第4章 支配人と勾玉博士
分厚い扉が、重苦しい金属音をたてて開かれた。すると、意外な光景が四人の前に現れた。
そこは、だだっ広い空間だ。入口から、奥の部屋まで見渡せるほど、一続きの広い部屋だが、その中には、いろんな物や人や湯気が、ぎゅっと詰め込まれ、混み合っていた。
ピカピカ光るステンレス製の大きな棚や、調理用テーブルが所狭しと並び、これから食卓に並ぶご馳走の皿が、湯気をあげて出番を待っている。子どもがすっぽり入りそうなほどの大鍋、あちらこちら立ち上る白い湯気、テーブルほどもある巨大なフライパン。
左の壁際は、食器の洗い場で、誰かが猛スピードで皿を洗っている。洗い場は壁に沿って、奥まで延々と続いていた。その間を、白い制服、白い帽子をつけたコックたちが、湯気をかき分け、忙しそうに立ち回っている。どうやらここは、水曜亭の調理場、つまりは厨房らしい。
見る限り、誰もかれもが忙しそうだ。手を止めている者は、一人もいない。調理する音とコックたちの飛び交う会話で、室内は活気に満ちていた。手も口も総動員し、店内の客にも負けないほど、大変にぎやかだ。湯気が邪魔をしてよく見えないが、コックたちは、コウタたちと同じ普通の人間の姿をしている。
四人が、この壮大な厨房に足を踏み入れる際、背後から、頭取カラスがまたしても、騒ぎ立てた。
「メガネの子どもは、嘘つきだ。大嘘つきの悪人だ。縁起が悪いぞ、キーッ!さっさと追い出せ。ここから出て行け、とっとと出て行け!」
今度は左足だけを止まり木から浮かせ、四人に向かって、憎々しく蹴り上げている。
オー君は、メガネに手を当てたまま、ドアの前で振り返り、歩みが止まってしまった。するとオー君の後ろにいた翔が、カラスに向かって、大きく舌打ちをしてみせた。
「あいつは、君のメガネが余程気に入らないんだ。なんならそのメガネ、あいつにくれてやれ。そうすりゃ、あいつは黙るだろうよ」
翔はそう言い捨てると、オー君の背中を軽く押して、厨房の中に押し込んだ。扉の入り口にいた狛犬兄弟がすかさず、カラスに向かって怒鳴っていた。しかし、重い扉がぴったり閉じられると、カラスの声も、狛犬兄弟の声も、もう聞こえなくなった。
「さあ、皆さんどうぞ、こちらの机へ。お待ちしていましたよ。本当にぎりぎりでしたね」
厨房の入り口には、奇妙な恰好をした、動物顔の男が立っていた。
穏やかな顔つきではあるが、両目がルビーのように赤い。妙に膨らんだ、青い帽子を頭に載せ、上に開いた二つの穴からは、長い耳が不自然に突き出している。男の鼻から口もとにかけては、ウサギそっくりだ。二本足で立っているが、長い耳といい、赤い目といい、やはり男の本性は、ウサギに違いない。四人は一目見て、そう推測した。
部屋の中は相当暑いのに、男はどういうわけか、ぶ厚い、紺色のどんぶくをしっかりと着込んで、首には手拭いをきっちり巻いている。そのため、大粒の汗が、顔から、頭から、全身から吹き出していた。
男は、すぐそばの、大きな木製の机の前に、四人を座らせた。粗削りされた菱形の机には、奇妙な文字や図柄が彫り込まれている。地水火風の文字が菱形の四隅にあり、その間が線で結ばれ、奇妙な記号が添えてあった。『地』の前にオー君が、『水』の前には亮平が、『火』の前にはコウタが、そして、『風』の前には、翔が座った。
机のすぐ後ろには、大きな棚が並んでいる。その列を挟んだ、向こう側には、調理場が広がっている。そのため、がやがやと、せわしなく動き回る人々の姿が、嫌でも目に入り、四人は落ち着かなかった。
「ああ、初めての方には、少し落ち着かないかもしれませんね。ですが、このザワザワも燃料なんですよ」
男はそう言ったが、意味がわからなかったので、四人は何も答えなかった。男はちょっとがっかりして、咳払いを一つした。
