第8章 夢を叶えた青年
四人は、家具屋のカビ臭い通路を足早にすり抜けて、表の通りに出ていった。外に出たとたん、四人は大きく深呼吸を繰り返した。通りは、家具屋に入った時と同様に、暗かった。しおれた街灯が一つだけ、申し訳なさそうに、コウタたちの足もとを青白く照らしている。相変わらず、商店街の左右どちらの先も、まっ暗で何も見えない。
四人は、家具屋から少し離れると、そこから改めて家具屋を眺めてみた。すると、一番手前にある桐のタンスの横に、マンジの記号がくっきりと、浮かび上がっているではないか。
「ああ、これか。最初からこれに気づいていれば、あんな苦労しなかったのに」
亮平が、がっくりと両肩を落とした。
しかし他の三人は、首を傾げた。以前ここに来た時、この桐のタンスに、マンジの記号を見た覚えがなかったからだ。なのに、今はここだと言わんばかりに、テカテカと輝いている。腑には落ちないものの、やはり、自分たちが見落としていたに違いない。そう結論づけるしかなかった。
コウタは、砂金川でやったように、さっそくマンジに右手をかざし、そっと触れてみた。今度は、手の方がタンスの中に沈み込んだ。そこに、ドアノブみたいな手ごたえを感じたので、それをつかみ、右へ回してみた。すると、四人は、霧に包まれる感覚を覚え、吸い込まれていった。
次に気がつくと、四人は、夜の野原のまん中に立っていた。
「ここは、どこなんだろう。家具屋のあった通りじゃないのは、確かだけど」
四人は戸惑った。家具屋のある商店街より、少しは明るい場所へ出られると、勝手に思い込んでいたからだ。ところが、そこは開けた景色であっても、夜に変わりはなく、それどころか、よけいに暗い風景だった。満点の星空が頭上に広がっていたのが、唯一の救いだ。
ポツポツと設けられている街灯が、その近辺を照らし出してはいるが、街灯の光は弱く、その数も少ない。広い野原は、ほとんど夜に占領されている。
野原の端は、まだ工事中なのだろう。地面が乱暴に掘り返され、小型のブルドーザーや工事用機材が、寂しく放置されていた。どうやらここは、造成中の公園か何からしい。
目を凝らしてみると、その向こう側には、木々の稜線がうっすらと浮かび上がっている。この広い野原は、それを上回る巨大な森に、囲まれている。
それにしても、あたりは静寂に包まれ、人のいる気配はまったくしない。
「さっきより、一段と寂しいところに来ちゃったな。おれたちって、悪い方へ向かうのが得意なんだね」亮平がそう言いながら、隣にいるオー君に目をやると同時に、悲鳴をあげた。「おい、オー君、大丈夫かい?」
亮平がそう言い切る前に、オー君は、崩れるように、その場に座り込んでしまった。ひどい汗だ。街灯の貧弱な光が、かけているメガネと流れる汗の筋に、青白く反射した。こんな暗闇なのに、オー君の調子悪さが恐ろしいほど伝わってくる。オー君の浅く激しい息づかいが、闇夜に響き渡った。
「うん、大丈夫。あの長い石段で、ちょっと疲れただけだよ」
オー君は、無理に笑顔を浮かべてみせた。だが、笑顔を保っていられず、たちまち笑顔は消え失せた。汗でべったり濡れた髪の毛とメガネが痛々しい。
三人はかがみこんでオー君の様子をうかがった。歩くのは、到底無理だ。
「ねえ、ここらで休憩を取ろうよ。僕ら全員、いろいろあり過ぎたよね」コウタが提案した。
そこで、四人は、しばらく休憩を取ることにした。幸い、野原の草はクッションになるくらい、柔らかくふさふさと生えている。夜風も心地よく、おまけにあたりは静かだ。四人は、それぞれが思い思いに、草の上に寝転んだ。星空がきれいだ。
三時間もすると、オー君は、だいぶ元気を取り戻し、歩けるようになるまで回復した。そこで、あたりをゆっくり歩き廻ってみようと言うことになり、四人は出発した。
野原の端まで来ると、砂利道が街灯に照らされていた。その砂利道には、車の通った跡がある。ここにいるのは、自分たちだけではないのだ。それなのに、街はおろか、人家も車も、当然、人間も見当たらない。造成中の空き地がいくつも続くばかりだ。
「まいったな。みごとに何もない景色だ。みんな、どこに行ったんだろう」
亮平が投げやりに言った。
「夜だから、工事が中止しているだけだよ」と翔。
