第13章 どぶろく爺さんの工場
四人は、変なイワツバメに連れられ、雷門の背後にあるトンネルに向かった。
トンネルの入口は、黒く不ぞろいな石が積み上がり、中は、まっ暗だ。まるで洞窟だ。イワツバメは、トンネルの中へ吸い込まれ、すぐに姿が見えなくなった。
残されたコウタたちは、慌ててイワツバメの後を追い、トンネルに足を踏み入れた。短いトンネルは、すぐそこに出口が見えているのに、どういうわけか、中はまっ暗なのだ。足もとや両脇の壁さえ、見えない。いや、壁があるのかすら、わからない。
逆に、出口の向こう側は、あまりに眩し過ぎて、コウタたちからは、ただの光にしか見えなかった。闇か光か、そのどちらかしかない空間だ。四人は、互いに腕やパジャマの裾をつかんだりしながら、足早にトンネルを通り抜けた。
トンネルを出たとたん、眩しい光の中から、まず手前に橋が、次に向こう側の景色がぼんやりと浮かび上がってきた。
橋の向こうは、街の広場だ。その広場を中心にして、道路が放射状に広がり、その道路に沿って建物が綿々と続いている。コウタたちの住む街とほとんど変わりない街並みだ。普通の景色が見えたので、コウタたちは妙にほっとした。
と同時に、ここが本当に天上界なのかと、コウタは疑った。幻惑が丘や氷砂糖の街の方が、よっぽど天上界のイメージに近い。だが、それらは、遥か下方にある地上の世界だ。
コウタたちは、橋のたもとにいた。『天空橋』と刻まれた銀板が、入り口の欄干に張りついている。
すると、オー君が、突然、あっと小さく叫んだ。コウタたちに、一瞬緊張が走ったが、オー君は、半分申し訳なさそうに、もう半分は得意げに言った。
「ほら、これだよ」
オー君が下を向くと、コウタたちも、足もとの異変に気づいた。
「道が銀色に光っている」亮平が目を皿のようにして、かがみこんだ。「すごいや、人無月荘の屋根から見えた銀の道だ。ここから始まっているんだね」
自分たちの足もとには、銀色の何かが輝いている。
視線を上げてみると、壮大な絵巻物が、巨大な満月の中に記されていた。
人々の歩いた道は、次々と銀色に染められ、銀色の線だけがうねうねと続いている。そればかりか、これから歩むだろう道が、その人の前に、薄っすらと、銀色に浮かび上がっている。だが、いったん、その人物から視線をそらすと、銀の道は跡形もなく消えていた。
圧巻だった。コウタは胸をときめかせ、煌めく銀色の石畳を踏みしめた。玉砂利を踏む感覚かと思っていたが、銀の砂粒は非常に滑らかで、抵抗がない。不思議な感覚だ。
しばらくの間、四人は、その場で銀の道を踏みしめて、この不思議な感触を味わっていた。
今ようやく、四人は、天上界の入り口にたどり着いたのだ。
四人の騒がわしい様子に気づき、イワツバメは、四人の方へ戻ってきた。橋の中ほどの欄干に留まると、気難しそうな顔をして言った。
「初めに断っておくが、好きでこんなことをしているわけじゃないぞ。向久井先生に頼まれたから、おまえたちを上まで連れて行ってやるんだ。ありがたく思えよ。おれ様は、イワツバメの彦助って言う者だ。みんなからは、彦助先生って呼ばれている」
真剣にしゃべる小さな鳥に、四人は笑いをこらえていたが、亮平だけがこらえ切れず、笑いが少しだけもれてしまった。彦助は目ざとくそれを見つけ、亮平をきっと、にらみつけた。しかし亮平は、気にもせず、自信たっぷりに言ってみせた。
「だって、彦助先生より、彦助って呼んだ方が、断然格好いいと思うけどな」
彦助は、亮平の、格好いいという言葉に、頭の毛を一束ぴんと逆立てた。
「まあ、そう呼びたければ、それでも構わないさ。どう呼ばれても、おれ様の偉大さが減るわけじゃないからな。ただし、これだけは言っておくが、イワツバメは、その辺のツバメとは格が違う。おれたちゃ、腰に英雄印の白い帯をもらっているんだ」
