第17章 銀河原駅
意を決したコウタは、用水路の縁に立った。ちょっと近づいただけでも、毒水の強烈な悪臭が鼻をつく。
コウタは、もちろん怖かった。本当に、店の男の言う『勇気と正義』が、自分の中にあるかどうかはわからない。自分には少しの偽りもないと言い切れる自信はない。それでも、銀河原へ行きたい気持ちは、まったく揺るがなかった。
翔たちは生唾を飲みながら、背後からコウタを見守った。
コウタは、サンダル履きの足を、思いきって用水路の水に浸してみた。だが、何の感触もない。冷たくもないし、水流も感じない。見た目やにおいとは、裏腹に、水は単なる幻だった。
コウタはほっとすると同時に、こんなことで二の足を踏んでいた自分を、情けなく思った。そして、人無月荘の屋根から飛び降りた時を思い出し、自分はまたしても騙されたのだと、笑いが込み上げてきた。
ひとしきり笑った後、コウタは振り向き、三人に元気よく手を振って叫んだ。
「この幻、本当によくできているよ」
それを聞いた亮平と翔は、迷わず、コウタの後を追って用水路に入った。案の定、入ったとたん、二人は大笑いして騒ぎ出した。水のかけ合いごっこをしているが、水しぶきは一滴も上がらない。コウタも加わり、適当に手足をばたつかせて、三人は踊り狂った。
しかし、オー君だけは、なかなか中に入ろうとしない。三人がふざけ合いながらオー君を呼んでも、オー君は三人を見つめるばかりだった。
「オー君、どうしたの?ほら、このとおり、ただの幻だよ」コウタが大声で叫んだ。「もしかして具合が悪いの?」
「いや、調子は悪くないよ。でも、僕だけは、通り抜けられないかもしれない。そんな気がするんだ」
オー君は、弱々しく答えた。
コウタは首をひねったが、ふと、オー君の気持ちがわかるような気がした。自分も、オー君と同じ不安を感じているのだ。
オー君はおそらく、本当に特別なのだ。何が特別なのかはわからない。影が異常だったり、冬将軍に追われたり、他にもいろいろあるけれど、そんなことではない。コウタたち三人とは、どこか大きく違っている。そう感じているのは、確かだ。
だとしても、四人はここまで、無事にたどり着けたのだ。本当に重大な問題があるなら、先へ進めず、どこかで挫折していたに違いない。そもそも、天上界の入口である雷門すら、通過できなかったはずだ。銀河原は目前だ。ここまで来て、進めないはずがない。コウタはそう確信した。
「大丈夫だよ、オー君。たとえ君が特別だとしても、今まで、この世界を通り抜けてきたんだ。四人一緒なら、問題ないんだよ」
亮平と翔も、ふざけるのを止めて、口々にオー君を誘った。
「そうだね。みんなの言うとおりだね」
少し間をおいてオー君はそう答えたが、声に張りがない。やはり、その場から一歩も動こうとしなかった。コウタは、オー君を迎えに行こうと動き出した。
ところが、その前に、亮平がさっさと水際へ戻り、オー君の手を取った。オー君は、ためらいを見せていたが、亮平に手を引かれ、恐る恐る片足を水の中に浸してみた。とたんに、笑顔に変わった。
「ほらね」
亮平が嬉しそうに叫んだ。
オー君は笑顔のまま、自分から用水路の中へと入っていった。
一方、先に用水路の中央へと進んだ翔が、水の中を指さしながら叫んだ。
「おい、川の中に何かがあるぞ」
翔は腰くらいまで、見えない水に浸かっている。先ほど店の男が、水中に沈んでいったあたりだ。翔は、更に一歩足を踏み出すと、何かを発見し、あっと短く叫んだ。
コウタたちも、すぐに翔の後に続いた。
用水路の中央付近に入ったとたん、川の流れは視界から消え失せ、その代わりに、打ちっ放しのコンクリートの階段が見えてきた。階段は、川底の方へと続いている。四人は、ゆっくりと階段を降りていった。
階段を半分ほど降りた頃だろうか。ちょうど頭が水中に隠れる深さになった時、あたりの空間に、青白い星の粒がいくつも現れ始めた。そして、それは揺らめく青白い光となり、自分たちの方へ、ふわっと押し寄せてきた。水族館の透明な海底トンネルの中から、海中を眺めている気分だ。階段を降りれば降りるほど、不思議な光景が次々現れては、消えていった。
たくさんのクラゲが、青い空間に停止したまま、漂っている。クラゲたちは、水面に浮かぶ金属の塊を見つけると、上方へ移動し、長い触手を伸ばして金属塊に群がった。金属は、クラゲたちの餌になっているようだ。あっという間に、金属の塊は、溶けてなくなった。人間の残した宇宙ゴミは、このクラゲたちが片付けていたのだ。
コウタたちは、この不思議な環境にも慣れてきた。軽い足取りで、急な階段を降りて行った。川底に下るほど、あたりはますます静まり返り、空間は濃い青色へと変わっていった。
川底に近づくと、クラゲの姿や青白い光の煌めきは少なくなり、代わりに、動きのない、深い紺色の世界が広がっていった。
濃紺の空間を突き抜けると、階段の終点には細長い地下道が横たわっていた。そこは、川底の静かで落ち着いた空間だ。見上げると、遥か上方の水面には、一筋の青白い小川が流れている。毒水の用水路は、この巨大な空間の天井に映った幻影なのだろう。
店の男は地下道で、コウタたちが来るのを待っていた。