「だけどさ、こんなところじゃ、マンジどころか、ご飯さえありつけないよ。小人族にもらった木の実も、もうないし。あれ?」亮平が、左手奥にある暗い森を見つめた。「森の方から、何か聞こえる」
三人も、耳を澄ませた。確かに、よくわからない音が聞こえてくる。
「例の夜鳴鳥かな?」
オー君がそう言うと、翔はことさら耳をそばだててみたが、難しい顔をした。
「うーん、音が小さ過ぎてよくわかんないや。オー君が大丈夫そうなら、音の方へ少し歩いてみないか?」
四人はゆっくりと歩き出した。広い野原を横切ると、暗くて大きな森の入口に到着した。本当に、暗い森だ。街灯の光が、森の中で、チラチラと見え隠れしている。しかし、ほとんど木々に埋もれているため、森の中の様子は、そこからではわからない。暗い森の中へと続く青白い小道だけが、かろうじて確認できるだけだ。
四人は、小道の入り口で足を止めて、再び耳を澄ませた。確かに、音は森の中から聞こえてくる。それは、実に奇妙な音だった。
シャリシャリ、サワサワ、シャリシャリ、クチャクチャ…
草でも食べているのだろうか。歯切れの良い音だ。規則正しく、時折、休みが入りながらも、音は続いている。
やはり、誰かがいるのかもしれない。それなら、マンジのありかを尋ねられる。コウタたちは、淡い期待を抱いた。
ところが、その軽快な音の中に、人の声のようなものが、混じっているのに気づいた。それも、はっきりとした言葉ではなく、うめき声やため息とも取れる声だった。
四人は、とたんにぞっとして、森に入るのを踏み留まった。
「なに、あれ…」
なかなか、言葉にならなかった。四人は、息を殺して、声らしきものを聞き分けようと、奇怪な音に集中した。しばらくは、シャリシャリという音しか聞き取れなかったが、そのうち、鼻歌みたいな声が、微かに聞こえてきた。それは悩ましくも、楽しそうにも聞こえる、正体不明の声だった。
「やっぱり、聞こえるよ…」
オー君が、ひそひそ声で言った。
「うん、聞こえる。けど…」
亮平が、震える声で返事をした。
「確かめてみよう」
コウタと翔が、ほぼ同時に、亮平の次の言葉を遮った。
四人は、怖いながらも、その声の正体を知りたくてたまらなかった。翔を先頭に、ヒマラヤスギの葉が鬱蒼と生い茂る森の小道へ、四人は踏み込んでいった。まっ暗なヒマラヤ杉の森をすぐに通り抜け、少し開けた、いく分明るい場所へ出た。
「切符は、当然一枚さ」
その、しっかりとした声に、四人は足が止まった。その声は、森の奥から聞こえる声とは、明らかに違う。すぐ目の前にある、小さなカエデの木から聞こえていた。
四人は声のするカエデの木をちらりと見たものの、別段気にせず、早くもポケットに手を突っ込んで、切符を取り出そうとしていた。
「さあさあ、切符は、巣箱にどうぞ」
ひそひそ声に近い、小さく丁寧な声が話しかけてきた。だが、しゃべったのはカエデの木ではなかった。よく見ると、カエデの木の股にかけられた、鳥の巣箱だ。巣箱にくり抜かれた二つの穴が、まるで目のようだ。巣箱の中は、よく見えない。
四人は警戒しながら、丸い穴の中にそれぞれ切符を入れた。今度は、文句を言われも、切符を突っ返されもしなかった。
一瞬、ふふんと鼻を鳴らす音が、中から聞こえた。
「では、灯りをつけましょう。皆さま、ようこそ『念願成就』の森へ」
声がそう言ったとたん、森が急に明るくなった。まるで、誰かが、広い会場の電灯を、全部いっぺんに入れたようだった。
小道に沿った森は、スポットライトを浴びて、くっきりと照らし出されている。色とりどりに紅葉した木々が、いきなり目の前にぱっと映し出され、コウタたちは、思わず感嘆の声をあげた。みごとだ。この森は、とても美しかった。
森の奥や周辺には光が行き届かず、かなり暗いが、そこは主役を引き立てる脇役に徹しているようだった。その明暗の差もまた、素晴らしい。
しかし、四人はそれよりも、別なことが気になって頭から離れない。
「『念願成就』の森だって?」
四人全員が思わず、同時に口にした。
「そうですとも。ここは願いが叶う、特別な森ですよ。まさか、あなた方はそんなことも知らずに、ここへ来たのですか?なんとまあ、呆れた人たちでしょう。こんなに有名な森なのに、知らないなんて。まったく、最近の者たちと来たら…」
