第10章 飛行船病院の向久井先生
野原に寝転んだ四人が、うとうとしかけた時、濃紺色の東の空の隅で、キラリと輝くものがあった。その光の塊は、いつまでたっても消えない。
コウタは、夢うつつに、ずい分大きな星だと思いながら、ぼんやり眺めていた。やがて、それはゆっくり脈動し始め、少しずつ膨らんでいった。
(なんだろう)
コウタは、むっくりと上半身を起こした。よく見ると、それは大きくなったのではなく、こちらに向かって来たので、大きくなったように見えたのだ。
コウタは、その物体を指さしてつぶやいた。
「何かが、こっちに飛んで来るみたい。隕石かな?」
三人は、ほぼ同時に体を起こした。夜空に力強く光るそれは、まるで、コウタたちを目がけて飛んで来るようだ。
正体を確かめるべく、四人が立ち上がりかけた時、それは、急激に変化した。いきなり速度をあげ、山々をひとまたぎし、四人の方へ猛突進して来たのだ。目の前に瞬間移動したのかと思うほどの速さだ。
たちまちパニックに陥った四人は、大慌てで跳ね起きた。具合の悪かったオー君でさえ、飛び上がって、その場から離れた。が、やはり足に力が入らず、すぐに倒れ込んでしまった。
光輝く物体は、四人のすぐ斜め上方でピタリと静止した。
初めは、眩し過ぎて、光しか見えなかったが、徐々に、光が落ち着いてくると、その物体がやっと見えてきた。それは、四人を見下ろしたまま、宙にピタッと静止し続けている。
体育館ほどもある大きな建物だが、どこか全体の形が崩れ歪んでいた。建物の正面には、玄関部分が張り出している。その上部には、青いネオンの派手な十字が、テカテカと輝いていた。その他の壁や屋根には、宣伝用看板や煙突や、よくわからないパイプの数々が、ごてごてと、無造作に取りつけられている。激しい色使いに、目がくらみそうだ。
その派手な建物は、上空にぷっかり浮かんでいたが、しばらくすると、前方の野原にゆっくり着陸した。奇妙なことに、建物の上部ほど、不自然に柔らかく膨れ上がり、屋根は膨らみきった風船のごとくパンパンだった。形はえらく不格好ではあるものの、よく見るとそれは、建物の形をした飛行船だ。
コウタは、図鑑で見た飛行船の姿を思い出していた。図鑑のとおり、建物の上部は、軽いガスで満たされた気嚢になっている。パンパンに膨れ上がった屋根には、何故か、大きな絆創膏が十字架型に一つ、貼り付けられている。
ネオンの看板や煙突からは、ネオン色をした赤や紫の煙が、ぷすぷすと立ち昇っている。煙を出し切ってしまうと、やっと、正面玄関の厚い扉が開いた。
中からは、白衣を着た一人の人間が出てきた。ふっくらと愛嬌のある顔ではあるが、かなり動物に近い容ぼうだ。しかし、どんな動物なのかははっきりしない。
白髪の頭に、長い白髭、白い眉毛や耳毛も、長く伸びている。全体的にふくよかで、豪快に突き出たお腹が、今にも、白衣のボタンをはじき飛ばしそうだ。一番四人の気を引いたのは、その大きく丸い瞳だ。吸い込まれそうなほど、優しくつぶらな瞳に、四人の緊張は一気にほぐれた。
「私は、医者の向久井というものだ。君たちに呼ばれ、遥々ここへやって来たのだが」向久井医師は、コウタに目を止めた。「おや、なんと、君からは懐かしい、においがするぞ」
医師は、突然目を輝かせ、犬のように、鼻をくんくんと動かしてみせた。医師は、コウタを知っている素振りをしているが、コウタの方は、この奇妙な医師に見覚えがない。
コウタは、懸命に、記憶の糸をたぐり寄せみた。近所の河合先生ではないし、校医の先生でもない。一度だけ中耳炎で訪れた、耳鼻科の先生とも違う。自分が見知っている医者なんて、限られているのに、コウタは、やはり向久井医師の顔に見覚えはなかった。
ところが、見知らぬ医師なのに、コウタもまた、懐かしいと感じている。もしかしたら、ただ、大事な記憶を取り出せないだけかもしれない。コウタたちも、オー君をすぐに思い出せなかった。だから、この医師のことも一時だけ、忘れているのかもしれないのだ。
「おっと失礼。どうも私は、鼻くせが悪いのでな」
医師は、自分の鼻を指でつまんでみせ、おまけに肩をちょっとすくませた。そのおどけた仕草に、コウタたちは、思わずくすりと笑った。
そこへ、亮平と翔が、オー君を抱きかかえて、医師の前に差し出した。
「先生、具合が悪いのは、コウタではなく、こっちのオー君の方です」
医師は、オー君の姿を一目見ると、とたんに目つきが変わった。
「おや、これはいかん。確かに、まずい状態だな。とにかく、みんな、飛行船病院に入って」
翔と亮平は、オー君を抱きかかえ、そのまま医師の後について行った。
(飛行船病院だって?)
