第21章 飛び出したオー君
異様に甲高い頭取カラスの声が、厨房内はおろか、水曜亭の店内にも響き渡った。まるでマイクを使っているかと思うほどの、ものすごい音量だ。
「おい|頭取カラス、うるさいぞ、黙れ!」
厨房の人々は、口々に非難の声を上げた。しかし、頭取カラスは、食器棚の上で、バカ丁寧に右足を挙げると、人々をあざけるかのごとく足を蹴り下ろした。
「ふん、おれ様に向かって、うるさいとは、どの口が言っているんだ?おまえらに、わざわざ教えてやっているのが、わからないのか?むしろ、ありがたく思えよ。おまえらバカどもは、何一つ、わかっちゃいない。だから、とんでもない奴にまんまと騙されるのさ」頭取カラスは、そう言うと、再びオー君に鋭いくちばしを向けた。「メガネの小僧よ、おまえだ。おまえこそが、最凶最悪の地獄の使者だ。おれ様には、最初からおまえの企みがわかっていたのさ。この平和な世界を破壊するために、ここへやって来たのだろうよ」
憎まれ口は相変わらずだが、いつもの頭取カラスと違い、言葉がスラスラと口をついて出てくる。以前は、俳句や短歌を詠んでいる風に、とつとつとしか、言葉を出せなかったはずだ。それが、今は、タガが外れたのか、流暢に叫び、その上、気迫がこもっている。
「いくら隠そうとしたって無駄だよ。こびりついた邪悪さは、どうあがいても隠せない。おまえは、間違いなく、人殺しだ。おまけに、大ウソつきで、ずる賢い悪の塊だ。そんな汚れた罪人が、皆を欺いてこの世界に入ったものだから、すべてが汚れたのさ。しかも、邪悪にまみれた重い体のくせに、恐れ多くも、天上界に入り込もうとした。天罰を食らって、雷の矢で撃ち落されたのは、当然さ。おまえは、どこの世界にとっても、厄介者だ。地下でおとなしく眠っていた冬将軍を裏切り、目覚めさせ、激怒させた。それゆえ、冬将軍は、この世界ごと凍らせるだろうよ」
あまりのすさまじい話に、厨房の人々はその場で、震え上がった。人々の手も口も、すっかり止まってしまい、コウタと亮平も、あまりの衝撃に、その場で固まってしまった。
それまでは、カラスのたわごとぐらいにしか思っておらず、聞き流していたが、今は違う。話の内容が真実かどうかはわからないが、頭取カラスの気迫に、皆、圧倒されていた。
確かに、頭取カラスは嫌味でうるさく、嫌われ者だ。その反面、真実をつかみ取る能力は優れている。そのため、狛犬兄弟と共に、水曜亭|厨房の門番を任されているのだ。
オー君は、戸棚のすき間の床にうずくまり、震える両手で耳をふさぎ、顔を伏せていた。
厨房の人々は、誰も何も言わないが、その代わり、オー君に鋭い視線を向けていた。厨房内が、ピリピリした、気まずい雰囲気に一変した。
ところが、唯一、勾玉博士だけが陽気な声を上げた。
「おいおい、口封じの術が壊れているじゃないか。カラスのお目付け役の、あのなんて言ったかな、そうそう、狛犬兄弟はどうしたんだ?」
厨房の人々が扉の外や店内まで探したが、狛犬兄弟は見つからなかった。その間も、頭取カラスは、大声でオー君を罵り続けている。頭取カラスを黙らせることができるのは、どうやら狛犬兄弟だけらしい。
なおもカラスが騒ぎ立てるので、その声を聞きつけた人々が、店の方からもぞろぞろとやって来た。いつしか、厨房の扉の前は、人だかりとなっていった。人々は、声のする厨房内に入ろうと扉を開け、押しかけようとした。厨房の人々は、中から扉を閉めようとしたため、両者はもみ合った。あまりに人が集まり過ぎたので、厨房の前は、扉を巡っておしくら饅頭状態だ。
それでも、半分開いたままの扉から、頭取カラスの罵り声が、廊下じゅうに響き渡った。扉の前には、わいわい、がやがや、人々が集い、厨房付近は一気に騒々しくなってきた。
初めは、事情がよくわからなかった人々も、半開きした扉からオー君の姿を見つけると、とたんに鬼の形相に変わった。
「おい、あいつは、冬将軍の手配書に載っている奴じゃないか!」
オー君に気づいた人々の間から、次々、絶望と恐怖と怒りの入り混じった悲鳴がまき起こった。
「なんてこった!頭取カラスの言ったとおりじゃないか。畜生、あいつのせいで、この世界が永遠の氷河期になっちまうんだ」
「小僧め、絶対に許せない!」
人々の勢いはもう止まらない。半分開いていた扉をこじ開けて、どんどんと人々が押し寄せ、厨房の中にまで入り込んでくる。松たちが必死に押し留めようとしても、怒りに燃えた人々は我を忘れ、厨房の中へ突進しようとし、大声でわめきたてる。片隅にいた小さなオー君は、容赦ない怒りの視線と罵声を浴びせられた。
「お前のせいだ!おれたちみんな、お前のせいで死んじまうんだ!なんで、こんな酷いことができるんだ!」
歪な顔をした大柄なイタチが、狂ったように泣き叫んだ。
「おまえの巻き添えで、おれたちは永遠に氷に閉じ込められちまう。ここだけじゃない。天上界も凍りつき、いずれ地上に落下する。もう、どこにも逃げられない。おれたちは化石となって、ひたすら凍りつくしかないんだ」
頭取カラスは、食器戸棚の上から、狂乱する人々を満足げに見下ろして叫んだ。
「そうだ、こいつを許すな!絶対許すな!体が小さく、弱々しいが、騙されるな!そう見せているだけだぞ。本当のこいつは、ずる賢く、太々しく、とんでもない悪党だ。全世界を破壊したくて、うずうずしているのさ。そして、こいつの正体は」と、ここでカラスは、わざとらしく言い淀んでみせた。「おまえ、本当は、冬将軍の仲間じゃないのか?裏切ったふりをしているだけだろう?」