声は突然、高慢な調子に変わり、四人を見下すように語り出した。見えない声を相手にするのは、家具屋で散々懲りていたので、四人は、よけいな反論はしなかった。
ただ、巣箱のグチが終わりそうになかったので、四人はカエデの木の脇を通り過ぎ、さっさと森の奥へと入っていった。巣箱は気づかず、相変わらずしゃべり続けていた。たとえ誰一人いなくても、巣箱はあのまましゃべり続けていたに違いない。
森は、紅葉がまっ盛りだった。進めば進むほど、赤や黄色の色合いが、ますます濃く美しくなり、深さを増していく。息を呑むほど美しい絶景だ。かなり明るくなったおかげで、四人は怖さを、さほど感じなくなっていた。むしろ、ずっとここにいたいとさえ思ったくらいだ。
それでも、この森はどこか油断がならない。空気が、ピンと糸を張っているようだ。コウタは、そう感じていた。
奇妙な音や声は、間をおいて、相変わらず森の奥から響いていた。
「ここで願いが叶うって、本当かな?」
亮平が、歩きながらつぶやいた。そう言いながらも、隠しきれない期待と嬉しさが、亮平からにじみ出ている。
「さあ、果たしてどうかな。あいつの話をそのまま信じていいのかな」
翔が、興味なさげに答えた。
「だって、ここで願いが叶うのなら、わざわざ苦労して銀河原まで行かなくてもいいんじゃない?」
亮平の突拍子もない話に、全員の足がほぼ同時に止まった。
確かに、その通りだ。ここで、本当に願いが叶うのなら、それぞれの願いをここで叶えてもいい。もしくは、ひと飛びで銀河原へ行けるように願って叶うのなら、それに越したことはない。四人とも、そうあって欲しいと、大きな期待に胸が膨らんだ。
ややあって、翔が周囲を見廻しながら言った。
「まあ、結論は急がなくてもいいんじゃないか?さっき巣箱が言っていた話を、おれは、そのまま信じる気にはなれないな。当然、この森もね」
翔がそう言ったとたん、森が一瞬ざわめいた。一陣の心地よい風が、紅葉の間を通り抜けた。赤く色づいたもみじの葉が、宙で踊った。
亮平は、翔の話も、美しい紅葉も、まったく上の空で、独りあふれんばかりの空想で一杯だった。どんな願いを叶えたいのか、あれこれ妄想しているらしい。自分たちが目指していた銀河原のことは、すっかり頭から抜けている様子だ。
「ああ、しまった。どうやって願いを叶えるのか、もっと詳しく聞いておくんだった。とはいえ、あいつのところへ戻って、延々と小言を聞くのはごめんだけど。強く願えばいいのかなあ」
コウタは、黙ったまま、持て余している両手をパジャマのポケットに突っ込んだ。やはり、どこかおかしいという印象がぬぐえない。願いが叶うという、夢みたいな話も、そのまま素直に信じてはいけない気がしていた。
「まずはあの音の正体を確かめよう」
コウタが冷静に言うと、四人は再び歩き出した。ほどなくして、先頭を行く翔が、緊張の面持ちで後ろを振り返った。
「みんな静かに。あの音が近くなってきたよ」
足を止めて耳を澄ませると、確かに、例の音は、だいぶはっきり聞こえている。
シャリシャリ、シャリシャリ、パリパリ、パリパリ…
どうぞ、どうぞ、どうか、どうか…ララララ、この喜びに…ルルルル
例の音に混じって、そんな風に聞こえるのだ。
「あれは、やっぱり人の歌声だよ」
オー君が、安堵の表情を浮かべて言ったが、逆に三人は、顔がこわばっていた。特に亮平は、顔色まで変わっていた。
「ねえ、やっぱり戻ろうよ。嫌な予感しかしない。ここにマンジがあるとは思えないし」亮平がびくびくしながら、訴えた。「そうだ、マンジが見つかるよう、ここで強く願えばいいんじゃないかな?それとも、一気に銀河原へ行けるよう願うとか」
しかし、他の三人は誰も、亮平の軽々しい考えに賛成しなかった。
「いや、ここで安易に願うのは止めた方がいい」コウタがきっぱりと言った。「この森、きれいだけど、どこか変だ」
「おれもそう思う。姿を見せない切符切りがいるところは、注意した方がいい。罠が隠されているかもしれない」
勘の鋭い翔も、コウタに賛成した。
「翔の言うとおり、ここで油断してはダメだって、強く感じるんだ。それでも、あの、人の歌声、あれだけは、確かめなきゃいけないとも思う。理由はわからないけど、とても心に響くんだ」
コウタがそう言うと、翔とオー君はすぐさま同意した。
