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聖女の望みは叶えられた

作者: 猫乃真鶴

評価・ブクマ、誤字脱字報告ありがとうございます。


「これは……」


 イゼルベは声を上げた。そして思わず、と言ったように口元を抑える。


「ねえ、お義姉(ねえ)様。一体どんなお手紙なの? わたしにも教えて!」


 そんなイゼルベの手から、妹のカロリーナは紙を引き抜いた。あっ、と声を上げるうちにそれはカロリーナに読まれてしまう。


「まあ! お城への招待状!」


 ざっとしか目を通していないのだろう、カロリーナは期待に満ちた声を上げる。が、それは正しくない。イゼルベは溜め息を吐いてから、改めて妹へと向いた。


「違うわカロリーナ、それは命令状。お城へ出仕しなさい、という書状よ。……貴女へのね」

「……それはどういうこと!?」


 キンキンと甲高いカロリーナの声に、イゼルベはもう一度溜め息を吐いて目を瞑った。普段は放ったらかしにされているのに、こういう時だけ両親はイゼルベを使う。

 話を聞かない妹にも、都合のいい両親にも、イゼルベはうんざりしていた。

 軽く頭痛を覚えながら、どう説得しようかとイゼルベは考えを巡らせる。




 イゼルベはイラシュバテン伯爵家の長女として生まれた。妹のカロリーナとは母親が違う。イゼルベが幼い頃、イゼルベの母親は亡くなった。それから伯爵は再婚したのだが、よくある話で、この再婚相手は伯爵と愛人関係にあったのだ。これ幸いと伯爵は愛人を後妻に据えた。これまたよくある話だが、再婚相手はイゼルベを良く思っていなかったようだ。母が亡くなって、イゼルベの生活は激変した。

 イゼルベの母は侯爵家の次女、爵位は母の実家の方が上だが、イラシュバテンの出資が無ければ立ち行かなくなるところだった。だから立場は、伯爵家の方が優位だったのだろう。イゼルベが知る限り、母は伯爵には舐められた態度を取られることが多かった。それが耐えられなくなったのかなんなのかわからないが、ある時窓から飛び降りたのだ。

 それからカロリーナとその母、カロインが来るまではすぐだった。葬儀のすぐ後から屋敷に出入りし始め、ひと月もすればもうほとんど住んでいたような気がする。その時はまだイゼルベは幼かったから、記憶は曖昧だが。

 でも、二人が来た時の事はよく覚えている。とりあえず着られるものを着せられていたイゼルベと違って、初めて会ったカロリーナは愛くるしかった。つやつやの髪、ふくふくのほっぺ、体に合ったドレス。高価そうなぬいぐるみを抱くカロリーナは、まさしく貴族の令嬢といった風貌だった。

 比べてイゼルベは、ただ伸びただけの髪に、かさかさのほっぺ、ドレスはサイズがあっておらずぶかぶか。


「まあ、みすぼらしい」


 そんなイゼルベを見てカロインはそう言い放った。


「あっちへお行き。あたし達の前に出るんじゃない」


 カロインは父親は男爵だがメイドとの間にできた庶子、庶民だ。対するイゼルベはれっきとした血筋の伯爵家の跡取り。初対面なのにこの態度、しかも娘達の身なり違い。伯爵がイゼルベをどう扱おうとしているかが幼い彼女にもわかった。

 それを決定付けるのが、イゼルベとカロリーナの年齢だった。誕生日が半年しか違わなかったのだ。イゼルベの母が存命の頃、妊娠中から関係があったということだ。いや、もっと前からなのだろう。それこそ、結婚前からの関係の可能性もある。

 ともかくカロインがそんな態度で、伯爵もイゼルベを顧みなかったから、カロリーナがイゼルベを軽視するまで時間は掛からなかった。イゼルベの持ち物に気に入った物があれば自分の物にした。それを次から次へとやって、飽きるとすぐに壊して捨てた。わざわざイゼルベの前で。あまりに性格が悪くて、思わずイゼルベは笑ってしまった。すると気味悪がられて、今度は扇で()たれた。カロインは止めるどころか「打つなら見えない所におし。背中がいいよ」などと助言をしていた。気味が悪いのはどちらだろうと、打たれながらイゼルベは思ったものだ。

 伯爵夫人とその娘がそうなので、使用人も次第にそういう態度を取るようになったが、イゼルベは相手にしなかった。なにせイゼルベは、侯爵と伯爵の血を引く真っ当な貴族の娘。彼らに軽視される覚えはない。

 伯爵本人——イゼルベの父親は、というと。


「次はこれだ。いいな、明日の朝までに終わらせろ」


 と、なぜかイゼルベの前に書類を山のように置く。


「この量は……明日の朝までには、とても」

「なんだと!? この私に逆らうのか!」


 恫喝と共に平手打ちを頬に受ける。イゼルベの頬は真っ赤に腫れた。


「きちんと纏めておけよ。この間みたいに適当な事を書いてみろ、ただじゃおかないからな」


 バタン、と扉が閉められる。次にがちゃんと鍵の音がした。イゼルベを部屋に閉じ込めたのだ。こうなるとこの後伯爵が鍵を開けるまで誰も来なくなる。食事なんてもちろん摂れない。


「…………」


 いつからか、伯爵はイゼルベに仕事の資料を作らせるようになった。家庭教師が寄越したものが、まさか家の実務に関するものだとは思わなかった。てっきり例題なのだと思って、イゼルベは習ったばかりのことを懸命に思い出し、必死になって取り組んだ。それを纏めるのに五日かかったが、なんとか形にすることができた。それを家庭教師に提出すると、少し待つように言われて、やがて父が呼ばれてやって来た。


「お前がこれを纏めたと聞いたが、本当か?」

「え? はい」

「一人でか?」

「え、ええ、はい。分からないところは教師に聞きましたが、ほとんど自分で」


 伯爵は家庭教師に視線を投げた。家庭教師はそれに頷く。


「ふん。まあ、いいだろう」


 なんのことか、何を言っているのかわからなくて首を傾げるイゼルベに、伯爵は「次はこれだ」と新しい書類を渡した。量は、前の倍はある。


「あの、これは?」

「察しの悪い奴だな。次の仕事だ。三日で纏めろ」

「仕事!? まさかこれは、領地に関わるものなのですか!?」

「だったらなんだ」

「なんだ、って……」


 秘匿義務はどうなのとか、領主が仕事を放ってどうするんだとか、様々なことが浮かんだが、イゼルベは声に出せなかった。出しても無駄だろう。伯爵が聞くとは思えない。

 そのまま黙ってしまったイゼルベを一瞥して、分かったな、と念押しをした伯爵はさっさと部屋を出て行ってしまった。

 それからどんどんイゼルベがやるべきことは増えていった。伯爵が渡してくる資料は日に日に増えて期日は短くなった。カロリーナが、なぜか自分に出された家庭教師からの課題を代わりにやれと言い出したりもした。断ると癇癪を起こして泣き叫び、イゼルベの仕事が遅れる。引き受けた方が楽だった。味を占めたカロリーナは今ではほぼ全てをイゼルベにやらせる。これでは意味がないと家庭教師に訴えたが、「カロリーナ様がその様なことをなさるはずがないでしょう!」とむしろ嘘吐き扱いされたので、イゼルベはもう諦めていた。

 それがエスカレートして、本来侍女やメイドに言いつけるべきことを、イゼルベにやるようにと言うようになった。これはどうしてだかわからない。単に嫌がらせなのか、それともイゼルベのやる事の方が良かったのか。

