生乳
昔の日本にも牛はいる。
いないのは乳牛と食肉用の牛だ。
農耕用の牛もいるし、牛車も走っている。
僕が「牛の乳が欲しい」と言った時、田中が僕の身体を見て可哀想な人を見るように「まぁ・・・わからないでもないが、それは無い物ねだりと言うモノだ」と言った。
そういう意味じゃないやい!
別に大きな乳に憧れてる訳じゃないやい!
ただ牛乳を飲む文化がないから『牛乳』って言っても通じないから『牛の乳』って言っただけだい!
「何でそんな物が欲しいのか?」と田中。
「菓子作りに必要だからだ」
「ふーん、そうか」
そこで話は一旦終わった・・・と、思っていた。
それから7日後、大量の陶器の入れ物に入った牛乳が魚屋に届いた。
何で7日かかったかと言ったら、素焼きの入れ物を大量に作るのに一週間かかったからだそうだ。
乳牛がいないだけで、牛はいるしメス牛もいる。
牛の乳は子牛が飲む以外は絞って捨ててしまっているらしい。
絞らないと母牛は『うつ乳』になって体調を崩してしまう、との事だ。
「どうせ捨てる物だ。
魚の干物くれるならそれだけで良いよ」って具合で、牛を飼ってる人が『俺も、俺も』って感じであっという間に大量の牛乳が集まったらしい。
しかしどうするんだよ。
この牛乳、加熱処理も殺菌処理もされてないだろう?
俗に言う『生乳』ってヤツだ。
これ冷蔵庫もなしでどうすんだよ?
どうしたら良いかわからないけど取り敢えずは加熱殺菌だな。
集まった牛乳を魚屋の賄いを作る用の大きな釜にぶち込む。
いっぺんじゃ全部は煮込みきれない。
多すぎだっつーの!
集まった牛乳を二回に分けて沸かす。
まだ沸いてないのに牛乳があれよあれよという間に分離する。
温めた牛乳に膜が出来るアレどころじゃない。
これが生乳って事か!
僕は浮いて来た油分を元の素焼きの容器に入れる。
何か考えがある訳じゃない。
そうするしかないじゃん?
どんどん分離するからあまり沸かすのを止めて油分を取り除く。
あんまり沸かすと油分を取るのが間に合わない。
取り敢えず、このまま低温で沸かして油分を取れるだけ取ろう。
加熱殺菌処理は後で良い。
しかしこの油分どうしよう?
捨てるしかないのかな?
僕は油分を少しなめてみる。
これは、生クリームじゃないか!?
菓子作りに生クリームは不可欠だ!
そして生クリームがあるって事はバターも作れる!
量が多すぎるとは思ったが、チーズやヨーグルトみたいな発酵食品を作れば・・・。
(そんなもん作れる知識がない)と思っているのに頭の中にバターやチーズやヨーグルトの作り方が頭の中に浮かぶ。
バターやチーズやヨーグルトの菓子がある限り、きっかけさえあれば作り方は頭の中に浮かぶのか!
田中が1ヶ月ほど堺から出て京都に行って戻って来た時、魚屋に戻って来た田中が見たのは店の隅で魚の干物の隣で並べて売られている菓子の数々だった。
しかも見たことがないような菓子ばかりだ。
「番頭!番頭はいるか!」
田中が店先で叫ぶ。
店の奥から番頭が気まずそうに顔を出す。
田中が何が言いたいのかわかっているのだ。
『魚問屋で何で訳のわからん物を売っているのだ!?』と。
「気づいた時、私は止めたんですよ。
でもようかんが勝手に丁稚奉公の小娘らと結託して店先に菓子を並べたんです。
小娘らはようかんの菓子の虜になっておりまして・・・。
一旦は菓子を撤去したんですが、既にようかんの菓子は店で一番の人気商品だったんです。
『あの菓子はどうしたんだ!』と菓子を求める客でごった返してしまってですね。
仕方なく菓子を魚の干物の隣に並べているのです」申し訳なさそうに番頭は言う。
田中は僕を探して建物の奥の僕が菓子の研究所にしている台所に来る。
そこで田中が見たのは、ゴリゴリと石臼を回して粉をひいている僕だった。
「何をしているのだ?
蕎麦粉でもひいているのか?」
「いや、ひいているのは麦だ。
小麦粉をひいている。
菓子作りに使うんだ」と僕。
「何故菓子を売るのだ?
材料なら勝手に使って作って良いと言ってるはずだが?」
「準備してくれた材料だけじゃ足りないんだよ。
高価な砂糖や卵を買わなきゃいけない。
それには金が必要なんだ」
「それにしても魚問屋で菓子を売るのはどうかと・・・」
「それは大丈夫だ。
田中のもう一つの茶人としての顔がある。
魚屋は田中の店だと思われているんだから、茶人の店で売られている菓子は茶菓子だと思われているみたいだ」
「・・・でようかん。
どんな菓子を売っているのだ?」
「商品は品切れ続きであんまり食べさせられないけど、開発中の新商品があるから是非田中に食べて感想を聞かせて欲しいんだ。
食べて欲しいのはコレ『シュークリーム』だ」
「しゅーく・・・どういう意味だ?」
「確かフランス語の『シュアラクレーム』が訛ったモノじゃなかったっけ?
『キャベツ』みたいな意味だったような・・・」
「何を言っているのか全くわからん」
田中は余計に混乱したようだ。
戦国時代の日本にとっての『外国』は中国と朝鮮とポルトガルの事で他は全くと言っていいくらい知られていないんだな。
「とにかく食べて見てよ」
恐る恐る田中が差し出されたシュークリームを食べてみる。
「な、何だこれは!?
中に入っているこの白い甘いモノは何だ!?」
「これは泡立てた生クリームに砂糖を入れたモノだよ。
でもこれは秋から冬にかけてしか売れない。
暑いと生クリームが溶けちゃうんだ。
しかし日持ちを考えるならやっぱり、洋菓子より和菓子だね。
この時代の洋菓子は冷蔵庫がないから足が早くていけない」
田中には僕の言う事の半分も理解出来ていないみたいだった。
「誰かいるか!」
店先で誰かが怒鳴っている。
田中が店先に出ていく。
良かった。
店先に菓子を置いていた事を有耶無耶に出来た。
こっそりと店先を覗く。
「これはお奉行様、何かご用でしょうか?」
田中が猫なで声で偉そうな侍の相手をしている。
僕は少し不愉快だった。
元いた世界が平等を謳っていたせいか、武士が町人に対して偉そうな態度を取る様子にはいまだに慣れない。
田中が奉行の相手をして戻って来る。
「あの人誰?」と僕は聞く。
「『あの人』とか言うな!
あの方は堺のお奉行様、松永久秀様だ」と田中。
嘘、松永久秀って、松永弾正だよね?
奉行って・・・そんなに地位低かったっけ?
何で松永久秀の名前を僕は覚えてるんだ?
何をした人だっけ?
もう少し真面目に日本史の授業を受けておけば良かった。




