第二十四話 立ち上がる陽
彼女からすればそれはいつもの流れのなかで出てきてしまった、何気ない失言でしかなかったのだろう。
しかし花園佳澄は白菊菜乃花とは違い、冗談で通用しない関係性の人間だった。
それに加えて、自身のインフルエンサーとしての立場を見誤ってしまったという二つのミスが、今回の事態を招いたと言える。
「こちら三点で12500円になります。袋はいりますか?」
「えっ?」
「……大変失礼いたしました。3500円です」
「もしかして一冊0の数を打ち間違えた?」
「はい。申し訳ありませんでした」
「いいよいいよ。人間誰しも間違いはあるからね」
年配の男性客はそう言うと、笑ってお代をトレイに置いた。
このように相手の顔を見ながら接する現実世界なら、即座に非を認めて謝れば許して貰える場合もある。
しかし、彼女の場合は違った。
それどころか、謝り方が悪いと火に油を注ぐ形となった。
確かに俺が花園佳澄のファンの立場であったなら、どこの馬の骨ともわからないVチューバーにあんなことを言われたら面白くないだろうし、謝罪の言葉も付け焼刃の保身にしか見えないかもしれない。
暴言の嵐は未だ、とどまる事を知らない。
あの電話以来、麻玲衣さんとのやり取りはなかった。
こちらからメッセージを送っても応答はなく、既読すらもつかない状態だ。
そしてときわ坂舞香が配信をしなくなってから、はや十日が過ぎようとしていた。
「どうしたの陽ちゃん。なんか最近ボーッとしてるっていうか、心ここにあらずって感じだけど」
「すみません。気を付けます」
「失恋でもした?」
「そういうのではないですが」
失恋の経験がないのでそれがどれほどものかは知らないが、さすがにそれは今感じているものの比ではないだろう。
だが胸にぽっかり穴の開いたような気持ち悪さがいつまでも続くというのは、これまで経験したことのないものだった。
「なんというか、友達がちょっと虐められていて。元はと言えばそいつに非があるんですけど、ちょっと大勢から一方的に言われてて可哀想だなと」
「んー、難しいわね。人って自分たちが正しいと思いこむと、一方的に袋叩きに出来ちゃうからね」
「俺もいわれのない中傷にはなるべくフォローして訂正させようとしたんですが、彼らは聞く耳持たなくって」
もちろん個の力でこの状況をどうにか出来るとは思っていない。
それでも書き込んだ反論が数の暴力で揉み消されるたび、何度でも同じ書き込みを続ける自分がいた。
まったくおかしな話だ。
あの人には散々振り回された記憶しかないというのに、どうにもざまあみろと笑う気にはなれなかった。
「他人を変えようとするのって難しい話だわ。ましてやそれが集団ならなおさらね。悲しいけど世の中にはどうにもならないこともあるわ」
「やっぱりそうですよね」
「あなたがすべきなのは、虐めてる人たちをどうにかするんじゃなくて、その友達の心に寄り添ってあげることじゃないかしら」
「心に、寄り添う?」
「そう。暖かい言葉を一つでもかけてあげれば救われるものだと思うわよ」
「助言、ありがとうございます。肝に銘じます」
そこはまったくの盲点だった。
だがはたしてそれは俺が担う役回りだろうか。返信はおろか既読すらつかないというのは、麻玲衣さんの心が俺を必要としていないという意味ではなかろうか。
そもそも彼女にとって俺の存在がなんなのか、実際のところはよく分かっていない。
『ご乗車ありがとうございます。この電車は開王線、凱旋台行きです。次は金鳥ケ丘……』
帰りの電車に揺られながら、エタクラを起動する。
更新されたばかりのストーリーイベントはちょうど盛り上がるところのはずだが、どうにも読む気が起こらなかった。
『次は犬翔橋、犬翔橋。お出口は左側です』
SNSを開けば、相変わらずときわ坂舞香の悪口で溢れかえっている。
とは言え、人の噂も七十五日。時が経てばいずれこの騒ぎも収まるだろう。
彼女のチャンネルは案の定、なんの更新もされていない。
最新の動画、すなわち今回の件への謝罪動画ではファンたちの擁護コメントがアンチからの辛辣な意見に押し潰されそうになっていた。
もうすぐ大学生になって初の長い夏季休暇がやってくる。
それが終わるころにはきっと、今の感情も綺麗さっぱり忘れ去っていることだろう。
何ら問題はない。ときわ坂舞香を知る以前の何も知らない自分へと立ち戻るだけだ。
いっそのこと他のVチューバーにでも鞍替えしてしまおうか。
確かカルロス・アイアンナックルなんかは割と俺の嗜好に合っていた気がする。
『次は降星谷、降星谷。お出口は右側です。明輪線はお乗り換えです』
――いや、
拳をぐっと握りしめ、立ち上がる。
――このまま終わって良い訳がない。
チェインで一言、「今から行きます」と送り、電車を飛び出した。
客観的に観れば相当、おかしなことをしているのかも知れない。
そもそも家まで行ったところで本人が錠を開けてくれなければ何も始まらない。
今までの人生、人間関係において拒絶されるリスクのある行動を取ったことなどなかった。
だが今の俺にとって、今回の状況は過去のあらゆるケースとはまるで違う。
自分勝手と糾弾されても構わない。
ただやめて欲しくない、その一言を伝えるための行動もせずにこのまま終わってしまったら、あとで後悔するのは間違いない。
ちょうどエントランスの前まで来たとき、スマホが鳴った。
どうやら会ってはくれるらしい。
ロックが外れ、ドアが開いた瞬間、俺は久しぶりに麻玲衣さんの顔を見た。
「陽くん、心配して来てくれたんだね。普段は奥手な癖に案外強引なところもあるんだね」
彼女は笑顔を見せていた。
だがその顔面はやつれており、目にはいつもの輝きが失われていた。