火に油を注ぐとは、このことだ。
一瞬の沈黙の後、人々は耳が壊れるほど絶叫し、厨房が爆発するかと思うほどの大騒ぎとなった。
人々の怒りは、もはや手が付けられない。いや、それどころか、ますます激しくなるばかりだ。ついには、騒ぎを聞きつけた店先の客たち全員が詰めかけ、大混乱になった。厨房入口では、すさまじい怒号の嵐が巻き起こった。
松たちが必死で人々を押し留め、扉を閉めようとするが、怒り狂った人々が次々となだれ込み、すぐに押し返される。ついには、人々が厨房内にどっとなだれ込み、今度は入り口付近が混乱の場となった。とうとう松たちは、扉を閉めるのを諦め、なすすべもなく、その場に立ち尽くした。
オー君は、相変わらず、戸棚の間の床にうずくまり、顔を伏せたままだ。ピクリとも動かない。
支配人が、人々を説得するため、果敢にも、オー君の前に進み出たが、人々の勢いがすさまじく、逆に激しい罵声を浴びることとなった。とても説明できる状況ではない。
「この大悪党め!最初から、冬将軍とつるんで、いやがったんだ!さっさと出て行け!」誰かが、叫ぶ。
「この人殺し、人殺し!とっとと消えてなくなれ、いなくなれ!」
今や、人々の怒号は大合唱となり、ものすごい憎悪と熱気と音量で、厨房の戸棚はガタガタと振動した。それが、すべて、小さなオー君一人に向かって投げつけられている。
あまりの出来事に、コウタたちも厨房の人々も、ぼう然と立ち尽くすしかなかった。もはや、誰も、この状況を変えることはできない。
熱狂した人々は、これでもかと言うくらい執拗に、うずくまったまま動かないオー君へ、罵詈雑言を浴びせている。
「奴を吊るし上げろ!いけにえにするんだ。捕らえて、冬将軍に差し出せ!」
「いや、殺して、引き渡せ!」
人々はどんどん暴走していき、ついに過激な言葉が投げつけられた。厨房は、ピリピリと、これ以上ないくらい危険な空気に包まれた。
オー君に手を出そうと、力任せに拳を突き挙げてくる客たちもいる。さすがに、コックたちが必死になって、オー君を狂暴な客たちから守ろうとした。こうなると、もう狂気の沙汰だ。人々の目は血走り、何を言っても聞く耳を持たない。この勢いだと、本当にオー君の身が危うい。
コウタと亮平は、恐怖のあまり、すっかり血の気が引き、動けなくなっていた。体が震え、立っているのがやっとの状態だ。いったいいつまで、こんな狂乱が続くのだろうか。
ところが、一瞬で空気が変わった。
突然オー君が、無言のまま、床からすっと立ち上がったのだ。
たったそれだけなのに、今までの騒ぎが信じられないほど、ピタリと静まり返った。時間が止まったのではないかと思うほどの静寂だ。罵声の大合唱はスイッチを切ったように止み、殴りかかろうとしていた人々も、そこで振り上げた拳が固まったままだ。
オー君は、顔を上げると、大勢の人々に向かって語り出した。声はしゃがれて小さいが、しかし、信じがたいほど冷静に、はっきりと語った。
「…今、ほんの少しだけ思い出したよ。みんなの言うとおり、たぶん僕は、どうしようもない悪人なんだ。僕はここへ来る資格も、ここにいる資格も、みんなと出会う資格も、本当はないんだ」
オー君はそれだけ言うと、なんとも悲しい目をして、みんなを一瞥した。それから目を床に落とし、出てくる言葉を噛みしめて言った。
「でも、こんなつもりじゃなかった。本当に、ごめんなさい…」
人々は、黙ったまま、動かなかった。誰も悪態をつかないし、野次も飛ばさない。微かに、大勢の息づかいだけが、聞こえてくる。小さなオー君をじっと見つめる視線も、固まっている。あの厚かましい頭取カラスさえ、食器棚の上で置物と化している。
理解できない何かが、起こったのだ。いや、理解はできるものの、頭の中では整理がつかない、言葉にできない何かだ。
オー君の奥深いところにいる本当のオー君が、表に出てきて、一瞬キラリと光り輝いたように思えた。多くの人がコウタと同様、頭ではよくわからないまま、しかし、しっかりと、何かを受け取ったのだ。
オー君は、泣かなかった。あれだけひどい言葉を投げつけられても、決して泣かなかった。だけど、涙より尊いものがあるとすれば、きっとそれを流していたのだろう。
次の瞬間、オー君は、黙ったまま扉の方へ歩み出した。その足取りはしっかりと、一歩一歩踏みしめ、堂々としていた。オー君に罵声を浴びせる者は、誰もいない。オー君に手出しをする者もいない。
オー君は、そのまま、超然と扉の外へと歩み出た。
扉の周辺にいた人々は、次々とオー君に道を譲り、オー君の後姿を静かに見送った。今やオー君は、まったくの別人だった。ひ弱で病気がちの子どもではない。凛とした兵士のごとく、覚悟を胸に秘め、厨房から悠然と立ち去っていった。
人々は、黙ったまま、オー君の去った方を見つめるばかりだった。コウタと亮平も同様に、オー君が去り行く姿を、眺めるだけだった。オー君の強い意志が余韻となり、それが静けさに変わった。
あまりに静かなので、オー君の走り去っていく足音だけが、やけに鋭く響いていた。やがてその足音も、寒空の中に次第に吸い込まれ、消え入った。後には、熱気の抜け殻だけが残された。
コウタの頭の中は、はち切れそうだった。
(オー君が冬将軍の仲間だった?そして、裏切った?だから、冬将軍に追われている?いや、裏切ったふりをして、冬将軍とつるんで世界支配を企んでいる?)