「遅かったね。君たちは、もう来ないのかと思ったよ。わかっただろう?ならず者たちが銀河原に入るのを、この用水路が食い止めているんだ。連中は、そもそも用水路に近づくことすらできない。闇があまりに多過ぎる連中は、毒水の近くに寄っただけで、本当に体が溶けるからね」
体が溶ける場面を想像した四人は、気味悪そうに顔をしかめた。
「君たちは、誰も溶けて消えていないのだから、全員合格ってことだ」
店の男にそう言われても、四人はたいして嬉しくなかった。
四人は、店の男に促され、薄暗い地下道を歩き出した。地下道は、湿気がほとんどなく、思ったより、ずっと快適だった。心地よい微風が吹き抜けている。両側の壁は、ほとんど青一色だが、心が癒される色合いだ。
地下道は、多少の勾配はあるものの、ほとんど平坦な道だった。天井を見上げると、先ほど見た青い小川が、一方向に揺らめいて流れている。つまり、この地下道は、用水路の真下に作られ、用水路に沿って続いているのだ。
単調な地下道を、五人は黙々と歩き続けた。
「あの、いつになったら、銀河原に着くんですか?」
かれこれ3時間ばかり歩いた後、こらえ性のない亮平が、店の男に尋ねた。亮平に限らず、四人全員が疲れ果てていた。夜明け前の丘を延々と歩き、目のくらむ絶壁を登り続け、シュミセン茶屋で散々冷や汗をかいたおかげで、体力も気力もほとんど残っていない。
「君たち次第だよ。出口は、君たちが創るんだ」
男は足を止め、振り向きざまに答えた。四人の足も止まった。
「また、謎かけですか?」
気の短い亮平は、うんざりしながら咎める口調で言った。
「そうじゃないよ。天上界は、上へ行けば行くほど、軽い、心の世界になっていくんだ。なかなか目的地に着けないのは、銀河原に行きたい思いが足りないからだ。つまり、それぞれの思いが足りないか、それとも、誰かが、あまり行きたくないと思っているか」
四人は互いに顔を見合わせ、コウタが代表して、嘆くように言った。
「この世界の常識って、本当に面倒だなあ。僕らは全員、銀河原に行きたいと思っているから、つまりは、それぞれの思いが今ひとつ、足りてないんだね」
コウタの嘆きに、店の男はあっさりと答えた。
「まあ、そういうことかな」
「わかった」翔が、渋い顔をして提案した。「じゃあ、ちょっと気恥ずかしいけど、こうしたらどうかな」
コウタたちは、翔の提案に賛成し、互いに手を繋ぐと輪になった。そして目を閉じて心を落ち着かせ、銀河原への思いを強く念じた。
銀河原に行きたい。銀河原に行きたい。どうしても、銀河原に行きたい…
青暗い空間に、四人の息づかいが響いていく。風はピタリと止まった。しかし、微かに、ふわりとした暖かい空気を感じる。暖かい空気は、店の男から流れてきている風にも感じる。
次の瞬間、四人はほとんど同時に、瞼の裏にはっきりと見た。マンジの記号が重なった出口の階段だ。
「見えた、出口だ!しかも、マンジまで見えた!」四人が口々に叫んだ。
たまらず、目を開けると、果たして、そこには本物の階段があった。上方から眩い光が差し込む、純白の階段だ。自分たちだけの、特別な階段に違いない。
「実に良い心がけだ」
店の男は、満足げに階段へ歩み寄った。四人も店の男に続き、はやる気持ちを抑えながら、まっ白な階段を登った。出口に、扉はない。
地上に出た四人は、驚愕した。目の前には、ゴミの山どころか、何もない。唯一、銀色に光る道だけが、宙に浮いている。その銀の道は、やたら白っぽく発光し、紙みたいに薄っぺらだ。なんて奇妙な光景なのだろう。
右手には大きな月が、反対側には同じくらい大きな地球が、顔を突き合わせて競っている。しかし、月と地球と薄っぺらな銀色の道以外は、すべてが消しゴムで消された風景にしか見えない。靄や霧すらない、ひたすら白っぽいだけの空間だ。
このあまりに大胆で異様な空間に、四人はたちまち恐れおののいた。四人が旅した天上界は、変わった世界ではあったが、それでも地面があり、周囲の風景もあった。
しかし、ここは、恐ろしいほど何もない。なさ過ぎる。どちらが上で、どちらが下なのか、それさえ怪しい。自分の感覚すら信じられず、気がおかしくなりそうだ。巨大な月と地球も、たいした助けにはならない。上下ひっくり返ったところで、何もおかしくない光景だからだ。
猛烈な孤独と不安に襲われた四人は、たちまち足がすくんで、身動きが取れなくなった。亮平にいたっては、店の男が着ている作務衣の裾を握りしめていた。
店の男は、笑った。
「怖がらなくてもいい。これが、『白銀の道』だよ。私の後をしっかりついてくれば、じきに慣れるさ」
店の男は平気な顔で、白銀の道をゆっくり歩み出した。ゆう然と前に進んでいく店の男は、四人にとって、非常に頼もしかった。
道幅は、一メートルにも満たない、細い道だ。白く発光して、やたら眩しい。その薄っぺらな道の下には何もなく、体が常に宙に浮いている感覚だった。
四人は、みっともないほど、男のすぐ後にくっついて、一列になって歩いた。とても滑稽な姿だと、わかってはいたが、すぐ目の前に誰かがいないと、たちまち感覚が怪しくなり、取り乱しそうなのだ。
十分気をつけていたはずなのに、コウタがうっかり道から右足を踏み外してしまった。あっという間に、コウタは道から転落した。と思ったら、足だけが白銀の道の裏側にへばりついたまま、コウタの体はくるりと半回転し、逆さ吊りの状態になった。
