第1章 冬の始まりと影の声
― 童話やおとぎ話は、北の国で生まれることが多いんだよ
コウタは、寒空の下でふと思い出した。
学校の用務員のお爺さんが、以前そんな話をしてくれた。
着古した、よれよれの作業服が懐かしい。その作業服は、土や草や埃のにおい、それに、お爺さん特有のにおいがする。その作業服の上に乗っかっているのは、シワだらけの優しい笑顔だ。
誰かがすかさず、童話やおとぎ話は、何故、北の国で生まれるのが多いのかと尋ねた。
― そりゃあ、北国には何もないからさあ
用務員さんは、白く光る入れ歯を見せながら、大きく笑った。それから、いつものように、ふっと横を向く。
その独特な横顔に、コウタをはじめ、生徒たちはたちまち引き込まれた。
用務員さんが語ってくれた話は、どういうわけか、学校の先生の話より、ずっと頭の中に残るのだ。教科書は、翌年にはすっかり忘れられてしまうが、シワだらけの顔やごつい手は、いつまでも目に焼きついている。それが、みんなには、生きた教科書に見えたのかもしれない。
よく覚えてはいないが、話の続きは、確か、こんな感じだった。
冬になると北国は雪で覆われ、何一つ見えなくなってしまう。だからまっ白な画用紙に、思いきり絵を描くのと同じで、そこから童話やおとぎ話が、次々生まれてくるのだと。
― それから、あんまり知られちゃいないがね。冬の始まりにも、童話やおとぎ話が生まれるんだよ。秋の終わりと冬の始まりの隙間から、不思議な世界がやってくるんだ。だから、木の葉がすべて落ちたら、目を閉じて耳を澄ませてごらん。ほら、聞こえるだろう?
「どうして秋と冬の間なの?」
コウタは、そう聞いた記憶があるが、用務員さんの答えは覚えてはいない。温かい思い出は、そこで、寒々とした公園の景色の中に消えていった。
コウタは、11月の薄い青空を見上げた。柔らかな雲の衣は、遠い夕日に向かって、細長く引き伸ばされている。きれいに透きとおった空気は、ピリッと辛い冷たさをはらみ、すぐそばまで来ている漆黒の夜を予感させた。
公園の入り口からは、噴水のある広場や、枯れている芝生の丘、公園を囲む家々、そして、その先には地平線を隠した黒い森たちが見渡せる。黒い森の上から先は、空がのびのびと自由に広がっていた。
コウタは空に向かって、息を強く吐いた。白い息が勢いよく空に踊り上がり、まだ明るい空と公園を一瞬だけ曇らせ、勢いよく消え去った。
「おーいコウタ、こっちに雪虫がいるぞ」
亮平の弾んだ声が、冷たく硬い鉄棒の向こうから、響いてきた。亮平はコウタのクラスメートであり、一番の親友だ。
亮平の家族は、コウタの家族とは恐ろしく違っている。
一人っ子のコウタには想像できないが、亮平には姉妹が、三人もいる。しかもその三人は、全員姉であり、亮平の上にいつだって君臨しているのだ。夜遅く帰ってくる父親を除くと、家の中は女ばかりなので、亮平は、たいてい、不利な立場に甘んじている。そのため、いつもグチをこぼしていた。
「まったく女って奴は…」
これが亮平の口癖だった。今日も、二番目の姉のお下がりを、無理やり着せられそうになったので、朝から母・姉大連合とケンカになったと嘆いていた。それでも亮平は、巧妙にその場を切り抜け、リボンのついたクマのTシャツを着ないで済んだらしい。
コウタはそんな亮平の話を、いつも楽しそうに聞いていた。女の兄弟はおろか、男の兄弟すらいないコウタにしてみれば、亮平はいつだって、不思議な世界の住人なのだ。
その亮平は、楽しげに、寒々とした公園の花壇の中に入って行った。花壇とは名ばかりで、この季節に咲いている花はなく、立ち枯れた草木がポツポツと、恨めしそうに、風に揺れているだけだった。
「コウタ、やっぱり雪虫だ。雪虫を見つけたぞ」
亮平の声が、更に大きくなった。
「本当?今、そっちへ行くよ」