「さてと」男が気を取り直して、元気よく切り出した。「あなた方が、最後の班です。他の皆さんは、とっくに出発しましたが、急げば、皆さんに追いつけるでしょう。ああ、まず自己紹介しなければなりませんね。私はこの水曜亭の支配人で、タイゾウと言います」
支配人は首に巻いた手拭いで、帽子からにじみ出ては垂れる汗をぬぐった。玉の汗が吹き出しているのに、支配人は、変な帽子も、ぶ厚いどんぶくも、一向に脱ごうとしない。これでは見ている方が暑くてたまらない。
四人の、物言いたげな視線も気にせず、支配人は物売りのごとく、ますます声を張り上げた。
「突然の出来事だらけで、さぞ驚かれたでしょうね。あなた方の世界は、たった一つしかありませんが、この壮大な世界には、多くの異なる世界があるのです。ああ、つまり、巨大な世界が、いろんな部屋に分かれている感じですね。住んでいる人たちも、私をはじめ、店でご覧になったとおり、様々です。あなた方の世界では、動物って呼ばれているそうですね。でも、あなた方と同じ、普通の人間もたくさんいますよ、ここのコックたちのように」
支配人は、汗でびしょびしょに濡れた帽子を手でずらした。汗を含んで重たくなった帽子が、どんどん額の前方へずり落ちてくるのだ。
「余裕があれば、詳しく紹介したいところですが、残念ながら、今は時間がありません。先にもっと重要な事柄を話さねばなりませんからね。つまり、何故、あなた方が、この水曜亭に招かれたのか。招かれた、その理由です」
ここで支配人は一息入れた。流れ出る汗と帽子のずり上げで、大変そうだが、どこかもったいぶっている風にも見える。
「おめでとう」支配人は、にっこり笑ってみせた。「あなた方は、こちらの世界を特別に体験できる、冒険旅行の参加者に選ばれたのです」
単純な亮平が、一番先に、嬉しい悲鳴を上げた。オー君も、きゅっと顔を上げ、目をキラキラと輝かせている。それを見た支配人は、急に上機嫌になった。
「こちらの世界は、それはまあ、素晴らし過ぎて、言葉ではとても説明し切れません。実際に行って、その目で見るのが一番でしょう。あなた方、四人は、地下を流れる黄金の砂金川に溶け込み、そのまま宝石魚と一緒に、天上界にある銀河原まで行ってもらいます。銀河原は、誰もが憧れる大変美しい世界の集まりです。その中でも、特別なススキが原にまで、あなた方は入れるのです。そこは、選ばれた、ごく少数の者しか入場が許されません」
亮平は、支配人の話に、たちまち夢中になった。身を乗り出しては、支配人の話にいちいちうなずき、夢見心地な目つきで、支配人の次の言葉を待っていた。
とんでもなく素晴らしい場所へ行ける。理由はともあれ、自分たちは特別に選ばれたのだ。亮平でなくとも、心が動かされる。
コウタは、先ほど、綾香たちに起こった出来事を思い出した。
綾香たちを呑み込んだ黄金のうねりが、きっと砂金川なのだろう。そこに泳いでいた宝石の目をした魚たちが、宝石魚に違いない。あの、目もくらむ黄金の輝きに溶け込み、宝石魚たちと一緒に泳げるのだ。そう考えただけで、誰もが心躍る気分になる。とりわけ亮平は、すっかり夢中になり、自分がそこで泳いでいる姿を、早くも想像しているらしい。
四人の様子に気を良くした支配人は、いかにこの世界が素晴らしいかを、延々と語りだした。
翔も、オー君も、次第に支配人の話に引き込まれていった。翔たちもどこかで、砂金川や宝石魚を目撃していたに違いない。
支配人はますます興奮して、玉の汗をかきながら、今度は、コウタたちがいかに幸運であるかを得々と語ってみせた。
コウタも、思わず話に引き込まれそうになったが、ふと小さな疑念が頭の中に浮かんだ。
あまりに話ができ過ぎてやしないか?