彦助は欄干にリュックを、素早く引っかけると、空中でくるりと回転し、コウタたちに腰の白い部分を見せつけた。確かに、コウタたちがいつも見ているツバメとは、少し違っている。白い部分もそうだが、普通のツバメより小柄で、全体がずんぐりしており、一見スズメのようだ。飛ぶのは早いが、切れ長の翼や尾は、そう目立たない。
「おれたち渡り鳥はみんな、地球と月の間を行き来しているのさ。頭の悪い人間どもは、おれたちが南の国からやって来て、秋になると、またそこへ戻ると思っているんだろう?本当は、月に渡っているんだよ。満月の夜、南国から月に渡り、月から北国へ戻るのさ」
四人は、初めて聞く話に感心した。学校では、渡り鳥は南国や北国へ飛んで、その地で冬や夏を越すと習っていたからだ。
「そんな遠くまで飛んで行けるの?月って、相当遠いじゃないか」と、コウタ。
「そりゃあ遠いさ。だけど、この世界を通って行けば、距離なんて関係ないよ。それより、いつ渡るかの方が、ずっと重要なんだ。月に渡れるのは、こんな満月の夜だけ。地球に戻れるのは、満月と新月の夜だけ。それ以外は通れない。さっきの門番が、しっかり見張っているからね」
「へえ、知らなかった。おれたち人間は、すっかり騙されていたんだね。じゃあ、彦助は月に向かうところなのかい?」
亮平は感心して、小さなイワツバメの目を覗き込んだ。
彦助は軽くウインクしてみせると、さも得意げに語った。
「そうさ。地上の様々な世界を渡り歩いているうちに、すっかり遅れちまったってわけだ。仲間たちは、月へ向けて、とっくに出発している。でもまあ、どこかで追いつくだろうよ。そんなわけで、いろいろと抜け道を知っているおれ様だから、案内役に抜てきされたんだろう」彦助は、小さな咳払いを一つした。「さてと、グズでのろまなおまえたちを、なんとかしなきゃならないな。切符は持っているんだろうな?よし、それなら話は早い。あまり時間がないから、ここは一つ、切符にものを言わせ、おれ様得意の裏道を使って、上に向かおうじゃないか」
「裏道を使うって?」と翔。
「まあ、ついてくればわかるさ。おれ様の実力を、一つ、見せてやろう」
今や四人はすっかり、この小さな生き物に感心していた。口は悪いが、地上や天上界に、相当詳しいらしい。それに、前からよく知っている友だちみたいな気楽さがあり、安心できるのだ。一刻も早く銀河原に行きたい四人は、心強い案内人に思いがけず巡り会え、非常に喜んだ。
ふと、翔があ然として、河を見下ろしているのに、コウタは気づいた。不思議に思い、コウタも欄干側に寄って、河を見下ろしたとたん、同じくあ然としてしまった。どうにも納得のいかない光景なのだ。
どこがおかしいのか、最初はわからなかった。が、よく見ると、河の流れが明らかにおかしい。
左右両方向から、水が勢いよく、橋の下へと流れ込んでいる。橋の上からではよく見えないが、ちょうど橋の下で、両方向から来た水は、激しくぶつかり合うはずだ。なのに、水は逆流もせず、両側から次々と橋の下になだれ込んでいる。
合流した河の水は、どこへ消えるのだろうか。橋の下には、推し量れないほど深い溝があるのだろうか。
翔は、そわそわと落ち着かない。見えないとわかっていながら、欄干から身を乗り出して、橋の下を覗き込んだ。
「ねえ、彦助。この河、おかしいよ。河の水は、どこに流れていくんだい?」
亮平たちも、一緒になって欄干から身を乗り出した。彦助は、欄干から下をチラリと見て言った。
「へっ?何もおかしくないだろう?天上界を巡っている自由な水と、天空海から流れ出た水が、ここで出会って、戦うんだ。潔く戦って死んだ水は、屍となって地上に降り注ぐだけだよ。おまえたちは、それを、『雨』って呼んでいるだろう?」
彦助の奇妙な説明に、しばらくは、誰も無言だった。
「ふうん…なるほど」
誰かが、適当な相槌を打った。