コウタは、慌てふためき、叫ぼうとした瞬間に気がついた。天井に足が引っついて、両足は光る道から外れもせず、しっかりと安定していた。体が逆さのはずなのに、全然苦しくもなく、いつも通りだ。それどころか、そのままの態勢で歩けるではないか。
奇妙な光景だが、自分ではなく、みんなの方が逆さ吊りに見えるのだ。
こうなると、どっちが上でどっちが下なのか、どうでもよくなった。重力が狂っているのか、感覚がおかしいのか、よくわからない。だが、逆さのままでも、体はとても安定している。コウタは、逆さになったまま、白銀の道を歩いてみた。この、あまりに自然な感覚に、むしろ自分自身が驚いた。
亮平たちは、最初はぞっとしていたが、慣れてくると、面白がって、自分たちも逆さになったまま歩いてみた。
そうしているうちに、光り輝く十字路に出くわした。そこだけひときわ明るく、宙に浮く十字架みたいだ。どの道も、その先が霞んでいるため、よく見えない。そのため、よけいに、十字架に見えるのだ。
左手の細い道は、地球の方に向って続いている。多少鈍い色合いで、十字路を離れると、急に細くなってうねり出し、クネクネと折れ曲がっていた。どことなく、薄気味悪い道だ。
右手の道は、堂々と月の方へ向かっている。四人が今歩いている白銀の道が、そのまま緩くカーブを描き、その先に続いている。道の明るさは、今の道とそう変わらない。
ま向かいのしっかりした道は、一番広く明るく、どっしりとした道だ。地球と月の間を通り、空間の果てまで、まっすぐ続いている。白っぽい金色の輝きが、やたら眩しい。思わず、こちらの道に足を踏み入れてしまいそうだ。
しかも、この道だけは、他の道と違っていた。十字路から数歩入った道端には、ピカピカ光る、宝石のような石が、たくさん転がっている。大きさは大小様々で、虹色の金属光が放出されて、周囲にも虹色の幻影を映し出している。輝く石は、広い道の両脇に連なり、花道のごとく、どこまでも続いていた。
「うわあ、なんてきれいな石なんだ」
亮平の目の色が変わった。亮平は、みんなを追い越し、十字路に踏み込むと、輝く石に手を伸ばした。しかし、店の男は、素早く亮平の腕をつかんで、強引に引き戻した。
「ダメだ、その石に触ってはいけない!」
店の男は、厳しい表情で叫んだ。亮平は勢い余って、十字路のまん中に転がり込んだ。
「その石に触れると、取り返しがつかないぞ。その石は、『鏡石』といって、邪悪な者たちを惑わすために置かれた罠だ。触れると、目の前に、万華鏡が永遠に広がっていくのだ。それも、その者の抱いている悪夢がね」
四人は、初めて店の男の真剣な顔を見た。店の男はそれまで、無言か、にやりと笑うか、コウタたちに変な謎かけをするか、そのうちのどれかだった。
「悪夢の万華鏡だって?」翔が、不吉な言葉に眉を動かした。
「そうさ」男は既に落ち着きを取り戻していた。「君が一番苦手とするものは?」
店の男が、また変な笑い方をした。
「蛇…かな」翔が、眉をひそめながら答えた。
「では、その蛇の群れが三百六十度、どこを見ても、万華鏡になって宇宙の果てまで広がっていくのを想像してごらん。しかも、次の瞬間には、すべての蛇が、自分目がけて突進してくるのだ。たとえ目を閉じても、その光景は永遠に回転し続け、形を変えながら繰り返されるのだよ」
翔は、恐ろしさのあまり、顔が引きつった。亮平も同じだ。亮平は、十字路に転がったまま、真剣に話を聞いている。
「『鏡石』は放っておけば、自然に熟して流れ星になるが、まだ、ああして輝いているうちは、絶対に触ってはいけないよ。わかったね?」
恐怖でこわばった顔のまま、亮平がうなずいた。ほぼ同時に、オー君が言った。
「でも、この道にだけ鏡石が置いてあるのは、この先に重要なものを隠しているからでしょう?」
オー君の鋭い指摘に、店の男は初めて表情が大きく変わった。
「まいったな、ああ、そのとおりだ。この、まっすぐ行く道は、『白金の道』と呼ばれているが、この先には、『銀河亭』と『秘密の裏庭』がある。そこへたどり着くのは、銀河原へ行くより、よっぽど難しい。この鏡石をはじめ、何重にも仕掛けが用意してあり、守りを固めているんだ。あそこに、重大な秘密があるのは、確かだ」
「どんな?」
亮平の飽くなき好奇心に、男は軽快に笑った。
「それこそ、答えられないよ。秘密の内容が知れ渡ったら、ならず者どもが危険を承知で、押しかけるに決まっている。そうなったら、鏡石がいくらあっても足りないからね」
四人は、それぞれが思いを巡らせた。この世界は、自分たちが考えているよりずっと複雑で、深い謎に満ちている。自分たちの世界の常識は、まったく通用しないのだ。だから、ちょっとした好奇心でさえ、命とりにもなりかねない。
銀河原への案内とは、単なる道案内ではない。コウタたちの世界の道案内とは、違うのだ。
目的地へ安全に行く道筋や方法の案内はもちろんだが、そればかりではない。銀河原に入るにあたって、自分たちの心構えや行動も含め、必要な準備を導く役目でもあるのだ。
もし、この店の男や彦助がいなかったら、コウタたちは、どうにもならなかっただろう。自分たちの力だけで、銀河原へ行きつくのは、絶対に不可能だ。