コウタの声も自然に弾んだ。緩んで垂れ下がった青いマフラーをきっちり巻き直すと、コウタは、公園の入り口から足早に花壇へ向かった。
鉄棒の横を通り過ぎ、花壇の中へ入ろうとした時、コウタはふと、地面が気になった。
地面には、鉄棒の影と共に、自分の影が映り込んでいる。この季節、この時間、影は夕陽に照らされ、長く斜めに引き伸ばされる。鉄棒の影は、ひしゃげた四角形になり、コウタの影と交差した。コウタは何故か、自分の影から目を離せず、顔だけをそちらに向けたまま、歩いた。
影の自分は、本物のコウタより背は倍も高く、歪んで細長い。どこを見つめているのか、まるでわからない、まっ黒な少年。コウタが死ぬまで、向かい合わせにピッタリと寄り添い、コウタの秘密を全部知る少年。そして、彼らの仲間は、光のあるところなら、それこそ世界中どこでも大勢いる。彼ら影同士なら、自由に、くっつき、分かれ、また合体し、いくらでも巨大になれるのだ。彼らがもし、生き物だったら、本物の人間は到底、太刀打ちできないだろう。
その時、信じられないことが起こった。鉄棒の影は止まったままなのに、自分の影だけが大きく震え、あるはずのない目が、コウタを見つめ返した。いや、目が見えたわけではないが、コウタは自分が見られているという、恐ろしい感覚に襲われ、背筋が氷りついた。
……マンジを開けろ……
突然、低く絞り出す大声が、地面から響いてきた。
コウタは、その場から、思わず飛び退いた。
声は確かに、地面に横たわる自分の影から聞こえてきた。それは、人間とは思えないほど低く、重苦しい声だ。荒い息づかい、そして言いようのない絶望と苦痛。そんな風にも感じられた。
そのうめきにも似た声は、コウタの立っている地面を震わせ、一瞬ではあったが、頑丈な鉄棒までも小刻みに揺らした。
コウタは緊張したままその場に固まってしまい、自分の影から、いよいよ目を離せなくなった。しかし、声はそれ以上聞こえない。自分や鉄棒の影もピタリと静止している。
その時、ふと誰かの視線を背中に感じた。コウタはぎょっとして振り向いた。鉄棒から少し離れた公園のまん中に、背の高い少年が立ちすくんでいる。
同じクラスの翔だ。翔は、バイオリンケースを抱えたまま、ものすごい形相で、コウタを凝視している。いつもは、自信たっぷり過ぎて鼻につく翔だが、この時ばかりは、珍しく、恐怖ですくんでいた。
「今のは、おれじゃないぞ」
翔は、吐き捨てるようにそう言うと、そそくさとその場を立ち去り、公園を出て行った。
コウタは、自分の影に異常がないのを確かめると、ほっと息をついた。
あの、おびえた様子は、おそらく翔も、不気味な声を聞いたに違いない。それでも、見栄っ張りな翔は、懸命に、気にしてないふりをしたのだろう。
低いうなり声は、どう考えても翔の声ではない。だいたい、翔がそんな、子どもっぽいいたずらをするとは、考えられない。なにしろ翔は、普段から、たわいもないいたずらにさえ、幼稚だとバカにするくらいだ。
確かめたくても、翔は公園からいなくなってしまい、コウタは、ポツンと寒空の中に取り残されてしまった。
コウタは恐々と、再び自分の黒い影に目を落とした。見たくないけれど、どうしても視線がいってしまう。
「コウタ、どうしたんだ?」
なかなかやって来ないコウタに、花壇の中から、亮平がもう一段大声で叫んだ。コウタはその声に、死ぬほど驚いたが、その反面ほっとした。コウタはできるだけ、平静を装った。
「ああ、何でもないよ。今、そっちに行くから」
平静を装っているうちに、本当の冷静さを取り戻したコウタは、歩きながら、バカバカしいと思った。
地面はいつもどおり、鉄棒や噴水やコウタの影を仲良く映し出している。地面から変な声はせず、影も揺らいでいない。もはや不気味さは、微塵も感じられない。いつもどおり、平和な公園だ。すべてが健全で順調じゃないか。