冷静に考えると、支配人の話し方も、どこかオーバーだ。あまりに一生懸命過ぎて、自分たちを説得したがっているようにしか見えない。どうしてなのだろう。
「大丈夫かなあ…」
そんな言葉を口にしたコウタは、自分でも驚き、しまったと思った。本音がつい、口からもれたのだ。
「何ですって?」
たちまち、支配人がぎょっとして、コウタを凝視した。
「あ、いや、変なことを言ってすいません。とっても長い旅になりそうなので、明日の学校に間に合うのか、気になっただけです」
コウタはうまく取り繕った。
支配人はほっとすると、また帽子をずり上げた。それから、目を輝かせて熱弁を再開した。
「学校に間に合うかですって?そんなもの、まったく気にする必要はありません。時間の流れは、あなた方の世界と大きく違っているんですからね。こっちで数日過ごしても、元の世界では、ほんの一瞬なのです。だから、学校や勉強なんて、そんなものを考えちゃあいけませんとも。素晴らしい世界を楽しめるチャンスなんですからね。むしろ、しっかり楽しまなくちゃなりませんよ。どのみち、銀河原にあるススキが原に着いたら、元の世界に帰されるのですから、問題ありませんよ。どうです?心配なんか、吹き飛んだでしょう?」
亮平が、もちろんですと即答した。翔もほとんど同時に大きくうなずいていた。遅れてオー君とコウタが小さく首を縦に振った。子どもたちの反応を確かめた支配人は、話を続けた。
「さて、今回の冒険旅行には、いくつかの決まり事があります。皆さんに、安全に楽しんでもらうためですので、必ず守って下さい」
支配人が決まりごとを話す前から、亮平は大きくうなずいている。
「一つは、必ず四人一組で動くこと。どこへ行くのも、四人一組で行動して下さい。そして、砂金流で銀河原に到着したら、迷わずススキが原へ行って下さい。ススキヶ原では、願い事が叶います」
「願いが叶う?どんな願いでも?」
「もちろんですとも。それが、冒険旅行の一番の目的です」
亮平がイスから踊り上がり、独り奇声を上げて喜んだ。他の三人は、飛び上がりこそしなかったが、心の中では、全員が飛び上がっていた。コウタも、今やすっかり支配人の話に夢中になっていた。
「どの願いを叶えてもらおうかな。いっぱいあり過ぎて、迷うな」
亮平がさっそく、嬉しい悲鳴を上げた。
「いいえ、迷う必要はありません。叶えて欲しい願いは、いくつでもいいのです」
四人はとたんに目を輝かせ、支配人たちがいるのも忘れ、しばし興奮気味に夢を語り合った。
支配人は、四人が喜ぶ時間を十分見計らい、笑顔で話を続けた。
「到着するまで時間はたっぷりあるので、叶えて欲しい願いについては、じっくり考えてください。あれこれ考えるのも、今回の計画の一部です。ただし、叶えたい願い事が決まったら、誰にも話さず、自分の心の中に留めておいてください。さて、その後、銀河原から、また砂金流に乗って、元の世界に帰ります」
元の世界へ帰る話まで聞けたので、コウタはひとまずほっとした。
「二つ目の決まり事は、砂金川の底に生えている、きれいな劣化ウラン珊瑚と、黒いプルトニウム昆布は、決して口にしないこと。はっきり言って、猛毒です。食べるのは自由ですが、食べれば、むごたらしい死が訪れます。そして最後に、三つ目の決まり事ですが、寒さは大敵。冬将軍にはくれぐれも気をつけて下さい」
支配人がまだ言い終わらないうちに、翔と亮平から、くすっと笑いが聞こえた。もう11歳なのだから、冬将軍が、何なのかくらい知っているよ、と言わんばかりだ。二人はつい先ほど仲違いしたのも忘れ、互いに目を合わせて笑っている。
しかし、コウタは笑えなかった。冬将軍という言葉に、またしても心臓がドキンと、嫌な感じで脈打ったからだ。