この不思議な河の光景に、四人はしばし見とれた。理由なんて本当はどうでもよかった。ただ、この世界の壮大さ、不思議さ、そして自分たちの世界との意外な繋がりに、コウタたちは感心していた。
「さあさあ、こんなところで、道草食っている暇はないよ。天上界は、恐ろしく広い上、銀河原は、この天上界のてっぺんにある。道は、遠くて険しいぞ。わかったら、さっさと行った、行った」
彦助に追い立てられ、四人は、小走りで橋を渡ると、街の広場に入った。実際に近くで見ても、コウタたちの住む街と、ほとんど変わりない街並みだ。
違う点は、電信柱やよけいな広告看板が見当たらいことくらいだろうか。
もう一点付け加えると、屋根瓦が非常に美しかった。派手さはないが、艶をもった瑠璃色が屋根全体を染め上げている。そればかりか、濃淡のついた瑠璃色の屋根どうしが繋がり、街全体が一つの芸術作品を創り上げているのだ。ただし、上空から眺めない限り、この瑠璃色の芸術作品には、気づかないかもしれない。
「本当にここが天上界なの?おれたちの住む街と、たいして変わらないけど」
亮平の正直な質問に、彦助は呆れて首を引っ込めた。
「天上界にも、いろいろあるんだよ。ここはまだ、ほんの入口に決まっているだろう」
彦助は冷たくそう答えると、またしても、せっかちに先を進んで行った。そんな彦助を見失うまいと、四人は急ぎ足で後を追った。
彦助が四人を連れて行ったのは、街外れにある、ボロボロの工場だった。小さな路地をいく度となく曲がり、散々歩かされた末、やっと到着したのが、暗く汚い工場だったので、四人は少々がっかりした。
工場の敷地内には、壊れた機械の残骸や鉄屑、形の不ぞろいな金属の塊やタイヤ、プラスチックの板などが、無造作に積み上げられている。ここは、廃材を処分する工場なのだろうか。敷地の向こう側には、先ほど天空橋から見た河が、大きくうねりながら流れている。
「よう、どぶろく爺さん」
彦助はそう叫ぶと、錆びて、今にも崩れ落ちそうな鉄の扉を、口ばしで三度つついた。扉は自然に開き、彦助に続いて四人は中に入った。
中は暗く、手さぐりで進むしかなかった。目が暗さに慣れるにつれ、ようやく室内の様子が分かってきた。残念ながら、外の光景とあまり変わらない。工作機械や金属の部品、作りかけの品が、棚や不揃いな台に、ごちゃごちゃと積まれている。床も、物が散乱し、足の踏み場を探して歩くのが、一苦労だった。
その上、かなり埃っぽく、四人が一歩、足を踏み出すごとに、床の埃や金属粉片が舞い上がった。どう見てもここは、とっくの昔に廃業した工場だ。
それでも、どこからか、この場所に不似合いな、甘くいい香りが漂ってくる。
「おお、その声は彦助か。今、奥の部屋にいるが、手が離せない。用があるなら、こっちへ来てくれないか」
どこからか、しわがれた老人の声が聞こえてきた。
彦助は四人を引き連れて、部屋の奥へと入り込んだ。工場の中は、まるで迷路だ。どこを見ても、機械の残骸や廃材だらけであるが、一番奥の部屋に入ると、様子が一変した。
そこは、青さと暗さが同居している、不思議な部屋だった。
天井に開けられた大窓からは、月光が満遍なく降り注ぎ、壁に張り巡らされた、巨大な棚を青く照らし出していた。棚には、液体の入った大きなビンが、整然と並んでいる。それぞれのビンは、濃淡様々な青で染められ、そのビンの青さが四方八方に反射し、部屋の中を青い光で、揺らめかせている。
その部屋に入ると、光が差し込む海底にいる気分になった。コウタたちは、幻惑が丘の風景を思い出した。だが、ここはだだっ広い丘陵ではなく、小さな部屋の中なのだ。それなのに、上から差し込む月の光は、癖があり強烈だった。
天井から差し込んだ月光は、ビンや部屋を青く染めるだけではなく、ビンの中に入った液体にも、力を及ぼしていた。ビンの中の液体は、下から上へ、また上から下へと、活発に動いている。ちょうど、数字の8を描いている。そのせいで、中の液体がキラキラと輝いて見えた。
