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愛の連続小説「おもてさん」第二部・第一話 プライベート・ホステス

【1】


表久満子は自分の家の中でもホステスをやっていた。


かつてクラブの売上競争で身も心もすり減らしていた頃、一人暮らしの家は、まるで野戦病院のようだった。

酒とストレスでボロ雑巾のように傷ついた体を取り敢えず休め、入浴し、再武装して、また最前線に出向く。

とても人に見せられた姿ではなかった。

たまの休みにも「やらなければならないこと」が山積みになっていた。


ホステスは男が好きでなければ務まらない仕事だと、久満子はいつも思っていた。


客は嫌いだ。どんなに優しい客でも、紳士的な客でも、金払いのいい客でも、ただ「仕事で相手をしている」と言うだけでゾッとする。


でも、男の事は嫌いじゃないし、興味もあった。

男のいい所も、悪い所も、強みも弱点も、その気になれば何もかも知りつくす事ができる。


それが、この仕事の余禄と言えば余禄であり、励みと言えば励みだと久満子は思っていた。

これは客はもちろん、同僚にもママにも打ち明けた事のない、久満子の「トレードシークレット」だったが。


今の夫、呉天童に出会った頃の久満子は、すでに出勤日を減らしていた。

売上は結果と割り切って、筋のいい客を大事にするやり方に変えた。


久満子の勤める店は担当制だった。

担当した客のフォローには全責任を負わなければならない反面、たまたま久満子が休みの日に他のホステスが久満子の客に付いても、その売上は久満子のものになる。

つまり、同僚はライバルではないのである。

客を盗った盗られたのケンカは起きない。


テーブル制のようなホステス同士のチームワークは育たない反面、「この店に、その人あり」のステータスを獲得してしまえば気は楽だった。

だから久満子は、新人ホステスは積極的にフォローする事にしていた。

同僚ホステスが休みの日に担当客が顔を出したら、気前よく代役を務めてやった。

ライバルは、むしろ店の外にいたからだ。


遊びなれた男なら、行きつけの店が一つきりと言う事はまずない。

筋のいい客ほど、他の店の匂いも雰囲気も感じさせない。

「ボクは君ひと筋だよ」と言う顔をして、ほころびを見せない。


ここから先は情報戦みたいな話になる。

今度は「誰々さんを、どこどこの前で見かけた。女連れだった」と言った、銀座雀の噂話に心をすり減らす事になる。


銀座で循環しているのは、お金だけ。

遊びに飽きたら客は離れ、ホステスたちは、ただ疲弊して行くだけだ。どんなにズル賢く立ち回ってもである。

だからこそ、ほどほどでやめる穏健路線に、久満子は梶を切ったのである。


もちろん、穏健派には穏健派なりの苦労がある。

「ああ、面白かった。楽しかった」だけで店を出て行く客が、また来る事はまずない。

客が店にいない時の方が、営業の勝負所なのである。


久満子の武器は手書きの手紙だった。

短いものでいい。客が来店した翌日夕方までに礼状を投函すること。

鳩居堂の一筆箋を使うこと。

必ず記念切手を貼ること。

それと、客が来ても来なくても、季節のあいさつ状は必ず出すこと。


ただし、封筒は敢えてそっけない事務用のものを使い、差出人もクラブの運営会社名にする。

「クラブ※※ 表久満子」ではなく、「有限会社※※興行 表久満子」と言った、事務員みたいな名乗りにする。

客のもとに届いた手紙が、誰の目に触れるか分からないからだ。


久満子の工夫と努力は、その先にあった。

同じ文面を二度は使い回さないのである。

良客同士は横の連絡も意外とあるものだ。文面の使い回しは、すぐバレる。

仕込んでも仕込んでも、ネタはすぐ弾切れになるから、久満子は連載小説を書いているようなものだった。

ただし、この「小説」のテーマは一貫している。


「私は、あなたの事にとても興味がある。」


ここからブレなければよい。

客は文芸作品を読みたい訳ではない。

ましてや女のおしゃべりなんて、うるさがられるだけだ。

しかし、自分に興味を持ってくれる女の事は、どんな男でも気なる。


ネタは客がくれる。接客中に振ってくれた話題をくり返せばよい。


「先日はとてもお勉強になりました。私もそう思います。」