コウタたちは聞きなれない言葉に怪しんだ。
それでも、一応、建物に青い色の十字が大きく輝いているし、向久井医師も白衣を身につけている。一抹の不安はあるものの、そうも言っていられないほど、オー君の具合は悪そうだった。とてもコウタたちの手に負える状態ではない。
なので、コウタたちは、助けが得られそうだと、ようやくひと安心した。
オー君は、ただでさえ具合が悪かったところに、この飛行船病院の突撃に驚き、具合が悪化してしまったのだ。息はぜいぜいと荒く、しゃべるのも苦しそうだ。
コウタは、みんなの後について、中に入って行った。
玄関から、広いロビーに続いている。両側には、本のぎっしり詰まった本棚が、壁を隙間なく覆い尽くし、天井まで延びている。奥に続く廊下の壁際も、同様だ。反対側には、いくつもの部屋が設けられているが、部屋の中は暗く、やはり本棚でいっぱいだ。書庫なのだろうか。
「さあ、君はこちらへ」
オー君だけが、一番奥にある、突き当りの部屋へと連れて行かれた。二人が部屋の中に入ると、ドアは閉じられた。中の様子はわからない。
三人は、待合場所である、手前にある広い廊下に残された。
廊下は物音一つせず、静か過ぎるくらい静かだ。どうやら、この病院にいるのは、向久井先生だけらしい。
亮平が落ち着きなく、あたりを見廻している。そのうち、探検に行ってくると言い残し、独りで玄関の方へ消え去った。
残されたコウタと翔は、廊下にある古いソファに座って、おとなしく待っていた。
「オー君、大丈夫なのかな」しばらくすると、翔が珍しく不安な声を上げた。
「医者に診てもらうんだから、心配ないさ。どのみち、僕らだけじゃ、どうにもならないし」
コウタも不安ではあったが、向久井医師は信頼できる人間だと、どこかで信じていた。あるいは、信じたかっただけかもしれない。
その後、翔が黙ってしまったので、コウタもそれ以上、何も言わなかった。しばらくの沈黙のあと、翔がふいにつぶやいた。
「それにしても、ここは本当に病院なのか?」
コウタは、改めて周囲を見廻した。
確かに、とても病院らしからぬ光景だった。窓も、柱も見当たらない。玄関以外の壁は、ほとんど本棚でできている。本棚がないのは、天井と床くらいだ。これでは、まるで、図書館ではないか。いや、図書館だって、これほど、本に埋め尽くされてはいない。本の数でいったら、ここの方が、だんぜん多いだろう。
それに比べ、病院らしいものは、いっさい見当たらない。院内の案内板や注意書き、受付、ストレッチャーや車イスなど、普段病院で目にするものは、何一つ見当たらない。
病院特有の、消毒薬の臭いさえしない。その代わりに、カビ臭い、本の匂いでいっぱいだ。ぎっしり並んでいる本の種類も、植物や動物、天候や宇宙、鉱石、文学や詩歌などの分野で占められている。どういうわけか、医学や医療に関する本は、一冊もないのだ。
そこへ、戻ってきた亮平が、興奮気味に、しかし、声を潜めてささやいた。
「ねえ、今、ぐるっと探って来たけど、ここは病院とは思えないよ。あの先生は、本物のお医者さん?」
コウタと翔は、思わず顔を見合わせた。二人が何か言おうとした時、奥の部屋のドアが突然開いたので、三人ともぎくりとして振り向いた。
「君たち、こっちへ来てくれたまえ」
向久井医師が、ドアの隙間から顔を覗かせ、コウタたちを手招きした。三人は、恐る恐る、部屋に入った。
奥の部屋は、他の部屋と同様、四方を本棚で囲まれていた。それでも、部屋の中央には、立派な机とイス、その向こう側には、ソファとテーブルがあった。木製の台には、本や書類が乱雑に積み重ねられ、ランプの光に照らされている。
部屋の奥にある棚の上には、赤青黄のランプが柔らかな光を放っていた。まるで、信号機のようだ。ドアの開閉のせいか、それぞれの炎が大きく揺らめき、部屋中の影もそれにつれて、大きく揺れ動いていた。