「さてと。だいたいの話は終わったので、ここで皆さんに切符を渡しておきましょう。これは、この世界の通行証みたいなものです。砂金川を上っていく道中や上の銀河原で、通常使うことはないのですが、万が一必要になった時は、一枚ずつ、切り離して使って下さい」
支配人は、黄色く細長い紙を、四人に手渡した。それは十枚つづりの回数券に似た切符で、一枚ずつ切り離せるよう、切り込みが入っている。表にも、裏にも、薄い葉っぱの模様しか描かれていない。これが切符なのかと思いながらも、きりのいい箇所で折りたたむと、それぞれがパジャマのズボンや上着のポケットにしまい込んだ。
「おや、残り時間があまりないですね。後は、ヒスイ餅だけなのですが…」
支配人がそう言いながら、厨房の方を振り返った。すると、いろいろな音に混じって、嬉々とした老人の声が、大棚の向こうから響いてきた。
「ああ、支配人。今やっとヒスイ粉が完成したよ。最終便で送り出す分が、ギリギリ間に合った。私はてっきり、さっきの女の子たちが最後かと思って、ヒスイ粉を全部使い切ってしまったから、少々慌てたがね。すぐコックに調理させてよいな?」
声の主である白髪の老人が、大きな棚の向こう側から、ひょいと、こちらを覗き込んだ。続いて、すぐに姿も現した。
白髪の老人もまた、コウタたちと同じ普通の人間の姿だ。背筋がピンとして、立派な白い髭は、ライオンのたてがみのごとく気高い。しっかりと背広を着こなし、しゃれた蝶ネクタイをつけ、白髪から見え隠れする額には、知性がみなぎっている。
それなのに、左手に持っている杖が、この白髪の紳士をどこか、おかしいと思わせてしまうのだ。老人が手にしているのは、紅白の縞模様が斜めに入った、千歳飴みたいな杖だった。その縞模様は、時々、グルグルと回転している。まるで、床屋の看板のようだ。ずっと見つめていると、目が回りそうになる。
机から少し身を乗り出して、棚の間から向こう側を覗くと、老人の机がちらりと見えた。棚の向こうは調理場なのに、その机の一角だけは、がらりと趣が異なっていた。
机の上には、様々な石や結晶と共に、シャーレ、ビーカー、フラスコ、計量器具など、理科の実験でおなじみの道具が散乱している。机と戸棚の間には、大きな白衣がだらしなくぶら下がっていた。
その老人が手にしている小皿には、エメラルド色の粉末が、ひときわ異様な光を放っていた。
支配人が、棚越しに返事をした。
「もちろんですとも。博士、急いでお願いしますよ」
博士と呼ばれた老人は、隣で待ち構えていたコックに、そのまま、小皿を手渡した。
小皿を受け取ったコックの青年は、小さな鍋を取り出し、すぐさま調理に取りかかった。とても手際がいい。チラリと見えたこの青年も、コウタたちと同じ普通の人間に見える。
その青年のまっ白な制服の背中には、大きく「松」と書かれている。よく見ると、他のコックたちの背中にも、「樫」だとか、「楢」だとか、木へんの、難しい漢字が書かれているではないか。
博士が棚の向こうから、コウタたちの方へやって来た。例の奇妙な杖を手にしているが、近づくにつれて、杖からは、ほんのり甘い香りが漂ってきた。色といい、香りといい、やっぱりこれは本物の千歳飴だ。
「ところで、君たちは、あの緑の粉が何からできているか、知っているかね?」
博士は杖をくるくる回しながら、意味ありげに、四人の顔を一人ずつ、覗き込んだ。目の前で、紅白の縞模様がせわしく斜めに回転し、コウタは早くも頭がくらくらしてきた。
最後に、翔の前に来ると、博士はちょっと目を細めた。
「おや、君は詳しそうだな。君は、知っているかね?あの粉の正体を」
しかし、翔は小皿の行方を目で追いながら、そっけなく答えた。
「いいえ、わかりません。緑の石っていえば、エメラルドとか、ヒスイが思い当たるけど、まさか高価なエメラルドがそんなにあるわけないし、ヒスイならあんなに光ったりしないはずだ」