「そうだな。人の声なら、なおさら確かめなくちゃ」と翔。
今更一人で引き返せない亮平は、仕方なく、オー君の後についていった。
四人は、その声に惹かれながら、小道をどんどんと進んでいった。声は、小道を外れた、更に森の奥から聞こえてくる。
照明が十分明るいので、四人はためらわず、小道を外れ、森の奥へと分け入った。そこはもう、紅葉も終わりに差しかかり、葉をほとんど落とした木々が並んでいた。その間を、葉を落とさない青い藪や雑草が、埋め尽くしている。
声は、一塊になった青い藪の向こうから聞こえてくる。
四人は、音をたてないよう、静かに藪をかき分けて、進んでいった。その向こう側は、藪も途切れ、少し開けた一角になっている。
そこには、奇妙な光景が広がっていた。
一頭の大きなエゾジカが、背丈ほどもある木に茂った葉を、無心に食べている。だが、その木は、普通の木ではない。人間の形をした背の低い木で、手の部分、足の部分、指先までわかるくらい、はっきりとしている。葉っぱや枝に、人間が浮かび上がっているのだ。
おまけに、顔まである。顔を形作っている葉っぱの中には、真面目そうな青年の顔がくっきりと、街灯に照らし出されている。
その青年の手足の部分を、エゾジカは気にも留めず、むしゃむしゃと、無心に食べ続けていた。
それを見た瞬間、コウタは息が止まりそうになった。亮平は、悲鳴を上げかけたが、慌てて自分の手で口を押えた。オー君や翔も、喉の奥で悲鳴を嚙み殺した。
その葉っぱ青年は、既に右手の半分が食い尽くされ、なくなっている。右の脇腹あたりも、無残にも食いちぎられている。もちろん、赤い血は一滴もこぼれていないが、あまりの光景に、四人は、気が触れそうなほど混乱した。混乱し過ぎて、声すら出なかった。
ふいに、その葉っぱ青年から、声が聞こえてきた。
「さあ、どうぞ、どうぞ、遠慮なく食べてください。エゾジカさん、あなたには、本当に感謝していますとも」
青年は、痛がっているわけではなく、むしろ喜んでいる様子だった。
その時、四人の気配に気づいたエゾジカが、ふっと後ろを振り返った。四人は、青い藪の後ろに、一目散に逃げ込んだ。その際、誰かが転んだらしい。枯草がメリメリ音をたてて、続いてドスンと言う音が響いた。転んだ拍子に、履いていたサンダルが脱げ、サンダルの片方だけが空中を飛び、藪の中へと消えていった。
エゾジカは、冷たい目で、サンダルが落ちた藪のあたりをじっとにらんでいた。しばらくすると、まったく興味がないといった風に、無表情な顔に戻り、葉っぱ青年を、また食べ始めた。
四人は、それぞれが遠巻きに様子を見ていた。エゾジカは、ただの鹿であり、化け物ではなさそうだ。そう考えた四人は、少しずつ距離を縮め、近づいていった。
そこへ、葉っぱ青年が叫んだ。
「おおい、そこにいる人たち。怖がらなくても大丈夫だよ。このエゾジカは、君たちを食べたりはしませんから。でも、できれば話をしたいので、私の方へ、もう少し近寄ってくれませんか?」
爽やかな声が、木立に響き渡る。始めは、誰も返事ができなかったが、やがて四人は、藪の中や木の幹の後ろから、恐る恐る姿を現し、青年へ近寄っていった。
翔の顔や腕にだけ、擦りむいた跡がある。おまけに、片足は裸足だ。さっき転んだのは、翔だろう。
エゾジカは、現れたコウタたちを無視して、むしゃむしゃ音をたてて、青年の体を食べ続けている。コウタは、エゾジカを追い払いたかったが、透き通った青年の瞳を見たとたん、何故か思い留まった。
コウタたちは、間近で葉っぱ青年を見た。
太いツルのような二本の木の幹が、地面から伸びて、二本の両足となっている。そこから上方に枝が何本か延びて、真緑の葉の塊がポツポツと生い茂っている。その上部の葉の一枚に、青年の顔は浮き出ていて、葉脈の間からコウタたちを楽しげに見つめていた。
「やあ、君たち、ようやく出て来てくれたね」
青年は、穏やかな微笑みで四人を迎えた。コウタたちは、不器用に会釈した。
「会えて嬉しいよ。私もかつては、君たちみたいな、子どもだったんだからね。むろん、大人は誰だってそうなんだろうけど、まだ心が純粋だった頃を思い出すよ」
青年がのんびりと話をしている間にも、エゾジカは黙々と、青年の体を食べ続けている。コウタはこの無神経なエゾジカに対して、だんだんと腹が立ってきた。