オー君は、医師の机の横にある、小さなイスに腰かけていた。顔色は相変わらず良くないが、小さな目は、興味深そうに周囲の本棚を観察している。コウタたちに気づくと、一旦振り向き、軽く目配せをしてみせた。
向久井医師は、つかつかと部屋の中を進み、机の前の、大きな肘かけイスに座った。そこが、いつもの場所なのだろう。ぼってりとした腹を抱えた尻は、そのイスを埋め尽くした。
三人は、部屋の入り口に立ったまま、医師を見守った。
医師は、棚の上から赤いランプをつかみ取ると、オー君の頭上に掲げて言った。
「これは、真実を映し出すランプだ」
しばらくの間、赤いランプをオー君の周囲に掲げ、観察した。ランプの光は急に大きくなり、部屋じゅうが、赤い光にぼんやりと染まった。医師が、ランプを動かすたびに、部屋全体も大きく変化し、赤と黒の世界を作り上げていった。
医師は十分納得したのか、ランプを机の上に置くと、そのままコウタたちの方へ向き直った。
「君たちの友だち、オー君には、暗闇の力が入り込んでいる。それだけでも問題なのに、彼の、生きる力が弱いため、体が薄くなってきているんだよ。このままでは、オー君の体はどんどん薄くなり、代わりに、オー君の影がどんどん濃くなっていくだろう」
そう言われて、コウタは、初めて気がついた。オー君の顔色の悪さは、青ざめていたからではなく、薄くなっていたので、青っぽく見えたのだ。体が薄くなると、向こう側に広がる暗闇が、透けて見えてくる。
亮平も、それに気づき、悲鳴に近い声を上げかけたが、慌てて自分の口もとを手で押えた。
確かに医師の言うとおり、見れば見るほど、オー君の影は三人の影に比べて黒く、気味が悪い。
だが、肝心のオー君は、うろたえることなく、医師の話に、神妙に聞き入っていた。動揺していたのは、むしろ、コウタたち三人の方だった。
「きっと、偽マンジから出てきた、黒いネバネバのせいだ」
翔が、不快そうに言うと、向久井医師は、顔のまん中にシワを寄せた。
「偽マンジだって?君たち、まさか、黒光りするマンジの木を左回りに開けたりしなかっただろうね?」
医師の咎めるような口調に、やはり、あの黒いマンジを開けるべきではなかったと、四人は改めて後悔した。
コウタが、下手な言い訳をするかのごとく、口ごもった。
「あの、知らずに、少しだけ開けてしまいました。すぐ、元に戻しましたが、オー君に黒い塊が少しだけ…」
向久井医師は、ひとしきりうなると、腕を組み、しばらくじっと考え込んだ。あまりに長い沈黙に耐え切れなくなり、オー君は、医師の前に身を乗り出して言った。
「先生、それで、僕はどうなっちゃうんですか?」
医師は、腕組みを解き、机の上にあった赤いランプを棚の上に戻した。
「正直言って、危険だね。このままでは、君は影に乗っ取られてしまう」
一瞬、全員が沈黙した。医師の言っている意味が、よくわからなかったのだ。しかし、何かとんでもない危険が迫っているのは、理解できる。理解できるからこそ、言葉が出なかったのだ。
ややあって、亮平がまっ青な顔でうろたえ出した。
「信じられないや。先生、もし影に乗っ取られたら、オー君はどうなるんですか?」
亮平が、泣き出さんばかりの声で訴え出した。そもそも偽マンジを開けようと言い出したのは、亮平なのだ。だから、よけいに責任を感じたのかもしれない。
亮平は、なりふりかまわず、向久井医師に迫った。
「いや、それより、先生、早くオー君を助けて下さい、お願いします。切符は何枚でも払います。足りなければ、なんとかしますから、オー君を助けて下さい」
オー君は、亮平の情けなくも必死な姿に、あ然とするばかりだった。
「まあ、落ち着きなさい」
医師は、目もとに優しげな笑みを浮かべると、棚に置いてある青いランプをそっと取り出した。
「これは、真実を見極めるランプだ」