博士の感心した声がもれた。
「おお、やはり私の見立ては間違っていなかったな。君は、石に詳しそうだが、自分で学んだのかね?」
「石については、科学者の叔父から、いろいろと教わりました。もちろん、石についてだけじゃないけど」
「おお、更に素晴らしいじゃないか。親戚に科学者がいるとは」
博士はことさら感心して、目を少し潤ませた。
「もっといろいろ教わりたかったけど、その叔父は、数年前に、行方不明になったんです。今では顔もあんまり思い出せないし」
淡々と語る翔に、博士は、ああと一言つぶやいた。
「それは、残念な話だ。だとしても、そのお方は、きっとどこかで科学者を続けているに違いない。科学者とはそう言うものだ」
博士は、調理へ渡った緑の小皿の行方に目を向けた。
「さて、君の言ったとおり、ヒスイは普段こんなに光ったりはしない。だが、このヒスイは特別だ。砂金川を泳いでいる魚の目から取ったものだからね。条件がそろえば、こんな風に光り輝くのだよ。とは言え、このヒスイ粉は、ヒスイだけではないぞ。他に、水晶やオパールの振動数を上げたもの、シリウス光にさらしたラピスラズリを入れ、隠し味に、月長石を漬込んだ聖なる水を少々、後は、秘伝のスパイスを降りかけるが、おっと、これは企業秘密だ。それで出来上がりだ。もちろんこれは、魔法などではないよ。それぞれの石には、それぞれ深い意味や力があるのだからね。その石が遥か昔に造られた謎と、地中に埋もれていた長い時間の妙味こそ、重要なのだ」
博士はここで話を中断し、軽く咳払いをした。コウタたちがそろって、首を傾げていたからだ。話が難し過ぎたと、自分でも後悔したのだろう。
「そう言えば、自己紹介がまだだったな。それなのに、よけいな話を、先にベラベラとしゃべってしまった。支配人は、私を、博士と呼んでおったが、本当の名前は、勾玉だ。よかったら、勾玉博士と呼んでくれたまえ。元の世界では別の名前があったらしいが、こっちの世界では、こっちの世界に、よりふさわしい呼び名があるのだ」
「元の世界って、博士は、僕たちと同じ人間だったんですか?」
亮平のあけすけな質問を、博士は豪快に笑い飛ばした。
「人間だったとは、ひどいな。見てのとおり、今も人間だよ。まあ、ひょんな出来事から、この世界の住人になったがね。君たちは、水曜亭にいた客人を見ただろう?どんな姿だろうと、この世界では、皆、平等だ」
横にいる支配人が、ちらりと、入口にある時計を見やった。その時、厨房の奥から、さっきの青年コック「松」が現れた。
「支配人、勾玉博士、ヒスイ餅が完成しました」
「松」は礼儀正しい仕草で、小皿を四つ乗せた盆を運んできた。博士は、一目見ると、満足げにうなずいた。
「木へん族の者たちは、相変わらず仕事が正確で、素早い。感心、感心。それに比べて、さんずい族と火へん族の者たちときたら、年中ケンカばかりして、料理がまともに仕上がらない。客たちからは、嵐のように文句が来ておったな」
博士は不満をこぼした。一方、コックの「松」から盆を受け取った支配人は、小皿を手早くコウタたちの前に配り、自信満々の笑顔で宣言した。
「さあ、これが当店自慢のヒスイ餅です。どうぞ召し上がれ」
白い皿に盛られていたのは、緑色のあんのかかった、餅だ。緑のあんからは、潰した枝豆のいい匂いが漂っている。
「これ、ずんだ餅だよね」
隣に座っていた亮平が、こっそりコウタにささやいた。
「そう見えるけど、どうかな」
コウタは目の前に置かれた皿を、穴の開くほど見つめた。緑色のあんは、きれいだけど、どこか異様だ。見ているうちに、だんだんと輝きを増している。そして、ついには白い小皿さえも煌めかせるほど、エメラルド色に輝いてきた。ここうなると、これはもう、ただのずんだ餅ではない。