やはりあれは、手の込んだ、翔のいたずらに違いない。翔は自分も驚くふりをして、コウタを怖がらせようとしたのだ。たまに、ライバル心をちらつかせてくる翔だから、十分ありうる話だ。そうでなければ、説明がつかない。
コウタは自分にそう言い聞かせ、なおもしつこく地面を横目で見つめた。地面や影に、別段変化はない。コウタは、足もとにあった小さな石ころを蹴り上げた。小石は音をたてて、垣根の方へ飛んで行った。コウタは、ようやく鉄棒と砂場を後にした。
そんな出来事にまったく気づいていない亮平は、寂しげな花壇の奥で、独りはしゃいで楽しそうだった。
「ほら、見てよ、これ」
亮平は、大事そうに囲った両手を、コウタの前でそっと開いてみせた。手のひらには、白い綿毛をつけた小さな羽虫がいる。尻についているまっ白な綿毛は、フワフワとして、できたての綿菓子みたいだ。
見たとたん、コウタの顔がほころんだ。小さなその虫は、亮平の手の中をゆっくりと、這い廻っている。
「ほんとに雪虫だ。あっ、あっちにもいる」
コウタの目が輝いた。
コウタは、花壇の奥にある金網まで、踏み込んでいった。外の道路との境にある金網だ。そこには雪虫が数匹、粉雪のごとく優雅に舞っている。コウタの両手が、雪虫をそっと包み込んだ。雪虫はふわりと、コウタの手のひらに着地した。
「雪虫の季節か。つまり、今日から冬が始まるんだな」
コウタは、手の中でもぞもぞしている雪虫を眺めながら、しみじみと言った。
「何だよ、それ。年寄りくさいぞ」
亮平は、大げさに笑った。ところが笑いながら腕を大振りした瞬間、亮平の手の中から雪虫がふわりと飛び出した。亮平は逃げた雪虫を捕まえようと、慌てて両手を空中で振り回し、宙をつかんだ。だが、運悪く力が入り過ぎて、雪虫は亮平の右手に押し潰され、あっけなく死んでしまった。亮平はあっと声をもらすと、動かなくなった雪虫を長い間見つめていた。
「こんなつもりじゃなかったのに」
亮平の小さな肩ががっくりと下がり、弱々しい声がもれ聞こえた。
「仕方ないよ。わざとやったわけじゃないし」
コウタはそう言うと、囲っていた自分の両手をそっと開いた。コウタの雪虫は、小さな羽をブンと広げ、のんびりと寒空に上っていった。亮平は動かなくなった雪虫を、植え込まれているサザンカの葉の上に、丁ねいに置いた。
「ところで亮平、さっき変な声が聞こえなかった?」
コウタが言いにくそうに、尋ねた。
「声?声だって?いったい誰の声?」
亮平はとたんに好奇の目を輝かすと、あたりを探り始めた。しかし、夕暮れ時の公園には、誰の姿も見えず、しいんとしている。
コウタはとたんに気恥ずかしくなり、言わなければよかったと、後悔した。そんな気持ちをごまかすためか、コウタはポケットに両手を突っ込み、緑の手袋を取り出してみせた。それと同時に、さりげなく言った。
「いや、いいんだ。きっと、空耳だろう。最近この辺で、ぶっそうな事件が多いだろう?そんな話を耳にしたから、よけいにね」
亮平は、丸い目をパッチリさせたまま、ちょっとだけ首を傾げた。
「ああ、ぶっそうな事件ね。最近、多いよな。ついこの間も、この近くで、妙な事件があったらしいよ。足の悪いお婆さんが一人で住んでいたんだけど、ある日、悲鳴が聞こえたので、近所の人たちが、慌てて駆けつけたんだ。で、みんなで家の中に踏み込んでみたものの、誰の姿もなかったそうだ。あれ以来、お婆さんは消えたままだってさ。奇妙なのは、近所の人たちがその家に踏み込んだ時に、ヒヤリとした黒い霧が、さーっと玄関から出て行ったんだって。黒い幽霊が出たって、しばらく大騒ぎだったよ。翔の家の、すぐ近くらしい」
「気味悪い話だなあ」コウタは、いかにも嫌そうに言った。「そう言えば、ついさっき、そこで翔を見かけたよ」
翔の名前を耳にしたとたん、亮平の眉が、顔の中央でぴくりと動いた。
「翔が?公園に?あいつ、こんなところで何しているんだ?」