 ともかくそうやってカロリーナの言いつけを守り、伯爵からの依頼を行っていたイゼルベは休むことができなかった。食事もろくに摂れないから顔色は悪く、身支度してくれる侍女もいつの間にかいなくなったから髪はぼさぼさ。そもそも身支度をしている暇もない。それをカロインは馬鹿にしていびりのネタにする。それに反応する体力も気力も、イゼルベにはなかった。ただどうしてこの人達は自分を嫌うのだろうと、そうぼんやりと考えるだけだった。



 そういう生活を続けていたある日、お城から一枚の書状が届いた。宛名はカロリーナ。15歳のデビュタントを控えた頃合いに、一体何があったのかと訝しんでいると、内容に目を通した伯爵が書状をなぜかイゼルベに渡してきた。どうしたのか、とイゼルベも確認をしたが、その内容には眉を顰めるしかない。


〝ひと月の後、王女アンジェリネの生誕祭に聖女選出の儀を行う。

 これに伴い、王族の身の回りの世話の為、貴族位の令嬢を召集する。

 15を迎える令嬢は、求めに応じ登城せよ。断ることはまかりならん。〟


「これは……」


 イゼルベは声を上げた。そして思わず、と言ったように口元を抑える。

 それを怪訝に思ったカロリーナが書状をひったくり……そして冒頭に至る。


「なによこれ、舞踏会じゃなく働く為にお城へ来いということ!? 嫌よ嫌、わたし嫌よ! 行きたくないわ!」


 思った通りのカロリーナの反応に、イゼルベはこめかみを揉みほぐす。


「カロリーナ。そうは言っても、これは王命よ。断れるものじゃないの」

「どうしてよ! わたしは嫌だと言っているでしょう!?」

「カロリーナ……」


 聞く耳を持たない義妹(いもうと)に、イゼルベは溜め息を漏らすのを止められない。同じ年頃なのに、どうしてこの道理が分からないのか。この段になってようやくカロリーナが甘やかされていたのだとイゼルベは実感した。

 両親はそんなカロリーナを宥めている。カロインからは喜ばしい、という思いが声色に現れていた。


「カロリーナ、これはチャンスでもあるのよ。お城へ行くだなんてそうそうないのだから。素敵な殿方にお会い出来るかもしれないのよ。ね?」

「お母様! お母様はわたしが小間使いのようなことをして、嫌ではないの!?」


 小間使い。イゼルベはカロリーナの言葉に眉を寄せた。高位の女性の身の回りの世話をするのは、決してそんなものじゃない。本来名誉のあることなのだ。聖女選出の為とあれば尚更。どうしてカロリーナにはその事がわからないのだろうと、イゼルベは本気で理解が出来なかった。


「だって、お義姉様のように侍れということでしょう!? 嫌よわたし、お義姉様のようになるだなんて!」

「……カロリーナ」


 なるほど、それでか。イゼルベはようやく理解した。

 カロリーナには理解できていないのだ、高位の女性の世話をするということが、どういうことなのか。

 今回の聖女選出は、王家に連なる家の年頃の少女が対象となるそうだ。今王家で15歳となるのは三名、アンジェリネ王女と公爵家の双子だ。

 これは、毎年行われるものではない。神殿に啓示があり、それで初めて聖女なりうる者が生まれたことが分かる。その周期は約300年。そろそろではないかと言われていた頃だった。聖女になるかもしれない少女の側に居られることが、悪いことのはずがない。

 集められる世話役の少女も同じ年頃なのは、そういう慣習がいつからか設けられたからだそうだ。聖女に近い年頃の子を集め、聖女の力にあやからせる、そんなものだそうだが、理由ははっきりしないらしい。

 カロリーナが拒否しているのは、そもそも世話をする、というのが、どうしてだかまるで奴隷になることになっているからのようだ。まあ、普段イゼルベにどのようにしているのかを見れば、おのずと分かる。王家の少女にあの様な扱いをされると思っているのだろう。

 だからと言って、断れるものではなかった。伯爵はいつもは厳しい顔を穏やかなものにして、優しくカロリーナを諭している。


「いいかい、カロリーナ。相手は王女様だ。分別のある素晴らしい少女達に決まっているだろう。そんな彼女達がお前にいじわるするはずがないさ。それに、集められるのはなにもお前だけじゃない。他にもたくさんの少女達が集められる。侯爵家や伯爵家、子爵に男爵の家からも呼ばれるそうだよ。お前ができないことは、子爵や男爵の令嬢にさせればいいのさ」


 ……それは、カロリーナが分別のない少女で、イゼルベに対して意地悪をしている、と言っているようなものだ。子爵や男爵令嬢にやらせる? ということは、カロリーナだって上の爵位令嬢に、何かを言いつけられることだってあるということだ。

 父は、伯爵は何を言っているのだと、イゼルベは黙って聞いていた。残念なのはカロリーナがそれを理解した様子がないことだ。むくれたまま、カロリーナはそっぽを向いている。

 それから、いくら両親が宥めすかしても、カロリーナが頷くことはなかった。その間もずっと立ちっぱなしにされて、いい加減イゼルベは疲れてしまった。いつまで続くのかとうんざりしたところに、仕方ないな、という伯爵の声がした。


「イゼルベ。お前がカロリーナの代わりに城へ行くんだ」

「……はい?」


 イゼルベは目を丸くする。何を言っているのだろう、まるで分からなくて、ただただ瞬きを繰り返した。

 そんなイゼルベを、伯爵は苦々しく睨みつける。


「察しの悪い奴だな。誰に似たのか」


 ちっ、と舌打ちをした伯爵は、再びイゼルベを睨みつけた。


「カロリーナが嫌がっているんだから仕方ないだろう。幸い、お前はデビュタントのパーティーに出ていないから顔が割れていない。背丈も見た目も、近い。黙っていれば分からないだろう。お前がうまく立ち回れば、それでうまくいく」


 ——いくわけないでしょう!

 そう喉まで出かかったが、イゼルベはなんとか耐えることができた。というよりも、驚愕で声を出すことが出来なかった。あまりにも無謀、とんでもない発言に、言葉が出ない。


「そ、れは、でも」


 困惑で声が震えるが、なんとか踏みとどまって貰おうとイゼルベは言葉を紡いだ。


「カロリーナは城に居ることになります。その間、外出もできなくなるんですよ」

「たったのひと月だ。不便させるが、仕方ない」

「……お父様のお手伝いをすることが出来なくなります」

「資料を届ける。遣いをやるから、その者に渡せ」

「そこまでするのですか!?」


 強く叫んだからか、伯爵は明らかに苛ついて顔を歪める。


「うるさい! お前が考えることではない!」

「でも!」

「当主命令だ! 逆らうことは許さない」


 言い切ると、伯爵はもう話すことはないと言葉を切って、すぐに荷物を纏めるようにとイゼルベを部屋から追い出した。その間際、カロリーナとカロインがにんまりと笑んで、イゼルベを見る。


「お義姉様、うまくやってね。ばれたりしたらわたしが困るわ」

「家に迷惑をかけるんじゃないよ。分かっているね?」


 その意地の悪い笑みは、イゼルベの目の前で扉の向こうに消えていった。








 結局そのまま、イゼルベは「カロリーナ」として城へ出仕する事になった。屋敷の中に頼れる者がおらず、外に出たことのないイゼルベにはどうしようもできなかった。

 幸い、イゼルベとカロリーナの容姿の特徴は共通していた。金の髪にエメラルドの瞳。実際にはカロリーナの方が鮮やかな色合いで、イゼルベの色はくすんだものだったけれど、社交界に出ていない二人を見分けることができる者はいないだろう。