銀河原への道案内役、つまり勇気と正義を併せ持つ男とは、本当のところ、この男のことではないだろうか?コウタは密かに、そう思った。
十字路は相変わらず、美しい輝きを放ち、五人がどの道を選択するかを辛抱強く待っている。
「さて、今、我々が進むべきは、この右へカーブする道だ。今まで歩いた白銀の道の続きでもあり、銀河原へと導く道だ。ちなみに左手の細い道は、君たちが想像しているとおり、地球へ戻る近道だ。『大蛇の滑り台』と呼ばれている。もっともこれは、非常用だがね」
店の男はためらわず、十字路を右へ曲がり、歩を早め出した。
四人は道を曲がる際、『大蛇の滑り台』を恐る恐る覗き込んでみたが、ぞっとして、すぐに顔を背けた。じっと見ていると、体が吸い込まれそうになるのだ。コウタは、小人族の地下国へ続く、あの長く不気味な石段を思い出していた。
確かに、その小道は、地球方面に向かってはいるが、途中で、途切れている。途切れた道の先端と地球との間は、あまりに離れすぎて、どうなっているのかは、わからない。いずれにしても、この小道が地球まで届いているとは、到底思えなかった。
一方、自分たちが進んでいる白銀の道は、明るく軽快で、多少上り坂ではあるけれど、歩いていても気持ちが良かった。何もない風景が、あれだけ不安だったのに、慣れてくると、見えない方がむしろ安心だった。宙に浮く道に慣れてきた四人は、ようやく、あたりを観察する余裕が出てきた。
自分たちの歩んでいる白銀の道は、月のまっ只中へ続いていると思われた。しかし、緩いカーブを曲がると、変化が訪れた。目の前に、大きなアーチが現れたのだ。とても簡素な造りで、色あせた青と白の看板に、『銀河原駅へようこそ!』と書かれている。
四人は、大声をあげて喜ぶ寸前で、はたと立ち止まった。そこにあるのは、この大げさに目立つアーチ型の看板一つだけなのだ。しかも、看板は相当古くボロボロで、看板の文字すら、ところどころ剥げ落ちている。その先には、駅どころか、何もない。
「ここが本当に銀河原駅なの?」
オー君が、半信半疑でぼやいた。あまりに何もないので、四人は、がっかりした。その名称から、壮大で華々しい建造物を、それぞれが勝手に想像していたが、建屋すら見当たらない。
店の男は、黙ったまま、独りでどんどん先へと進み、アーチ型の看板をくぐって行った。四人は、慌てて男に続き、アーチの看板をくぐり抜けた。
くぐり抜けても、景色はそう変わらず、四人は、なお、がっかりした。この世界のことだから、アーチをくぐり抜ければ、今度こそ、近未来的な建物が突如出現するだろうと、勝手に期待していたのだ。
しかし、そんな夢のような建物はなく、妙に青白い雲だけが、地面からもくもくと湧き出して、四人を取り囲んでいる。とても肉厚な雲で、時々青白く発光し、変幻自在に、目まぐるしく変化し続けている。
その雲の塊の奥の方が、やたら発光している。店の男は、取り巻く雲を両手でかき分け、どんどん雲の奥へと入り込んでいった。四人は、店の男を見失ったら最後とばかり、急いで後を追った。
すると、店の男は、雲の中にそびえる大きな門の前に立っていた。
「こっちが本物の銀河原駅の入り口だ。さっきのアーチは偽物だよ。入る資格のある者だけが、こうして本物の入口に、たどり着けるのだ。出る時は、簡単に出られるがね。銀河原へは、この駅を通って行くんだ。さあ、進もう」
青と白の炎を交互に固めた、変わった飾りの門だ。そこには、『銀河原駅』の文字が、さん然と輝いている。だが、その向こう側は、やはり空白のままだ。
四人は、またかと警戒し、期待はしなかった。駅があるなら、列車や線路や大勢の人々が集まっているに違いない。だけど、そんな気配は微塵もせず、ただ、しいんとした空白の世界が無限に広がっているだけなのだ。
店の男は、コウタたちに構わず、さっさと門をくぐり、青白い空間に吸い込まれ見えなくなった。コウタたちも慌てて、後を追い、門をくぐり抜けた。
くぐり抜けると同時に、四人はもう、銀河原駅内の雑踏の中にいた。
いや、街の中にいると、一瞬錯覚しそうになった。恐ろしいほどの雑踏が、耳に目に、どっと押し寄せてきたのだ。コウタは、その迫力に戸惑い、思わず耳を塞ぎたくなった。
しかし、あまりに壮大な空間を目にしたとたん、周囲の騒音も人混みも、まったく気にならなくなった。雑踏を遥かに上回る、壮麗さだ。
縦型ドームの天井は吹き抜けて、雲でもかかりそうなほどの高さだ。コウタたちは、ドーム状の建物内にいるはずなのに、野外にいる感覚だった。それほど、広く、高く、一つの街をそのままそっくり包み込めるくらい、ドームは巨大だった。
そのため、反対側のドームの壁は、えらく遠い。雑踏のせいもあるのか、遠くに霞んで見える。壁沿いには、ぐるりと一周、多数の改札口が並んでいる。この改札口がなかったら、あるいはここが駅構内であるのに気づかないだろう。それほど、この駅は、駅らしくなかった。
四人は戸惑った。銀河原駅と言う名称から、超近代的な宇宙ステーションを勝手に想像していたのだ。しかし、必ずしも、そうとは限らなかった。
ドームのほぼ中央には、昔ながらの、赤い屋根の駅舎がある。その駅舎を中心に、古風な街並みが広がっている。駄菓子屋やかき氷の屋台、小さな食堂やお土産屋がひしめく一角、商店街のアーケード、裏通りの横丁にも、小さな店がビッシリと詰まっている。