医師は、青いランプを、オー君の周りに静かにかざし始めた。すると、青い炎も急成長し、大きく明るく燃え出した。ランプの動きがあまりにゆっくりだったせいか、青い光が部屋の隅々まで照らし出していった。
コウタは、ランプの光が照らされた部屋内を注意深く観察した。
とりたてて、外の廊下や他の部屋と変わりはない。あえて言えば、医師が、いつもこの部屋にいる分、多少、物が多いようだ。特に、医師が普段使っている机の周囲は、本や書類をはじめ、羽のついたペン、ティーカップ、オルゴール、キーホルダー、栓抜きやライターなどが、ごちゃごちゃと散らばっている。それでも、ピンセットやガーゼや薬の類は、一切見当たらなかった。
コウタの視線が自然に、部屋の入口と先生のいる机の間の壁に移った。
本棚に挟まれた壁には、一面に、色とりどりのポスターが貼り巡らされている。ポスターは、どれも皆、相当古く、縁がボロボロになり、剥がれ落ちかけているものもあった。
大きな月のイラストと共に『カニ女王に騙されるな。解決はもう間近だ』とか、天気図をあしらったデザインの『銀河台風七号発生情報』とか、『新作、ナゴタとノゴ、詩人ネプトゥスの特別サイン会』、『例の巨大惑星及びその衛星巡りツアー、参加者募集』などなど。
意味はさっぱり不明だけど、図柄や文字を見ているだけで、楽しくなるポスターたちだ。
その並んだポスターの隅っこにある、一枚の地味な張り紙が目に入った。
その瞬間、コウタは凍りついた。
『心正しき、各世界の皆さまへ。お尋ね者。以下の者を見かけたら、直ちに、冬将軍事務局へ通報してください。お礼は、たっぷりいたします』
併せて、お尋ね者の顔写真が、でかでかと、その張り紙に載せられている。それは、紛れもなくオー君の顔だ。
コウタの心臓が大きく脈打ち、汗が吹き出してきた。それがばれないように、コウタは、自分で自分を落ち着かせようとした。
幸い、医師は、まだ、オー君の周囲に青いランプをかざし、じっと見つめている。オー君の体ではなく、オー君の周囲を観察している様子だ。
コウタは、医師の方を盗み見ながら、指名手配書の件を、こっそり翔と亮平に伝えた。翔と亮平も、張り紙を見るなり、目が飛び出さんばかりに驚いたが、二人とも、平静を装った。
冬将軍と言う言葉を耳にするたび不安を感じていたが、それは、やはりコウタたちに深い関わりがあったのだ。冬将軍という、正体不明の何者かが、オー君をつけ狙っている。ここへきて、それがはっきりし、現実になった。
これで、ソラトが別れ際に言った不吉な言葉や、ガラス占い師の警告した意味も、ようやく納得がいった。自分たちを追いかけている、つまりはオー君を狙っている、とてつもなく強力な者とは、冬将軍で間違いないだろう。
「よし、やっとわかったぞ!」
向久井医師が、声高々にそう叫んだ。てっきり、オー君の件がばれたと勘違いしたコウタたちは、さっと顔色が変わった。もし、部屋がもう少し明るかったら、コウタたちの慌てぶりに、医師は気づいただろう。
しかし、幸いにも部屋は暗く、しかも医師は、目の前の作業に集中していたため、コウタたちは怪しまれなかった。
医師は、青いランプを机の上に置くと同時に、顔を上げず、机の上にある紙に書き込んでいった。コウタたちは、胸をなでおろしていた。
それから医師は、青いランプを棚に戻し、その代わりに黄色いランプを手に取った。部屋の中が一気に明るくなった。
「これは、真実に導くランプだ」
医師は、今度は黄色いランプをオー君の頭上に掲げると、すぐに何かを、猛烈な勢いで書き込んで行った。
書き込まれたカルテがランプの黄色い光に照らされ、ちらりと見えた。
今度は、頭の方がこんがらがった。表紙は確かにカルテだが、それをめくると、中は、楽譜を書く五線紙だった。医師は素早く、八小節ほどの音符を書き込んでいた。