 それでも、いつなにがあるかわからない。イゼルベは常に気を張っていなければならなかった。

 それは予想よりもずっと辛い事だった。イゼルベを知っている者は居ないだろうが、カロリーナにはごく僅かだが友人が居たはずだ。もしも彼女らに見つかってしまったら、城にいるのが「カロリーナ」ではないことがばれてしまう。そうなれば偽ったことが明るみに出る。王命に背いたのだ、どんな罰を受けるかわからない。友人も知人も居ないイゼルベには、明確な敵はいなかったが協力してくれる人もいなかった。頼る者がいないという状況は、イゼルベが思っているよりも、その精神を削っていった。

 イゼルベに割り当てられたのは、侍女の手伝いだった。どちらかというとメイドに近い。侍女に言い付けられた雑用をこなすのだ。

 王女や公爵令嬢の着るドレスを決めるのは本人と侍女、イゼルベ達は侍女の指示の元、ドレスを準備したり宝飾品を出したりと忙しい。立場は城のメイドよりは上だったから、彼女達に指示をする事もあった。城のメイドは優秀で、突然やって来て不慣れな令嬢達にも嫌な顔をせず、要望に応じてくれた。

 広い城の中、息を潜めるようにして、イゼルベはただ淡々と役割をこなしていった。

 そんな中で、イゼルベは同じく集められた少女達と言葉を交わすようになった。まったく交流を持たない、というのは無理だったので、挨拶くらいはしないと不審に思われる。それが分かってからは当たり障りない会話をするようにした。そうすれば彼女達は、勝手に次の話をする。適当な返事をすれば都合よく解釈してくれるので助かった。

 それで多少は気持ちを持ち直したイゼルベだったが、父からの荷物が届くと眠れない日が続いた。同室の子にばれないように夜更かしをするのは大変だった。仕方がないので就寝後そっとベッドを抜け出し、月明かりで資料を纏めた。次の日は寝不足で辛かったが、早くしないと次の荷物と罵倒が並んだ手紙が届く。いくら一生懸命に纏めてもそんなのお構いなしだった。疲れている時に読むと、体の重さが倍になった心地がする。無視しても良かったが重要なことが書いてあったりするから、目を通さないといけなかった。

 一日一日が早く終わる事を、イゼルベは願わずにいられなかった。



 ひと月後、ようやく待ちに待ったアンジェリネ王女の生誕祭がやって来た。この時は一週間前から大忙しだった。父にはあらかじめ、生誕祭近くなったら荷物を寄越すのはやめて欲しいと頼んだが、それは正解だった。準備のためにあちこちを巡り、目の回る忙しさだったのだ。これではとてもではないが、父の仕事の手伝いなど出来なかったろう。

 この忙しさも、片付けの為の数日を残せばもうすぐ終わる。まだ気が抜けないものの、無事に終わりそうだと内心ほっとしていたイゼルベだが、儀式が終わったはずの時間になっても、聖女が現れたというお触れがなかなか出なかった。結果はすぐに国内に発表されることになっていた。どうしたことか、と城中がざわめくのも仕方のないことだ。

 何が起きているか分からないが、イゼルベ達聖女選出の為に集められた者のやる事は変わらない。官僚と侍女の指示の元、生誕祭の後片付けに追われ、その日は終わった。聖女が現れたというお触れはついに出なかった。


 それから三日経ち、さすがにおかしい、と誰もが思った。イゼルベも同僚の少女達も、食事の場ではその話で持ちきりだった。

 だが、それを大っぴらに言うことはできなかった。なにしろ王家と、それから国の宗教の要である神殿が、聖女選出の大元なのだ。誰もがひそひそと声を潜めるしかなかった。

 更に二日後。ついにどういう事なのか、イゼルベは知ることになった。


「アンジェリネ王女殿下も、公爵家のお二方も、どうやら聖女ではなかったようなの」


 昼食を一緒に摂っていた少女からそれを聞いたイゼルベは、驚いてスプーンを手から滑らせた。幸いスープが溢れることはなかったが、危ないところだった。慌ててイゼルベはスプーンを握り直す。


「それは、どういう事?」

「詳しいことは……ただ、間違いないことのようね」


 同じテーブルに着いていた別の少女が、身を乗り出した。


「今までは聖女と言えば王族から出ていたそうじゃない。こんなことってあり得るの?」

「どうかしら。神官様が過去の資料を漁っているそうだけれど、はっきりとしないそうなの。必ずしも王族から出るわけではないと、そういう事かもしれない」

「そうなのかしら……」

「いずれにせよ、わたし達に分かることではないわ」


 最初に切り出した少女はそう言って、優雅に見える姿勢でスープを含んだ。


「それで、今後どうなるの?」

「まずは、貴族の15歳の子、全員に儀式を受けさせるそうよ。順番は、爵位の上からになるでしょうけれど」

「ということは、お城に集められた全員?」

「全員ではないわね。まだ誕生日が来ていなくて14の子もいれば、過ぎてしまって16になっている子もいるでしょうから。……そう言えば()()()()()、あなたは15だったわよね」


 その言葉にイゼルベは、どきんと胸を弾ませた。


「え、ええ」


 確かに()()()()()は15歳だ。だが、イゼルベは違う。イゼルベはカロリーナより半年前に生まれている。イゼルベはすでに誕生日を迎え、16歳になっていたのだ。

 聖女は15歳の少女から選ばれると言われている。だからイゼルベは聖女にはなり得ない。このまま儀式に臨んだとしても、聖女にはなれないだろう。

 だが、イゼルベがカロリーナとして儀式を受けると、本当に15歳のカロリーナは儀式を受けずに終わってしまう。もしも、万が一にもカロリーナが聖女だとしたら? それが判明する機会は失われてしまうだろう。

 イゼルベは全身から血の気が引いていくのが分かった。カロリーナは儀式を受けなければならない。だがこのまま城に「カロリーナ」として滞在しているイゼルベが受ければ、正しくカロリーナは儀式を受けることができない。けれど、カロリーナが儀式を受ける為に城に来たら、義妹と偽って出仕していたイゼルベ達の不正が発覚してしまう。


(どうしたらいいの……)


 何も考えられなくなって、イゼルベは呆然とする。呆然としたまま昼食の時間は終わってしまった。午後の仕事の後、正式に告知があった。爵位が上の者から順に儀式を受けるように、と。

 該当者は一度帰宅が許されるらしい。とにかく一人で悩んでいてはいけないだろうと、急いで父親に手紙を出すことにした。検閲されることが無いのはこれまでで確認済みなので、事情をすべて手紙に書いた。

 イラシュバテンは伯爵家、歴史はそう古くないから順番は後の方になるだろう。伯爵家より上の爵位の家はそれなりにある。たぶん二週間くらいは、時間があるはず。

 手紙を出して、返事があるまでイゼルベは城に残った。王女と公爵令嬢の世話役の任は解かれたが、今度は集まった令嬢達の世話が必要になった。持ち回りで分担されているので今までのような手間はかからなくなったが、それでも毎日違う令嬢の相手をするのは大変だった。


(早く返事が来ないかしら)