もう、わけがわからない。いやいや、断じて違う。オー君が冬将軍と結託して、悪事を働くなんて、あり得ない。大ウソつきなのは、頭取カラスの方だ。頭取カラスがあんなインチキを言うから、それを信じた人々が、オー君に罪を着せたんじゃないか。
コウタは、興奮と憤りのあまり、体中が熱くなった。
みんなから、あんなに責められたので、善良なオー君は、すべてが自分の責任だと信じ込まされたに違いない。訳のわからない大罪を、子ども一人に背負わせるなんて、大人たちは皆、どうかしている。
罪の意識。自分と同じ年齢のオー君が、どうやったら大罪を犯せると言うのか。何十年も生きた大人なら、悪事に手を染める機会だってあるだろう。でも、自分たちはまだ、人生の途に就いたばかりだ。
その一方で、オー君の様子も相当おかしい。尋常ではない気力や体力は、不自然で不気味だ。あれは、決して、健康を取り戻した元気さではない。むしろ、破れかぶれになって、残っていた命の炎を全部放り出した、そんな風に見えるのだ。コウタは、今までにないほど、体の芯からぞっとした。
(オー君は、何を思い出したのだろう。それは、僕らにも話せないことなんだろうか)
コウタは、思わず両手で、自分の髪の毛をぐしゃぐしゃにつかんだ。
「早く残りのガス石を発動させろ!」
支配人が大声で叫んだ。その声でコウタと亮平は、やっと我に返った。
二人は慌てて、オレンジ色の特製ジャケットを着ると、オー君を追って、鉄砲玉のごとく厨房を飛び出した。さっきまであれだけ怒鳴ったり、騒いだりしていた人々は、魂が抜けたように、その場にへたり込んでいる。これもまた奇妙で、気味の悪い光景だった。
二人は、水曜亭の暗く寂しい廊下を、夢中で駆け出した。まだ、頭の中がもやもやしていたが、今はそれどころではない。病弱のオー君と行方不明の翔を探さなくてはならないのだ。
舗道に面した水曜亭の入口付近は、誰もおらず、デッキのテーブルやイスも片づけられ、今は看板だけが、空しく寒風に吹きつけられている。けやき通りは、コウタたちがやって来た時よりも、なおいっそう暗く、空気もピリピリするほど冷たかった。
二人はけやき通りに飛び出したものの、オー君の姿は見当たらない。四方から、闇と寒さが迫っている。広々とした通りは暗く、物音一つせず、冷たい風がビシビシと木々や建物を打ちつけていた。オレンジ色の街灯は、今にも消え入りそうな光で、周囲のけやきの枝をほんのり色づけるだけだった。
二人の吐き出す白い息だけが、生きている証だ。この特別なジャケットがなければ、二人は数分といられないだろう。ジャケットの内側から次々と熱が吹きあがり、熱い流れが体の上下、隅々まで流れ、体を包んでいるのが感じられる。
このジャケットには、魔法が仕込まれているのだろうか。ジャケットからはみ出している、両足の足先まで、熱がぐるりと包み込むのだ。頭のてっぺんから、手足の先に至るまで、温かい空気に守られている。この特製ジャケットのおかげで、こんな寒空の下なのに、二人は凍死せずに生きていられる。
それなのに、オー君は、パジャマ一枚でこの寒空へ飛び出したのだ。コウタはそれを思い出して身震いした。
幸い、支配人がすぐさまガス石を手配してくれたので、オー君がすぐに凍え死ぬとは考えられないが、一刻も早く、オー君を捜し出して連れ戻さなければならない。もしも冬将軍に見つかったら、最悪の事態になるだろう。
二人は四方八方に目を凝らし、オー君の名を呼びながら、水曜亭の周囲を大きくぐるりと捜し廻った。途中の横道や枝分かれした細道の奥まで、丹念に目を凝らして見て廻ったが、オー君の姿どころか、誰一人、虫一匹、動いているものは見えなかった。唯一、けやきの枝だけが、暗闇の中で寒そうに震えている。
「この寒空じゃ、そんな遠くへ行けないはずなのに、どこへ行ったんだろう。どこかに隠れているのかな。でも、どこも出入口はピッタリ閉じられているから、建物に入り込めないはずなんだけど」しいんとした十字路で、亮平が立ち止まり、つぶやいた。「それにしても、オー君があんなに早く走れるとは思わなかったよ。銀河原で、風使いの仙人に助けてもらった時は、軽くはずんで楽しそうだったけど、今回はそんな風には見えなかった」
「うん、ちょっと様子が変だった。むしろ、ぞっとしたよ。それにしても、いったいどこへ行ったんだろうな。すぐ見つかると思っていたのに」コウタも肩を並べ、目を細めて暗い通りの先を探った。「もしかしたら、あまりに寒すぎて、そのうち水曜亭に戻るかもしれないな。水曜亭が、まだ残っていればの話だけど」
亮平がギクッとして振り返った。
「コウタ、おどかすなよ。水曜亭がなくなったら、オー君どころか、おれたちも、この寒いだけの世界に置き去りだよ」
コウタは少し微笑んだが、寒さで頬の筋肉がひきつった。
「水曜亭は絶対に消えたりしないよ。支配人たちは、信用できる大人だと思うよ。そもそも、僕ら子どもたちを救うために、あそこに水曜亭を開いたくらいだからね」
それを聞いて、亮平は少し安心したのか、肩を軽くすくめた。
「それもそうだね。支配人って見かけは、ちょっと変だけど、やることはちゃんとしている大人だよな。自分は特別な夢見人だって言っていたけど、特別ってどういう意味なのかな。夢見人ならば、目が覚めたら元の世界に戻っちゃうんだろう?だったら、どうやって勾玉博士をずっと見張っていられるんだろう」
それはコウタも不思議に思っていた。あの支配人なしに、勾玉博士は生きてはいけない。周囲の世界と博士を繋げているのは、支配人だけなのだ。支配人は、博士を見張っていると言うより、むしろ世話をしているのではないか。いずれにしても、支配人は、博士のそばを片時も離れられないだろう。
二人は話をしながら、けやき通りを西へと歩いて行った。どれだけ捜しても、水曜亭周辺に、オー君はいない。だとしたら、コウタたちの会話を聞いたオー君は、翔のいる『西の果ての森』へ向かったのかもしれない。コウタたちは、オー君を捜しながら、『西の果ての森へ』向かうことにした。
「それにしても、オー君の家ってどこだっけ?どうしても思い出せないんだよね」
そうつぶやいていた亮平が、突然、目を大きく見開くと、はっと息を呑む音に続いて、張り裂けるような悲鳴をあげた。
「うわっ、ば、化け物!」