「オー君に足りない色は、まず、夢色だ。これが、恐ろしく欠けている。それと、希望色。これもかなり少なく、しかも貧弱ときている。それから、安心色。これは、過去に、ひどく足りない時期があったね。今は、以前よりは回復しているが、まだ不足している。後は、情熱色に、詩人色に空想色。おや、静寂色だけは十分だな。オー君は、昔、とても不安な出来事でも、あったのかね?」
医師は、一旦カルテを書く手を止めて、オー君に向き合った。オー君は、素直な態度で医師に訴えた。
「記憶がほとんどないので、わかりませんが、昔、ものすごく怖い目に遭った気がするんです。それは半分、自分のせいで、そうなったと思うんですが、実のところ、よくわかりません」
「ふんふん、なるほどね。あまりに恐ろしくて、記憶が飛んじゃったのかもしれないな。ああ、細かなことは必要ないから、それ以上、無理して思い出さなくてもいいよ。記憶よりも、受けた印象の方が大切なのだから。察するに、余程の出来事があったのだろうね」
コウタたちにとっては、まるでチンプンカンプンな話だったが、医師は、独り納得し、大きくうなずいた。その後には、また長い沈黙が流れた。亮平が、ものすごい目つきで医師を見つめ続けている。
長い沈黙に、とうとうオー君が降参した。
「先生、結局、僕は、どうすればいいんですか?」
オー君は、決して怖がってはいなかった。むしろ前向きに、医師の出す結果を受け入れようとしている。
医師は、再び腕を固く組んで目をつむり、おもむろに目を開くと、正面からオー君に向かい合った。
「影は、色が抜けてしまった部分を覆い尽くすから、抜けた色を補充する必要がある。予定どおり、銀河原のススキが原に行って、銀ギツネの粉を浴びるのが、一番だ。銀ギツネの粉は、その人の望みを、叶えてくれるからね。しかし、この状態では、銀河原のある天上界に行き着くのすら、厳しいに違いない。それほど、君は重く、弱っているのだ。だから、今はとりあえず、最低限必要な色を、急いで調達するとしよう。その力で、なるべく身を軽くして、天上界まで行けるようにするのだ」
医師の説明は、ほとんど理解できなかったが、とにかく、ススキが原のある銀河原まで行ける治療を考えてくれるらしい。必要な色を調達するとは、おそらく、薬を処方すると言う意味に違いない。コウタたちは、勝手にそう解釈した。
ここにきて、オー君は、やっと笑顔になった。それ以上に、亮平は満面の笑顔になっていた。コウタと翔も、オー君の治療法が見つかったので、やっと落ち着きを取り戻した。
「さて、それでは、オー君に必要な色を調合しよう」医師は、黄色いランプを引き寄せると、ひとしきり考えた。「夢色を生み出すために、まずは、ワクワクする情熱色を創り出そう。それには、ジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』がいいかな。これが、火種となって、情熱色が燃え上がるだろう。そして、純粋味がたっぷり入った情熱色の、『トム・ソーヤの冒険』、詩人色と宇宙色の濃い『銀河鉄道の夜』。これらで基本色を組み立て、そこに希望色と創造色の入った『果てしなき物語』や、ちょいと難しいが、哲学色の濃い『ゲド戦記』を加えるか。これらの本を読めば、必要な体の色は調合されるだろう」
医師は、自分の説明した本を探そうとしたのか、壁際の本棚の方に、頭を向けた。コウタたちは、オー君の指名手配書を見られまいと、誰ともなく、本棚の方へ移動した。
「『トム・ソーヤの冒険』なら、僕も読んだことがあります」コウタはそう言いつつ、自分の体で張り紙を隠そうとした。「でも先生、本を読んだだけで、オー君は本当に良くなるんですか?」
コウタに続いて、亮平と翔も、何気ないふりをして、張り紙やポスターの前に、にじり寄ってきた。
コウタたちのそんな行動に、向久井医師は、一向に気づく気配もなく、机の上にあるカルテに、またもや音符を、今度は六小節ばかり書き込んだ。