 毎日それを思い、返事を待ったが、同じように家に手紙を出し指示を仰ぐ令嬢が多かったためか、なかなか伯爵からの返事は来なかった。

 返事が来たのは翌週になってからだった。そこには信じられないことが書かれていた。


「……嘘でしょう。本気なの、あの人達は」


〝それなら、当日は入れ替わればいい〟


 イゼルベは信じられなくて、何度も何度も手紙を読み返した。けれどもそこにはどう見ても同じことしか書かれていなかった。

 しかも、家に戻って準備する事が許されているというのに、それもなくただ儀式の時だけ入れ替われというのだ。イゼルベは伯爵家の皆の神経を疑った。とても正気ではないと思った。

 ひと月滞在したイゼルベと違って、カロリーナは城に入ったことすらない。どこを通ればいいかわからない、城に居たはずの「カロリーナ」を、一度も城に入ったことのないはずの「イゼルベ」が道案できるわけない。そもそも、イゼルベとカロリーナは少し髪の色が違う。ばれないはずがない。伯爵はそれが分かっていないのだろうか。

 だが、いくら言ってもあの人達がイゼルベの話を聞く事はないだろう。どうしたものかと、イゼルベは頭を抱えた。



 カロリーナが聖女選出の儀式を受ける当日となった。やはりイゼルベにはどうすることもできず、とにかく入れ替わりがばれないよう心がけるしかない。義妹が心細いというから付き添っているという形でカロリーナの後ろに控えるつもりだ。

 やがて城の裏口に、イラシュバテンの馬車が入ってきた。イゼルベは急いで馬車に駆け寄る。馬車が停まるとすぐさま乗り込み、服装を入れ替える。


「ちょっとお義姉様、なんなの?」

「いいから早く。お父様に聞いているでしょう。ばれないようにドレスを入れ替えるの」

「……そのドレスをわたしが着るの?」


 カロリーナはこの後に及んで嫌そうな顔をする。イゼルベは舌打ちをしたい思いに駆られるが、とにかく今は時間がない。


「いいわよ別にそのままでも。そうしたらあなたは儀式を受けることはできないけれど」

「……仕方ないわね、我慢してあげる」


 我慢もなにも、必要なことなのだけれど。イゼルベはその言葉をぐっと飲み込んでカロリーナとドレスを入れ替えた。

 軽く髪と服を整えて、馬車から降りた。道順は着替えながら伝えたが、カロリーナは半分も覚えていなかった。間違えそうになる度イゼルベはカロリーナに話しかけ、それとなく修正する。二人の後を着いてくる形の両親もカロリーナも、あちこち物珍しそうにキョロキョロと見回しているものだから、イゼルベは恥ずかしくて仕方ない。とにかく先を急ぐしかなかった。


「すごいわ。ねえお義姉様、あっちには何があるの?」

「あちらは官僚の方が出入りする区域で、わたし達は立ち入れないの。それよりも声を潜めて。誰かに聞かれたらどうするの」

「なに? どうして怒るの? わたし別に悪いことしてないでしょう」

「そうね、分かったから静かに」

「うるさいわね、分かってるわよ!」

「……分かっているなら、もう少し声を潜めて」

「うるさいって言っているでしょう!?」


 少し話せばこの様に不機嫌になるので、始終道中は大変だった。

 なんとか儀式を行う部屋に辿り着いた頃には、イゼルベはもうくたくただった。だがこれからが本番なのだ、最後まで気を抜くことはできない。

 部屋には、王と王妃、それから王太子が揃っていた。他は高位の官僚だろう。十数名が静かに控えている。

 部屋の中央には台に置かれた水晶があった。その前には神殿から来たであろう、神官の姿がある。

 静まり返った室内の雰囲気に呑まれたらしく、カロリーナは珍しく緊張しているようだった。

 神官がそんなカロリーナの名を呼ぶ。


「カロリーナ・イラシュバテンで相違ないか」

「は、はい」

「こちらへ。この水晶の前に来て、手をかざすように」


 カロリーナは言われた通り前に出た。そして、水晶に手をかざす。

 イゼルベはそれをカロリーナの後ろから見ていた。斜めからなので手元がよく見える。

 水晶は大きい。人の頭くらいはあるだろう。透明で、傷はなさそうだった。これに手をかざすのだから、もしも聖女が現れたなら何かしらの変化があるのだろうか。

 カロリーナが水晶に手をかざしていたのは短い時間だったが、ぼんやりとしていたイゼルベにはもっと長く感じた。どうせ、カロリーナが聖女なはずがない。だからいつまでやるんだろうかと、そんな事を考えていた。

 すると、突然視界がぶれた。次いでくらっと目眩を感じる。


(……? なに?)


 連日の疲れが出たのだろうか? 思わずイゼルベがこめかみに手を当てた、その時だった。


「こ、これは……!」


 静かだった室内がざわめいている。どうしたのかと、イゼルベはそちらへ目を向け——驚いた。水晶が、眩い輝きを放っていたのだ。


「まさか……」

「聖女の光だ!」


 聖女、と聞こえて、イゼルベは固まった。そんな、まさか。まさか、カロリーナが?


「わたしが、聖女!?」


 カロリーナが言うと両親が彼女に駆け寄った。両親からもやはり、嘘、まさか、という声が聞こえる。自分もそこへ向かわなければ不審がられると思ったが、イゼルベは動けなかった。

 聖女。聖なる力をもって、国を繁栄に導く尊い存在。それがまさか、あのカロリーナだなんて。

 イゼルベには信じられなかった。目の前で起きた奇跡のことも、自堕落なカロリーナが聖なる乙女だということも。見えているものに現実味を感じなくて、ただ呆然としていた。

 そんなイゼルベとは違い、カロリーナは頬を紅潮させ、きゃあきゃあと喜びの声を上げている。

 神官が水晶の様子を確認した後、ゆっくりとカロリーナの元にやって来て、首を垂れた。


「聖女様」


 神官に続いて王が、王妃が、王太子が頭を下げる。官僚達もそれに倣っている。まさか自分たちが頭を下げられるとは思ってもみなかった伯爵家の人々は一様に驚いているが、それでも喜びを隠せていない。なぜなら聖女は、出自に関わらず王族の仲間入りをすることになっているからだ。王族の仲間入りは婚姻によって果たされる。二人いる王子のうち、未婚なのは第二王子だ。カロリーナは彼の妻となる。

 その第二王子が、すっと立ち上がった。


「あの方がアレクセイ様……わたしの王子様ね!?」


 静まり返った室内でカロリーナの声はよく響いた。その通りなのだが、あまりに夢見がちな発言だ。イゼルベは羞恥で顔が赤くなる思いがした。

 アレクセイは、くすりと笑ってカロリーナに微笑みかける。


「ええ、そうですよ、カロリーナ。私の聖女」

「まあっ!」


 アレクセイは頬を紅潮させるカロリーナの手を取った。


「聖女と認定された乙女は、この後しばしの修行をします。別室を用意してあります。そこで詳しい話をしましょう。ご家族もどうぞ」


 第二王子のその言葉でその場は解散となった。神官と第二王子、それからイラシュバテン伯爵家の者達とで別室へ移る事になった。

 それをイゼルベは、他人事のように眺めていた。



 別室に移されると、カロリーナは恭しく侍女に迎えられた。第二王子にエスコートされ高価そうな椅子に腰掛ける彼女は満足気に笑みを浮かべていたが、イゼルベはその侍女が顔見知りでないことに安堵していた。イゼルベが「カロリーナ」として城で過ごしている間に知り合った人物だったら、この場にいるカロリーナが別人であると気付かれたかもしれないからだ。