「ヴァイオリンのケースを抱えていたから、お稽古に行く途中かな」
「なあんだ。この寒空の公園で、ジャングルジーム相手に、演奏会でも始めるのかと思ったよ」
亮平は、ジャングルジームに駆け上がると、寒さで赤くなった鼻先を指できゅっとつまみ、大げさにヴァイオリンを弾くまねをした。コウタは吹き出した。亮平は、翔と反りが合わないのだ。コウタも亮平ほどではないが、癖のある翔が、若干苦手だった。
翔はコウタたちと同い年なのに、どういうわけか、ずっと大人びている。単に、背が高く体格がいいだけではない。頭も切れ、やることなすこと、テキパキと、すべて首尾よくこなしてしまうのだ。その上、子どもながら、ヴァイオリンの演奏は一流ときている。
なのに、クラスでは不人気だ。あんなによくできるのに、いや、あんなにできるからこそ、翔にはクラスメートたちが、子どもっぽく見え、我慢がならないのだろう。翔は、そんな態度をあからさまに取るし、時には、先生に対してもバカにした態度をとるので、みんなからは煙たがられているのだ。
もっとも本人は、他人にどう思われようと、まるで気にかけていない。人気者になりたいとも思ってないし、たった一人でいても、平気な性分らしい。おまけに腕っぷしも強いので、翔にケンカを吹っかける、無謀な者は、手痛い目に遭うのが落ちだった。そういうわけで、翔はさしずめ、クラスの一匹狼といった感じだ。
「あんな奴のこと考えるだけ、バカらしいよ。日も暮れたし、そろそろ帰ろう」
亮平はそう言い捨てると、ジャングルジームからさっと飛び降り、足早に歩き出した。その後を追うコウタは、公園を出る時、一度だけ振り返って、鉄棒のある地面を確かめた。もちろん、いたって普通の地面だった。
二人は、寒々しい公園を後にして家路についた。
コウタはまだ、自分の影が気になっていたが、そのうち完全に陽が沈むと、暗さに吸い込まれ、影は見えなくなった。その代わり街灯が灯され、家々の暖かい明かりが、暗い街を彩った。
至るところに灯された街灯のせいで、今度は新たな影が出てきたが、その影は薄っぺらいし、街灯によっていろんな方向に分かれ、先細って弱々しい姿になっている。そんな影に安心したのか、コウタはやっと影が気にならなくなった。
二人は街角の小さな路地の入口で立ち止まった。そこから細い路地に入った奥に、亮平の家がある。古い一軒家だ。コウタの家は、すぐ先の、けやき通りの角にあるマンションにあった。二人の家は、互いに近かった。
「明日はきっと雪だろうな」
突然、亮平が空を見上げながら、口ごもった。亮平は、さっき潰してしまった雪虫を、まだ気にしていた。コウタはそうだね、とだけ答え、二人はいつもどおり、路地の入口で別れた。
「ただいま」
コウタは、ぶ厚い玄関のドアを開けた。そのとたん、白い大きなムク犬が猛烈な勢いで、コウタに突進してきた。
「ムク、ただいま!」
ムクは、その勢いのままコウタに飛びつき、コウタの顔を散々、舐め回した。これが、毎日恒例の嬉しい出迎えだ。コウタの両親は共働きのため、たいてい一番先に帰宅するのは、コウタだった。
コウタは、玄関の明りをつけた。
コウタには、兄弟はいない。弟がいたが、生まれてすぐに亡くなっている。弟になるはずだった男の子は、コウジと名づけられたそうだ。もしそのコウジが今もいたら、とコウタはいつも考えてしまう。両親が帰宅するまでの、このやるせない時間を、コウジと一緒にゲームでもやりながら、楽しく過ごせたに違いない。
コウタはテレビをつけて、用意されていたおやつを食べた。テレビの中の世界はいつだって明るいのに、窓の外はどんどん闇に沈んでいく。
突然、ソファの下で寝そべっていたムクの耳が、ピンと立ち上がった。続いて、頭が持ち上がった。コウタもムクの変化に気がついた。