これは、一昔前の風景だ。コウタたちが生まれる前の、街の風景に似ている。こんな風景の写真を、コウタは、古いアルバムで見た覚えがあった。
一方、駅舎の背後にそそり立つ巨大な塔は、それとは正反対に、超近代的だ。
塔は、あまりに巨大でどっしりと、遥か天井までそびえている。その巨大な塔には、らせん状に道路が張りつき、ゆっくりと回転しながら上へと昇っている。支柱に巻き付くツルを思わせる光景だ。降りて来る、らせん状の道路がそれと隣り合わせに並んでいる。
ここは、古いものと新しいものが混じり合う、不可思議な空間だ。あるいは、過去と未来を繋いている時空なのかもしれない。そして、夢の中や、空想話に出て来るような光景が、形になっている空間でもある。夢と現実をも、繋いでいるのかもしれない。
コウタは、新鮮な驚きと感動で、無性にはしゃぎ回りたい気持ちになった。
亮平が上の空でつぶやいた。
「…言葉が出ないけど、ああ、とにかくすごいや。頭がパンクしそうだ」
翔は、言葉を出す代わりに、軽快に口笛を吹いた。
一番素直に感激したのは、オー君だ。まるで故郷に帰ったかのごとく、目を潤ませている。今にも駆け出しそうな思いを、メガネの奥にぐっと潜ませていた。
「懐かしいよ。理由はわからないけど、とにかくすごく懐かしい!」
巨大な空間に目が慣れてくると、今度は、周囲のものすごい雑踏が急に気になり出した。とんでもない人混みの中に、自分たちはいる。駅とは言え、どうして、こんなに大勢の人がいるのだろう。
コウタたちは、行き交う群衆の熱気にすっかり圧倒され、頭がくらくらしていた。そこに立っているだけで、人ごみに呑み込まれてしまいそうだ。
銀河原駅の構内は、どこもかしこも人でごった返していた。お土産屋も改札口も通路も、人だらけだ。壁際の上層階や巨大な塔の上部も、人々がぼやけた点になって動いている。
人々と言っても、コウタたちのような普通の人間ではない。ほとんどが、水曜亭にもいた、人もどきの生き物たちだが、それに加えて、見たこともない、奇妙な生き物もいる。
アメーバ形の生き物、体が薄くて幽霊みたいな生き物、機械を組み合わせた生き物たち。そして、生き物たちは、それぞれが一風変わった荷物を抱えていたり、後ろにくっつけて引きずったり、頭の上に浮かべたりしている。そんな不思議な生き物たちが、ひっきりなしに往来しているのだ。ドーム内がこれほど明るくなかったら、壮大なお化け屋敷にしか見えないだろう。
駅舎の背後にそびえ立つ塔も、行き交う人々でいっぱいだ。人々の往来するらせん道の内側に沿って、こぎれいな店が階段状に建ち並んでいる。そこには、土産物やきれいな石や不可思議な物が売られていた。
ドーム内壁の遥か上層階は、もはや美しいシルエットの影絵にしか見えない。
そして、ドームの天井には、太陽を廻る惑星たちや、銀河系の姿や、青い星雲、赤い星雲など、様々な映像が切り替わり映し出されている。
「雲まで浮かんでいるよ」
オー君がメガネをずらして、呆れた声を出した。確かに、巨大塔の上層階のテラスには、白い綿雲がぷかぷか浮かんでいる。なんて平和で穏やかな光景だろう。四人そろって、惚けて雲を見上げていた。
ふと、ドームの中層部にある巨大な窓をとおして、ドーム外の光景が目に入った。窓の外側には、たくさんの列車が整列している。駅を中心に、放射状に最新型の列車が配置されているようだ。金属の輝きが眩しい。列車はそれぞれ、ドーム壁に設けられた改札口に、対応している。不思議なことに、大窓は、時間が来ると、次々と移動し、そのたびに別のホームや列車を映し出している。
こんな光景を目にしたコウタは、やっと納得がいった。ここは、単に、懐かしい街や巨大な塔を入れ込んだ施設ではない。銀河原駅は本当に、巨大な宇宙ステーションなのだ。
ドーム外壁の各改札口の上には、行き先の看板が誇らしげに輝いている。それらは、水星行きやオリオン行きなど、聞いたことのある惑星や星座の名称だ。
すごい。ここから、太陽系の惑星だけでなく、遠い星々まで行けるのだ。夢よりもっと夢みたいな世界だ。
しかし、同時にあることに気づき、コウタは愕然とした。
この世界の生き物たちは、こうして、月はおろか、遥か遠くの星々とも活発に交流し、行き来している。なのに、自分たち人間はどうだろう。地球の地上に縛られ、せいぜい岩だらけの月に、ほんの少し足を踏み降ろしたばかりなのだ。
人間だけが完全に取り残されている。コウタは強くそう感じた。人間こそが唯一知能を持ち、一番優れている生物だと、そう教わってきたし信じてもいた。だけど、実はそうではなかった。
人間は、自分たちが生み出した科学の力で、今やっと宇宙に飛び出そうとしているのに、この世界の人々は、別の力を使って、既に宇宙を行き来しているのだ。無知な動物のふりをし、見える世界ごと人間を騙し、もっと自由に、前進しようとしている。
だとしたら、自分たち人間とは、いったい何なんだろう。
以前、彦助から聞いた月の話が、コウタの頭の中によみがえってきた。
(…月は本当に素晴らしいところだよ。でも、人間に真実を教えてはいけないんだ。そうしないと、人間は、ずかずかと月に乗り込んで、破壊しかねないだろう?)