亮平は興奮のあまり、コウタのパジャマの裾をつかみ、力任せに引っ張った。特製ジャケットから、パジャマの裾がはみ出していたのだ。おかげで、二人は盛大に、舗道に転んだ。
転んだまま、振り返ってそれを見たとたん、コウタもまた心臓が止まりそうになった。
なんと、後方の通りから、人間の形をしたまっ黒な生き物の一団が、すごい勢いで、自分たちの方へ突進して来るではないか。コウタはとっさに体を起こすと、亮平の腕を引っ張り上げ、そのまま全速力で駆け出した。
だが、そのまっ黒な化け物たちも、二人に負けないくらい足が早かった。道路を滑るように、猛スピードで迫って来る。あっという間に、化け物たちは二人の背後に追いついた。亮平は恐怖のあまり、足がもつれ、とうとう派手に転んでしまった。
コウタは、追手に向かって威勢よく両手を振り上げ、意味もない言葉を、大声でわめきたてた。我を忘れたコウタは、破れかぶれになり、恐ろしい化け物相手に素手で立ち向かおうとしたのだ。けれど、そこで、ふと、冷静な、いつもの自分に戻った。
「止まれ」
コウタが命令すると、その黒い化け物たちは、ピタリと静止した。亮平はわけがわからず、まだ路上で縮み上がっている。その亮平を横目に、一息つくと、コウタは勝ち誇って叫んだ。
「亮平、よく見てみろよ。ほら、銀河原駅で預けただろう?これ、自分たちの影だよ」
一瞬の間をおいて、亮平は寒いのも忘れ、道路の上で仰向けのまま、笑い転げた。黒い影たちは、自分の主人を探し求めていただけなのだ。影たちは、自分の主人に近づけば近づくほど、吸い寄せられ、早足になるらしい。まるで磁石だ。
「あの背の高い影は、翔の姿そのものだし、このちょっと間抜けそうなのは、残念ながら、おれのだ!」
コウタと亮平の影は、それぞれ、嬉しそうに飛びかかって、本人と合体した。まるで、主人に巡り合えた飼い犬だ。本人たちにくっついた影は、1回だけぶるっと身震いすると、満足そうに、ごく普通の影となった。影もまた、四人一組で動いているようだ。
残った二人分の影たちは、力なく腕をだらりと落として、立ちすくんでいる。影の主からの命令をひたすら待っているようだ。三人の影はなんの変哲もない普通の影だったが、オー君の影だけが見るからに尋常ではなかった。
「また黒々としてきたな。オー君本人よりも、影の方が主人公みたいだ」
亮平の言う通り、オー君の影だけが異様に濃く、どろどろとして、まるで別の生き物だ。おまけに、影なので顔がないのに、不敵にも笑っている風に見えるのだ。一応、今は、コウタたちに従っているが、いつか裏切るのではないかという疑念が沸き起こるほど、気味が悪かった。
すっかり落ち着いた二人は、同時に、あるアイデアを思いついた。
「そうだ。これで、オー君と翔の正確な居場所がわかるじゃないか」
コウタたちは、手持ち無沙汰にしている二つの影に命令した。
「さあ、今度はおまえたちの主人のもとへ案内して」
二つの影はコックリとうなずいた。いや、オー君の影は、翔の影に調子を合わせて、単に首を縦に振っただけだが、それで十分だ。二人の居場所へ案内さえしてくれればいいのだから。
「よしよし。えらくしつけがいいな。特に翔の影なんて、本人よりずっと素直でまともそうだ」亮平が変に感心した。
二つの影は元気なく、とぼとぼと歩き出した。この様子から、翔やオー君は、ここからまだ遠いところにいるらしい。コウタたちも影たちを追って、寂しい通りを歩き出した。
二つの影は、そろって西へと進み、北の大通りに突き当たると、川に沿った『西の果ての森』へ続く道路を進んだ。特製ジャケットのおかげで、寒さはしのげているが、『西の果ての森』までは、結構長い道のりだ。
歩くのに疲れてきた頃、ようやく右手の山側に鳥居が見えてきた。参道の入り口は、黒々とした森の中にある。そこはもう『西の果ての森』だ。森が見えると、影たちはとたんに浮足立ち、小走りになった。ぐいぐい進んで、そのまま迷うことなく、森の中へと入っていった。
どうやら翔もオー君も、ここにいるのは間違いなさそうだ。コウタと亮平は、緊張しながら影たちに続いた。
この麓からでは、木々に遮られてよく見えないが、山の上には、大きな神社の社殿がある。神社に祀られているのは、火の神様だ。その社殿までは、長い石段が延々と続いている。これが春や夏だったら、樹々に囲まれた心地よい参道なのだが、今は、北風が吹き抜ける、厳しく物寂しい参道だ。
上の境内は広く、毎冬、お正月明けに、火祭りが行われている。各家から集められた正月飾りを大きなたき火で焼き、その御神火にあたれば、無病息災や家内安全などのご利益が得られるとの言い伝えがある。
影たちは麓の鳥居をくぐり、一対の狛犬を横目に、そのまま長い石段を軽快に登り始めた。続いて、コウタたちも、登り始めたが、影たちのスピードにはとても追いつけない。
幅広い石段は、寒風が吹きすさび、異常なほど冷え込んでいる。ほんの少し登っただけで、早くも手指や耳、足先が凍えて、痛くなってきた。おまけに粉雪まで舞い始め、二人の手足はすっかり赤紫色に変わり、足の動きが鈍くなった。
二人は、重い足を一歩ずつ、ゆっくりと持ち上げては、何とか石段を登ろうとした。
「本当に、こんなところに、オー君たちはいるのかな?この特製ジャケットの効果も、そろそろ怪しくなってきたみたい。上にたどり着く前に、凍え死にそうだよ」
亮平は震える声で、そう言った。そう言い終わったとたん、亮平の足は石段の途中で止まってしまった。
のろのろ進んでいたコウタも、ついに石段の途中で足が動かなくなってしまった。石段は、まだまだ上の方まで続いている。なのに、既に足先の感覚はなくなり、足全体がカチコチになって、思うように動かない。強烈な冷気が四方八方から迫り来て、二人を包み込む。コウタたちはまるで冷凍庫の中にいる気分だった。
足が止まると、すぐさま頭もぼうっとしてきた。どういうわけか、このまま凍った石段で眠りたいなんて、バカな考えが、頭の中を駆け巡り始めた。
見上げると、影たちは、コウタたちに構わず、石段を軽快に登っていく。その様子から、やはり翔とオー君は、確実にこの先にいるのだろう。わかっている。動かなきゃいけないのに、体が、足が動かない。
コウタたちは、影たちからどんどん引き離され、とうとう、影の後ろ姿が小さく見えるだけになった。