「あの、僕たち、この鹿を追い払った方がいいですか?」
耐え切れなくなったコウタが、そう問いかけると、青年は笑い声を上げた。とんでもなく屈託のない笑顔だ。
「いや、このままでいいんだよ。君たちには、異様にしか見えないだろうね。けれど、心配する必要はないよ。これは、私自身が、望んだ結果なのだから。私が決めて、神さまにお願いし、その願いが聞き入れられた結果なんだ。この不思議な森でなら、こんなこともできるのさ」
青年は、いたずらっぽく笑ってみせた。
青年の説明に、コウタたちは、少しだけ肩の荷が降りた。少なくとも青年は、無理やり、こんな目に遭っているわけでは、なさそうだ。事情はあるのだろうが、終始、落ち着いている青年の態度に、コウタたちは安心した。そればかりか、ある種の気品さえ漂っている青年に、誠実な人柄を感じた。
しかし、オー君の反応だけは違っていた。恐怖なのか、それとも怒りのためなのか、わからないが、オー君は、細い目をかっと見開き、顔を引きつらせている。大きく息を吸い込み、力強く叫ぼうとしたが、喉のあたりでつかえて、言葉にならない。その代わりに体がきゅっと硬直し、顎がブルブルと大きく震え出した。
ついには、腹の底から渾身の力を込めて、オー君は叫んだ。
「もう、止めて!すぐ止めさせて!自分の体を鹿に食べさせるなんて、どうかしている!」
コウタたちは、オー君の行動に度肝を抜かれた。エゾジカも、オー君の大声に警戒し、食べるのを止めて、身を引き気味にして様子をうかがった。
青年も少し驚いていたが、すぐに優しげな瞳に変わった。
「私を心配してくれたんだね。ありがとう。君は優しい子だ。でも、ねえ、考えてみてごらん。来年の春には、また芽を出して、私は息を吹き返すんだ。死ぬなんて、たいしたことじゃない。いや、これは死ぬとは言えないな」
穏やかな青年の口調に安心したのか、エゾジカはまた食べ始めた。青年の右半分を食い尽くしたので、今度は左側に取りかかっていた。
オー君は、青ざめた顔のまま、独りぼう然と立ち尽くしている。紫色の唇がまだ、小刻みにわなわなと震えていた。
「ねえ、君たち。せっかく、ここで出会えたんだ。こうなった訳を聞いてくれると、ありがたいんだが」
青年の明るい眼ざしが、四人に、特にオー君に注がれた。三人はすぐにうなずき、オー君は、ややあってから、首を縦に振った。
「つまり、こういうことさ。私は、かつて君たちと同じ世界にいたんだよ。新しい薬を創る研究員として、ある研究所に勤めていた。病気に苦しむ人々のため、その病気を治療する薬を創ろうと、真面目に研究し続けていた。そのために、たくさんの動物を実験に使っていたんだよ。人間の病気に効く薬を創るためだから、動物を犠牲にするのは仕方がないと、ずっとそう信じていた。だけど」青年の顔が、ここで曇った。「もちろん、人の役に立つ薬も創ったけれど、ほとんどは、そうじゃなかったんだ。必要のない薬を創るたび、すごい数の動物たちが犠牲になっていった。無駄に死んでいく動物が、あまりに多かった。でもね、動物たちは、みんな黙って死んでいくんだ。彼らだって、本当はよくわかっているんだよ。だから最後に一瞬、悲しい目を向けるんだ…何かを訴える代わりにね」
青年は、あまりに深すぎるため息をついた。
「とうとう私は、そんな生き方が嫌になってしまった。それで、一切合切を捨て、こっちの世界にやって来たんだ。幸い、こっちの世界は私を受け入れてくれた。そして、この森でなら、生き物を傷つけたり、殺さずに生きていける、そう思ってね。それで、どうか植物のように、太陽の光や土から栄養をとって、どの生き物にも迷惑がかからない生き物にして下さいと、この森の神さまにお願いしたんだよ。この『念願成就の森』でなら、願いが叶うと聞いていたからね。長い間願い続けているうち、ある日突然、願いが叶えられた。私は一本の小さな木になったんだ。あの時は嬉しかったねえ。心から、神さまに感謝したよ。私は、とても幸福だった。幸福だと思っていたんだよ、去年の今頃まではね」
青年は、宙を見つめた。