そうだ、彦助の言うとおりだ。ざわめく雑踏の中で、コウタは胸の底に、小さな棘が突き刺さっているのを感じた。まるで自分が、人類の代表でもあるかのように、痛みを感じた。
そこへ、アナウンスの音声が駅ドーム内に響き渡り、コウタは我に返った。
「アンドロメダ星雲へお出かけのお客さまは、至急、百十二番線にお急ぎ下さい。間もなく、『星のかけら号』が出発いたします。続いて、当駅にご到着の皆さまにご案内いたします。木星及び土星方面からお越しのお客さまは、到着ロビーで重力チェックを受けて下さい。また、衛星トリトンからお越しのお客さまにお伝えします」
ここで、マイクを通して、小さな咳払いがドーム内に響いた。
「できるだけ早急に、いいえ、大至急、体を固めてください。当世界では、固体度75%以上が必要です。液体の体のままで、旅を続けることはできません。液体のままだと、知らないうちに体が蒸発してしまい、バラバラになる恐れがあります。そのような事態になりましても、当方では責任を負いかねますので、ご注意下さい。なお、ガス体のお客さまも同様に、至急、固体化をお願いします。既に、体がバラけたお客さまは、駅員にお申し出下さい。収集係が回収いたします」
通行人たちが、このアナウンスに足を止め、あたりを見廻していた。想像すらできないが、どうやら、液体の生き物や、ガス状の生き物もいるらしい。コウタはそんな生き物を、一目見たいと思ったが、散々探しても見つからなかった。亮平も、しばらくあたりを注意深く観察していたが、そのうち諦めて、通行客の持つ珍しい荷物に熱中していた。
しばらくして、また、アナウンスが流れた。
「繰り返し、皆さまにお伝えしています。最近、天上界でのトラブルが多発しているため、当駅では、全面的に『影』の持ち込みを禁止しております。『影』をお持ちのお客さまは、ピンクの窓口に『影』をお預け下さい。なお、ピンクの窓口は、駅出入口となる赤い扉の近くにございます」
コウタたちは、思わず自分たちの影に目をやった。当然だが、影はそこにある。オー君の影は、みんなよりは、少しばかり濃い色をしていた。それでも、飛行船病院の向久井先生に診てもらった時に比べ、遥かに普通の影に近くなっている。
コウタたちは、この妙なアナウンスを聞いても、別段不思議に思わなかった。向久井先生から影の話を聞いていたので、この世界で影は、厄介事の原因になりうると知っていたからだ。
「君たち、聞いただろう?銀河原に行くには、まず、自分の影を預けないとね」
店の男にそう言われ、四人は、ようやく現実に戻った。
そこに、店の男がいたのを、すっかり忘れていたのだ。それほど、四人は周囲に気を取られていた。その様子に、店の男は、微笑んだ。店の男は、四人がこの環境に慣れるのを待っていたようだ。
四人は、すぐさま、切符売り場とおぼしき、ピンク色の小屋へと連れていかれた。その小屋の周囲だけが濃いピンク色の床で、ドームの床とはくっきり区別されている。店の男が、この濃いピンク色の床に入るよう促したので、コウタたちは、そこへ移動した。
店の男は、窓口で、赤い制服を着た女性に話しかけた。それから、こちらに向き直ると、軽くかがみこんで、コウタの影をひょいと指でつまみ、床からペロンと引き剥がした。それをそのまま、窓口の女性に渡した。
コウタは、思わず声が出そうになった。別に、痛かったわけではない。体は何も感じなかった。ただ、自分から影が引き離されるという、実に奇妙な、初めての経験に、戸惑ったのだ。
亮平、翔、オー君の影も同様に引き剥がされ、次々女性の手に渡された。四人は複雑な気持ちで、自分たちの影の行方を目で追っていた。
奥にいる、もう一人の女性は、淡々と影を受け取ると、四つの影をまとめて紐でくくり、背後にいる誰かに渡した。その後、窓口の女性は、大急ぎで書類に書き込み、小さな紙切れを店の男に渡してよこした。
部屋の奥では、別の誰かが、影の束を更にぎゅっと圧縮して、紐できつく縛り、手慣れた様子で札をつけていた。そして、平たくなった影の束は、背後の大きな棚へ乱雑に放り込まれた。
自分に影がないのは、どこか落ち着かないものだ。周囲の人々を観察してみたが、ほとんど、みんな、影がなかった。
「影はね、下の世界では必要だけど、天上界の上部から先では、不要なものなんだ」店の男は、そう言って、四人それぞれに、小さな紙切れを渡した。「これは帰る時、自分の影を返してもらう引換券だ。失くさないように気をつけたまえ」
受け取った紙切れは、コウタたちの持っている、切符みたいな色合いだ。四人は、自分の体の一部であるかのごとく、丁重にポケットへ押し込んだ。