 やがてカロリーナと両親に向かって、神官からの説明があった。

 聖女としての力を確かなものにするため、カロリーナはこの後すぐに神殿での修行に入ること。その間面会はできるが、聖女の外出は禁止されていること。家族に対しては、王家からいくらかの報酬が与えられること。聖女の力が本格的に開花した後に、聖女は王家の仲間入りとなること。

 その間ずっと第二王子はカロリーナの隣に座り、彼女の手を握っていた。カロリーナはもう、それで有頂天となっているようだ。説明の合間にうっとりとアレクセイを見ては、ほうと溜め息を漏らしている。

 そんなカロリーナの様子に呆れるイゼルベだったが、なんとなく室内の様子を窺っているうちにどこか違和感を覚えていた。

 神官の話にいちいち感激してみせる両親、第二王子に見惚れる義妹。聖女の手を取り微笑む第二王子、淡々と説明を続ける神官。侍女は、お茶を出し終えると部屋の隅に控えているけれども、どうしてだか視線をしきりに動かしている。


(なんなのかしら……)


 貴人に付く侍女にしては、落ち着きがない様に思える。訝しんでいたイゼルベだが、アレクセイの声に意識を戻した。


「おおまかな説明は以上となる。カロリーナ、疲れてはいませんか? お茶でも飲んで一息つくといいでしょう。ご家族もどうぞ、遠慮なく」 


 イゼルベは、緊張が続いて喉がからからだったこともあり、言われた通りお茶に手を付けた。お茶は、とても香りの良いものだった。王族も居ることであるし高級な茶葉なのだろうが、それにしたって格別であった。甘くて甘くて、とても美味しい。

 が、どうしてか、両親からもカロリーナからも異様な声が上がる。


「んん! なにこれ、苦い!」

「一体なんなの、このお茶」

「アレクセイ殿下、失礼ですが、王城では今こんなものが流行っているのですか?」


 え、と声を上げ、家族を見回すと、全員が全員渋い顔をしている。イゼルベは苦味なんて感じなかった。むしろ甘くて美味しい。中身が別物だとしか思えない反応だが、見る限りでは同じ色をしている。

 どう反応したものか。イゼルベが硬直していると、アレクセイはおかしいな、と首を傾げた。


「伯爵夫妻と、それからカロリーナ。君達は苦味を感じるのですか?」

「ええ、とても苦いわ」


 カロリーナが答えると、両親もそれに続く。とんでもない苦さだと言うと、アレクセイはふむと考える様子を見せた。


「では君。カロリーナの姉妹かな。君はどうだい?」


 言われて、イゼルベは戸惑ったが、王族からの問いなのだから答えねば、と口を開いた。だが、ここで一人「そんなことはない、とても美味しい」と言ってしまうと、義妹と両親から嘘吐き呼ばわりされるかもしれない。高貴な方が揃うこの場で、そんな風に糾弾されては身内の恥を晒すようなものだろう。それは避けねば、とも思ったが、だからといって王族に対して嘘を言うわけにもいかない。ここに至るまで、すでにイゼルベは不義理を働いているのだ。これ以上の愚行は重ねてはならない。


「いえ、わたしは、その」

「……苦味は感じない?」


 なんと言葉を紡いだものか。しどろもどろになるイゼルベに、アレクセイはなぜか、そうか、とだけ呟いて、席を立った。

 なにか粗相をしてしまったのか、とイゼルベが慌てたところに、彼はイラシュバテン伯爵家の一同を見回す。


「この場でしばし待つように」


 そう言い残して、神官を引き連れた第二王子は部屋から出て行ってしまった。



 そうして部屋に残ったのは、イラシュバテンの一家だけ。侍女もいつの間にか姿を消していた。何が起きたのかわからない一家は、どうしたことかと狼狽えた。


「なに? なんなの?」

「さあ……」


 事態が飲み込めないカロリーナとカロインは首を傾げ扉の方を見ているが、伯爵は一人、イゼルベを睨み付けている。


「イゼルベ。お前、殿下の不興を買ったな」

「そ、そんなことは」


 いきなり言われて、イゼルベは咄嗟に首を横に振る。が、第二王子が部屋を出て行ったのはイゼルベと会話をした直後だ。伯爵がそう思うのも無理はない。


「なぜすぐに苦い、と言わなかった。お前のはっきりしない態度を不快に思ったに違いない!」

「そんな……」


 イゼルベは反論したかったが、明確にどうしてこうなったのかは説明ができない。何もしていない、と言ってもこの父親には伝わらないだろう。そもそもイゼルベの話を聞く気がない男なのだ。イゼルベが悪い、と思っていたら、それを変えさせることは難しい。

 何も言えなくて俯くイゼルベを、カロリーナは鼻で笑った。


「お父様、そんなに大きな声を出さないで。お義姉様がどうだろうと、わたしが聖女なのには変わりないわ」


 それにカロインも同意する。


「そうよ、イゼルベがどんなに愚鈍でも構いやしないわ。それよりもこれよ。どうかしてるわ、こんなものを聖女とその両親に出すだなんて!」


 カロインは、ふん、とカップに残ったお茶を見下ろした。


「苦いわ渋いわ酸っぱいわで、飲めたもんじゃない。こんなのがお城で流行ってるのかねえ」


 え、とイゼルベは顔を上げた。


「渋くて、酸っぱい?」

「そうでしょうよ、何だい、わかりきったことを」


 イゼルベはカロインのカップを覗き込んだ。見た目はやはり、イゼルベのカップのものと同じに見える。試しにイゼルベは、カロインのカップに残ったお茶を口に含んでみた。


「なんなのお前、急に」


 その言葉は、イゼルベの耳には入っていなかった。


(甘い……!?)


 イゼルベの舌では、カロインの言う苦味も渋味も、酸味も感じられなかった。特徴的な風味ではあるが、甘くて美味しい。どう考えても顔を顰めるものではなかった。

 どういうことなのだろう。イゼルベの舌が特別おかしいのか。カップを見つめて、イゼルベは身動きが出来なくなる。自分の身に何が起きているのかわからず、不安が足元から駆け上がった。

 そんなイゼルベを、伯爵一家は怪訝な目で見ていた。


「不気味な子ね」

「まったく、誰に似たのだか」

「変なお義姉様。まあ、今更ね」


 それから一家はお茶に触れる事なく、第二王子が戻るのを待った。が、一時間が経っても、二時間が経っても、第二王子はなかなか戻らなかった。

 イラシュバテン伯爵家の一家は、イゼルベを除き、いつまで待たせるのだと苛立った。


「おい! いつまで待たせるんだ!」


 伯爵はどんどんと扉を叩く。なにせ室内にはメイドの一人もいない。何かを言いつけるには、扉に向かうしかなかった。どうしてだか外から鍵が掛けられていて、自由な出入りも出来ないから不満は募る。自然罵声に近い怒鳴り声となっていた。