影は寒さを感じない。しかし、生身の人間であるコウタと亮平は、限界だった。これ以上は石段を登れない。まだ、たいして登っていないのに、既にもう、この有様だ。これでは水曜亭に引き返すしかないが、恐ろしいことに気づいた。もはや引き返す体力も気力も、残っていないのだ。コウタは、今更ながら後悔した。
後悔したものの、すぐにうつろな意識に引き戻され、凍った石段で眠るのも悪くないなと思うようになった。コウタは、両手を石段についた。もはや冷たさも感じない。ぼんやり視線を横に動かすと、すぐ隣で亮平も石段に座り込んでうつむいている。
いったい自分はどうしてしまったのだろう。コウタは、自分自身が信じられなくなっていた。自分のやっていること、やろうとしているすべてが、バカバカしく思えて、仕方がない。
ここでは、すべてが、冷たく、静かで硬い。それは、気高く美しく、永遠だ。温かく、柔らかい自分の体は、何とも不自然で異質だ。ぐにゃぐにゃと、気味悪く、いつかは腐って溶けてしまう、ただの肉の塊だ。こんな醜く、うっとうしいものは、早く脱ぎ捨ててしまいたい。このまま、冷たい石段と一緒になれたら、自分はどんなに幸せだろう。ほんの少しだけでも、永遠の気高さに近づけるのだ。
普段なら、想像もできない考えが、コウタの頭の中に入り込み、占領していった。
いったい自分はどうしてしまったのだろう。かろうじて生き残っていた、冷静なもう一人の自分が、頭の片隅でそうつぶやいた。
すると、風の音に紛れて、どこからか鈴の音が響いてきた。ちりりん、ちりりんと、小さいが、心に強く訴えかける音色だ。音が鳴るたび、虚ろな意識がノックされる。
こんな寒空の中で、風鈴が鳴っているのだろうか。それともこの寒いだけの境内に、誰かいるのだろうか。
つらつらと、様々な考えが浮かんだ瞬間、一陣の風と共に、粉雪が吹き込んできた。その粉雪はコウタたちの鼻先をかすめ、二人の周囲を取り囲み、軽快に舞い始めた。まるで、ちょっとしたつむじ風だ。コウタたち二人の周囲を勢いよく、ぐるぐる廻っている。
コウタは、初め、幻覚を見ているのだと思った。次には、とうとう冬将軍に捕まったのかと、早々に観念した。けれど、いつまでたっても、状況は変わらないままだ。粉雪が、コウタたちの周囲を廻り続けている。
正直なところ、寒さも、冬将軍も、異世界も、すべてがどうでもよかった。考えるのさえ、面倒だ。もう、自分を放っておいてほしい。今は、あらゆるものから解き放たれ、冷たさの中で、ひたすら眠りたいだけだ。深い安息は、永遠の氷の中にしかない。自分は、それを知っている。そして、ずっと探し求めていたのだ。
コウタは思わず、眠らせてくれとつぶやき、手を振り上げて粉雪を払い除けようとした。
しかし、粉雪は、なおも静かに二人の周囲を舞い続けた。ふと、あたりの空気が次第に温まり出したのに、コウタは気づいた。雪解けを誘う、春の日差しみたいな、体にじわりと染み込んでくる温かさだ。血の気のなかった頬や手足にも血が通い、やっと、手足の感覚が戻った。これは、少なくても、冬将軍ではなさそうだ。
― 大きな坊やたち、さあ、目を覚まして
坊やだって?コウタは、眠っていた意識が少しずつハッキリしてくるのを感じた。
気がつくと、吹きすさぶ寒風は止み、穏やかで温かい空間に包まれているではないか。亮平も目を覚ましている。なのに、二人のすぐ外は、寒々しい風景のままだ。
粉雪は二人の周囲を廻りながら、やがていくつもの光を放ち始めた。まるで蛍が舞っているようだ。コウタはその光景にうっとりした。
(変な粉雪。だけど、温かくて優しい粉雪だ)
懐かしい感情が、心の底の一点から芽生えた。その懐かしい想いは、コウタの体を芯からぐっと熱く燃え立たせた。
― やっと会えた、ずっと待っていた
コウタと亮平は、すぐ近くから響く声の主を探した。もちろん人影も生き物の姿も見えない。それは、いくつもの種類の違う鈴を一度に鳴らした、不思議な和音の声だ。
「あなたは、誰?」
コウタの声が寒空に響いた。
― 私たちは、雪の精。冷たく熱い、雪の精
でも本当は、火の精。冬将軍に呪われた、火の精霊
コウタは、はっとした。この鈴のような声をどこかで聞いた覚えがある。だが、いったいどこで聞いたのか、肝心な部分が思い出せない。よく見ると、舞っている粉雪には、小刻みに動く繊細な羽がついており、尾の部分にまっ白な雪綿がくっついている。
「あなたは、雪虫なの?」
ぼんやりした光の大群は、コウタの問いかけに優しい声で、いっせいにそうだと答えた。声は一つではなく、いくつもの声が楽しそうに重ね合わされ、心地よい合唱となった。鈴の音色の声は、このたくさんの雪虫たちの声だった。
コウタはふと思い出した。推薦状を出してくれたのは、この雪虫たちだ。そのおかげで、コウタたちは、厳しい雷門を突破し、無事に天上界へ入れたのだ。でも、どうして、雪虫が自分たちを助けてくれたのだろう。それを聞こうと思った瞬間、亮平が横から泣きそうな声で謝り出した。
「あの、ごめんなさい。おれ、公園で、雪虫を潰しちゃって。推薦状まで、出してくれたのに、ごめんなさい」
― 心配しないで。わざとじゃないって、知っている
私たちは、群れで一つの生き物。だから大丈夫。さあ、立ち上がって
コウタと亮平は、言われるままに、すぐに立ち上がった。硬くなっていた両足には血が通い、感覚も元通りになっていた。自分の両足には、力強さがみなぎっている。コウタたちは、何度も、その場で石段を踏みしめて確かめた。これなら、石段を登っていけるだろう。しかも、いつもよりずっと身軽になっている。ここは地上なのに、天上界にいるような身軽さだ。二人は、力と自信を取り戻した。
「ありがとう。今回だけじゃなく、あなたたちは、いつも僕たちを助けてくれた。だけど、どうして?」
コウタがそう言ったとたん、空中に渦巻く雪虫たちはいっせいに、コロコロと小刻みに震えた。
― 何故って、コウタは、大切だから
ここのみんなを助ける生き物だから
地球を助ける生き物だから
三人も大切。コウタを助ける生き物だから
夜鳴鳥で導いた。大事な四人を守るため
コウタには、まったく意味がわからなかった。
「僕が、ここのみんなを助ける?地球を助けるって?僕らは、友だちを助けに来ただけだよ。オー君と翔を見つけて、元の世界に連れて帰るため、やって来たんだ」
― ここでの「助ける」は、意味が違う
コウタは、しばし思案に暮れた。助けるは、どの世界でも同じ意味ではないのか?