「そう、去年の今頃までは。だけど、ある日私は、自分がひどく孤独なのに気づいたんだ。森の動物たちや精霊たちは、私には目もくれず、通り過ぎていく。まるで、私なんて、そこにいなかったかのようにね。動物たちも、あっちの茂みの草をおいしそうに食べるのに、私の方には近寄ろうともしない。こんな日々が続いて、私は悩み苦しんだ。結局、私は、皆のために、何一つ役に立っていない。人も、動物も、皆それぞれ、苦しみながら、傷つけながらも、他のものの役に立とうとしている。誰の役にも立てないほど、辛いものはないと、その時、わかったんだ」
青年は、そこでふっと一息ついた。
「人生で初めて、心の底から震えたよ。それほど、後悔したんだ。でも、すべてが遅すぎた。私は大声で叫んだ。来る日も、来る日も叫び続けたんだ。『神さま、お願いです。もう一度だけ、願いを叶えて下さい。元の姿に戻して下さい』ってね。ところが、神さまだって、いつもご機嫌なわけじゃない。一向におとさたがなく、月日だけが空しく流れていくばかりだった。それでも、私は祈り続けた。ある風の強い晩、ついに神さまから返事をもらえたのだ。『この森で叶う願いは、一つだけだ。おまえも十分承知していたはずであろう?かつて私は、おまえの望みを叶えた。それなのに、今度はそれを取り消せという。こちらの世界であっても、そんな我ままを聞き入れることはできない。おまえは、そのままでいるがよい。だがしかし、おまえの心の底からの改心に免じて、小さな希望を一つだけ与えよう。おまえはそれで、満足すべきだ』と、言い残し、神さまは立ち去った」
青年の瞳が少しだけ曇った。
「元の姿に戻れないと悟った私は、絶望のあまり、打ちひしがれた。神さまを、呪いさえした。何より、自分が一番許せなかった。どうして、私はよく考えもせず、願ってしまったのだろうと。いや、そもそも、誰かに願いを叶えてもらう前に、自分でできることがあったのではないかと、激しく悔やんだよ」
青年の眉間に小さなシワが寄った。コウタには、そう見えた。四人は黙ったまま、青年を見つめ、話を聞き続けた。
「いくら悔やんだって、どうにもならない。私は、姿も変えられず、ここから動くこともできない。手指の一本も動かせやしない。やけになった私は、このまま、立ち枯れてしまおうと考え、ただ枯れていくに任せたのだ」
コウタには、青年の苦悩が痛いほど伝わってきた。それから、この念願成就の森がどんな所なのかも、うっすらとわかってきた。
ここでなら、願いを叶えるのは簡単にできるが、安易に願ってしまうと、とんでもない結果を招いてしまう。それを知ったコウタの心は震えた。
青年は、なおも話を続けた。
「ところが、ある日、近くを通りかかった小鹿が、私を見て近寄ってきた。小鹿は、私の足もとに顔を寄せ、においを嗅いだ後、右足に生えている葉っぱを食べ出した。とてもおいしそうにね。私は、初めは非常に混乱した。怖かったけれど、食べられているうちに、どんどん別の気持ちが湧き上がってきたんだ。私の右足は、小鹿の栄養分になり、小鹿が森や野原を駆け廻る元気の素になるのだろう。そう思うと、私はだんだん嬉しくなってきた。他のものの役に立つのが、こんなに素晴らしいなんて、思いもしなかった。小鹿は、葉っぱを二、三枚食べると、どこかへ行ってしまった。その時、私はわかったんだよ。自分が本当に望んでいたものをね」
青年は、夢見心地の目つきになった。
「その時から、私は変わったんだ。動物たちのために、おいしく栄養のある葉っぱになろうと決心したんだよ。毎日、せっせと土から養分を取り入れ、太陽の光を浴びて、味の濃い葉っぱを作る努力をした。間もなく、秋が訪れ、冬がやってきた。私は、寒さにも負けず、春を待った。春になると、芽を吹き出し、みごとな葉っぱを茂らせた。それからも、茎を太くし、葉を色濃くして、辛抱強く待った。そして、今日、この大きなエゾジカがやって来た。この鹿は、私をとても気に入ってくれてねえ。もしかしたら、このエゾジカは、去年の小鹿かもしれないって考えると、胸がワクワクするんだよ」
青年がそう言っている間にも、左手は完全になくなっていた。コウタたちは、どうしていいのかわからず、ハラハラしながら見守るばかりだった。それでも、青年の声は、ずっと生き生きとした調子になっていった。