「もうしばしお待ちください」

「さっきもそう言って、どれくらい時間が経ったと思っている! お前では話にならん、第二王子殿下を呼んでこい!」

「申し訳ありませんが、それは出来かねます」

「なんだと! ただの騎士風情が!!」


 激昂する伯爵を宥め、とにかく落ち着かせる。その為にお茶を用意させようとすると、またまずいものを飲まされたらたまらない、と叫ぶものだから収拾がつかなかった。

 カロインとカロリーナも基本的には伯爵と同等だった。


「美味しいお茶も淹れられないのかい!?」

「わたしは聖女よ! 食事を出さないのなら、ケーキのひとつくらい寄越したらどうなの!」


 家族がそう叫ぶ度、イゼルベはそれを押さえないといけなかった。とにかく騎士に突っかかる伯爵、通りすがった侍女に喚き散らす義母と義妹。もっと大人しく言えばいいものを、高圧的に言うからか、侍女達の視線は冷ややかだった。そもそも彼女らは城から神殿に借り出されているだけなので、勝手なことはできないのだ。伯爵一家はそれすらもわからないらしい。とにかくイゼルベは居心地が悪かった。

 結局、第二王子が再び現れたのは翌日の昼になってからだった。一家は通された部屋で休むほかなく、家族にソファを取られたイゼルベは椅子で眠るしかなかった。横になれなかったせいであちこち痛いし、よく眠れなかった。家族はイゼルベよりもましなはずだが、それでも腰が痛いだのなんだのとうるさい。

 扉が開き、そこに第二王子の姿があったのを見たカロリーナは、喜びの声を上げた。


「アレクセイ様!」


 だが、イゼルベはアレクセイの様子に肩を揺らした。カロリーナへ向ける顔は微笑んではいるが、纏う空気は昨日よりも冷たい。

 そしてその冷たい態度は第二王子のみならず、彼が連れてきた神官と官僚のような男、侍女達からも感じた。もしかしたら、ゆうべの一家の理不尽な行動が報告されたのかもしれない、とこの時イゼルベは思った。

 アレクセイは部屋に入ると、椅子には座らずそのまま一家を見渡した。


「イラシュバテン家から聖女が出た事を確認した」


 一瞬、なにを今更、と思ったが、それは昨日の通りの事実だ。一家はにこにこと次の言葉を待つ。


「聖女の名はイゼルベ。彼女こそが正しく聖女である」

「……は?」


 カロリーナはぱちぱちと瞬く。思わず漏れた声は彼女のもの、何を言っているのだろう、と小首を傾げて、カロリーナは第二王子を向いた。


「アレクセイ様? 聖女の名はこのわたし、カロリーナです」

「貴様に発言を許した覚えはない、黙れ」


 冷たく言われ、カロリーナはヒッと肩を竦めた。それでも、なにか間違ったおかしな事を言っているな、と思っているのだろう。しょげたようにしているが、表情に出ている。

 伯爵夫妻も似たようなものだ。困惑しているようだが、変な冗談を言うものだ、とでも言いたげだった。

 アレクセイはそんな一家には目もくれず、ただイゼルベだけを見据えていた。


「聖女が現れると王宮にある聖なる樹に花が咲く。それが、聖女が現れたという紛れもない証左となる」


 一家は黙ってそれを聞いていた。


「昨日君達に飲ませたのは、その花の蜜を入れた茶だ。その蜜は、この世の何よりも甘美な味わいだそうだ。……聖女にしか味わえないものだがな」


 アレクセイは一家を見回す。その表情は険しいものだった。


「花には限りがある。だから一度水晶で選出をする。あれは繊細なものだから、近くに強大な力があると誤作動をする。……昨日のようにな。だから別室で、あの場に居た者に蜜入りの茶を飲ませるのだ。聖女以外には、蜜を味わうことはできない。それに、性根の腐った者ほど、酷い味に感じるそうだぞ?」


 くっ、とアレクセイの右の口角が上がった。言葉を飲み込み始めた一家は、彼の表情を見てようやく事態を把握し始めた。

 どういう事だと伯爵がアレクセイに向かう。


「ですが、年齢は? イゼルベはもう16です」

「聖女の年齢はおおよそ15前後なのだそうだ。これは神殿で過去の記録を確認した。長い歴史の間に誤って伝えられたようだな」

「な、なぜ16の、今頃になって!?」

「今、聖女の力が必要なのだと、そういう事だ」


 つまらん事を聞くなと、アレクセイは言い放った。昨日の優しげな彼はどこにもいない。一家に向く視線はどこまでも冷ややかだ。


「貴様らは、幼い頃よりイゼルベ……もとい聖女様に無態を働いていたそうだな。それになにより、此度の命令。カロリーナへの出仕命令を、あろうことか聖女様を代理に立てさせ、その娘の代わりに城へ寄越したそうだな」

「な、なぜそれを……!」

「少し調べればわかる。まったく、愚かなことだ」


 連れて行け、とアレクセイが号令を出したことで、一斉に室内に騎士が雪崩れ込んできた。大した抵抗もできないまま、伯爵夫妻とカロリーナは拘束される。


「なんで! なんなのよ! アレクセイ様ぁ!」

「殿下、これはなにかの間違いです!」

「おやめ、あんた達! あたしは聖女の母親だよ!」


 喚き散らす一家を、アレクセイは冷ややかに見送った。一方で、縮こまるイゼルベに向けた顔は昨日見せたのと同じ、穏やかで優しいものだった。

 それがイゼルベには異様に感じた。伸ばすアレクセイの手から逃げるように、思わず後退る。そんなイゼルベを彼は咎める事はなかったが、やんわりと非難するように目を細めた。


「聖女様、大変な思いをさせてしまい、申し訳ない。不届者は排除致しました。さぞやお辛かったことでしょう。その聖女様を労うため、いったん御身を王城でお預かりする事になりました。……さあ」


 エスコートしようというのだろう、アレクセイが更に手を伸ばす。

 いきなり言われても、イゼルベには事態が飲み込めていなかった。だがとにかく、詳しい事情を聞く必要がある。それにいはアレクセイに言われる通り、城へ向かった方がいいのだろう。イゼルベは、大人しくその手を取った。


 ——まったく、くだらない連中だ。この女も不気味で気に入らん。まあ、せいぜい役に立って貰うとするか。


 アレクセイの手に触れた瞬間、イゼルベの脳裏に声が響いた。同時に不快感が掌から全身を駆け巡る。イゼルベは思わず後ろへ飛び退いた。


「……どうしました、聖女様?」


 どっ、どっ、と心臓を跳ねさせるイゼルベの視界に、アレクセイの笑顔がある。ごく普通の青年の顔だ、どこにもおかしなところはない。

 いえ、とだけ答えて、イゼルベはもう一度差し出された手を取った。


 ——なんだって言うんだ。やはり不気味だな。こんな女が本当に聖女なのか?


(やっぱり聞こえる……)


 イゼルベは瞠目した。どうしてだか、アレクセイの考えていることが、声になって聞こえる。そっと周囲を見渡しても、誰もその声に反応している様子はない。イゼルベにしか聞こえていないようだ。


(なに、これ。さっきまでは、こんなの何もなかったのに)


 まさかこれが聖女の力なのだろうか。そう思ったが確証がない。

 自分の身に只ならぬことが起こっている。分かっているのはそれだけ、イゼルベはどうしたらいいか分からず、時折聞こえてくるアレクセイの声を無視し続けるしかなかった。








 通された部屋では、まず食事を摂った。その後同行してくれた神官に聖女についての講義があった。講義と言っても、聖女はどんなもので、なにをするのかを簡単に説明するだけのものだった。