もちろん、知らずにそう書けば、すぐバレる。

オウム返しにも予備知識はいる。勉強がいる。


日本経済新聞や週刊東洋経済はクラブの待機部屋に積んであったが、久満子は自費で朝日新聞と文芸春秋を購読していた。

久満子の客筋は、実業界よりもマスコミに寄っていたからである。


文化的な話は嫌いじゃなかったから、久満子にとって朝日新聞と文芸春秋の「予習」は趣味と実益を兼ねていた。


ホステスが文化好きだから、文化的な客が集まる。

そういう自然体の「営業」ができるようになっていたのだ。


「お客さまとは末永く。」


商売人なら誰もが思うが、そうは行かないのが現実である。

ましてやクラブは酒を売る商売だ。

「穏健派」ホステスにも新規客開拓の努力は必要不可欠だ。


これにも久満子なりの必勝法があった。

馴染みの客が「あいつは俺が見つけた」とか「俺が育ててやったんだ」と言った言い方をしたら、「じゃあ、今度つれて来てよ」とせがむのである。


実際に「あいつ」をつれて来た場合でも、ガッついて「あいつ」に営業をかけたりしない。


「わー、すごい。本当につれて来たのね。Aさんって、すごい」と言って、馴染み客の方をいい気持ちにさせる。


「なっ、いい店だろ。おまえも再々、顔を出してやれよ」と、馴染み客が勝手に「あいつ」に営業してくれる。


穏健派とは言っても、銀座の女狐は、やっぱり女狐なのである。


【2】


呉天童と同棲するようになってから、事情が変わった。


呉天童の実家は広尾のお屋敷だが、新居(二人の愛の巣)として表参道の「分譲アパートメントハウス」を購入してくれた。


ここで言う「アパートメントハウス」は今日の「アパート」とは別物で、昭和仕様のせっまいマンションの事である。

今日のマンションと比較すれば、某社の単身者向けマンションに引けを取るようなのもあり、専有の駐車場が無いのすらあった。

それでも今日のタワマン同様のステータス・シンボルだったのである。


こうまでお膳立てしてくれたのだから、呉家の家庭に入れば話は早かったのだが、久満子にホステスを辞める気はなかった。

銀座でヌカミソ臭さが出たらジ・エンドだし、そもそも同棲の事実を公にもしていない。

呉家への入籍と挙式はホステス廃業を意味していたのである。


さりとて、呉天童との「愛の巣」を野戦病院にする訳にも行かなかった。

久満子は店のシフトを減らし、呉天童の「住み込みホステス」になるしかなかった。

自宅ですら気の抜けない、いつも「女」でいるしかない生活になったのである。


これで家事と育児が覆いかぶさって来たら、さしもの久満子もパンクである。


呉天童は、ちゃんと配慮してくれた。住み込み家政婦を雇ってくれたのである。

昭和30年代には、多少なりとも経済的余裕のある中産階級の家には家政婦がいて当然だった。

昭和40年代に入ると「住み込み家政婦」なるものはアッと言う間に姿を消した。高度成長とインフレと人手不足が同時進行したからである。

今や住み込み家政婦は、自家用車以上の贅沢品となっていた。

こういう所、久満子は呉天童の愛をちゃんと受けとめていた。


子どもの話は、もっと微妙だった。

久満子は「遊びたい盛り」はとっくに卒業していたし、妊娠・出産にタイムリミットがある事も分かっていた。


産むだけなら一年を要さない。だが、子どもが成人するには20年かかるのだ。その間、ずっと拘束される。

肉体的にはともかく、「誰々ちゃんのママ」である事から逃げる方法はない。


久満子は成り行きで子どもを産むのは嫌だった。

ある晩、避妊具が体内で破れて動揺し、泣き叫ぶ久満子を、天童は裸のまま、ずっと後ろから抱きしめていた。

久満子が、ようやく落ち着いたのを確認して、天童は向き直って言った。


「子どもができたら産んでくれ。産みたくなければ強制するつもりはないが、子どもで君を拘束する積もりもない。産んでも産まなくても君は自由だ。私は、そういう自由な女を好きになったんだから。心は空にある君を、絆で地に縛りつける積もりはない。これは男としてのプライドにかけて誓うよ。」


この時ばかりは「この人の子の母になりたい。我が身はどうなってもいい」と本気で思った久満子であった。

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