― オー君を助けることは、ここのみんなを助けること
ここのみんなを助けることは、オー君を助けること
でも、オー君を連れては帰れない
「どうして、オー君を連れて帰れないの?」亮平は目をむいた。
― 大きな選択をしないといけないから
悪のまま永遠の氷に閉じ込められるか、善となって炎に焼かれるか
コウタと亮平は度肝を抜かれ、その場で体が固まってしまった。自分たちを救ってくれた雪虫なのに、オー君に対しては、まるで裁きを受けろと言わんばかりに厳しい。
「オー君は僕らの友だちだ。どっちも選ばないよ。四人一緒に、元の世界に帰るんだから」
コウタは語気荒く叫んだ。
― 違う。コウタは、冬将軍と戦う
オー君を助けるため、すべての世界を助けるために
コウタは、自分の耳を疑った。子どもの自分に、冬将軍と戦えと言うのか。コウタはいつになく動揺し、次には大笑いしたくなり、しまいには、怒りが込み上げてきた。
「何、バカなことを言っているの?このとおり、僕は、何の力も武器も持っていない。ごく普通の子どもだよ。これで、どうやって冬将軍と戦えって言うんだい?そもそも、なんで、僕にこだわるの?他に、もっと強い大人が大勢いるじゃないか」
― 力がある。隠された力が、コウタの中に
ここでは、武器ではなく、力だけ
力が、武器になる
だけど、コウタが気づかないと、力は使えない
「僕のどこに、力があるって言うの?無茶言わないでよ。大悪魔の冬将軍を相手に戦えだなんて!」
コウタは恐ろしさのあまり、身震いして叫んだ。
冬将軍という言葉を聞いただけでも、ぞっとするのに、そんな化け物相手に戦うなんて、とんでもない話だ。正体だって、見たくもないし、関わりたくもない。オー君と翔を連れて、さっさと元の世界へ帰るのが、精一杯だ。それすら、できるかどうかわからない。あまりに、無理難題を突き付けてくる雪虫に、コウタは腹が立って仕方がなかった。
この、訳のわからないやり取りにも、いい加減、嫌気が差してきた。こんなところで道草を食っている暇はない。この先に、翔とオー君がいるのなら、ガス石が使えなくなる前に、救出しなければならないのだ。
「僕らを助けてくれたことに、感謝します。けれど、これ以上あなたたちと話をしても、時間が無駄なので、もう行きます。翔とオー君を連れて、元の世界に帰る。今の僕らには、それだけで手一杯なんだ。それ以上のことは、期待されても無理なんだよ。亮平、行こう」
憤りで、コウタの体がまた熱く火照った。コウタが、亮平に目配せすると、亮平はぎこちなくうなずき、申し訳なさそうに、雪虫の群れに軽く一礼した。
コウタたちは、再び長い石段を登り始めた。光る雪虫たちは二人を取り囲んだまま、しばらくの間、一緒に移動した。おかげで、温かい空気に二人は守られている。雪虫たちは、もう何も言ってこない。
石段の両脇に生えている木々は、もはや樹氷と化していた。光がまったく当たらないので、樹氷は不気味に黒々としている。石段には薄氷が張り、下手をすると滑って転びそうだ。二人は注意深く石段を登っていった。
この特製ジャケットだけでは、二人は石段で凍え死んでいただろう。雪虫たちのおかげで、二人は猛烈な寒さから身を守れているのだ。コウタは、雪虫に対して、申し訳なさと、腹立たしさで、複雑な気持ちだった。
長い石段を登り、二人はようやく少し開けた平坦な場所にたどり着いた。その先には、二十段ほどの石段が続き、それを登った先には、神社の社殿がある。
ここでやっと、コウタたちは、二つの影たちに追いついた。先を行く翔の影は、寒さのせいなのか、動きが鈍くなっていた。信じられないが、影なのに、氷りかけている。
それとは反対に、オー君の影は黒々と燃え盛る炎のごとく、やたら元気に先を進んで行こうとする。そして時折振り返っては、こちらを見下ろしている。顔があるわけではないのに、コウタたちをあざ笑っている気がした。
寒さと疲れで、再び足が棒のようになっていたが、影たちの後を追って行った。二人は、どうにか最後の石段を登り切ったが、二体の影は見えなくなっていた。
目の前には、恐ろしいほど寒々とした風景が広がっていた。そこは神社の社殿のある、広々とした空間だったが、吹雪が四方八方から、コウタたちを目がけて吹きつけてくる。吹雪のせいであたりが霞み、奥にある社殿はほとんど見えない。
唯一、はっきり見えるのは、社殿の背後にある奇妙な黒い雲だ。それは、もくもくと形を変えながら、神社を抱きかかえ、どっしりと構えている。社殿の背後には、針葉樹の黒い森があるはずだが、もはや暗すぎて、あるのかどうかもわからない。生きているものが何もない暗闇の世界だ。
だが、そんな殺ばつとした世界の中で、たった一つ、希望の光があった。
社殿の斜め手前には、背丈ほどもある、赤い炎が燃え盛っている。この吹雪の中、かがり火が炊かれていた。
炎は強い吹雪にあおられ、すぐに消えそうになるが、決して消えなかった。炎は、絹糸のように細くなり、風にあっさり押し倒されるものの、すぐに立ち上がり炎を太らせた。
弱々しいけれど、しなやかで力強い命の炎だ。強風にさらされながらも、小さな生命を脈々と繋いでいる。コウタたちは、そのかがり火があるだけで、救われた気持ちになっていた。