コウタとムクはほぼ同時に、ソファから立ち上がると、競い合って廊下を駆け抜けた。二人が玄関に到着すると、すぐに、玄関のチャイムが鳴った。チャイムがまだなり終わらないうちに、コウタは玄関のドアを開けていた。
「お帰りなさい!」
冷たい外気の中から、クリーム色のコートを着た母親が現れた。母親は寒さで、頬が赤くなっている。ムクがまた、派手なお迎えの挨拶をした。するとその背後から、父親が続いて滑り込んできた。偶然、両親が同時に帰宅したのだ。狭い玄関は、とたんに混雑した。
「おーい、我が家はこんなに狭かったのか?」
とたんに、家の中が息を吹き返した。家の中はたちまち、いろんな物音や声やにおいで騒々しくなった。部屋たちも明かりが灯され、活き活きと活動を始めた。
居間の窓はどれもこれも、幸せそうな水蒸気で潤い、寂しかったテーブルの上には、料理が並んだ。湯気がそろって腰振りダンスをしている。外の暗い通りとは、まるで正反対の世界だ。
曇った窓を通して見るけやき通りは、葉がすっかり落ち、裸になったけやきの細枝が、寒そうに震えている。たぶん風が吹いているのだろう。舗道にいる人々も、身を縮こませ、急ぎ足で歩いている。
「雪が降りそうだよ」コウタは舗道を見ながら言った。「今日公園に、雪虫がいたんだ」
「ほう、雪虫か」父親が、テレビから目を離し、ビールの注がれたコップを白いテーブルにぽんと置いた。
「それなら、今夜は初雪だな。昔から、雪虫が飛んだら雪が降るって言い伝えだからなあ」
コウタは嬉しかった。公園で雪虫を見つけ、父親に報告できたのが、誇らしかった。たったそれだけのことなのに、まるで一足先に、冬を先取りしたような気分だ。
父親は、天気予報の番組を真剣に見ながら、風船でも膨らませそうなほどの、大きなため息をついた。
「ああ、今年もとうとう、冬将軍到来ってわけか」
父親が何気なく言った言葉に、コウタはギクリとした。
冬将軍の到来。学校の用務員さんから聞いた、冬将軍についての話を思い出したのだ。もう、ずい分前の事だ。その頃の幼いコウタには、用務員さんの話から、冬将軍というものが、とてつもなく恐ろしい魔物としか思えなかった。
冬将軍は、冬の寒波にまぎれてやって来る。その姿を見た者は、誰もいない。何故なら、姿を見た者は、氷の炎で焼き尽くされるからだ。
姿を見なくても、心の隙間に入り込み、人の体と心を暗く冷たいものに変えてしまう。取りつかれた人は、春になっても、体と心は暗く冷たいままだ。暑い夏にも、決して暖かくはならない。やがて秋が訪れ、次の冬を迎えると、その人は、身も心も魂までもが氷りつき、冬将軍のものとなって、食べられてしまうのだ。
もちろん、あの頃より成長したコウタには、冬将軍がどんなものか、よくわかっている。冬将軍なる人物や怪物が、実際にいるわけではない。単に、冬の厳しい寒さを言っているのだ。
しかし、用務員さんがとつとつと語った冬将軍の話は、コウタの心に根深く息づいていた。
その用務員のお爺さんだが、近頃はまったく姿を見かけない。重い病気を患い、ずっと入院しているという噂だった。
午後九時。緑のパジャマに着がえたコウタは、部屋の電気を消して、ぶ厚い羽根布団に潜り込んだ。電気を消したとたん、窓の外の物音が急に迫ってきた。外は、木枯らしが吹き荒れている。風がビュンビュンと、小さな窓を鞭打ち、中にいる者たちを叩き出そうとしている。窓とほとんど同じ高さにある街灯は、ケヤキの枯れ枝の影を、窓に映し出していた。
なかなか寝つけないコウタは、いく度となく寝返りをうって、そのたびに、羽根布団にくるまり直した。
目を閉じると、いろんな考えや記憶が、頭の中を足早によぎっていく。勝手に思い出されるのか、それとも自分で考え出しているのかさえ、わからなくなってきた。自分の影と亮平とムクと雪虫が、ぼやけたまま重なり合った。ケヤキの枯れ枝がいく重もの円を作って、グルグル廻っている。
