第1章 音が消えた教室で ―三ツ石真帆、帰郷す―
春霞のように、どこかぼんやりとした朝だった。
三ツ石真帆、34歳。
音楽専科として、この春、母校であるひあき野市立坂町中学校に赴任してきた。
玄関の名前札に、自分の名が貼られている。
「三ツ石 真帆」――その文字を見るだけで、心の奥がくすぐったくなった。
そして今日。
彼女は、とうとう足を踏み入れた。第二音楽室。
かつて、あの70人の仲間と一緒に、汗をかき、音をぶつけ合った、青春の箱。
ドアノブを回すと、音楽室独特の、少しカビと木材と金属が混じったにおいが、ぶわっと鼻をくすぐった。
……そこにあったのは、“音の抜け殻”だった。
錆びた譜面台が隅に積み上げられ、机上のチューナーは誰にも使われずに放電しきっていた。
メトロノームは針をわずかに傾けたまま沈黙している。
かつて部室の隅でパートリーダーたちが囲んでいた、チューナー一台の儀式。
思い出す。音の出だしをぴたりと合わせるために、必死で耳を研ぎ澄ませていた日々。
片隅の棚の角――そこには、無数のスティック傷がついていた。
「ああ……」
パーカッションの1年生たちが、楽器が足りなくて、棚板でリズムの練習をしていたあの光景が、ぶわっと蘇る。
「先輩、ここ、使ってもいいですか?」
「いいよー、でも、角は叩いちゃダメだぞー!」
先輩達の声に混じって、顧問の“堀内熊先生”の怒鳴り声と笑い声が重なって聞こえた気がした。
棚の中には、ところ狭しと並べられた吹奏楽専門誌バンドジャーナル。真帆が生まれる前のものも並んでいた。
あの日の空気が、そこだけ色褪せずに残っているかのようだ。
そして――1枚の楽譜。
トランペット用。五線譜は少し色が抜け、インクも滲んでいた。
そこに書かれた文字は、まぎれもなく、あの夏の日のものだった。
> 「Turnbull March」
平成五年七月二十五日(日) 地区大会用譜面 Tp.1 三ツ石 真帆
「Tp.1」――トランペットの中でも、主旋律を担うことが多い“ファースト”の番号。
高音が苦しくて、何度もくじけそうになった。
でも、それは3年生だった真帆のプライドでもあった。
コンクール直前、どうしても続かない高音を出したくて、
「肺活量が足りん!」と、堀内“熊”先生に腹筋100回やらされたのを思い出す。
……まさに、「戦う文化部」だった。
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そして、“あの雨”の日の記憶。
制服のまま泥だらけになり、堀内先生に怒鳴られながらトランペットのケースを抱えて走った市公会堂裏のスロープ。
ステージ裏で心臓がバクバク高鳴るのを誤魔化そうとして、「大丈夫だよ」と励ましあってたら、係の人に「声が聞こえるのでお静かに!」って注意されたなあ。
あの時の水音、怒声、そして音楽――全部が、音楽室の静寂の中で息を吹き返した。
真帆は、静かにしゃがみ込んだ。
その傍らに落ちていたのは――銀色の小瓶。仁丹だった。
その横には、白いプラスチックのツバ受け皿が転がっていた。毎日洗っていた。
「戻ってきちゃったなぁ……私」
呟いたその声は、やけに反響した。
音が消えた教室で、音楽の匂いだけが、静かに残っていた。
ポケットに、仁丹の瓶を入れ、譜面を抱えて立ち上がる。
真帆は、もう一度振り返った。
音楽が消えた場所に、もう一度命を吹き込みたい。
今度は、私が“誰かの音”になる番だから。