「これが噂の月光酒だよ。爺さんが、ここで作っているんだ」
「月光酒だって?」
「なんだい、おまえたちは、月光酒も知らないのか?」
彦助が呆れ返った声を出した。その声で、コウタは思い出した。
「ああ、水曜亭のカウンターに並んでいたやつだね。すごくきれいだなと思っていたけど、ここで造っていたんだね」
コウタの答えに、彦助は満足そうにうなずいた。
「そうさ。月光酒は、他でも造っているけれど、どこでも大人気なんだ。月で売ると、一本一ルナにしかならないけれど、地球で売ると、十ガイアになるんだから、まったくいい商売だよ。だから、こうやって密造して…おっと、よけいな話はできないな。おや、どぶろく爺さん、元気かい?まだ、くたばっちゃいないようだな」
歯に衣着せない彦助は、暗闇に向かって、声をかけた。
青暗い闇の奥から、どぶろく爺さんが姿を現した。背が低く、ずんぐりしている。部屋の中があまりに暗いので、顔はよく見えない。ただ、光の加減のせいなのか、時折、頭が月光に照らされると、青白く煌めくので、きっと白髪か銀髪なのだろう。彫の深い顔立ちや深いシワも、その陰影から、薄っすらと見て取れる。
よれよれの白衣を身につけ、メガネをかけている。メガネは月光に反射して、妙に白っぽく光っていた。メガネの奥には、とても知的で深い瞳が潜んでいる。なのに、全体の印象が何故か、とてもぼやけている。体に厚みが感じられず、薄っぺらい幽霊のようなのだ。
「渡りの彦助よ、相変わらず、口がへらないな。おまえ、向久井先生の飛行船を壊したんだって?ここじゃ、もっぱらの噂だぞ」
痛いところを突かれた彦助は、急にうろたえ出した。
「その話は、勘弁してくれよ。飛行船の屋根に、上等な夢虫がいたので、ちょいと、頂こうとしただけさ。それが、少しばかり力が入り過ぎて、飛行船の気嚢に穴を開けちまったというわけだ。まあ、おれ様のあり余る力が、無駄に出てしまったんだなあ」
「何があり余る力だよ。そのせいで飛行船は、二週間も、猛烈な磁気嵐の中をさまよっていたんだぞ。向久井先生が行方不明になったと、ここじゃ大騒ぎになっていたのに、おまえときたら相変わらずだな」
彦助は、悪びれる様子もなく、一度だけ肩をすくめた。
どぶろく爺さんは、間をおいて言った。
「で、今日も、月光酒密輸の件か?先月、結構な数を渡したばかりなのに、もう売りさばいたのか?今回はえらく早いな。まあ、このとおり、気泡がたってきたから、あと一時間もあれば完成するが」どぶろく爺さんは、後ろに控えている、四人にやっと気がついた。「おや、後ろにいるのは、ありゃあ、子ども族か?」
どぶろく爺さんは、顔を近づけ目を細めた。コウタが代表して、簡単に挨拶をした。
「ええ、子ども族です。初めまして」
彦助がそれに続いて言った。
「その飛行船の一件で、先生からの頼みを断り切れなくてね。それで、仕方なく連れて来たんだけど」話の終わりの方で、彦助の言葉が濁った。
「なんだ?」
どぶろく爺さんが不審そうに、彦助と四人をじろりと見渡した。
「つまり、その、子ども族を天上界上部に、上げなくちゃならないんだ」
「何故だ?いつもは、下の連中が子ども族を砂金流に乗せ、銀河原までひとっ飛びさせているじゃないか。いや、どっちにしてもえらく遅いな。満月はとっくに開いているのに、今頃、こんなところをうろついているなんて」
「そうなんだよ」彦助の声が大きくなった。「こいつら、のろのろと遅いし、体の弱い、だらしない奴もいる。えらい迷惑な話だが、先生からの頼みで、おれが上まで連れて行かなくちゃならないんだ。そこでだ。切符はちゃんと持っているので、例のやつを、一つ頼まれてくれないか。こいつら、これでも、雪虫さまの推薦なんだ」