「そうだ、たっぷり食べておくれ、エゾジカよ。私の体は、その辺の雑草とは、比べ物にならないほど、栄養があるんだよ。だから、どの鹿よりも力強く、森を駆け廻れるだろう。そして、おまえも、この世界や他の生き物や、人間の役に立つに違いない」
青年の左半分が、早くもなくなりかけている。いくら青年が平然としていても、あまりにも痛々しくて、コウタたちは、見ているのが辛くなってきた。
「もう、止めて、止めて下さい!」
オー君が、震えながら、力強く地面を踏みつけ、大声を上げた。エゾジカは、その音と声にビックリして、食べるのを止め、二、三歩後退した。
「どうして、どうしてなんだ!」オー君は、顔をまっ赤にして、地面を繰り返し強く踏みつけながら、独り叫んだ。目は血走り、握りしめた拳は激しく震えている。「こんなの、ひど過ぎるよ。残酷で、最悪最低だ。命を自分から捨てるなんて、そんなの、絶対にダメだ。止めさせて下さい。でなきゃ、僕が止めさせる…」
そう絶叫したものの、オー君は興奮し過ぎたためか、力なく、その場にへなへなと座り込んでしまった。青黒い顔のまま、魂が抜かれたように、ぼう然としている。あたりは、急にしいんとなった。エゾジカは、黒い目で、オー君をまっすぐに見すえている。
しばらく間をおいて、青年がふっと微笑んだ。
「ねえ、君、だって私は、幸せなんだよ」
青年の静かで優しい声が、エゾジカとオー君、両方を慰めた。
「そんなの、嘘だ!嘘っぱちの幸せだ!神さまなんて、そんなものはいないんだ!でなきゃ、それは、悪い神さまだ。あなたは、騙されているだけなんだよ。なのに、どうして気がつかないんだ!」
オー君は、むっくり立ち上がって、再び地面を乱暴に踏み鳴らした。まるで癇癪を起している幼子だ。コウタたちも驚いたが、さすがのエゾジカもその迫力に恐れをなして、更に五、六歩退いた。
コウタたちは、急いでオー君を止めに入った。自分たちでもよく理解できなかったが、エゾジカではなく、オー君の方を止めたのだ。
もし、青年の話を聞いていなかったら、間違いなく、エゾジカを追い払っていただろう。しかし、青年の思いをくみ取ると、オー君を止めるしかなかったのだ。それでも、果たしてそれが正解なのかどうかは、正直、わからない。
諦めきれないオー君は、ありったけの力をこめて、顔をぐいと上げた。何者かに、戦いを挑んでいるようだ。
「だったら、僕が頼んでみるよ、ここの神さまに。ここでは一回だけ望みが叶うのでしょう?僕が、あなたの姿を元に戻して欲しいと願えばいいんだ!」
青年は、ちょっとだけ微笑んで、心持ち悲しげな顔になった。まるで、体を食べられているのは、オー君であるかのように。
「ありがとう。君は、心底優しい子だね。だけど、もし君が、私のために願ってくれるのなら、元の姿に戻すより、私が幸せになると願って欲しい。それが、私の本当の望みだから」
オー君は、雷に打たれたような顔をした。
「私はね、感謝しているんだよ、このエゾジカとこの森の神さまに。それと、私の話を聞いてくれた君たち全員にもね」
青年は、オー君に目を落とした。オー君は、まだ興奮のあまり震えている。青年は、静寂をたたえた瞳で、オー君を通り越し、見えない何かを見つめている。
「その人の抱えている重荷はね、いつかは下ろせるものだよ。神さまは、そんな機会を必ず作ってくれるからね」青年は、コウタたち三人に、視線を移した。「いつかまた、君たちに会えるといいね。どんな形になったとしても」
青年がそう言っているそばから、戻って来たエゾジカは、ついに青年の顔を食べ始め出した。青年はくすぐったそうに、笑った。
「そうそう、こんなに嬉しい日はないよ。ねえ、おまえ、こんな…」
コウタたちは、思わず顔を背けた。
エゾジカは、ついに青年の顔を食べてしまった。シャリシャリ、ムシャムシャと。頭に突き刺さる、鋭い音だけが、響いてくる。
四人が再び目を向けると、そこには、ほとんど葉のない裸の枝と、口をもぐもぐさせているエゾジカの頭だけがあった。
「ああ、とうとう食べちまった…」
翔が、信じられないほど冷静な口調で、そうつぶやいた。
食べ終わったエゾジカは、もう用がないと言わんばかりに、森の奥へ平然と去っていった。青年の顔だった部分には、エゾジカが食べ残した葉っぱが一枚だけ、ふらふらと風に揺れていた。そして、ぷつんと音をたて、はらりと地面に落ちていった。