「銀河原への特別改札は、一階の、あの一番目立つやつだ。誰もが憧れる銀河原だが、あの改札をくぐれるのは、ごく限られた者だけなんだよ」
男の指さす方向にあるのは、ひときわ目を引く改札だ。白い石の中に、青い宝石が散りばめられている。思わず、ため息がもれるほど、美しく気高い。石でできているのに、陽炎のように、燃え立っている。あるいは、改札口そのものより、その向こう側に広がる、見えない何かも含めて、美しいと感じるのかもしれない。
通りかかった人々は、その改札口で足を止め、しばし見入っていた。そこに入れる自分たちは、なんと誇らしく幸運なのだろう。散々苦労をしたけれど、ここまで来た甲斐があったと、コウタは感慨に浸った。
「さてと、君たちとは、ここでお別れだ。私の役目は終わったからね。後は、あの改札をくぐるだけだ」
店の男の言葉が耳に入らないほど、コウタたちはその改札に見とれていた。改札を見れば見るほど、不思議な胸の高まりを感じた。この改札自体も美しいが、改札の向こうにある、まだ見ぬ、美しい何かが、四人の心を否応なしに惹きつけるのだ。その、まだ見知らぬものは、もしかしたら、ものではなく、ほんの少し先の未来かもしれない。
四人は気もそぞろになり、足が勝手に、そちらへ歩み出していた。
しかし、コウタはそこで、ふと現実に引き戻された。自分たちをここまで導いてくれた、この謎の男が、ここにきて、とても気になり出したのだ。
ちょっと不愛想で、変な謎かけをする奇妙な店の男。道案内はしてくれたが、それほどかかわりが強かったわけでもない。それなのに、別れに際して、どうにもこの男のことが気になって仕方がないのだ。
コウタは言わずにはいられなかった。
「あの、あなたは本当に名前がないのですか?」
急に突拍子もない質問をされ、男の目には、動揺の色が浮かんでいる。しかし、すぐに、口もとがいったんキュッと締まり、それから緩んだ。
「ああ、そうさ。客たちは、私を『あの名無し』とか、『峠のあれ』と呼んでいる。私は、決まった名前を持たないのだ。いや、持つことを許されないのだ。誰かが、私のことを『何とか』と呼ぼうと決めた瞬間、その者から、私についての記憶がすっかり消えてしまう。決まった名前がない限り、私はあの峠の茶屋にいる支配人として、また店員として、その者の記憶に留まれるのさ」
「だったら、あなたを『名無しさん』って呼べばいいんだ!」
亮平が、得意げに叫んだ。
「亮平!」
コウタも、翔も、オー君も、ほぼ同時に声をあげたが、遅かった。次の瞬間、ポカンとした顔の亮平が、コウタたちの方を振り返った。
「あれ?おれ、今なんか、言ったかな?で、この人、誰?」
三人は、そろって頭を振った。店の男は、小さく微笑んで言った。
「亮平君には、後で事情を話してあげるんだね。もっとも、君たちが私を覚えていればの話だけど」
店の男は、どこか投げやりな、諦めた物言いだった。それなのに、不思議なほど、深い思いが込められている。
コウタは、初めて、店の男の心に一瞬触れたような気がした。
「名前なんて、関係ないよ。あなたに名前がなくても、僕らは、あなたのことを忘れたりしない。僕たちをここまで連れて来てくれたんだ。名前なんかより、思い出の方がよっぽど重要だよ」
コウタの言葉に、男は、今度は静かに微笑んだ。
「そう言ってくれるとは、嬉しいね。しかし、その記憶も、いずれ、おぼつかなくなるだろう」店の男は、話すのを一瞬躊躇したが、言葉を続けた。「名前がないのには、理由があってね。信じられないだろうが、私は、もともと僧侶型ロボットだったのだ」
コウタたちは、二重の意味で驚いた。驚きを通り越し、内心、大いに慌てた。
どう見ても、ロボットには思えないからだ。皮膚の艶といい、顔の表情といい、普通の人間そのものだ。一見しただけでは、わからない。じろじろ見てはいけないと思いつつ、店の男の顔や体に、つい視線がいってしまう。
しかも、だったとは、つまり過去にはロボットだったという意味になる。混乱し過ぎて、言葉が出なかった。
独り亮平だけが、訳がわからず、不思議そうな顔をしていた。
「僧侶とは、つまりお坊さんのことさ。私は、お坊さん風に作られた、ロボットなんだよ。君たちが、こう言ったら、自分はこうするとか、君たちがこういう行動を取ったら、自分はこう言うとか。そんな風に、プログラムが、つまりは決め事がたくさん組み込まれているのだ。今はこうだが、最初は、単なる機械だった。私も、君たちのいた世界の出身者だよ。そこで作られたのさ。そして、理由はわからないが、私を作った科学者が、この世界に私を持ち込んだのだ」