どぶろく爺さんの感心する声が、微かにもれ聞こえた。やはり、雪虫の影響は絶大らしい。
「雪虫から推薦とは、いったいまた、どうして?」
どぶろく爺さんは、感心すると同時に、コウタたちに興味も抱いた様子だ。彦助は、小さな肩をすくめ、そのまま、コウタたちに答えを求めた。コウタは仕方なく、正直に答えた。
「あの、実は僕たちも理由がわからないんです。そもそも、雪虫には、この世界で会ったことがありません」
どぶろく爺さんは、何も言わなかった。ただじっとコウタたちを見ているだけだ。そこへ彦助が、軽い声で横から言葉を挟んだ。
「水曜亭から推薦状を預かった時には、さすがのおれ様もぶったまげたね。ちょいと一杯、水曜亭でひっかけてから、こっちに来るつもりが、まさか、こんな仕事を押しつけられるとはね。いや、重要な仕事だからこそ、おれ様を待っていたのかな」
彦助は、得意顔で続けた。
「けど、水曜亭は、えらく様子が変だったな。見たことないくらい、大騒ぎになっていた。で、詳しい説明もないまま、推薦状を持たされて、寒空に放り出されたんだ。まあ、いつも世話になっているから、仕方ないけど」
どぶろく爺さんは、少しの間じっと考え込んだ。
「そうか。理由はどうあれ、雪虫の推薦なら、やむを得ないな。かつて、世話になったことがあるし。この時期には厄介だが、雪虫と、そして月光酒を売りさばいてくれるおまえのために、ひとつ協力しよう。だが、例の奴らは高くつくぞ。切符はそれぞれ三枚だ。さあ、そこの机に置いて、停留所で待機していてくれ」
「よしきた!」
彦助は、感謝を示すためか、狭い部屋の中で二、三回ひらひらと飛び廻った。
どぶろく爺さんは、また暗闇へと姿を消した。四人は、言われたとおり、ポケットから切符を取り出し、埃まみれの机の上に置いた。
彦助は、足についた綿埃を払い除けると、どぶろく爺さんの消えた先に顔を向けた。
「どぶろく爺さんは、あれでも昔は、有名な科学者だったんだよ。この世界の秘密を解き明かした天才さ。いろいろあって、今はこうして、隠れて暮しているけれどね。おっと、またよけいな話をしちまった。急いで停留所に行かなくちゃならないってのに」
コウタたちは、どぶろく爺さんについての話をもっと聞きたかったが、彦助にせかされ、中庭に追い出された。
そこは河に面した、廃材置き場だった。河は大きく外側に向って曲がり、そのせり出した高台に、中庭があった。工場の敷地内は、どこも手がつけられないほど汚いが、河は信じられないほど美しい。大きな岩が河の中に顔を突き出している。風情のある渓流だ。反対側の岸は、ささやかな砂地で、その向こうには、なだらかな草原が広がっていた。
四人は彦助に連れられ、中庭から河岸へ続く、急な階段を降りていった。
河岸には、古びたバス停がポツンと立っていた。バス停には、木製のベンチが組込まれている。ベンチの背もたれは、上に伸び、弓なりに大きなカーブを作ると、屋根となって、ベンチの上に覆い被さっていた。その屋根からは、黒板がぶら下がっている。
黒板には『本日の天気』とあり、その下には乱れた字で『ごく軽い磁気嵐が通過中。月桃森では天邪鬼の発生に注意』と書かれてある。
「彦助、あれはどういう意味なんだい?」
翔が、質問を言い終わらないうちに、バス停全体が赤く点滅し始めた。すると、彦助は、体中の羽毛をさっと逆立て、全神経を上流の方に集中させた。
「そら来たぞ」
彦助は上流の方に、口ばしをついと向けた。四人も同じ方向に顔を向けた。
間もなくすると、頭に小さな角のある動物たちが、群れをなし、曲がりくねった河の向こうから、姿を現した。
どれもこれも細長く、垂直に立ち上がったまま、河の上を飛んでいる。いったいこの奇妙な生き物は何だろう。
コウタたちは、その生き物が近くに来るまでは、わからなかった。それは非常に身軽で、河に突き出た岩や松、時には河岸を軽く蹴り上げて、ポンポン飛び跳ねながらこちらへ向ってくる。