オー君の目からは、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちていた。
青年は、きっと幸せだったのだろう、あの言葉どおりに。コウタは、そう思い込もうとした。それでも、いまだに泣きじゃくるオー君に負けないくらい、重いものが、コウタの心の奥底に引っかかっていた。
命が尽きるとは、何なのだろう。あの青年のように、たとえ体が死んでも、想いは未来に向かってひた走るのだろうか。だったら、命は尽き果てるのではなく、想いに引き継がれて、生き続けていくに違いない。
本当に難しいのは、願いを叶えることではなく、叶えたい願いを決めることなのだ。何故なら、その前に、自分にとって何が一番幸せなのかを、知らなくてはならないからだ。それを知るのは、あの青年みたいに、いろんな経験をしないと、わからないのかもしれない。
コウタは、突然ぞっとして、鳥肌が立った。
ここは、きれいな森に見えるけど、本当に危険な場所だ。安易に願って、その願いが実現してしまうと、もう、先がないのだ。
そう思い至ったコウタは、顔を上げると、いつになく真剣に言った。
「みんな、聞いて。もうわかっていると思うけれど、絶対にここで、願ったり、強く思ったりしちゃダメだ。何も考えずに、大急ぎでこの森から出るんだ」
翔と亮平は、神妙そうに深くうなずいた。
コウタは、泣き崩れているオー君の腕を取り、多少強引に森の中を進み出した。翔は脱げたサンダルを素早く見つけると、急ぎ足でみんなに続いた。
おそらく誰もが、この森から早く出たかったのだろう。そのかいもあって、四人はすんなりと『念願成就の森』を脱出できた。
森の出入口には、カエデの木が数十本かたまっているが、森を入る時に、切符を渡したカエデの巣箱は、見当たらなかった。不思議だが、薄緑色をしていたカエデの木々は、どれも皆、みごとに紅葉し、燃え立つ赤い葉を身にまとっている。
最後に振り返った四人は、赤や黄色の葉に覆われている森を目にした。森は、コウタたち観客を、引き留めようと最後まで必死だった。
森から一歩出たところで、突然、一瞬にして、あたりがまっ暗になった。照明のスイッチが、切られたのだ。目の前には、再び、元の薄暗い世界が広がっていた。四人はもう、振り返って確かめもしなかった。
「マンジのありかぐらい、聞いておくべきだったかな」
森を離れてから、亮平がぼやいた。すると、コウタと翔のため息が、同時にもれ聞こえてきた。
「それはどうかな。大切なものほど自分たちで探さないと、えらい目に遭う気がするぞ」翔は、脅かし口調で亮平を戒めた。
「僕も、そう思うな。残念だけど」と、コウタ。
「願いなんて、叶うわけないじゃないか!神さまなんて、そんなもの、いないんだから!」
青い顔をして黙っていたオー君が、唐突に声を張り上げたので、三人は驚いた。しかし、みんなの反応に気づいたオー君は、はっと我に返った。
「ごめん。僕、ちょっと変かもしれない。なんでだろう。さっきからずっと、涙が止まらないんだ」
「誰だって変になるさ。あんな場面を見ちゃったからにはね」と翔。
オー君は、パジャマの袖口で涙を拭いた。
「本当に神さまがいるのかどうかは、わからないけど、この森は、やっぱりおかしいよ」コウタが後ろを振り返って言った。
「…確かに気味悪いよな、よく考えると」と亮平。
翔も、無言でうなずいた。
「そう、だから今は出来る限り、あの森から離れよう。少なくとも、あの森が見えない地点まで」
こうして、四人は、そそくさと小さな林を抜け、空き地をいくつか通り越し、再び広い野原に入った。あの森からかなり離れ、四人はようやく一安心した。
野原は依然として薄暗く、変わり映えのしない風景だったが、今の四人にとっては、どこか懐かしく、落ち着ける場所だった。
ところが、懐かしいと感じたのには、大きな理由があった。そこは、地下の国から最初にやって来た場所だったからだ。それに気づいた四人は、肩をがっくりと落とした。堂々巡りの末、四人は、出発地点に戻ったのだ。
「さあさあ、これで振り出しに戻ったぞ。で、これからどうする?」
亮平が渋い顔で、夜空に向かって問いかけた。
だが、誰かが答える前に、四人は、遠くに見える小さな明りの列に気がついた。