そのかがり火のすぐ後ろには、太くて巨大な柱が空に向かって、いくつもそびえ立っている。いや、それはよく見ると、柱ではなく、巨大なツララだった。巨大なツララの柱が、不揃いに並んでいる。かがり火の赤い炎が、わずかにツララを照らし出していた。そのツララの奥まった陰に、誰かが磔にされている。ぐったりとして、生きているのかどうかも、わからない。
だが、二人はすぐにそれがオー君だとわかった。なんと、オー君は、両手を広げ、十字の格好で、ツララに磔にされている。しかも、パジャマ一枚だけの姿で。
「オー君!」
二人が呼びかけると、オー君の顔が少しだけ持ち上がったが、すぐにまた、力なく頭をだらんと落とした。
その瞬間、コウタたちと一緒にいた雪虫たちが、ぱっと、空中に消え散った。
とたんに、コウタと亮平はピリピリする冷気にさらされたが、二人はわき目も降らず、オー君目がけて走り出そうとした。
しかし、腕ほどの太さもある、先の尖ったツララがいくつも、二人を目がけて飛んできた。ツララは、かがり火の明かりに照らされ、てかてかと赤黒く輝いている。見るからに毒々しい姿だ。明らかに、コウタたちに狙いを定めている。あんなツララが命中したら、とても生きてはいられない。
「危ない!」
そこへ、誰かの叫び声がした。と同時に、横からオレンジ色の石がいくつも、コウタたち二人の目の前に飛んできた。
今度は、石を投げつけられたのかと、二人が思わず身をすくめたが、そうではなかった。
石みたいなオレンジ色の物体は、二人の前で複雑に重なって組み上がり、たちまち盾となって、飛んできたツララを受け止めた。その物体は妙に温かく、おまけに見た目と違って柔らかい。先の鋭いツララをクッションとして受け止め、包み込み、二人を守っていた。
驚いた二人が、重なった物体をかき分け、隙間から覗いてみると、そこには、意気揚々とした翔がいた。
「よう。やっと会えたな。待っていたよ」
翔もオレンジ色の物体を器用にかき分け、中腰のまま、コウタたちの方へやって来た。翔は、顔を火照らせ、興奮気味に語った。
「オー君救出のチャンスを狙っているところだよ。あのとおり、オー君はひどい有様だけど、ちゃんと生きている。火の精たちが、一生懸命、かがり火を絶やさないようにして、オー君を守っているんだ。けど、あの黒雲には、気をつけろよ。近づこうとすると、あの中に潜んでいる奴らが容赦なく、ツララで攻撃してくる。おれは、この変に暖かい石が、体に引っついていたおかげで助かっているけど」
こういう状況に、翔はめっぽう強い。この暗く寂しい境内にたった一人なのに、決してくじけず、しかも、オー君を助けようとさえしていたのだ。コウタは、翔の強さに感心した。
「あのかがり火は、火の精霊だって?つまり、雪虫たちなのか」
コウタがそうつぶやくと、今度は翔の方が口笛を短くひゅっと吹いた。
「火の精霊は、雪虫だったのか。ふうん、なるほどね」
翔は感慨深い表情で、オレンジ色の物体を引き寄せ、刺さったツララを引っこ抜いた。ツララによって開けられた穴は、すぐに塞がり、元のふっくらとした形に戻った。翔は、そのうちのいくつかを頭や胸に当てた。
「今のうちに言っておくよ。ほら、こうやって体の周りにくっつけるんだよ。暖かいし、攻撃から身を守れるんだ。これの正体はわからないけど、優れ物には違いないな。おれが上から落ちた時、どこからともなく飛んで来て、体を受け止めてくれたんだ。本当にありがたいよ」
引っこ抜かれたツララの方は、あっという間に蒸発してしまい、黒い煙となって消えた。
「これが、ガス石ってやつだよ」亮平が得意そうに言った。「勾玉博士が発明したんだってさ。翔とオー君が上から落ちた時、二人を受け止めて守るため、水曜亭が飛ばしたらしい。けれど、もうすぐ効力が切れるので、気をつけろとも言われたよ」
「へえ、博士もたまには、まともな発明をするんだな。ああ、確かに、前よりしぼんできたので、気にはなっていた。そうすると、しぼみ切る前に、オー君を助け出さないとまずいな」
翔は、少しの間、考えた。
「さすがに、ここは隠れる場所もなく、風当たりが厳しいから、いったん後ろに引き下がろう。このすぐ下に、いい場所があるんだ。そこで、オー君を救出する作戦を練ろう」
「大賛成!」コウタと亮平が声をそろえた。
三人はガス石を寄せ集め、盾にしたまま、じりじりと後退し始めた。ところが、動き始めると、またしても黒雲からツララが容赦なく飛んで来る。それも、前よりも飛んで来る数が多く、ガス石はたちまちボコボコに傷ついた。
「まずいな。ちょっと動いただけでも、攻撃が激しくなる。これじゃあ、さすがのガス石も、もたないよ。仕方がない。ここで少し様子を見ようか」
三人はガス石の塊の中に身を寄せ合い、身動きせず、じっとした。間もなくすると、ツララの攻撃は、収まった。コウタたちは、ガス石の隙間から外の様子をうかがいつつ、ヒソヒソと小声で話を続けた。ガス石に囲まれていると、とても暖かく居心地がいい。そのすぐ外側では、猛烈な吹雪が吹き荒れている。
「で、君たちは、どうやってここまでたどり着いたんだい?」翔が言った。
「話の前に、これを着て。君の分を預かってきたんだ」
