閑話 賤ヶ岳七本槍
なぜ養観院は寝不足なのか?
前日から寝ないで『大あん巻き』を作っていたからだ。
その『大あん巻き』を入れていた桶を帰る直前で作らされた人物というのが『市松』という若者だ。
元々藤吉郎は家康を信用していない。
少し前までは敵の配下だったのだから、本来なら信用しないのが当たり前なのだ。
だが、信長は幼なじみの家康の事を『子分』として可愛がっている。
信長はこの岡崎行きを『竹千代の城に行くだけだ、何をそんなに大袈裟にする必要がある?』と護衛をほとんど着けなかった。
一応利家は連れて行ったが、それは『養観院』と『龍勝院』の護衛として、だった。
元々信長には現時点で小姓がいない。
もう少し後なら森蘭丸、森力丸、森坊丸という小姓が出来るのだが。
小姓は雑用をやるだけでなく、主を命をかけて守る役割も兼ねている。
だから『本能寺の変』での森蘭丸の奮戦が物語になりがちだ。
つまり、信長には今回ほとんどボディーガードがついていない。
それを問題視したのが藤吉郎だ。
藤吉郎は信長の小姓代わりに三人の若者を岡崎へ随行させる。
その三人が『市松』『虎之助』『左馬助』だ。
だが、信長は清洲へ帰る時に「馬は走らせる。大人数は邪魔だ、速度が落ちる」と利家など少人数で出発してしまった。
養観院と龍勝院に出来るだけ護衛を残したい、という意図もあったんだろうが。
何にしても『市松』『虎之助』『左馬助』は岡崎に取り残されてしまった。
そこで家康の治世をイヤでも目の当たりにする。
彼らは何を感じただろうか?
余談ではあるが『市松』とは後の『福島正則』。
『虎之助』とは後の『加藤清正』。
『左馬助』とは後の『加藤嘉明』。
偶然にも『賤ヶ岳の七本槍』の中の三人だ。
そして『関ヶ原の戦い』で西軍ではなく、家康側の東軍についた三人でもある。
そんな話はさておき『市松』の家は元々、桶屋だったと言われている。
そして信玄が乗っている『輿』、これを急遽組み上げたのは『虎之助』という若者だ。
甲斐から信玄を乗せてきた輿も当然ある。
しかし、武田勝頼が謎の低温火傷を負ってしまい重症ではないものの、馬に乗って甲斐には帰れない。
つまり輿は勝頼が使う訳だ。
だから『岡崎で輿を手配しよう』という話になった。
『手配出来るまで清洲へ帰るのを先延ばしにしようか?』と言う話になった時に「私が三日で輿を組み上げましょう」と言ったのが『虎之助』だ。
後に『築城の名手』とうたわれる『虎之助』は、あっという間に輿の設計図を地面に書く。
『虎之助』の指示に従って木材などの材料が集められ、本当に三日で信玄が乗る輿を組み上げてしまった。
『虎之助』の設計した輿の下には大きな一輪車がついている。
凸凹道や障害物があるところでは輿を持ち上げる。
普段は車輪で一輪車を走らせるのだ。
地車を想像してもらうと、どんなモノかわかるだろう。
「だったら最初から牛や馬に引かせる車を作れば良いのに」という意見もあるだろう。
しかしこの時代の道はそんなに平坦ではない。
京都や奈良などの街中では平安時代から牛車が走っている。
それもこれも道が平坦だから存在出来るのだ。
『舗装してない凸凹道で車の運転なんて出来るか?』という話に似ている。
一輪車を走らせている時、輿の周りの人らは『輿を押す』と『輿の方向転換』と『輿のバランスを取る』役割を果たす。
一輪車は揺れる。
普段馬に乗り慣れていない信玄じゃなきゃ乗り物酔いをするだろう。
だから龍勝院の輿には車輪はついていない。
信玄一行、護衛一行、清洲へ帰る一行・・・思っていたより大所帯になってしまった。
大所帯の馬を手配したのが『左馬助』だ。
左馬助は三人の中で最年少でガキと言って良い。
見た目、養観院よりちょっと上という感じだ。
左馬助はちょっと前まで『馬喰』という馬屋に育てられていた。
だから大量の馬を扱うのには長けていたし、馬の取引を得意としていた。
ダメ元で明智光秀が左馬助に「数日中に出来るだけ馬を調達してきて欲しい」と言った時、2日で30頭の馬を調達してきた左馬助を見て光秀は度肝を抜かれた。
こうして清洲への出発は予定通り行われた。
奇しくもこの三人は、間もなく藤吉郎の小姓となる『石田三成』と仲の悪い三人である。