コウタばかりでなく、他の三人も、緑の蛍光色に輝く餅に恐れをなして、手を出せないでいた。
「あの、これ、本当に食べられるのかな?」
オー君が、おずおずと支配人の顔を見上げた。
「ヒスイ餅は、わが由緒ある水曜亭の自信作ですぞ!しかも、君たちのためにこうして、みんなで作り上げたのに」
支配人が少し険しい顔つきで言い切ったが、やはり誰一人、箸をつけられず、黙ってしまった。すると、博士が、千歳飴の杖で床をトントンと叩きながら、快活に話を始めた。
「確かに、見た目は毒々しいが、支配人の言うとおり、当店自慢の一品ですぞ。そして、これだけは言っておかねばならない。このヒスイ餅を食べないと、砂金流には入れない。砂金川に入れないと、銀河原への旅に出発できない。秘密を明かすと、このヒスイ粉が、君たちの体を砂金川に溶け込ませてくれるのだ。ヒスイ粉が燃え上がり、エメラルドの炎に包まれた者だけを、砂金川が受け入れるのだからね」
コウタと亮平は、はっとした。エメラルド色の炎に包まれた綾香たちが、砂金流に溶け込んで行く光景を思い出したのだ。翔とオー君も、とたんに目の色が変わった。やはりエメラルドの炎に包まれた誰かを、どこかで目撃したに違いない。
綾香たちは、ここ水曜亭で、ヒスイ餅を食べたのだ。だからこそ、エメラルドの炎に包まれ、砂金川に受け入れられたのだ。
緑に光り輝く皿を、穴の開くほど見つめていた亮平が、珍しく先陣を切った。
「おれは食べるぞ」
どうしても冒険旅行に行きたい亮平は、赤い箸を手に取ると、目をつむって、餅に食らいついた。
「おれだって、腹が減っているんだ」
翔も箸を取り、餅をほおばった。コウタとオー君もそれを見て、慌てて食べ始めた。こうなると、まるで早食い競争だ。
「おいしい!」オー君が、顔を上げて、満面の笑みを浮かべた。緑色に染まった口の中が、丸見えだ。
ヒスイ餅は、口の中で柔らかくとろけ、いい香りを放ちながら、胃袋の中へと消えていく。
「これやっぱり、ずんだ餅だよ!」残ったあんまで食べ切った亮平が、空の皿を掲げ、満足げに叫んだ。叫んだ後で、支配人たちの視線を感じて、言い直した。「ああ、でも、とっても上等なずんだ餅だね」
勾玉博士と支配人は、静かに微笑んだ。
四人とも、またたく間に食べ切り、最後にお茶を流し込むと、気持ちまで満腹になった。
「さてと。これからが腕の見せどころだ。自分で、自分を、しっかり運転するんだよ。あと少しで始まるからね」
支配人は四人のいる机から一歩離れ、両腕を組んで眺めている。勾玉博士も、そわそわと落ち着かない。
四人の少年は、期待と緊張に胸を膨らませ、立ち上がった。お互い顔を見合わせたが、まだ、特に変わった様子はない。しかし、そうしている間にも、体の中では、大きな変化が始まっているのを、コウタは感じていた。
それが最初に表れたのは、亮平だった。亮平の両耳から、なんと、緑の煙がちろちろと、立ち昇っているではないか。それに気がついた三人は、ぎょっとして亮平を凝視した。
「な、何だよ、みんな」
亮平はわけがわからず、戸惑ったが、そのうち、鼻からも、口からも、そして目からも緑の煙が吹き出すと、それは勢いよく燃え出し、ひとつの濃い緑の炎となった。
「うわあ、大変だ!おれが、おれが、燃えている!」
亮平は慌てふためき、火を消そうと、両手で乱暴に頭を叩いたが、緑の炎は、更に勢いよく噴き出し、全身に広がった。亮平はたちまち、緑の火だるまと化してしまった。それを見た三人は、恐怖のあまり顔を引きつらせ、厨房の壁際まで後退した。
「大丈夫。まあ、見ててごらんなさい」
支配人は余裕たっぷりに、四人を遠まきに眺めている。
恐怖にもがいていた亮平だが、突然はっとして、けろっとした顔になった。