「聖女とは、聖なる力で国に繁栄をもたらす存在です。300年に一度現れるとか。伝承は本当だったのですなあ」


 聖女については、一般的には知られていない事が多い。聖なる力があると言われているが、その「聖なる力」というのがどういうものなのかまでは、イゼルベも知らなかった。


「聖なる力、というのは、どういうものなのですか?」


 老齢の神官は面倒がらずに答えてくれる。


「国を繁栄に導く、清らかな力と伝わっています。災害を予知したり、干ばつの時には井戸を掘り当てられた聖女様もおられるとか。聖女様は、なにか感じられますか?」

「いえ、特には……」

「であれば、当面は平和という事かもしれませんね。聖女の力はとてつもなく大きい。それこそ、国中を覆うほどだとか……ぜひその力を奮い、我らをお助け下され」

「はあ……」


 具体的になにをすべきかもわからないのに、助けてくれと言われても、イゼルベはどうしたらいいのかわからない。それで気のない返事をしたのだが、神官はそれを咎めたりはしなかった。ほっほ、と軽く笑って、席を立つ。


「まあ、いきなり言われても困りますでしょう。……本日は、これで。明日以降もお側に付くよう仰せつかっておりますので、なんでも聞いて下さい」

「ありがとうございます」

「なんの。お役に立てればいいんですがのお」


 笑いながら退室する神官に、イゼルベはどうしてか温かい気持ちになった。城で過ごしたひと月の間、幾人かの少女と過ごしてきたが、その中にもあの神官のように、イゼルベに親切な者がいたのだ。そんな人と接したことのないイゼルベは、初め戸惑ったものだ。けれども、彼女らは善意でやっていて、見返りも求めておらず、ただそうしたいだけなのだと分かった時には、イゼルベは雷に撃たれた心地がした。


「うちの家族とはまるで違う……」


 そう思うと泣きたい気持ちになった。イゼルベの家族達は、イゼルベに善意で何かをしたりしない。いつもいつも悪意でイゼルベを困らせ、それを楽しんでいる素振りすら見せていた。その上どこか気に入らない事があると激しくイゼルベを糾弾した。

 だからカロリーナが聖女かもしれない、と分かった時は信じられなかった。聖女。清らかな乙女。そんな存在が、義理とは言え姉妹を打つだろうか。その持ち物を壊すだろうか。両親に虐げられるイゼルベを、放っておくだろうか。

 でもだからと言って、自分が聖女だと言うことも信じられなかった。だが、神官も第二王子も、嘘を言っているわけではない、という直感があった。その直感は無視できないくらい、強いものだった。

 それに、とイゼルベは割り当てられた部屋の窓辺に寄る。そっとカーテンを除けた。すでに暗くなっている王城の外は真っ暗で、ところどころ掲げられた松明の灯りしか見えない。だが、確かに感じるものがある。ひと月滞在していて、その間はなにも感じなかったが、今は何かの気配を感じた。昨日の朝は感じなかったものだ。ゆうべは困惑していたからか感じなかった。だがもしかしたら、その時にはすでに感じ取っていたのかもしれない。どこか居心地が悪くそわそわした。ゆうべも似た感じがしたような、そんな気がする。


(聖女。わたしが……。仮にそうだとしたら、なにをすべきなのかしら。そもそもなにが出来るのかもわからないわ。そんなわたしが聖女だなんて、務まるのかしら……)


 不安でぼんやりと窓の外を眺めていた時だった。突然、イゼルベに声を掛けるものがあった。


「おや、今代の聖女は随分と貧相ね」

「……誰!?」


 イゼルベは振り返った。そこには黒いドレスを纏った、長身の女の姿があった。

 ドレスの胸元は大胆に開いている。豊満な体にぴったりと張り付くようなドレスは、裾を引きずるほど長い。白い顔の真っ赤な口紅が目を引いた。それ以上に特徴的なのは膝裏まである髪。それは真っ白なのに、どうしてだか彼女は老婆という感じはしなかった。

 イゼルベは突然の来訪者に身を竦める。扉が開いた気配はなかった。彼女はこの部屋に、涌いたとしか思えない。


「私はこの城に古くから棲む魔女よ。ベルティーニとお呼びね」

「魔女……? 城に? そんな話聞いたことがないわ」

「誰も知っているはずがないわ。それを知っているのは聖女だけだから」

「聖女だけ? どういうこと?」


 魔女ベルティーニと名乗った女は、コツコツと音を立ててイゼルベに歩み寄った。


「この城にはね、仕掛けがあるの。とてもとても古いものよ。聖女とは、それを発動するための存在。聖女を見つけ出す役割を与えられたのが今の王家。私は聖女を使い、仕掛けを動かすために縛り付けられた」

「どうして……そんなことを」

「そうよね、知りたいわよね。過去の聖女達もまずそれを聞いたわ。一体どうして、なんのためにそんなことをするのか、って」


 ベルティーニは紅い唇で、にぃっと笑った。


「聖女の身に宿った清らかな力を使って、この土地に繁栄をもたらすため」


 イゼルベは息を呑む。どうしてだか不安が胸に広がった。


「具体的には、仕掛けの中心で聖女の胸を貫いて、その血を使うの」


 次いでベルティーニから語られたことは、イゼルベに衝撃を与えた。ごくりとイゼルベの喉が鳴る。ベルティーニは、そんなイゼルベの反応をおかしそうに眺めていた。


「もちろん全身の血を使うわ。でないととてもではないけれど、国を覆うことなんてできやしないから。つまり……」

「聖女は……死ぬ?」

「正解よ」


 ベルティーニは片目をぱちんと瞑ってみせる。


「そうやって幾人もの聖女が死んでいったわ。やったのは私。だからいつからか、私は魔女になったの。でもどちらかというと死神よね」

「そんな……でも、神殿での修行は?」

「聖なる力を自覚して発露させるのに必要なの。でもあなたには修行は不要ね、水晶の交感ができればそれでいいのよ」

「……! あの時の」


 イゼルベは昨日の儀式の様子を思い出した。カロリーナが水晶に手をかざした、あの時だ。あの時確かに、イゼルベは身の不調を感じた。目眩を覚えたと思ったら、部屋の中に置かれた水晶が輝いた。

 もしもあの目眩の瞬間、イゼルベが聖なる力を発現させたのだとしたら? 水晶はそれを感知して輝いたのだ。


「神官様は、聖女が力を使って国を繁栄させた、と言っていたけれど」

「そういうことも、なかったわけじゃないわ。仕掛けを使うまで時間があった時には、災害を予知して事前に防いだ子も確かにいるわ。そういうのが捻れて伝わったのでしょう」


 ベルティーニの言葉はどれも信じ難いものだった。けれども、それが真実であるとも、虚偽であるとも、イゼルベには判断がつかない。でもなぜか、心の中にその言葉はすんなりと浸透していくのを感じていた。そうか、そうだったのか、とどこか納得している自分に気が付いた。


「それで、どう? 早めの方がいいわ、加護がそろそろ保たないから」


 言われて、イゼルベは考える。


(……国のために死ぬ。わたしが? それは怖い。でも……だからって、あの家に居ても辛いだけ。それならいっそ、ここで死んでしまった方がましかもしれないわ。そうすれば少なくとも、この国は豊かでいられる)


 イゼルベは、このひと月の僅かな間に知り合った人達を思い浮かべる。

 初めてのことでなにも分からず、困り果てていたイゼルベと共に、侍女からの指示をこなせるよう協力してくれた令嬢。

 疲れてなにも食べられなくなっていた時、厨房まで行ってミルクを持って来てくれた子もいた。

 辛く当たる侍女から庇ってくれた公爵令嬢、つまらないミスを咎めずにいてくれた王女様。

 無知なイゼルベに、面倒がらずに応じてくれた老齢の神官。

 彼らが辛い目に遭うのは、やはり見過ごせなかった。


(……でも)