亮平は、水曜亭でもらった特製ジャケットをポケットから取り出した。小さなオレンジ色の塊は、ポケットの外に出たとたん、勝手に大きく膨らみ、ジャケットの形になった。翔は、それを受け取ると、急いで着込んだ。
コウタは、自分たちがここに来た経緯を簡単に説明した。
翔は、口も挟まず、真剣にコウタの説明を聞いていた。話を聞き終わっても、たいして驚きもせず、冷静に納得していた。
「絶対に、君たちは、助けに降りてくるだろうと思ったよ。あの、『大蛇の滑り台』を使ってね」
翔がすぐに、コウタたちの話を納得できたのは、自分の想像どおりだったからだ。コウタたちなら、きっとこうするだろうと、予想していたのだ。ただ、オー君が水曜亭を飛び出した件については、まったく想定外で、翔はかなり動揺していた。
コウタが話し終えると、亮平が物珍しそうに、ガス石を触りながら、翔に尋ねた。
「それにしても、翔はススキが原で何をやらかしたんだい?上では、最低最悪の評判だったよ。まさか君が、雷の矢に撃ち落とされるなんてね」
「雷の矢?ああ、ススキヶ原での出来事だね」翔は、おかしそうに笑った。「おれが落ちたのは、単純な理由さ。悪さをしたわけじゃない。ススキヶ原で、銀ギツネの粉を浴びたんだよ。それで、オー君が雷の矢に撃たれて、落ちるのを見た瞬間、おれも後を追ってオー君を助けるんだって、強く思ったら、その願いが叶って、一緒に落ちたんだ」
コウタと亮平は、拍子抜けして、互いに顔を見合わせた。少なくとも謎の一つは解けたし、翔への疑問は完全に解決した。
心の底に引っかかっていた問題が、また一つ解決したところで、コウタは水曜亭で聞いた話を突然、思い出した。こんな切羽詰まった状況なのに、コウタは、何故か今、翔にも話しておかなければならないと、強い思いに駆られた。
「翔、聞いて欲しい」
コウタは、水曜亭で聞いた話を、かいつまんで説明した。氷砂糖の街が罠だったことや世界が危険であること。それから、最も重要な、翔と勾玉博士の関係についてだ。
それまで冷静に耳を傾けていた翔は、勾玉博士についての話を聞いたとたん、表情が一変した。
「なんだって?犯罪者の勾玉博士が、おれの叔父さんだって?」
さすがの翔も、驚愕のあまり、滅多に見られない顔になった。そんな翔の表情に、亮平は満足そうにうなずいた。
翔は、急に黙りこくってしまった。それでも、大きくひと呼吸すると、いつもの冷静な翔に戻った。
「やっと、おれが、初めからこの世界を知っていた訳が、わかったよ。やっぱり夢の中で来ていたんだね、叔父に連れられて。確かに勾玉博士は、昔、行方不明になった、おれの叔父さんなんだろうな。まったく覚えていないけど」
翔は、苦々しい顔で、しみじみと語った。
その時、硬い物がピシッと割れる音がした。翔は、突然はっとして身を起こした。
「まずいな。いよいよガス石が、使えなくなりそうだ。どうすればいいんだ」
確かに三人は、体がだんだん冷えていくのを、身をもって感じていた。
「こうなったら、仕方がない。できるだけオー君に近づいてみるか。かがり火もあるし」
三人は、しぼみかけて元気のなくなったガス石を束にして前に掲げ、再びオー君の方へと進み始めた。
すると、今度は黒い雲から、白く重い冷気が地面を這って、三人の方へ流れ出て来た。白い煙の冷気は、なめらかな絹の輝きを放ち、一見すると美しい。しかし、見かけとは裏腹に、その冷気の白い波に触れると、生えている草は一瞬にして凍り、石ころでさえガチガチに凍りついた。触れたものすべてを氷漬けにしてしまう、恐ろしい死の波だった。それがゆっくりと音もなく、ヒタヒタと三人の方へ近づいて来る。コウタたちは、ぞっとした。
「ダメだ!後ろだ、後ろに戻るんだ!」
三人が慌てて後退し始めると、今度は、握りこぶしほどもある雹が、黒雲から三人目がけて次々と飛来した。雹はガス石に当たり跳ね返されたが、ガス石は、その衝撃のたびに、大きくしぼんでいった。雹は、前方からだけでなく、四方八方から飛んでくる。
気がつけば、いつの間にか黒雲は巨大化して広がり、コウタたちの周囲三方をがっしりと取り囲んでいた。矛先はコウタたちに向けられ、絶え間なく、雹の塊が浴びせられた。見えない敵から、集中砲火を浴びているのだ。
「ツララの次は、雹か。姿を表せ、この卑怯者!」
翔がガス石で頭を覆いながら、叫んだ。すると、飛んでくる氷のつぶてがいっそう大きくなり、勢いも激しくなった。
三人はたまらず、頭を抱え込み、ガス石に身を包み込んだ。今度は、四方八方から容赦なく飛んでくるので、まったく身動きがとれない。その場で必死に耐えるしかなかった。まさに一歩も動けない状態だ。
ガス石たちは、雹が当たるたび、プカプカ、プシュプシュと情けない音を立て始めた。中のガスがもれている音だろう。ガス石は、ますます薄っぺらになっていった。これでは使いものにならない。
雹が勢いよく当たると、その衝撃はコウタたちの体にも伝わり、耐え難いものになってきた。全身が、休みなく打ちつけられ、体中がひどく痛い。今にも泣きそうな気分だ。頭を打ちつけられると、衝撃で目がくらみ、もはや何一つ考えられなくなった。
「いったいどうすりゃいいんだよ!」
亮平が思わず絶叫した。
三人はもはや、進むことも、退くことも、できなくなった。