「人が成長したり、生き続けるには、体に栄養が必要なように、魂にも栄養が必要なんだよ。例えば、情熱色が大幅に不足すると、人は、何一つやりたくなくなる。何も欲しくないし、何も好きになれない。毎日の生活や時間からも色が消え、生きる・死ぬの区別さえつかなくなっていく。子どもの頃、外で自由に遊んでいれば、色を作り出す力が備わるけれど、それができないまま大人になると、影につけいられる隙が、できてしまうんだ。だけど、それを補ってくれるものも、いくつかある。本を読むのも、そのうちの一つだよ。本を読んで感動し、その世界に入り込めれば、自分で色が生み出せるのだ」
医師は、ペンをカルテの上にポンと置いた。
「だったら、映画やマンガやゲームじゃダメなの?あれだって、感動するし、面倒くさい本を読むより、楽しくて手っ取り早いけど」
亮平が、普段思っていることを軽々と口にした。
医師は、にっこりと笑って答えた。
「もちろん、優れた作品であれば、本に限らなくてもいいんだよ。ただし、その場ですぐ感動することが、重要じゃないんだ。その場では、たいして感動しなくても、心の底に、深く刻み込まれる印象を持つのが、大切なんだよ。だから、楽しかった、感動しただけじゃなく、結末に納得できないとか、ずっと心に引っかかるとか、主人公について考えさせられるとか、複雑な余韻が残るほど、その本は君の心の奥底まで、つまりは、君の人生に影響を及ぼしていくんだ」
医師は、手もとのカルテを右手で軽く叩いてみせた。
「そして、簡単に色を作り出せるものは多いが、そういった色は、すぐに消えてしまう。シャボン玉のようにね。長くはもたないんだ。つまり、気分みたいなものだよ。だから、そういったものと、魂に色を与えるものを区別できないといけないね。そのためには、よく遊び、よく勉強する必要があるんだよ。魂に色を与えるには、勉強にしろ、遊びにしろ、いろいろな体験が必要だ。その上で、自分で何かを作り出したり、生み出したりするのは、なお、よろしい」
向久井医師は、きっと真実を話しているのだろう。コウタは、そう思った。何故なら、向久井医師には、包み込まれる温かさを感じるからだ。おそらく、この深い愛情で、大勢の病人を治してきたに違いない。この病院は、ちょっと怪しげだけど、向久井医師は怪しい人間ではない。むしろ、信頼すべき人物だ。
それでも、オー君の指名手配書に気づいたら、そうと言い切れる自信が、コウタにはなかった。
「さあ、オー君。今言った五冊の本を、そこら辺の本棚から見つけて、持っていきなさい。じっくり読むのだよ。そうすれば、銀河原まで行ける力は、手に入るはずだ。君には、無期限で貸し出そう。他にも気になった本があれば、それも一緒に持っていきなさい。それから」医師は、意味ありげに笑った。「オー君、君は本当にいい友だちを持っているね。君の友だちは、さっきから一生懸命、君の指名手配書を隠そうと頑張っている。冬将軍から出された、手配書をね」
「僕の指名手配書?冬将軍から?」
オー君は、事情が呑み込めないものの、手配書と聞いて、ただ事ではないと目を丸くした。オー君は、そのまま、コウタたちの方を振り返った。すると、三人とも、当の本人よりも、慌てふためいていた。一人、余裕たっぷりな医師だけが、コウタたちの慌てぶりを楽しそうに見物していた。
コウタは、頬を赤く染めながら言った。
「先生は知っていたんですね。オー君が、追われているのを」
医者は、ふくよかな腹の出っ張りを、軽くポンと叩いて笑った。
「ああ、とっくにね。君たちを初めて見た時から、気がついていたよ。私は、世界各地を渡り歩くから、情報には敏感なのだ。だが、私は、医者だ。門番でも、裁判官でもない。医者は、病気を治すのが仕事だ。だから、オー君を治すには、冬将軍に通報するのではなく、天上界にある銀河原に、行かせることだ。さっき教えた本を読めば、必ずや銀河原に行き着けるだろう」医師は、ここで、眉を少しだけひそめた。