コウタたちは、信じがたい話にも関わらず、えらく納得していた。
峠の茶屋でのやり取りを始め、用水路や地下通路での言動に、謎が多かった。その理由が、今、判明したのだ。店の男はロボットだからだ。男の受け取れる答えや行動を示さない限り、男は何も反応できず、四人は、次の段階には進めなかった。
仕事熱心な、お坊さん。きっと、それを目標に、ロボットは作られたのだろう。
うんざりするほど、もどかしく、面倒なやり取りではあったが、彼はこうして、銀河原を守っているのだ。銀河原に入る資格のない者を排除するため、子どもでも容赦なく、手順を実行したに過ぎない。
「ここへ来た当初、私はただの機械だった。そこに、生命の灯が点火され、初めて、生き物となる道が許されたのだ。そんな魔法さえ、使える世界だからね。私は、少しずつ、生き物らしくなり、今ではこうして、君たちと普通に会話もできる。だから、銀河原を守る仕事を任されたのだ。しかし、残念ながら、まだ名前を持つまでは、許されていない。この世界での名前とは、生き物の証であり、記憶と一体になった大変重要な個性なんだよ」
コウタたちは、彦助を思い出していた。この世界の常識を理解するのは難しいが、それでもコウタたちの世界よりは、ずっと自由だ。イワツバメやロボットでも、人間とやり取りできるまで、いや、それ以上に進化できるのだ。あらゆる可能性を平等に受け取れる、無限で壮大な世界だ。
「私についての話をする時には、同じ名前で呼ばず、『峠の名無し』とか、『例の男』とか、少しずつ言い方を変えるのがいい。そうすれば、いつまでも君たちの記憶の隅には引っかかるからね。でもまあ、それが、きっと精一杯だろうな」
男の顔の右半分が、一瞬ひどく悲しげに見えた。顔の左半分は、今までと変わらないのに、右半分だけが、暗い陰に覆われた気がしたのだ。
店の男は、ぼそりとつぶやいた。
「おそらくは、私の姿形も、今言った話も、君たちの思い出から消えていくだろう」
翔が、金槌で頭を殴られたような顔をした。
「あなたに出会ったことを、すべて忘れてしまう?」
「いいや、決まった名前さえ使わなければ、私と会った記憶は消えない。ただし、会った誰かが、どんな姿形をして、どんな口ぶりで、どんな人物だったかは覚えていないのだ。私だけが、独り、覚えている。君たちと関わったすべての記憶を、自分の中に永遠に抱えてね」
店の男は、投げやりな、皮肉っぽい目を駅のバカ高い天井に向けた。
翔は、男の真正面から、目を逸らすことなく言った。
「だったら、たとえ、おれたちが覚えてなくても、思い出はあなたの中にあるのだから、消えるわけじゃない。おれの頭に記憶がなくても、代わりにあなたが預かってくれる」
店の男は、はっとして翔を見つめた。
「君たちの記憶を、私が預かる?」
「そうだよ、おれたちの分も預かっているんだ。だって思い出は、みんなで作ったものだから。大人も子どもも関係ないよ。この世界でなら、できるのでしょう?だから、大事に取って置いて下さい。いつかきっと、おれたちに返す、その時まで」
店の男は、しばし言葉を失った。
「こんなことは、考えてもみなかった。だが、確かに君の言うとおりかもしれない。私は、名前が与えられるまでの、ちょっとの間、君たちの分の記憶も一緒に預かっているだけなのか」
店の男の顔に、初めて喜びが輝いた。
「そうか、名前なんて、そもそも関係ないんだ…」店の男は、言葉を奥歯で噛みしめた。「では、名前がもらえるその日まで、たくさんの思い出を大切に保管しておくとするか」
「で、あなたはいったい誰なのさ?」
亮平が横から口を挟んだ。店の男は、うなずいてにやりとすると、再び改札口を指さした。
「ああ、駅の案内人だよ。そろそろ出発した方が良いと思って、声をかけたのさ。さあ、君たちの行くべき銀河原への入口はあそこだ。気をつけて、行きたまえ」
亮平は、ひとり無邪気に大喜びしだ。純粋に喜ぶ姿に、店の男は優しい笑顔を送った。コウタたち三人も亮平につられて、すっかり笑顔になった。今度こそ、後ろ髪を引かれることなく、銀河原への改札をくぐっていけるのだ。
「さようなら。ここまでの案内をありがとう」
コウタは、店の男に手を差し出し握手をした。店の男は、コウタの手を握り返した。男の手は、温かかった。コウタは、この店の男こそが、本当の、勇気と正義を併せ持つ男なのだと確信した。
「ああ、いつかまた、会おう。元気でな」
コウタに続き、それぞれが握手を交わし、店の男と別れた。亮平だけが、最後まで腑に落ちない顔をしていた。