(…マンジを開けろ…)
あの声を思い出したコウタは、はっとして、暗闇の中で目を見開いた。
マンジを開けろ。気のせいだと思いたいが、コウタにはあの時、確かにそう聞こえていた。不気味で苦しげで、切ない声。夕暮れの公園で聞いたあの声を、コウタはどうしても忘れられなかった。
思い出せば思い出すほど、心臓の鼓動がますます早まり、頭が冴えてくる。翔のいたずらでなければ、誰の声だったのだろう。いくら考えても、コウタにはわからなかった。
しかも、マンジを開けろとは、どういう意味なのだろう。マンジとは、確か、お寺を表す記号『卍』だ。それを開けるとは、どういうことなのか。ますますわからない。
窓には相変わらず、無情な風が吹きつけていた。ケヤキの枯れ枝は、狂ったように、身をよじっている。
― こんな夜には絶対、外を歩いちゃいけないよ。秋の終わりと冬の始まりの狭い隙間から、冬将軍はやって来るんだからね
今度は用務員のお爺さんの話が、また少しずつ、頭の中に浮かんできた。
冬将軍に氷の炎で焼かれると、どうなってしまうのだろう。怖いながらもコウタは、あれこれ想像していたが、そのうち、どんどん睡魔に引き込まれていった。
うとうとするのは、なんて気持ちがいいのだろう。ムクはいつもこんな感じで、みんなの帰りを待っているのだろうか。コウタはムクが羨ましいとさえ思った。
冬将軍なんて、そんなもの、いるはずはないさ。バカバカしい。
夢うつつの中で、コウタは自分自身に決着をつけたかった。
あれは、寒い夜に、子どもが出歩かないよう、大人が作ったでまかせだ。そんな子ども騙しに、僕は引っかからない。冬将軍なんて、いるわけがない。僕は怖がらないぞ、絶対に、絶対に…
窓に映るケヤキの枯れ枝は、ゆっくりと手招きしている。コウタに、外へ出て来いとでも言っているのだろうか。
そんな、へし折れそうな細腕で呼んだって、出て行くもんか。
コウタは、心の中で断固として拒否した。それから、睡魔に身を任せ、目を閉じかけた時、はっとした。
突然、ケヤキの枯れ枝の影が変化したのだ。細い枯れ枝は、わさわさと重い葉をたっぷり茂らせ、今度は丁ねいにお辞儀をしている。コウタは、羽根布団の中で独り苦笑いをした。
これもきっと夢に違いない。コウタが、そう決めつけにかかった時、ふと少年の声を聞いた気がした。それも夢だろうと、コウタが無視し、再び眠りの底に落ちようとすると、またしても、その声が邪魔をする。
「コウタ」
誰かが、自分の名前を呼んでいる。霧がかっていた景色が、少しずつ晴れていく。コウタの意識は、急速に研ぎ澄まされていった。
「コウタ」
やっぱり誰かが、自分を呼んでいる。今度はコウタも、すっかり目を覚ました。
声が聞こえてきた窓の方を見ると、ケヤキの枝が影となって、ゆらゆらと揺れている。だが、ケヤキの枝がおかしい。ケヤキの葉はすべて落ちてなくなり、幹と枝しか残っていなかったはずだ。それなのに、真夏のごとく、豊かに葉を茂らせ、重さで枝がたわんでいるではないか。影を映し出すオレンジの街灯も、いつになくピカピカ輝き、えらく眩しい。
いったい何が起こったんだ?
コウタはベッドから飛び起きると、窓際へ駆け寄った。その声は、下からまだ叫び続けている。
「おーい、コウタ!」
外を見ると、驚いたことに、舗道に並んでいるケヤキは、どれもこれも皆、青い葉をつけ、重そうに、風に揺られていた。オレンジの街灯は、いつもより数倍も明るく、舗道やあたりのビルを照らし出している。外はやけに暖かそうで、とても11月とは思えない景色だ。
それなのに、道路は氷でも張っているのだろうか。鏡みたいにピカピカに輝き、ケヤキ並木や建物が、きれいに映りこんでいる。コウタは、舗道に目を落とした。
舗道のまん中で、コウタに向かって、激しく手を振っているのは、あれは、亮平だ。