 この国にはイゼルベの両親とカロリーナも住んでいるのだ。


(あの人たちがこれからも恵まれた生活をするのは嫌……。でも、わたしが拒否したせいでこの国の多くの民が苦しむのは、もっと嫌)


 だったらせめて、この国を維持したほうがいい。イゼルベはそう考えて、ベルティーニにそう伝えた。それを聞いたベルティーニは笑みを深める。


「過去の聖女達もそう言っていたわ。笑っちゃうほど同じことを言うのね、あなたたち」


 ベルティーニはくすくすと笑っていたが、ふとあらぬ方を振り返る。憂いを帯びた彼女の、視線の先を追うが、そこは中庭に向いた窓があるだけだ。


「もう何年になるかしら……私はずっと、この土地を、この国を見ていた」


 ベルティーニの言葉を、イゼルベはただ聞いている。


「始まりは、なんだったかしら。今思えば些細な事だった。でも必要なことだと言って、聖女が捧げられるようになった。最初の聖女が捧げられた時は、みんな泣いていたものよ。だと言うのに、今では笑って送り出すんだもの。潮時よね」


 美しい魔女は、美しい笑顔で、紅を乗せた唇を開く。


「愛しい子よ。あなたの願いを聞かせて頂戴。あなたはなにを望むのかしら」


 イゼルベはただ唯一の希望を紡いだ。


「弱い人が、強い人に蔑まれることのないように。誰もが平穏に過ごせる、そんな国になって欲しい……」

「あら、難しいわね」

「できませんか」

「いいえ? 私が直接国をそうすることはできないけれど、そうなるよう、方向付けをすることはできる。後はまあ、人の努力次第ね。そこまでは責任持てないわ。あなたも、私もね」


 魔女は、その望みを叶えた。イゼルベを抱き抱えたかと思うと、彼女達の体は城の地下にあった。どれだけ深いのだろう、酷く冷える。だというのにどこかぼんやりと明るい。——床に描かれた魔法陣が、淡く光っているのだ。

 それに驚く間もなく、そこでイゼルベの意識は途絶えた。急速な眠りにつくように何も考える事が出来なくなる。魔女はそのイゼルベの身体を魔法陣の中央に横たえた。

 そうして魔女は魔法陣を発動させた。イゼルベの望む通り、弱者が強者に虐げられることのない、誰もが平穏に過ごせるようにと魔法を使ったのだ。



 その結果、魔法陣は消失した。魔女は、魔法陣を消し去ることでイゼルベの望みを叶える事にしたのだ。



 繁栄を約束する仕掛けの元である魔法陣が無くなったことで、当然ながらその効果は失われてしまった。突然の出来事に王家はもちろん、神殿も大騒ぎとなった。


「どういう事だ! 聖女を捧げたのではなかったのか!」


 城の聖なる樹が、突然枯れた。その報告を受けた王が地下へ行くと、どういうわけか魔法陣が消えていた。のみならず、そこに囚われているはずの()()の姿も無い。あるのは夥しい血痕のみ。聖女は紛れもなく捧げられたはずであった。


「間違いなく聖女は捧げられています。この血痕はその証拠です」


 青い顔をした神官は震えた声で答える。


「ではこれは一体なんだ! どうして加護が消える!? 魔法陣はどうなったのだ!」

「それは……わかりません」

「一体なにが起きている……!?」


 それは誰にも分からなかった。聖女を捧げれば、それで繁栄がもたらされるのだと、彼らはそれしか知らされていないのだ。囚われた()()の姿は、聖女か、王家の者にしか見ることができない。王がいくら呼んでも、()()は姿を見せなかった。


「あれは聖女でなく、魔女だったのでは……」


 それは、混乱の中で第二王子が溢したものだった。老齢の神官はそれを強く否定する。


「そんな。あり得ません。あの方は、そんな悪しき者ではありませんでした」

「だが、これを見ろ! 現に魔法陣は消え、加護は失われているではないか!」

「だとしてもあの方は聖女でした。それは疑いようのない事実です」


 第二王子は言葉を詰まらせる。それは確かだった。聖なる樹に咲いた花、その蜜を摂取した際の彼女の反応。城での食事中、秘密裏に部屋に置かれた水晶の輝きを見れば疑いようもない。その上、聖女がひとり残ったはずの部屋から、何者かと会話をしている様子をメイドが報告している。相手がいるはずなのに、メイドにいは聖女の声しか聞こえなかったという。


「どういう事だ……」


 王は、がらんどうの地下で、そう溢した。それに答えられるものは誰もいなかった。





「ああ、すっきりした!」


 魔法陣が無くなったことで自由の身となった女神は、ぐっと伸びをする。


「イゼルベのおかげね」


 ベルティーニはそう笑って、空へ還っていった。



 かつてこの地を治めていた人間は実に狡猾だった。命を慈しむ性質を持った女神をまんまと騙し、この地に封じたのだ。

 特別な力を持った少女を使い、その力を円滑に国中に広げる為の仕組みを作った。それを作動させる奇跡は、女神くらい偉大な存在でなければ起こせなかった。だからベルティーニは目を付けられたのだ。贄として捧げられた少女を哀れと思っているうちに縛り付けられた。気付いた時にはもう手遅れだった。ベルティーニは次々捧げられる少女を屠るしかなかった。少女達が懇願したのだ、そうするしか、民が生き延びる術がないのだと泣いて。

 だがそれも、いつからか次第に変わっていった。尊ばれる女神はいつの間にか魔女と呼ばれ、贄だったことを忘れられた少女は別の意味で泣き叫んだ。死ぬだなんて聞いてない、そんなはずがない、と。

 ベルティーニは命を慈しむ。どんな命でもだ。だが、長い年月人間に縛り付けられるうち、慈しむべき命はこれなのだろうかと、そう思うようになった。

 イゼルベが現れたのは、ベルティーニにとって喜ぶべき事だった。しばらく聖女が生まれるのに不安定な期間が続いていたのだ。もしかしたらもう聖女は生まれないのかしらと、幾度もなくそう思った。

 なにより、彼女の願いはベルティーニと同等のものだった。実行するのは容易かった。これ程までに容易いことは、今までなかった。聖女と女神の願いが同じだったからだろう。


 それから、今までのことが嘘のように国には災害が溢れかえった。

 雨が増えた。陽のない事には作物は育たない。食べる物が少なくなって、次第に飢える人が出るようになった。それでも王族や貴族は豊かな食事をやめないものだから、国民の不満は募っていった。

 穏やかだった川は上流からの濁流で川幅を増やした。付近の建物はとうに呑まれてしまっている。そうして呑まれたものが、下流で別の建物を破壊した。川から海へ流れ込んだ色々なものは、海の生き物を押し潰してしまった。

 そうこうしているうちに疫病が流行り、弱っている者から倒れた。なんとか治療を試みたが、ついに特効薬となり得るものは手に入らなかった。王も、その子も、王を支える者達も皆病に倒れた。

 残ったのは街に僅かな人ばかり。彼らは手を取り合い、助け合わなければ生きていけなかった。

 そこには弱者も強者もない。皆が皆、対等だった。でなければ生きていけなかった。

 歴史書にイゼルベの名前は載らなかった。刻むべき歴史を持った国は滅んでしまった。その跡に残ったのは、僅かばかりの食べ物を分け合う人々の群れだった。


 女神は聖女の望みを叶えたのだ。



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