「どっちにしても、時間はあまり残っていないぞ。連中は、オー君の黒い影のにおいを嗅ぎつけ、そう遠からず、この、『永遠に宅地造成中の国』にも、やって来るだろう。偽マンジを開けたのなら、なおさらだ。追手が来ないうちに、早くここを発った方がいい」
追手と聞いた四人は、しのび寄る闇と寒さを思い出し、身震いした。
「先生、どうして、冬将軍は、僕を追いかけているんですか?冬将軍とは、いったい何者なんですか?知っていたら、教えて下さい」
オー君は、いつになく早口で、医者に詰め寄った。
「君が狙われている理由は、わからない。影が濃くなっているだけで、冬将軍は、追っては来ないはずだ。君の、失われた記憶に、秘密があるのかもしれない」
医師は、難しい顔で答えた。
「君たちの世界では、冬将軍とは、寒さの到来を意味するが、ここでは違う。冬将軍は、地下深く、地球の中心部に棲みついている、謎の大悪魔だ。生き物たちを凍りつかせて、まっ黒に焼きあがった影を食らい、すべての世界を氷の世界に変えようと目論んでいる。近頃、勢力を増して、君たちの世界にも、かなり入り込んでいると言う噂だ」
医師は、机の上にあるオルゴール風の赤い小箱を、自分の方へ引き寄せながら言った。
「冬将軍は、本来、夢色や希望色や情熱色といった、人間の持つ色が大嫌いなのだ。どれもこれも、熱が発生するからね。だから、君たちの世界には入れないはずなのに、どういうわけか忍び込んでいる。冬将軍の手下も、あちらこちらの世界に潜り込み、何かを探し廻っている様子だ。それが、おそらく、手配書にもなっている、君なんだろうね」
オー君は、突然知らされた恐るべき事実と、わからない自分の過去に、独り愕然としている。
医師は、しゃべりながらも、先ほどからずっと、机の上の赤い小箱を気にかけていた。箱の中には、ボタンやスイッチ、それに目盛のついた、恐ろしく繊細な部品が、複雑に詰め込まれている。小さな画面には、数字がせわしなく点滅していた。
「もっと詳しく説明したいが、早く本を選び取って、出発した方がいい。今、調べたところ、外の気温が急速に下がっている。君たちがここにいるのが、冬将軍一味にばれたみたいだな。急ぎなさい」
確かに、室内にいるのにも関わらず、ここへ来た当初より肌寒くなっている。四人全員がそれに気づくと、急に慌て出した。一刻も早く、ここを発たなければいけない。それなのに、肝心のマンジは見つからないのだ。
「先生、マンジを知りませんか?こんな記号です」翔はせっかちに、マンジの記号を宙に書いてみせた。「マンジがないと、おれたちは、いろんな国々を移動できないんです。この国からだって、出て行けやしない」
医師は、難しい顔をして、首を横に振った。
「いや、知らないね。マンジに関して言えば、せいぜい、偽マンジの話を、いくつか聞いたことがある程度だ。残念だが、この飛行船病院にないことだけは確かだ。しかし、マンジを使わずに、移動はできないものかね?夢見人なら、問題なく移動できるのだが、君たちのようなケースは初めてだ」
四人は絶望の色を浮かべて、その場に立ち尽くした。自分たちは、やはり、マンジがないと、別の世界へは移動できそうにない。
「いずれにしても、いったん、外に出た方がよさそうだ。ここは、特殊な結界を張ってあるので、君たちのいることがすぐばれてしまうからね」
亮平と翔とオー君は、とたんに顔色が変わった。三人は、すぐさま、早く五冊の本を見つけて外へ出ようと声をそろえて叫び、慌てて、部屋の中の本棚を探し始めた。
ところが、コウタだけは、独り頭を抱えたまま、まったく動こうとしない。コウタは、まだひどく動揺し、混乱したままだった。マンジが見つからないことに打ちひしがれ、そこに囚われ、動けないでいた。
