に跳ね返り、少し乾いた空気に溶けていく。

 それでも、音は確かに生きていた。

 音楽室という抜け殻に、わずかでも火を灯していた。


 そのとき――


 ギィ……。


 扉が、ほんのわずかに軋む音を立てて開いた。

 真帆がそっと音を止め、顔を上げる。

 そこに立っていたのは、小柄な一年生の少女だった。


 紺色の制服に着られているような、華奢な体つき。

 短く切り揃えられた前髪の奥に、少し緊張した瞳があった。


「……ここ、入っても……いいですか?」


 その声は、まるで風に乗って届いたように、か細く、それでいて真っ直ぐだった。


 真帆は驚いたように目を見開き、すぐに柔らかく微笑んだ。


「もちろん。どうぞ。好きなだけ、ここにいて」


 少女はおずおずと中へ入ってきた。

 その足取りには、どこか“戻ってきた場所”に立つような確信があった。


「名前、聞いてもいいかな?」


 少女はうなずいた。


「……ともです」


「とも音さん、よろしくね。私は三ツ石。音楽の先生をしてます」


 とも音は、そっと教室の隅々を見渡した。

 壁に立てかけられたティンパニ、古びたメトロノーム、埃をかぶったチューバのベル――

 それらすべてに、どこか懐かしさのような目を向けていた。


「すごい……なんか……全部、音が眠ってるみたい」


 真帆はその言葉に、思わず頷いた。


「そう。ここはね、音の宝箱。開ければ、いろんな音が目を覚ますの」


 とも音は、その言葉に小さく笑った。


 そして彼女の視線が、ある一本の楽器に吸い寄せられた。

 真鍮色の、長く伸びたそのフォルム。スライドのついた、あの楽器。


「これ……なんていう楽器ですか?」


「それは、トロンボーン。音を出すの、ちょっと難しいけど――すごく気持ちいいよ」


 真帆がそっとケースを開け、とも音の前に差し出す。

 とも音は、おそるおそる手を伸ばし、トロンボーンを抱いた。

 思っていたよりも、ずっしりと重たかった。


「わあ……なんか、息が……伝わりそう」


「そうだね。トロンボーンは、吹く人の“息の軌道”がそのまま音になるの。

 だから、今の気持ちが、そのまま音に出ちゃうよ」


 とも音は少し顔を赤らめ、そっと楽器に頬を寄せた。

 その瞳に、ふたたび、灯がともっていた。


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