十頭ばかり、いるだろうか。カンガルーみたいに見えるが、手足はない。太い、ぐるぐる巻きの尾っぽだけで、苦もなく移動している。徐々に近づいてくるその顔は、馬にも、恐竜のようにも見える。
その生き物が目の前までやって来た時、初めてその正体がわかった。
四人は、そろって声をあげた。
「どでかいタツノオトシゴだ!」
巨大なタツノオトシゴたちが、尾を使って跳ねながら、やって来たのだ。
「やあ、おまえたち、ちょっと見ない間に、大きくなったなあ」
彦助はタツノオトシゴの頭の上を、飛び廻っては、親しげに、次々と口ばしで軽くつついた。タツノオトシゴたちも、嬉しそうにクーッと喉を鳴らした。
「いつ見ても、おまえさんたちは不思議でかわいい奴らだよ。しかし、おまえさんたちの口は、何のためについているのかね?口が開いたところを見たことないが」
彦助は、その生き物に、すっかり打ち解けている様子だ。
後ろにいた亮平は、誰かさんの口ばしは、あと三つほど少なくていいよと、コウタに小声でささやいた。すると、彦助の目がキラリと光った。
「おやおや、そこにいる誰かさんこそ、門番の前では、やたら震えていたけれど」
亮平のひそひそ声は、彦助にすっかり聞かれていた。彦助は、体は小さいが、恐ろしく地獄耳だ。亮平は、きまり悪そうに、パジャマの裾を無造作に引っぱった。
「恐れ入ったよ。彦助の耳は、アンテナみたいだな。とてもかなわないや」
「当たり前さ。小さいからって、おれ様を甘く見るなよ。この世界じゃ、大きさなんて関係ないんだ。それに、言わせてもらうと、この子たちはタツノオトシゴじゃなくて、リュウノオトシゴって言うんだ。いつもは、オトシゴって呼ばれているけどな」彦助は、大威張りで言った。「さあ、それぞれ好きなオトシゴを選ぶといい。決まったら、その腹にあるカプセルに、入るんだ」
四人は、十頭ほどいるオトシゴの中から、各自、オトシゴを選び出した。そして、少々気味悪かったが、腹にあるカプセルに入った。まるで、カンガルーの赤ちゃんになった気分だ。カプセルは、子どもが一人、やっと座れるほどの広さしかないが、座り心地はそう悪くない。硬く半透明の膜を通して、外が見渡せる。
他の三人はすんなりとオトシゴの中に収まったが、コウタだけが、なかなかうまく入れず、苦労していた。入る時も、あちこちにぶつかったが、オトシゴはまるで動じず、じっと、コウタが中に収まるのを待っていた。
ようやく、コウタもオトシゴの中に入り込んだ。
すると、どぶろく爺さんがいつの間にか、バス停にいるのに気づいた。バス停の裏側の板を開け、中にある機械を工具で器用にいじっている。バス停は高台の岩が作る影に覆われ、暗くなっていた。
ふと、どぶろく爺さんが顔を上げた。その瞬間、コウタは、胸を締めつけられる感覚に襲われた。先ほど、どぶろく爺さんの顔がよく見えないのは、暗がりのせいだと思っていた。ところが、今、工場の中より、遥かに明るい野外にいるのに、どぶろく爺さんの顔は、さっきと全く同じなのだ。コウタが目にしているのは、ただの黒い影だった。
「影なのか…」
思わず、言葉が、口をついて出てしまった。言ってから、しまったとコウタは後悔した。どぶろく爺さんは手を止め、振り返って、コウタを怪訝そうに眺めた。それから、ボソボソと言った。
「いや、人間さ。光の部分を吸い取られた人間だよ。私は、あらゆる光の中で影になる運命なのだ。今の私は、君たちみたいに、光の中では生きられない。このぐらいの薄明かりが、せいぜいだ」
どぶろく爺さんは、笑った。暗くてよくわからないが、コウタにはそう見えた。
「だが、これも結構便利でね。この工場ほどもある大きい影の中では、身を隠すのが容易だからさ。そのおかげで、こんな怪しい商売もやっていられる。お日様の下に出て行ける、その日まで、こうして身を隠しながら、細々と、しかし大胆に、この商売を続けるつもりだ」