「あれ?よく考えてみると、これ、全然熱くないや。むしろ涼しいくらいだ」亮平は照れ笑いをして、おどけてみせた。「それに、みんなも始まっているよ」
亮平がそう言っているうちに、三人からも緑の煙があがり、たちまち緑に燃え上がった。
「本当だ、全然熱くないな。涼しい風が体の中を通り抜けるみたいだ」
翔までもが、珍しく興奮気味に叫んだ。
「さあ、ちょうどいい頃合いだな」支配人は、扉の上にある古い柱時計を確かめた。「そろそろ出発しなさい。けやき通りに出れば、砂金川の大潮が、君たちを迎えてくれるだろう。君たちは、何もしなくていい。ただ、自然に身を任せれば、それでいいんだよ」
支配人はそう言いながら、厨房の重い扉を開け放った。出入口には、狛犬兄弟が控えていた。狛犬兄弟と目が合うと、彼らは四人に目配せした。
四人とも、外に出たくて、待ちきれない気分だった。すると、それぞれの緑の炎が合体し、一つの大きな炎の塊になった。緑色の炎は、きれいなエメラルド色の大きな炎となって、四人を包み込んだ。四人はエメラルド色の炎でしっかり繋がっている。
炎は完成した。後は出発するのみだ。
四人は、翔を先頭に、オー君、亮平、コウタの順で、一列になって、厨房の外に足を踏み出した。
コウタは、ふと、扉の上の柱時計を見上げた。時計の針は、もうすぐ十二時を指し示そうとしている。いつの間にか、そんな時間になっていたのだ。
「では、ごきげんよう。流れに逆らわなければ、そのまま銀河原に流れ着くからね。君たちは、大幅に遅れているんだから、道草なんて食うんじゃないぞ」
支配人の声が、変に間延びして遠くに聞こえる。エメラルド色の炎に包まれた空間は、支配人たちのいる水曜亭の厨房とは、別空間なのだろうか。
「さらばじゃ、少年たち。しっかり楽しんでおいで」
勾玉博士の声も、遠くから鳴り響くこだまに変わっている。
四人はうっとりといい気分に浸り、エメラルドの炎に包まれたまま、つかず離れず、翔を先頭にして、扉の外へ出て行った。魔法にでもかかっているのだろうか。勝手に乱舞する心と共に、前の人に引っぱられ、自分の足がどんどん勝手に、前へ前へと進んでいく。
最後尾にいたコウタも、前にいる亮平たちに気持ちよく引きずられ、扉の外に飛び出していった。
と、その時、コウタは、視界の端にちらりと映る異様なものに気づき、後ろを振り返った。
そのとたん夢見心地の気分が、ぷっつり途切れた。信じられない光景だ。ついさっきまで微笑んでいた支配人たちが、ひどく取り乱し、すごい形相でコウタたちを追いかけて来るではないか。
コウタはわけがわからず、戸惑ったが、前にどんどん引きずられ、立ち止まるのは許されなかった。体が前のめりになり、両足も勝手に前へと進んでいった。
支配人は慌てたあまり、青い帽子を入口の壁飾りに引っかけてしまった。帽子が脱げたとたん、その中に押し込められていた何かが、勢いよく噴出し、あたりにまき散らされた。
よく見るとそれは、帽子の下に折りたたまれ、ぎゅうぎゅう詰めになっていた、平たい耳だった。その長さはなんと、数百メートルにものぼり、永久にほどけない毛糸玉かと思うほど、奇怪に絡み合っている。
支配人も勾玉博士も、そして、二人を助けるため近づいたコックたちも、みんな、この長い耳に足をとられ、床にひっくり返っていた。
笑い出したいほど、滑稽な場面にも関わらず、支配人も博士も顔は青ざめ、深刻な表情だ。コウタたちに、必死で何かを訴えているようにも見えるのだ。
たまたま最後尾にいたコウタだけが、この、わけのわからない事態を目撃していた。前を行く亮平たち三人は、この事態にまったく気づいていない。
コウタは不思議に思ったが、単に、みんなでゲームを楽しんでいるのかもしれないと、のん気に考えていた。