今まで散々、外の野原を歩き廻ったのに、マンジは見つからなかった。だから、今更外へ出たところで、マンジが見つかるとは到底考えられない。マンジが見つからない限り、何も変化は起こらないのだ。
コウタは、こんな状況にも関わらず、これが夢なら早く目覚めろと強く念じた。念じればどうにかなるものではないとわかっているが、この切羽詰まった状況から、コウタは解放されたかった。
だが、いくら念じても、状況は一向に変わらない。焦れば焦るほど、どうしようもなくなっていく自分に、コウタは悲観し、憤り、耐えられなくなった。
「でも、マンジが見つからない限り、僕らは、この国から出られないんだ!」
コウタは、あらん限りの力を込め、心の底から思いっきり叫んだ。
そのとたん、亮平たち三人は、固まってしまった。コウタがこんなにも取り乱すとは、思いもよらなかったのだ。
どんな時でも冷静で着実に行動する、頼れるリーダー格のコウタ。そのコウタが、今はすっかりうろたえ、別人のようになっている。ただでさえ動揺していた三人は、まさかの状況に、衝撃を受け、恐怖ですっかり足がすくんでしまった。
それを見た医師は、黙って立ち上がり、わざと大きな音をたてて、部屋のドアを開けた。
「しっかりしなさい」医師は、コウタに向かって強い口調で言った。「君は、この期に及んで、まさか、この世界を、ただの夢だなんて思ってやしないだろうね?夢から目覚めれば、すべてが解決すると考えてないだろうね?」
コウタは、はっとした。まるで、自分の心の中を見透かされた気がしたのだ。自分は、もっとしっかりしなければいけない。これが夢でも、そうでなくても、関係ないのだ。自分たちは、前に進まなければならない。逃げるのではなく、進むのだ。
コウタは、しばらくしてから、神妙にうなずいた。
「しっかりできるように、頑張ってみます」
「よろしい。実に正直な答えだ。それなら、この国から出られるだろう」医師は、太鼓判を押した。「信じることを、信じるのだ。強く望み、強く願うのだ。いいね?次の世界へのドアを、君たち自身が見つけて、開けるんだ」
コウタの心は、落ち着きを取り戻した。
勇気づけられたコウタたちは、バタバタと慌てだし、医師の指示した五冊の本を、手分けして本棚から探した。幸い、五冊の本は、近くにある本棚から、すぐに見つかった。他にも何冊かの本を廊下の本棚から見つくろうと、コウタと翔が、分担して小脇に本を抱えた。
亮平は、オー君を支えながら、全員で玄関へと駆け出した。医師は、四人を見送るため、一緒に、玄関までやって来た。
玄関のドアの前で、コウタたちは向久井医師に礼を述べた。そして、四人がそれぞれ切符を差し出したが、医師は頑として、それを受け取らなかった。
「これが、縁というものさ。君たちが、何事もなく銀河原に到着するのを、ここで祈っているよ」
にこやかに自分たちを送り出してくれる医師を、コウタは、やはりどこかで会っていると、強く感じた。それどころか、別れに際して、ひどく寂しい気分に陥った。まるで、家族や親友と別れる気分だ。こんなに懐かしく思うのに、向久井医師を、まったく思い出せない。
コウタは、そんな自分がもどかしかったが、今ここで思い出すのを諦めた。今は無理だとしても、いつかは思い出せるだろう。そんな自分を強く信じてみたい。先ほど、医師もそう言っていたではないか。
複雑な気持ちのまま、コウタは親切な医師に別れを告げた。
「さようなら、先生。僕らは絶対に、次の世界へ続くドアを見つけて、開けてみせるよ。でも、僕が病気になった時には、きっと助けに来て下さいね」
コウタは、そう言うのが、精一杯だった。向久井医師の笑顔が、ずっと自分に向けられているのを、コウタは背中で感じた。
先頭のコウタは、玄関のドアノブに右手をかけ、廻した。廻した後で、それが小さなマンジであることに気がついた。