コウタは、言葉に詰まった。返す言葉が見つからなかったのだ。
どうして、影になってしまったのだろう。冬将軍のせいかと思ったが、この影は、下で見た、邪悪で気味の悪い影ではない。違うのだ。元の人間をそのまま、影に置き換えた、何とも不可解な姿だ。
(きっと、計り知れない事情があるに違いない…)
コウタは、すっかり押し黙ってしまった。影になった理由を聞きたいが、触れてはいけないとも思う。その気持ちに、どぶろく爺さんは気づいたのか、ふっふっふっと小気味よく笑った。
その笑い声に、翔たち三人も、どぶろく爺さんがいるのに気がついた。オトシゴの中から、驚きの顔が並んでいる。
「いつか機会があったら、こうなった訳を話してやるさ。だが、今はその時ではない。おまえたちは急いで、銀河原に行かなくてはならないからだ。だいたい、追っ手が…」
どぶろく爺さんの言葉が途切れた。
口笛のような、高い音色がどこからか、微かに響いている。よく耳を澄ませると、鋭い風の音だ。それに続いて、一陣の冷たい風が、下流の方からさっと吹き込み、コウタの顔に当たった。冷気を含んだ風が、河に沿ってバス停の方へと少しずつ吹き込んでくる。
どぶろく爺さんは、さっと警戒の色を浮かべた。あたりはたちまち緊迫した空気に包まれた。
「急げ。奴らがやって来る前に出発だ」
どぶろく爺さんは、黒い右手を挙げた。準備完了の合図らしい。
彦助は、コウタのいるオトシゴの中へさっと滑り込み、コウタの肩の上に落ち着いた。オトシゴたちは、いっせいに落ち着かなくなり、誰も乗せていない、空のオトシゴたちは、飛び跳ねて河上に飛んで行った。四頭のオトシゴだけが、バス停に残った。
コウタの肩に留まった彦助は、大声で叫んだ。
「さあ、カプセルの開閉口をしっかり閉じたら、出発だ。爺さん、後はよろしく頼むぞ。おれ様はこの四人をさっさと、天上界の上まで届けてくるよ。じゃあ、気をつけてな、どぶろく爺さんよ」
どぶろく爺さんが、ぎょっとして顔を上げた。
「四人だって?彦助、お前、何を寝ぼけたこと言っているんだ?」
どぶろく爺さんが、初めて大声を上げた。
「爺さんこそ、もうろくしちまったのか?いや、そんな話をしている暇はないぞ。早く出発しないと」
彦助が慌てて短い首を引っ込めた。それと同時に、オトシゴへの出入口がきっちりと閉じられた。
風は強まり、あたりはめっきり冷え込んできた。河岸に近い浅瀬が、ところどころ、凍り始めている。それでもどぶろく爺さんは、ぼう然としたまま、挙げた右手をいつまでたっても振り下ろさない。旗が振られないと、リュウノオトシゴは出発できないのだ。
一陣の突風にあおられ、どぶろく爺さんがよろめいた。そのおかげで、やっと我に返ったどぶろく爺さんは、慌てて右手を勢いよく振り下ろした。と同時に、四頭のオトシゴたちは次々、バス停を飛び立った。コウタの乗ったオトシゴが最後だ。
「まったく、爺さんは何考えているんだ」
彦助がぶつぶつと文句を言って怒っている。コウタは、高く飛び上がったオトシゴの中から下を見た。
一人残されたどぶろく爺さんは、まだ、いぶかしげに首をひねり、考え込んでいた。しかし、口笛みたいな風の音がしきりに鳴り響くと、そそくさと急ぎ足で、工場の中へと戻っていった。
工場は、満月の光に青々と照らし出されていたが、隣の建物の影がゆっくりと、工場を覆っていった。影に呑み込まれた工場は、暗闇に沈み込むようにして、その姿を消した。後には何もない、空き地だけが残っていた。
やがて、下流からやってきた冷たい風は、鋭い感覚を持った風になり、暖かかったこの街に、吹雪を呼び込んだ。コウタは、オトシゴの中から、小さくなっていく景色をいつまでも見つめていた。