ところが、支配人と勾玉博士たちは、ますます悲惨な状態になっていった。その目には、恐怖の色さえ浮かんでいる。二人は長い耳で覆われた床に這いつくばったまま、すごい形相で、コウタたちに向かって叫び続けている。
叫んでいるが、その懸命な叫び声も、とてつもなく遠い世界から響くこだまの声に変換されている。夢見心地のコウタには、途切れ途切れにしか伝わらない。
「異界から…、大変…、…川に溶け込めない…、危険…沿って…」
コウタは言葉を聞き取ろうとしたものの、ひたすら廊下を進んで行く三人に引きずられ、ますます支配人たちから遠ざかっていった。そのため、言葉はよけいに聞き取れなくなった。
「聞こえないよ!何言っているのか、さっぱりわからないよ!」
コウタは、大声で後ろへ叫び返した。叫び返したつもりだったが、声は、エメラルドの炎の中からうまく出ていけず、くぐもった声になった。すると、自分の長い耳に絡まった支配人が、右手を上げ、最後の力を振り絞り、短く叫んだ。
「…マンジを開けるんだ…」
コウタにはそう聞こえた。でも、それは、もう支配人の声ではなく、もっと高く、透き通った音楽だ。耳心地のよい鈴の音色に近い声だ。自分の声も、外から聞こえる音も声も、普通じゃなくなるのだろうか。
マンジを開けるとは、どういう意味だろう。夕暮れ時の公園で聞いた声も、マンジを開けろと言っていた。何か重要な意味でもあるのだろうか。それがもし、必要な注意事項なら、さっき厨房で説明してくれればよかったのに。
もう一度、聞き返そうとしたが、コウタの体は、ぐいっと大きく前に引っぱられ、それどころではなくなった。
それに、正直言って、もう支配人や勾玉博士のことは、気にならなくなっていた。
今はすべてが、楽しくて、大声を上げたいくらい、幸せな気分なのだ。ただひたすら前に進むのが、これほど楽しいとは、思ってもみなかった。こんな気分が、死ぬまで続いてくれたなら、人生は本当に素晴らしいと実感できるだろう。コウタは、あり余るほどの、幸福感に酔いしれていた。
四人はもう止まらなかった。翔を先頭にした四人は、一つの巨大なエメラルド色の炎に包まれたまま、一陣の風のごとく、暗い廊下を疾走した。
水曜亭の客たちは、コウタたちが駆け抜けていく姿に目を移すが、すぐさま元どおり、酒を飲み、会話をし、コーヒーをすすった。
四人はひと塊のまま、ついに水曜亭の外へと飛び出した。
店の外の空気に触れると、エメラルド色の炎は、ますます輝いた。すぐ目の前には、薄暗いけやき通りが広がっている。もうすぐあの黄金色の川が、自分たちを迎えに来てくれるはずだ。その大きな期待に、コウタの心はパンパンにはち切れそうだった。
しかし、店を飛び出す時、コウタは一瞬、耳もとにヒヤリとする、吐息を感じた。それは小さいが、体の芯まで凍りつく冷たさだ。吐息は瞬時に、こうつぶやいていた。
「どこへ逃げたって無駄さ。冬将軍は決して許さないだろう」
コウタがぞっとして振り向くと、そこには、暗く燃える目で、コウタたちをにらみつけるノミネコがいた。
<水曜亭キーワード>
支配人タイゾウ: 水曜亭を切り盛りしている謎の人物。
変な恰好、ウサギのような顔と耳を持つ
勾玉博士: ちょっと変わっているが、愛すべき科学者。
千歳飴のような杖を持っている
水曜亭厨房: 調理場であり、実験室、指令室でもある、特別な区画
コックの松: 木へん一族の一人。木へん族は、真面目で信頼さている。
ちなみに、さんずい一族と火へん一族は、仲が悪く、仕事も適当
ヒスイ餅: ヒスイ粉から作られた、たぶん、ずんだ餅。
四人をまとめてエメラルドの炎で包み込み、黄金の砂金川に
溶け込ませる魔法の粉。錬金術的な方法で作られる
銀河原: 天上界にある、冒険旅行の目的地。
その中にあるススキが原では、願いが何でも叶うらしい